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2017-07-02

英米に伝えられた攘夷の日本(2-3)

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』には日英約定署名(1854年10月14日)までのの交渉の様子が書かれていますが、これはイギリス側の準備不足やコミュニケーションの問題が逆にいい結果を生み出したと指摘されています。

通訳と外交用語の問題

 「東アジアにおけるクリミア戦争」の一環として、カムチャッカ半島ペトロパブロフスクの戦いでロシアに惨敗したイギリスは、スターリング卿の日本ミッションを急遽計画し、準備期間もありませんでした。きちんと訓練を受けた外交通訳やベテラン宣教師が得られなかったために、漂流民の音吉を通訳にしたわけですが、彼はひらがなしか読めず、外交文書の翻訳や複雑な外交交渉の通訳はできなかったそうです。その他にも日英間のコミュニケーションの齟齬がありましたが、それが逆にいい結果を生んだと、スターリング卿は「交渉は私が最初に考えていたものよりも、ずっと幅広い重要なものになった」と述べています((注1).p.142)。

 日英双方とも、出島のオランダ商館長に英語文書をオランダ語に翻訳させ、それをオランダ大通詞・西吉兵衛に翻訳させたそうです。しかし、ロシアのプチャーチンとゴンチャロフが1853年に日本と交渉した時に、西が理解しなかったり、意図的に内容を変更したりしたとして、ロシア側には不評の通詞だったようです(p.144 )。『帝国主義のコンテクストにおけるクリミア戦争:1854-1856』の著者ラスは「どんなに真面目で優秀な日本人通訳でも、1850年代に彼らが直面したのは、「領事」というような外交用語が日本語には存在しないという大問題だった」(p.144)と指摘しています。ラスが依拠した文献は『帝国主義との交渉—不平等条約と日本の外交文化—』2004, (注2))です。著者のマイケル・オースリンもラスも21世紀の若手の研究者として、欧米中心主義ではない目線で、幕末日本の交渉史を論じています。

 ラスは当時、西洋の概念がいかに日本語にできないかの例を、イギリス国立公文書館のスターリング卿の文書と日本語訳とを比較して論じています。スターリングの最初の日本宛要求書は英語では率直で簡単なものだと、以下の外交文書をあげています。

現在の争いにおける交戦国の戦艦の入港を許可するかに関して、日本政府の見解と意図を彼[スターリング]に知らせることは不可欠であります。戦闘状態によって彼に課された義務を遂行するにあたり、日本の皇帝と臣民を不快にするようないかなる行動もできる限り避けるつもりであります。

“it is absolutely necessary that he (Stirling) shall be informed of the views and intentions of the Japanese Government with respect to the admission into the ports of the ships of war of the belligerent parties in the present contest.” The British query, however, was accompanied by an assurance that “in the execution of the duties imposed on him by a state of war,” Stirling “anxiously desired…to avoid as far as possible the commission of any act which may justly give offence to His Imperial Majesty the Emperor of Japan or his subjects.” (p.144)

 明らかに安心の確証と受け取れる平凡な文章を、日本側は脅迫的な文章「日本の皇帝と貴族に対するいかなる戦争行為」に、「現在の争い(ラスの注:クリミア戦争におけるロシアとイギリス)における交戦国の戦艦」が「現在の問題の関係者」に翻訳されてしてしまったと指摘しています。長崎奉行に提出された翻訳文は次のものでした。「日本於御奉行所ごぶぎょうしょにおいて御勘考被くだされ、御当国港等に此度の一件一身いちみの者罷出まかりいで候儀、御免許御座候様所希ねがうところ候。・・・・・・当長崎港は勿論、日本国領の港及ひ其他の場所ニ罷出候儀相叶あいかない候様心願ニ御座候」((注3), p.208)。三谷博は見解伺いの文書が開港要求に変わってしまったのは、単に通訳の技術的問題ではないだろう、オランダ通詞、奉行らのイギリスへの恐怖と、西洋が通商を望んでいるという先入観があってのことだと言います(p.209)。軍事力をちらつかせる欧米との交渉の中で、日本語にない欧米の概念を理解しきれないで通訳/翻訳する困難を思えば、西吉兵衛がこの交渉の最中、安政元年8月17日(1854年10月8日)に43歳で急逝してしまったことは、その困難さを物語るように思えます。前日夜遅く役所から帰宅し、当日の朝奉行とスターリングとの会見を通訳する予定だった彼が布団の中で死亡しているのが発見されたと覚え書きに記されているので、過労死だったのだろうといいます(注4)

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』で伝えられた日英交渉

英国戦隊の日本到着((注5), p.9)

[1854年9月]28日、ちょうど3週間、戦隊の不当監禁が続いた日に、提督が日本当局に書簡を送り、長崎奉行に宛てて、江戸に行くと意志表明した。「すべての形式に従い、あらゆる方法を試みたが無駄でした。イギリス国家のような大国がかつて経験したことのない扱いを受けたと思います。従って、政府の最高責任者の所に行く以外、方法はないと考えます」。この表明は日本側を非常に狼狽させたようだった。奉行は彼に許される範囲内でできる限りのことをしたこと;お望みなら、もっと供給物資を多くしただろうこと;江戸からの返信は10日以内に必ず届くこと;もし提督が今、江戸に行ったら、すべての手続きを最初から始めなければならず、時間の無駄になることなどを訴えた。こんなにいい扱いを受けている港を、こんなに急いで出ることに驚いている等々と言った。

 彼らは逆に尋ねられた。「21日間も船に閉じ込められて、上陸することも許されない男たちがうんざりして、一刻も早く出発したいと思うのに、驚くとはどういうことか?」

 イギリス戦隊と奉行とのやり取りが克明に伝わってきます。その夜9時に、奉行は水兵たちが運動できる場所を提供すると言いますが、上陸させるのは法律違反なので、奉行の一存であること、ひとえに水兵たちが病気にならないためであると伝えられます。翌日、与えられた運動用の場所は船の甲板ほどの広さで「隔離病棟より酷い」と表現され、次に「あいつら、ふざけやがって」というニュアンスの”It almost appeared as if they were joking in the matter”と書かれています。日本側が次に訪れた時に、この苦情が伝えられ、木の生えている小さな島があてがわれます。そして長崎奉行から10月4日に来るよう伝えられます。

ジェームズ・スターリング卿と一行の長崎奉行訪問

 この見出しの記事には、長崎奉行訪問に際しての、様々なしきたり、手順などの説明を受けたこと、道中の景色、建物の様子、日本側の従者たちのいでたち等が詳細に述べられています。10月4日午前9時半に提督と15人の士官が旗艦ウィンチェスター号を5艘のボートで出発します。上陸箇所の責任者への伝達が遅れたのか、ミスがあったのかで、1艘の小舟がすごい勢いでやってきて、止まるように言います。止まってくれないと、自分は腹を切らなければならないと言われて、イギリス側はすぐに行進を止めます。『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』がこの中に特派員を入らせていたのか、イギリス海軍の1員が記者の役割をしていたのかわかりませんが、生き生きと場面が伝わってくる詳細な描写です。長崎湾周辺の詳細な地図と、どの軍艦がどこに停泊しているかまでわかる地図、湾周辺の景色、奉行の屋敷、役人たちの姿など、この号だけで全部で8枚のスケッチが掲載されています。長崎奉行とスターリング提督とのやり取りも会話形式で記されています。

ジェームズ・スターリング卿と一行の長崎奉行訪問(p.12)

奉行は水野筑後守(Mizano Skugonokami)といい、36歳ぐらいの静かで知的で美しい顔立ちの人物だった。中背より少し低かった。彼は足元に座っている家来に、低く、優しい声で二言、三言何か言った。奉行が話し終わると、家来は畳に数回キスをしてから、提督の通訳のオトウに奉行の言葉を伝えた。オトウが提督に伝えたのは、奉行が心からの挨拶をおくり、提督と士官の皆さんにお会いできて嬉しいということ、そして、長崎で不自由していないことを望んでいることだった。

提督:奉行に伝えてくれ、ご丁寧にありがとうございます、奉行がご親切に送ってくださった食料で、私ども全員元気で気持ち良く過ごしています。

奉行は江戸から返事が届いていれば、提督に伝えられたのだが、まだ届いておらず、残念だ、2,3日中には届くと思うと述べた。

提督:返書が届くまで2,3日待つと奉行に伝えてくれ。

奉行は提督が再訪してくれることを望むと述べた。

提督:喜んで。

 この後、もてなしが始まり、その一部始終と、どんな器かなどまで記されています。畳についても詳しく説明され、「日本人は家の外やボートの外で履物を脱ぐ」と述べた後に、次の文が続きます。「イギリスの士官が床の上に唾を吐くのを見て、日本人の1人が英語でゆっくりと言った。『If-you-please-you-must-not-spit. Japanese-men-sit-here』(すみませんが、ここで唾を吐いてはなりません。日本人はここに座るのです)。彼らの船の扱いからわかることは、彼らは着物も住まいも非常に清潔にしている」とコメントされています。

ジェームズ・スターリング卿と一行の長崎奉行訪問(pp.13-14)

 1854年10月9日に2回目の長崎奉行訪問が設定され、その報告記事が続きます。この時からローマ字で”O’bunyo”という語が使われ始めます。「ぎょう」が鼻音変化で「にょう」に聞こえたままを記したのでしょう。儀式は前回と同じだと省略され、すぐに本題に入っています。

お奉行は皇帝の返事を江戸から受け取っていた。長い巻物だった。知らされた返信の概要は、礼儀正しい文言で以下のことが記されていた。

  • イギリスの訪問とコミュニケーションに敬意を表する。
  • 偉大なイギリス国家と女王と提督に尊敬の念を抱いている。
  • 戦争の必要性が生じ、それに伴う恐ろしさについて残念に思う。
  • 皇帝の義務は臣民にあるので、中立性を厳格に守ることが自分の考えだと説明した。
  • 「この深刻な紛争では、自分はどちら側にもつくことはできない。そんなことをしたら、片方の怒りを買い、貧しく弱い国民たちの多くに恐ろしい災難を引き寄せてしまう」。

 この見解はどの点も最も真っ当で、賢明で、威厳あるものだった。彼は「長崎の高官2人を任命して、彼の名前で条約を作成するよう命じた。それは[日本]帝国の法律と国益が許す範囲のもので、最恵国に与えられている便宜や利益をイギリスにも与える意思があると言った。ただし、オランダと中国に認められている特異な商業的特権は除くと言った」。

 皇帝の手紙は非常に注目すべきものだと考えられた。それは義務と意思の表明として明瞭で合理的で正直なもので、期待できる限り全てのものを譲歩していた(It was a clear, reasonable, straightforward statement of duties and intentions, conceding all that could be expected;)。十分な自信を呼び起こし、将来の行動の指針となる原則を定義づけるものだった。これらの意味を全部正確に理解するには長い時間が必要だった。一行がこの作業を行っているうちに雨が猛烈な勢いで降ってきた。これが[日本人の]丁寧で親切な行為を示す機会になった。一行の一人一人に傘が与えられ、はしけにカバーが付けられ、提督と一行は日本政府の船で濡れずに安全に旗艦まで送られた。7時半だった。

 その後の4,5日間、条約作成に費やされた。日本の役人達が日に何回もやってきた。マイナーな点の調整に、会議を重ねて、度々夜9時までいることがあった。全てが[10月]14日に完成し、提督が以前のように長崎に出向いた。条約が奉行に読み上げられた。2時頃、提督が正副2通に署名した。それがどこかに送られた。多分、オランダ商館で、正確さを確かめるためだと推測された。奉行と、行政官たち(Commissioners)が正副両方に署名した。批准は1年以内に行われることになった。

 この「日英約定」は「英国船が長崎、箱館に寄港して薪水、食料を調達できること、今後日本が外国に対して開く港は英国に対しても開くこと」(注6)を約束するものでした。

   [ + ]

1. Andrew Rath, The Crimean War in Imperial Context, 1854-1856, Palgrave, 2015.
2. Michael R. Auslin, Negotiating with Imperialism: The Unequal Treaties and the Culture of Japanese Diplomacy, Harvard University Press, 2004.
Terry Bennett (編), Japan and the Illustrated London News: Complete Record of Reported Events 1853-1899, Global Oriental, 2006.
3. 日本歴史学会(編)三谷博『ペリー来航』吉川弘文館、2003.
4. 石原千里「阿蘭陀通詞西吉兵衛・吉十郎父子(1)」『英学史研究』Vol.2003(2002) No.35
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeigakushi1969/2003/35/2003_35_1/_pdf
5. Terry Bennett (編), Japan and the Illustrated London News: Complete Record of Reported Events 1853-1899, Global Oriental, 2006.
6. 外務省外交資料館『日英交流事始—幕末から明治へ—』平成21年
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/j_uk/pdfs/kaisetsu.pdf