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2017-02-26

英米に伝えられた攘夷の日本(1-2)

 1848-49年にアメリカ漂流民に対して、日本の看守がアメリカの仕返しなんか怖くないと言った理由は、アメリカが日本に対して威嚇的対応しか効果がないと方針を変えたきっかけになりました。

1846年のアメリカ艦隊日本遠征

メリカ人船乗りと日本人看守とのやり取りで、日本の一兵士がアメリカ軍艦の艦長を「ノックダウンしたが、問題にされなかった」という件は、ヒルドレスが詳しく紹介しているので、要約します。ただし、ビドル提督(James Biddle: 1783-1848)率いる艦隊が江戸湾に投錨した年を1848年と間違えているので、1846年に訂正してあります。

  • アメリカ艦隊を率いるビドル提督は日本の港が使えそうか調査する使命を受けて、1846年7月20日に江戸湾に投錨した。投錨前にオランダ語通訳を連れた役人が乗艦して、来航の目的が何か聞いたので、友好目的であること、日本が中国のように、貿易に門戸を開いたか、もし開いたのなら、通商条約を結びたいと伝えた。
  • この役人は上層部に伝えるために、来航目的を文書で記すよう、必要物資は与えるが上陸も、軍艦[USSコロンバス号とUSSヴィンセネス号]の間をボートで行き来することも認められないと言った。提督が受け入れられないと言うと、彼はそれ以上主張しなかった。
  • 艦隊の周りには無数の小舟が取り囲み、[提督は]アメリカ軍艦の強さを見せるためと、友好の証として、乗船して見学したい日本人に開放した。
  • 翌日、地位の高そうな役人が乗船してきて、外国船の来航時に武器を放棄することになっていると言ったが、それは商船だけに当てはまると伝えられると、彼は納得したようだった。[アメリカ側は]この役人に最近の中国とイギリス・フランス・アメリカとの条約の中国語コピーを渡そうとしたが、それまでの日本の役人全てが断ったように、彼も受け取らなかった。
  • 水を供給する役人は最初の日に200ガロン以下の水、2日目にはそれ以下しかよこさなかった。これでは1日の消費量以下なので、提督はこの量を続けるのであれば、自分のボートを送って水を入手すると伝えた。これはもちろん受け入れられないので、日本側は次の2日間で22,000ガロン供給してくれた。
  • [7月]28日に8人の一行が皇帝の手紙を携えて乗船してきた。オランダ人の通訳によって訳された内容は「日本の法律では、日本はオランダと中国以外とは貿易をしないことになっている。アメリカが日本と条約を結ぶことも、貿易をすることも認められない。その他の国とも同様である。外国(strange lands)に関して全ては長崎で対応することになっており、江戸湾ではない。したがって、できるだけ速やかに出航し、二度と日本に来てはならない」というものだった。
  • 日本語のオリジナルは広東で中国語に訳され、中国語から英語に訳された。「このコミュニケーションの目的は、貿易目的で大海を渡ってこの国に来る外国となぜ貿易をしないのかを説明することである。これは太古から我が国の慣習である。これまでに起こった同様の場合も、すべて貿易を断ってきた。様々な所から外国人がやってきたが、同じように対応している。貴殿に関しても、我々は同じ政策を貫くのみである。我々は異なる外国の国々の間に区別をすることはできない。我々はすべて[の国]に等しく対応し、貴国アメリカも他の国と同様の答えを受け入れなければならない。再度試みようとするのは無駄である。同様の申し入れがいくら来ても、答えは絶えず同じだからである。我が国のこの慣習に関して、他国と違うことは承知しているが、どの国も国内を独自の方法で運営する権利がある。

     長崎で行われているオランダとの貿易は他国との貿易の前例となると見るべきではない。この場所はほとんど住人がおらず、ビジネスもわずかで、重要性は全くない。皇帝は貴殿が望む許可を断固として拒否すると言わなければならない。即刻出航し、我が国の海岸に再び現れないよう、皇帝は心から勧める」。

  • この文書は住所も署名も日付もなく、開封された封筒に入っていて、封筒には「説明勅令」(Explanatory Edict)と書かれてあった。これがどう手渡されたかは、提督の言葉で述べるのがいいだろう。
  • 「ここで不快な出来事について述べなければならない。皇帝からの手紙を携えて役人がジャンクに乗ってやってきた朝、手紙を受け取るためにジャンクに乗るように言われた。私は断り、通訳に伝えたことは、私宛の手紙を受け取るには、この船に乗って手渡さなければならないということだ。役人は同意したが、私の手紙はアメリカの船上で手渡されたのだから、皇帝の手紙は日本の船上で手渡されるべきだと思うと言った。この申し出の重要性を日本の役人は主張したが、私が断るとすぐに引っ込めた。私は彼を満足させることも大事だと考え、通訳を通して、ジャンクに乗って手紙を受け取ると伝えた。通訳がジャンクに乗り、1時間後に私は制服を着て船のボートで[ジャンクの]横に行った。私が乗船した瞬間、ジャンクの甲板にいた日本人が私を殴ったか押したので、私はボートに投げ戻された。私はすぐに通訳にその男を捕まえるように叫んで、戦艦に戻った」。

     通訳と数人の日本人がついてきて、日本人はこの出来事について非常に心配していると表明し(expressed great concern)、提督が[日本のジャンクに]乗船する意図が理解されなかったと言ったので、提督は納得した。暴行者にどんな罰を与えるか提督に任せ、罰すると言ったが、提督は日本の法律に従うこと、また、これが個人の行為であって、当局の権限のもとに行われたものではないということで、提督は満足した。

  • ヒルドレスの注:提督が[アメリカ政府から]受けていた指示は、「敵対感情を煽ったり、アメリカ合衆国に不信感を持たれるような」行為をしないよう注意せよというものだった。(上院議会資料、1851-1852, vol.IX.[Ex.Doc.No.59.])((注1), pp.496-498)

ペリーの日本対応

 ビドル提督の日本遠征の教訓は、「ご機嫌取り政策」(humoring policy)が役に立たないことを証明し、日本との交渉ではノーと言わせない断固たる態度をとる以外方法はないと、アメリカ政府は方針を変え、軍艦を追加して使節を送ることにしたとヒルドレスの本で解説されています。

この[ペリーの]使節は、大統領が宣戦布告する権限を持たないので平和的性質のものだったが、日本に対して影響力があるのは、何にもまして軍事力を見せつけることで、明らかに効果があった。(中略)ペリーは、言いなりになって調停しようとするのではなく、最大限威張り、小さな不快なことも一切許さず、お願いとして交渉するのではなく、1文明国からもう1つの文明国に対して当然の礼儀であると、権利として要求するのだと決心していた。(p.508)

浦賀与力の胆力

 この「威嚇政策」に日本側が疑問を呈したと、日本遠征に同行したアメリカ人通訳のサミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ(Samuel Wells Williams: 1813-1884)が彼の日誌『ペリー日本遠征随行記』(1910, (注2))の中で述べています。ウィリアムズはアメリカ商船モリソン号(1837)に乗船していた人です。「モリソン号事件」で、日本に送還しようとした日本人漂流民の一人、音吉は後に紹介する『イラステレイテッド・ロンドン・ニュース』でも紹介されています。ウィリアムズは『ペリー日本遠征随行記』の最初に、ペリーに懇願されて気乗りせずに引き受けたと書いています。

[1853年]7月9日金曜日:7時頃、Yezaimon[香山栄左衛門:1821-1877]という浦賀の最高役人が2人の通訳と他に4,5人を連れてやってきた。ブッキャナン船長がキャビンに入れ、3人が入って、座った。栄左衛門は役目上、[アメリカ大統領から皇帝宛の]手紙を受け取ることはできないが、彼個人としては日本の法律が禁じていても受け取りたいと言った。我々は大統領から皇帝宛の手紙を適任者に手渡すことが任務で、日本人が日本の法律に従うのと同じく、我々も自分たちの国の法律に従わなければならないと返答した。(中略)手紙のオリジナルと翻訳が入った箱を彼らに見せると、感心した様子はほとんど見せなかった。そして、そのような箱と皇帝宛の手紙を運ぶために、なぜ4隻も船をよこしたのか知りたいと言った。「皇帝に敬意を表するため」という理由を告げると、彼らの表情からは、こんな武力の理由について疑いがますます募ったようだった。この会談の間中、日本人の態度は威厳があり沈着冷静だった。栄左衛門ははっきりした声で話し、Tatsnoski[堀達之助:1823-1894]がそれをポートマン氏のためにオランダ語に直した。彼らの言っていることはほぼ分かったが、彼らのように話すには相当練習しなければならない。(pp.50-51)

 大統領からの親書を示す件は、ペリーの『日本遠征記』(1856)でも記述され、以下のイラスト((注3), p.304)が挿入されています。

ペリーの『日本遠征記』(1856)大統領からの親書

ペリーの『日本遠征記』(1856)大統領からの親書

 香山栄左衛門が皇帝からの返書を持ってきたという記述のページ((注3), p.280)には、栄左衛門と見られる武士がキャビンに入る姿が挿入されています。

香山栄左衛門と見られる武士がキャビンに入る

ペリーの『日本遠征記』(1856)香山栄左衛門と見られる武士がキャビンに入る

 浦賀与力が抗議を込めて、極めて真っ当な質問をアメリカ側にしたことに感心します。しかも、4隻の軍艦に1,000人の海兵隊や水兵などがいる中でです。ウィリアムズも感心したからこそ、日誌に記したのでしょう。これら浦賀与力の発言記録が「浦賀与力より之聞書」として残っており、アメリカの来航を幕府は1年以上前からオランダ人から得ていたのに、上層部が隠して対策を講じなかったこと、浦賀奉行は1年前に聞いたのに与力に伝えなかったことを批判して「『アメリカの軍艦が何隻やってこようと、鉄砲を見せれば怖がって帰るとでも思っていらっしゃるのだろうか』と幕府上層部の危機感の薄さと秘密主義を慨嘆」していたそうです(注4)

 この会談の終わりに、日本側の通訳がウィリアムズに向かって、英語で”Are you an American?”と聞いたので、「確かにそうだ」と驚いた声色を作って答えると、周囲に笑いが起こったこと、Tatsunoskiがウィリアムズに名前を聞き、ウィリアムズも彼の名前を聞いたことなどのやり取りが書かれています。

 以下はウィリアムズの日誌に挿入されている日本で描かれた彼の肖像画と、『サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズの生涯と手紙』(1889,(注5))に掲載されている写真です。

日本で描かれたサミュエル・ウェルズ・ウィリアムズの肖像画

日本で描かれたサミュエル・ウェルズ・ウィリアムズの肖像画

サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ

サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ

インターネット・アーカイブについて

 本サイトで引用している19世紀の資料の多くは「インターネット・アーカイブ」掲載のものです。今回(2016年11月末)『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』にアクセスしたところ、「寄付のお願い」が掲載されていました。今までなかった特別のお願いなので、利用させてもらっているし、このようなサイトが知識の普及に欠かせないと思い、寄付をしました。その後、2016年12月13日号の『ニューズウィーク日本版』に、「トランプを恐れネットもカナダ移住」(p.20)という記事が掲載されました。以下に引用します。

 過去20年以上にわたって世界中のウェブやデジタル情報を保存し、自由に閲覧できるネット図書館の構築を目指している米NPO「インターネット・アーカイブ」は先週、カナダに新たなサーバーを構築するため寄付を募ると発表した。

 「アメリカでは11月9日、過激な変革を狙う新政権が誕生することが決まった。将来ウェブが制約される事態に備えて、私たちの情報が常に安全で、いつでもアクセスが可能で、プライバシーが守られるよう対策を取らなければならない」と、彼らは公式ブログで述べている。カナダでの新サーバー構築には数百万ドルが必要になるが、アメリカの法的措置からは守られることになる。

1 Richard Hildreth, Japan as It was and is, Boston, Phillips, Sampson and Co., 1855.
https://archive.org/details/japanasitwasand01hildgoog
2 Samuel Wells Williams, F.W. Williams (ed.), A Journal of the Perry Expedition to Japan (1853-1854), 1910.  https://archive.org/details/journalofperryex00swel
日本語訳は1970年刊『ペリー日本遠征随行記』
3 Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan, Performed in the Years 1852, 1853, and 1854., Under the Command of Commodore M.C. Perry, United States Navy by Order of the Government of the United States. Compiled by Francis L. Hawks, New York, D. Appleton and Co., 1856, p.280.
https://archive.org/details/narrativeofexped00perr
4 「浦賀与力より之聞書」国立公文書館
http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/bakumatsu/contents/16.html
5 Frederick Wells Williams, The Life and Letters of Samuel Wells Williams, LL.D.: Missionary, diplomatist, Sinologue, New York and London, G.P. Putnam’s sons, 1889.
https://archive.org/details/lifeandletterss02willgoog