toggle

アンドリュー・ラング紹介(2)

ラング没後100周年の評価

 ング没後100年を記念して、スコットランドの新聞『スコッツマン』に文芸評論家のスチュアート・ケリーによる「アンドリュー・ラング—多作な才能の人生と時代—」(注1)と題した記事が掲載されました。「100年前にアンドリュー・ラングが亡くなる頃、彼の名前は249点の本と数千の新聞雑誌コラムに掲載されていたが、今では、このセルカーク出身の多作な作家はほぼ忘れられている」と始まる長い記事です。

 「19世紀末から20世紀初頭にかけて、ラングは当時の最も有名な作家だった」と紹介して、同時代人に二つの相反する評価があった理由を述べています。一つはラングの才能を高く評価する人々、たとえば、「劇作家のジョージ・バーナード・ショーは愚か者を容赦しないことで知られていたが、その彼が『ラングの論評が新聞に載らない日はむなしい(empty)』と言った」有名なエピソードを紹介しています。

 その対極にある評価は「ラングを忌み嫌わない天才に未だかつて会ったことがない」と批評家セオドア・ワッツ=ダントンが言ったというコメントです。その理由は、あまりにも多才・多作なラングに対するねたみと誤解にあるようです。「ラングがひどい敵意をもって描かれていないとしても、彼の功績は無視されるか、見下して言及されることが多い」といいます。その多才多作ぶりを以下のように紹介しています。

 ラングは『ジャンヌダルクの声』(1895)や『スパイ・ピックル』(1897)、『ジェームズ6世とガウリー・ミステリー』(1902)などで大衆史(popular history)のジャンルを生み出したと思ったら、次の瞬間には、『アルフレッド・テニソン』(1901)や『ディッケンズの最後のプロットの謎』(1905)など, 同時代の作品の批評を書いた。その後、ベーコンがシェークスピアを書いたと信じる人々の正体を暴き、次に、軽蔑されていた純文学の分野で最高の作品をいくつか書いた(『嘲笑は破壊的か?』(1910)や『物故作家への手紙』など)。その合間には、スピリチュアリズムやトーテミズムに関する学術書、ホメロス風の叙事詩や初期のフランス・ロマン主義詩を書き、さらにゴルフやクリケット、釣りなどへの情熱についての本を出していた。ラングを憎む人が出たことも不思議ではない。(中略)当然のことながら、「アンドリュー・ラング」は存在しない、異なる分野の異なる人の集合体としてのペンネームだと言う人々がいたことは不思議ではない。ラングは書く才能、素晴らしい表現力に恵まれていた。彼の論説は「博識な小妖精が書いたフェアリー・テイル」(fairy tales written by an erudite Puck)と評されたが、それはやがて最も有名なラングのニックネーム「神々しい非凡なアマチュア」(the divine amateur)になる。このように、いとも簡単に成し遂げることが、忌み嫌われると同時に崇拝された理由の一つだった。

 ラングは自分のこの側面を45歳の時に出した創作フェアリー・テールPrince Prigio (1889(注2))で語っているようです。ラングの自画像にも思えるので、長いですが、翻訳引用します。

 [プリジオ王子が]どんなに頭がいいか想像できないくらいです。王子がしゃべるようになったのはとても早かったのですが、口がきけるようになるやいなや、乳母と言い争いをしました。お風呂で洗ってもらうのは、せっけんが目に入るからいやだと言うのです。それでも、毛穴についてのあらゆる事実を聞かされ、洗ってもらわない限り、毛穴は清潔にならないと聞くと、すぐに抵抗するのをやめました。王子はとても聞き分けがよかったのです。王子は父親にも議論をふっかけました。「乞食が貧乏なのに、どうして王さまは金持ちでいられるの?」、「晩ごはんも食ることができない人がおおぜいいるのに、どうしてお父さまはおやつにプラム・ケーキとゆで卵を食べられるの? ぼく、その理由がわからない」。王は実際少し欲の深い人でした。その言葉にあまりに驚き、傷ついたので、彼は「おい、ぼうず、りこうすぎるとどうなるか教えてやろう」と言いながら、王子の耳を殴りました。(中略)王子が耳を殴られたあと「暴力は議論の手段じゃない」と言うと、王は怒りくるって出て行ってしまいました。

 まったく、王子がどんなにみんなから憎まれたか、それは言い表せないほどでした。王子は台所に下りて行ってコックにスープの作り方を実演しました。貧しい人々の小屋を訪ねては、ベッドメーキングをやって見せたり、どうやってかぶからプラム・プディングを作るか、また、固くなったベーコンから鹿肉カツを作る方法まで教えました。フェンシングの名人にはフェンシングのやり方、プロのクリケット選手に球の投げ方をやって見せましたし、ねずみ捕りにテリアの繁殖の仕方を教えました。大蔵大臣には算数式を送りつけ、王室宇宙研究所には、太陽が地球の周囲を回っているのではないことを納得させました。でも、私は太陽が回っていると信じていますけどね。宮殿の若い女性達は王子とダンスすることを嫌っていました。王子はハンサムなのに、いつも「これ読みましたか」とか「あの本読みましたか」とか尋ねるからです。そして、読んでいないと言うと軽蔑するし、読んだと言おうものなら本当かどうか問いつめたのです。

 王子は自分の家庭教師や先生もみんな同じいやらしい方法で問いつめました。フランス語の先生の発音を直したり、ドイツ語の家庭教師にマメをナイフで食べないように注意したりしました。また、皇太后、つまり、おばあさまに、彼女が昔から完全に身に付けていたいろいろなたしなみを教えようとしました。事実、王子はあらゆることを他のだれよりもよく知っていたのですが、最悪なことは、本当にみんなより知っていたことです。王子が間違っていることは一度もなく、いつも「ぼく、そう言ったでしょ?」と言いました。事態をさらに悪くしたのは、彼が実際にそう言ってしまうことでした。

 やがて、プリジオ王子に二人の弟ができました。だれもが弟王子を好ましく思いました。二人とも、頭はちっともよくなかったのですが、楽しい子でした。

 このフェアリー・テールは『りこうすぎた王子』という邦訳名で1951年に岩波少年文庫シリーズの1つとして出ていますが、新訳(福本友美子訳、2010)が出版されましたので、読んでみてください。面白いフェアリー・テールとしてはもちろんですが、何層にも読めるものです。

神々しい非凡なアマチュア

 ラングを「神々しい非凡なアマチュア」と命名したのは、オスカー・ワイルド(Oscar Wilde: 1854-1900)だと、ラングの伝記作家ロジャー・ランスリン・グリーンが書いています(注3)。「アマチュア」と揶揄されたのは、比較神話学や人類学の分野ですが、専門家の中には高く評価する人もいました。ケリーは次のように言います。「彼の神話論は革新的だった。考古学者のソロモン・レナックは『ラングが教えてくれたのは、フォークロアが高尚な神話の劣化した残滓などではなく、その高尚な神話、または文学としての神話がフォークロアの基礎の上に成り立っていることだった』」と。ちなみに、南方熊楠はフォークロリストとしてのラングに関心を持ち、夏目漱石はラングのスピリチュアリズムの本にひかれ、川端康成はフェアリー・テイル分野のラングに着目したと言えるでしょう。

 ラングと日本との接点という意味で興味深いのが、彼の死後80年たってから、ラングの民族学分野での業績を再評価する作業をしていたイギリス人研究者アンドリュー・ダフ・クーパー(1948-1991)が日本の大学で教鞭をとり、後に『アンドリュー・ラングのトーテミズム論』(1994(注4))として出版される本の打合せを東京で行っていたという事実です。惜しくも彼はその直後に43歳の若さで病死しています。

 熊楠が「博覧多通家」と呼び、ワイルドが「神々しい非凡なアマチュア」と呼んだラングは『エンサイクロペディア・ブリタニカ』(1875-99)の以下の項目の執筆者です(注5)

1「幽霊」、2「バラッド」、3「小箱の手紙」(注6)、4「水晶透視」、5「フェアリー」、6「家族」、7「エドモンド・ガーニー」(注7)、8「幽霊の出没」、9「ラ クロッシュ」(注8)、10「モリエール」、11「神話」、12「名前」、13「ポルターガイスト:いたずら幽霊」、14「プロメテウス」、15「心霊研究」、16「スコットランド」、17「千里眼」、18「テイル」、19「トーテミズム」

 これらを分野別に分けると、ラングが担当した項目の学問分野は、心霊学(1, 4, 7, 8, 13, 15, 17)、文学(2, 10)、歴史(3, 9, 16)、民俗・民族学(5, 6, 7, 12, 18, 19)、そして、ギリシャ古典(14)です。

文学世界に新たなジャンルを切り開いたラング

 ラングはまた、文学の分野でも革新的で、新たなジャンルを切り開いたとケリーは評価して、次のように述べています。

 ラングの著作で、私がもう一度読みたい本が1冊ある。理由は、そのとてつもない奇妙さと巧みさのためである。『昔の友達』は1890年に書かれ、まぶしいばかりの前提の上に成り立っている。文学というものが世界を発明したのではなく、本当は世界を描いたのだとしたら、登場人物たちの活動はその本の中だけに制限されていいものだろうか? そしてラングはジェイン・オースティンの『ノーサンガー・アベイ』のヒロイン、ゴシックに取り付かれたキャサリン・モーランドを、シャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』のロチェスターの家に登場させるかと思えば、エミール・ガボリオの当時有名だったシリーズのルコック探偵が、チャールズ・ディケンズの『荒涼館』のバケット刑事の助けで、作品[ディケンズの『ピクウィック・クラブ』]の名祖のピクウィックを逮捕する。これはクロス・オーバー文学のはしりで、このジャンルは次のような作品で絶頂期を迎える。アラン・ムーアの『リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン』(1999)、クリスティーン・ブルック-ローズの『テクスターミネーション』(1992)、その大衆化作品『高慢と偏見とゾンビ』(2009)や『アンドロイド・カレリーナ』(2010)など。

 子どもの頃のラングは内気でシャイな少年だったようですが、読書とマス釣りが好きで、幸せな子ども時代を送り、大学はセント・アンドルーズ大学、そして、オックスフォード大学のベリオル・カレッジで大学院生、その後、オックスフォード大学マートン・カレッジの名誉あるフェローシップ(特別研究員)を獲得します。このオックスフォード時代に知り合ったロバート・ルイス・スティーブンソンがラングの第一印象をカリカチャー詩にしたことは本サイトの1で紹介した通りですが、その後、二人は親友になり、共同で小説を書くまでになり、「『ローズはどこに?』というアナーキスト(無政府主義者)についての未完の小説だった。これがラングの友情への証である」とケリーは述べています。

 ラングはこのように、文学・歴史・民俗学・人類学・宗教学などの分野で知られた人物でしたが、特筆すべきもう一つの分野がジャーナリズムです。オックスフォード大学に学者として残る選択肢があったにもかかわらず、愛する女性との結婚を選ぶために、オックスフォード大学をやめて、ジャーナリズムの世界に入ります。というのも、当時オックスフォード大学では特別研究員の結婚に制限があったからだそうです。それをケリーは「結婚するために、象牙の塔をフリート街[新聞社が集まる街Fleet Street]と交換した」と述べています。1874年に辞職、1875年に結婚、1876年にロンドンに移ったラングについて、『19世紀イギリスとアイルランドのジャーナリズム』(2009)で次のように解説されています(注9)

ラングの成功は瞬時だった。『サタデー・レヴュー』と『デイリー・ニュース』がすぐさま非政治的な論説や中間記事(論説と書評記事の間に掲載される記事)を依頼した。(中略)『デイリー・ニュース』の彼の論説記事は「博識な小妖精が書いたフェアリー・テイル」と言われ、週に3,4回掲載されていた。

 1870年代後半にラングの名前が現れる新聞雑誌が、この他に21種類あげられています。同時代人だった詩人・文芸評論家のエドモンド・ゴッセのラング評を「詩人・学者・ジャーナリストという組み合わせは、フリート街で彼の他にいなかった」とケリーが紹介しています。このようなことから、『イギリス文学百科事典』(2003)ではラングを「ヴィクトリア朝の究極の文人」(the quintessential Victorian man of letters)」と評価しているのです。

印刷ページを開く

   [ + ]

1. Stuart Kelly, “Andrew Lang: the life and times of a prolific talent”, The Scotsman, 30 January 2012.
http://www.scotsman.com/lifestyle/heritage/andrew-lang-the-life-and-times-of-a-prolific-talent-1-2085486
2. 原文はプロジェクト・グーテンベルクから読むことができる。
http://www.gutenberg.org/ebooks/20850
3. Roger Lancelyn Green (1962), Andrew Lang, Henry, Z. Walck, p.32.
4. Andrew Duff-Cooper (ed.), Andrew Lang on Totemism: the 1912 Text of Totemism by Andrew Lang, Centre for Social Anthropology and Computing, University of Kent at Canterbury, 1994.
5. 『イギリス文学百科事典』による。Steven R. Serafin & Valerie Grosvernor Myer (eds) (2003), The Continuum Encyclopedia of British Literature, Continuum International Publishing Group.
6. 16世紀中葉にスコットランド女王メアリーが夫のダーンリー卿殺害の共謀者として嫌疑をかけられ、イングランドに亡命した彼女をエリザベスI世が処刑すべきかどうかの判断材料として提出されたメアリーの手紙。当時は有罪の証拠とされ、メアリーは処刑されたが、手紙の信憑性はその後ずっと問題とされてきた。
7. Edmund Gurney (1847-88):イギリスの心理学者、心霊研究家。
8. イングランド王チャールズ2世の非嫡出子とされたジェイムズ・ド・ラ・クロッシュに関するミステリー。ラングは自著『従僕の悲劇ほか』(1903)の中で詳しく述べている。
9. Laurel Brake, Marysa Demoor (eds) (2009), Dictionary of Nineteenth century Journalism in Great Britain and Ireland, British Library Board, p.346.