- アンドリュー・ラングへの窓 - https://www.andrewlangessays.com -

英米に伝えられた攘夷の日本(1-1)

R.L.スティーヴンソンの忠臣蔵論(1883)と吉田松陰論(1880)を理解するにあたって、幕末の日本について英米の一般読者に何がどう伝えられていたのかを知る必要があると思いました。『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載されている記事と関連書を概観します。

ペリー提督の日本遠征

 2006年に『日本とイラストレイテッド・ロンドン・ニュース—報道された出来事の完全記録1853-1899—』(Japan and the Illustrated London News: Complete Record of Reported Events 1853-1899,(注1))という本が出版されました。この頃の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』はかなり「インターネット・アーカイブ」に掲載されていますが、抜けている年も多く、この本と併せて見ていくと、ヴィクトリア時代のイギリス人読者に何がどう伝えられているか見えてきます。なお、金井圓編訳『描かれた幕末明治:イラストレイテッド・ロンドン・ニュース日本通信1853〜1902』(雄松堂書店、1973)で翻訳が出ていますが、絶版です。

ずれの本も1853年から始まっています。つまり、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に日本のニュースが登場するのはペリーの浦賀来航(1853年7月8日)の2か月前からです。なお、各記事に付したページ数は注1の本のページ数です。

●1853年5月7日:アメリカの日本遠征(pp.1〜3)

 ペリー提督の日本遠征は、合計15隻、260砲、海兵・水兵・将校合わせて4000人の戦隊だ。この遠征の強さは数で図るべきではない。イギリスの水兵ならみんな知っていることだが、アメリカの軍艦は他のどの国よりも、大きさとトン数(容積)よりも重い金属を有している。アメリカが認めていることは、このような破壊力を持つ砲数と容積の艦隊はかつて世界にないということだ。

 この遠征は日本政府と国民に敵意を持って、武力を使おうと考えて出帆したわけではないと言われている。しかし、紛争の原因はいくらでもある。日本近海で難破したアメリカの船員を、日本は残忍にも捕らえて、収容所に閉じ込めた。この非道な行為について、ペリー提督は日本政府に説明を求めるだろう。アメリカが言うには、日本はなぜこの行為をしたのかの説明も、謝罪もしないから、日本に対して拒否できないような方法で、この件に注意を促す必要があるという。したがって、この遠征は「日本政府を力づくで文明化する」(強調は原文のまま)ために行くものである。日本が残虐に扱った船員の国の政府との交渉に、もし日本が同意しなかったら、人間らしさとは何かの教訓を与えてやらなければならない。そして「文明帝国のランクに入れさせてやる」(強調は原文のまま)のだ。

 この遠征の副次的な目的は、日本沿岸に石炭の兵站部(貯蔵庫)を建設することである。科学的目的も忘れてはならない。もしペリー提督が日本に差し出すオリーブの枝を受け入れるなら、日本遠征は豊かな果実を実らせることは間違いない。

 海軍長官の年次報告によると、日本の開国がすべてのキリスト教国の商業的冒険に必要だと認識されるようになったこと、それはカリフォルニアと中国の間を航海するアメリカの捕鯨船の船主など全員が認めることである。この重要な任務が東インド戦隊の指揮官に与えられたのである。

●1853年10月22日:アメリカの日本遠征(p.5)

(特派員より)

香港, 1853年8月10日

 戦隊は[7月]8日に江戸湾に着き、江戸から約30マイルほど離れた浦賀という町に投錨した。2,3日交渉した後、ペリー提督は300〜400人の兵士を上陸させ、皇帝(emperor,(注2))の内閣によってアメリカ応接の役目を任命されたその地域の長(Prince of a province)にアメリカ合衆国の大統領からの親書とペリー提督自身の信任状を渡した。アメリカ軍は海岸に並ぶ4000〜5000人の日本の軍隊に迎えられた。両軍共、警告が出された瞬間に交戦する用意があった。日本側もアメリカ側も裏切り行為に対する懸念を持っていたので、防御体制にあったのである。しかし、すべてが平和裡に経過し、アメリカ戦隊は春に戻ってきて、回答をもらえることになった。非公式の通告では、皇帝は大統領の親書に対して、期待できる回答をするだろうということだった。この会見の翌日、日本の役人が数人、旗艦に上船して、多くの贈り物の交換があった。

 贈り物交換の儀式の後、艦隊は湾の奥まで航行し、周囲を調査した。2,3マイル下に帆船が停泊しているのが見えただけで、江戸の町は見えなかった。人々は航行するアメリカの船団を気にしているようには見えなかったが、蒸気船が[日本について]発見しすぎるのではないかと、明らかに恐れているようだった。そして[蒸気]船が風と潮に逆らって、動き回ることが理解できないようだった。江戸湾は世界で最も美しく、広い湾で、周囲の景色の美しさは比類ないものである。詳細な観察の機会はなかったものの、日本人の振る舞いや習慣や衣服など、すべてが2世紀前に描写されたのと全く同じで変わりがなかった。我々が会った部隊の男たちは弓矢と槍で武装していた。火打石マスケット銃30丁と古めかしい火打石が200〜300あった。上陸した日に偶然女性を2,3人見かけたが、上流階級の女性ではなかった。美人は見つからなかったが、皆繊細で慎み深く見えた。

 ペリーの日本遠征記はアメリカ議会への報告書の形で1856年に出版され、その中には以下のようなイラスト((注3), pp.294-295)がふんだんに挿入されています。

ペリーの日本遠征記より

ペリーの日本遠征記

1846年のアメリカ漂流民に対する幕府の対応

 1853年5月7日付の記事では、ペリーの日本遠征は武力行使が目的ではないと「言われている」と、建前を語りながら、好戦的な本音が出ていて、軍事力は文明度のバロメーターだという価値観が前面に表されています。その背景にあるのが、「日本近海で難破したアメリカの船員を、日本は残忍にも捕らえて、収容所に閉じ込めた」「非道な行為」に対する報復というニュアンスです。これが当時の英米の一般読者にも共有された事件だったことが、1855年にボストンで出版された『日本—過去と現在—』(注4)からもわかります。

 著者のリチャード・ヒルドレス(Richard Hildreth: 1807-1865)は歴史家・哲学者・ジャーナリスト、そして奴隷反対活動家とされています(注5)。彼自身は来日していないのですが、自分で書いている広告には「最初の探検家やニューイングランドとヴァージニアの植民地開拓者たちの伝記を書くために資料を集めているうちに、ペリー提督の遠征と同時期に日本にたどり着いた(心の中で)」と書いています。そして、570ページの本には、E.ケンペル(1651-1716)からアメリカ議会資料や新聞記事まで、多くの資料を要約しながら、とても読みやすい、信頼に足る本になっています。『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の上記の記述と違って客観的だと感じたのですが、彼が奴隷反対活動家と知って納得できました。また、執筆の理由が一般読者向けであると書かれ、日本から輸出できそうなものを詳細に書いていることから、貿易商も視野に入れていることが窺えます。

 ヒルドレスが紹介している日本側による「非道な行為」の一つは、1846年6〜7月のアメリカ漂流民に対する日本側の対応です。

捕鯨船の難破で、8人のアメリカ人船乗りが「日本の千島列島」(訳者による強調、原文はone of the Japanese Kuriles)の一つの島に6月初旬に漂着した。数ヶ月収監されてから、松前に、最後に長崎に連れて行かれた。その一人が逃亡しようとして殺された。17か月の監禁の後、出島のオランダ人に渡され、1847年にバタビアに送られた。セランポア[西ベンガルのオランダ領都市]の『フリー・プレス』によると、彼らの取り扱いは非常に過酷だった。(p.499)

1848年のアメリカ漂流民に対する幕府の対応

 もう一つの例は、1848年9月にアメリカの捕鯨船の船乗り15人が松前から長崎に送られてきて、港から狭いカゴに乗せられてお寺に連れて行かれた後の様子です。5ページにわたっていますが、興味深い点を以下に抄訳します。

船乗りたちはオランダ語がわからなかったので、オランダ商館の館長が呼ばれた。船乗りたちの説明では、8人はアメリカ人で、みんなかなり若く、7人はサンドイッチ島[ハワイ]の男たちだった。彼らの話では、乗っていたアメリカの捕鯨船が日本海の浅瀬にぶつかり難破した。[オランダ商館の]館長は彼らをオランダ船でバタビアに送りたいと思ったが、江戸の証明書が必要で、それには40日かかり、日本の法律で決められていた出航の日に間に合わない。

 このことが1849年1月27日に広東のオランダ領事からアメリカの広東弁務官に伝えられた。アメリカ人船乗りを引き取るために、グリン(Glyn)艦長に率いられたアメリカ軍艦プレブル(Preble)を長崎に送った。グリンは琉球に寄り、琉球在住の宣教師ベッテルハイム(B.J. Bettelheim: 1811-1870)から非常に誇張された報告を聞き、その影響でグリンが長崎の当局と交渉した時に、断固たる口調になった(pp.499-500)。

 ここでベッテルハイムについて、アメリカ議会資料(1851-1852, vol.IX., No.59)にあるグリンの書簡から引用していますので、抄訳します。

ベッテルハイムの琉球における扱いは独特である。琉球当局は彼を追放したいと強く思っているが、武力で追い払うことは恐れている。彼は去るつもりは全くない。住民は彼の家に近づかないよう、食料供給目的以外は売買しないよう、彼が近づいてきても避けるよう命じられている。役人の見張りがついており、彼が行くところにはどこにでもついて行く(p.500)。

 プレブル号は4月17日に長崎に到着した。日本の船がすぐに近づいてきて、竹を投げ込んだ。割った竹の中に、外国船に宛てた通告が書かれた紙が入っていた。投錨に関して、外国船が守るべきこと、回答すべき質問などが英語とオランダ語で書いてあった。

  1. 日本の海岸に近づき、または、[日本]帝国の湾に投錨しようとする船の艦長、士官、乗組員に警告する:日本国民(Japanese subjects)に対して適切な行動をとることを命じる。日本政府からの指示があるまで、船を離れたり、ボートを使って上陸したり、周囲を航海してはならない。船上でもボートでも、発砲は禁じられている。上記が厳格に守られない場合は、非常に不愉快な結果が生じる可能性がある。署名:長崎奉行
  2. オランダ軍艦旗かその他の軍艦旗の船で帝国に近づく艦長へ:長崎奉行の明確な指示により、北カバロス島(the northern Cavallos:伊王島)近くに到着したらすぐ、安全な場所に投錨し、次の指示があるまで待つように。出島(署名)、監督所属の報告官(押印)、オランダ商館によって翻訳された。
  3. 以下の質問にできるだけ早急に明確に答えてほしい:貴船の名前、トン数、乗組員の数、貴船がどこから来たのか、出航日、日本人の漂流民はいるか、水、薪などの要望物資があるか、貴船とともに、[日本]帝国に向かっている他の船があるか。長崎奉行命により、オランダ商館の監督によって翻訳された。出島。上級報告者(押印)

 この後、日本人通訳とともに、7人が乗り込んできて、投錨について英語で指令したが、艦長が投錨場所は自分が選ぶと主張すると、役人は折れた。艦長が必要とするものを聞きに来た別の役人に、艦長が来航目的を述べると、多くの質問が投げかけられた。戦艦は監視船に取り囲まれ、いつものように供給物資の申し出があったが、艦長は支払いなしには受け取れないと断った。(中略)[21日]にオランダ語と日本語の奇妙なメモが艦長に渡された。[アメリカの]船乗りたちが逮捕されてからの日誌のようだった。もう一つのメモには、すべての漂流船員は中国かオランダの船で本国に送り返すことになっているので、この特別の帰国は認められないと書かれてあった。

 この船乗りたちの話では、実際は捕鯨船から逃亡し、蝦夷地の海岸にたどり着いて、村で米と薪を与えられたが、兵士が監視しており、周囲は布で囲われて、まるで彼らにこの国を見させないというようだった。上陸して2日後に別の村で囚人として家に閉じ込められた。解放されてボートを与えられるという約束があったが、逃亡を企てる者が出て、捕らえられると、仲間内での喧嘩が始まり、一人が檻に閉じ込められた。別の二人が再度逃亡を図り、捕らえられると、檻に一緒に入れられ、その中で喧嘩が始まると、一人が引き出されて酷く鞭で打たれた。

 2か月後に全員がジャンクに乗せられて長崎に向かった。3人の囚人は檻に、12人は別の檻に入れられた。最初は柵で囲まれ監視付きの家に入れられ、尋問があった。その頃、停泊中のオランダ船で帰国が叶うという希望を持たされた。乗船するために、マッコイ(McCoy:自称フィラデルフィア生れの23歳で、グループの中で最も知的だった)は3回目の逃亡を図った。日本の監獄は日本人にはいいだろうが、アメリカ人には我慢できないと言っていた。捕らえられると-—ゴローニン(Vasily Golovnin: 1776-1831)の『日本俘虜実記』で描かれているのと同じように-—縛られ、足かせのようなものをつけられ、スパイだと疑われて尋問が続いた。[この後、何度も逃亡を繰り返し、一般の獄に繋がれ、仲間同士の喧嘩が続くと書かれていますが中略] 日本人による彼らの扱いに関して、オランダ語のメモにも書かれていたが、彼らがあまりに問題を起こすので、日本の当局は本当にどうしていいかわからなかった。アメリカ人の一人が死に、サンドイッチ島の一人は首吊り自殺した。マッコイは日本語がかなりできるようになり、看守の一人と仲良くなって、プレブル号が到着したことを密かに聞いた。

 同時に、彼らより1,2か月遅れて蝦夷のさらに奥の島に漂着したアメリカの捕鯨船の船員が送られてきた。マクドナルドというこの男は、自称24歳で、オレゴンの出身だという。彼は逃亡を企てなかったので、厳しく扱われることがなかった。それどころか、楽な暮らしをしていた。日本人が彼を英語教師としたからだ。プレブル号に乗っていた通訳は、彼の生徒だった。これらの男たち全員が言うには、ポルトガル人じゃないという証拠に、十字架を踏まされた。彼らが嫌がる素振りを見せると、そう理由を告げられたという。

 マッコイが言い、他の者たちもそうだと言ったことは、彼が日本人の看守に、アメリカの軍艦が仕返しをするぞと脅すと、看守たちは怖くなんかないと返答した。前年に江戸でアメリカの艦長を日本の一兵士がノックダウンしたが、問題にされなかったからだという。マッコイと他の者たちは、そんな話聞いたことないと一生懸命否定したが(前ページで述べた出来事のことを指す)[次節参照]、日本人からその出来事が伝えられた。

 マクドナルドは解放される前に、日本人にプレブル号艦長の相対的地位を教えてくれと頼まれた。アメリカ合衆国の最高権威者から順に数えてくれという依頼に、マクドナルドは真の共和主義者らしく、国民から始めたが、日本人はその意味がわからなかったと彼は言う。そして、大統領、海軍長官、艦長、勅任艦長、海尉艦長と説明していくと、プレブル号艦長が海尉艦長と知って、日本人は非常に驚いた(pp.500-504)。

 ゴローニンの幽閉録はロシアで1816年に出版され、その英訳と日本語訳が同時期に出版されています。日本では1825(文政8)年に兀老尹ゴロウニン(著)『遭厄日本紀事』(注6)として、ロンドンで出版された英訳(Memoirs of a Captivity in Japan)は第2版しか見つかりませんが、1824年です。

1 Terry Bennett (編), Japan and the Illustrated London News: Complete Record of Reported Events 1853-1899, Global Oriental, 2006.
2 将軍/大君と天皇の違いは以下の1856年刊のペリー『日本遠征記』で説明されていますし、ヒルドレスも1855年刊の本の中で「将軍」という言葉を使って違いを説明していますが、この時代のEmperorに関しては「皇帝」を使用します。
3 Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan, Performed in the Years 1852, 1853, and 1854., Under the Command of Commodore M.C. Perry, United States Navy by Order of the Government of the United States. Compiled by Francis L. Hawks, New York, D. Appleton and Co., 1856.
https://archive.org/details/narrativeofexped00perr
4 Richard Hildreth, Japan as It was and is, Boston, Phillips, Sampson and Co., 1855
https://archive.org/details/japanasitwasand01hildgoog
5 ”Richard Hildreth”, Dictionary of Unitarian & Universalist Biography
http://uudb.org/articles/richardhildreth.html
6 国立国会図書館デジタルライブラリーに簡単な解説が掲載されています。
http://ndl.go.jp/nichiran/s2/s2_2.html