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2017-11-11

英米に伝えられた攘夷の日本(3-1)

1840年代にはフランスのカトリック教会が日本進出を狙う様子が「伝道協会」刊の報告書から読み取れます。イギリスの軍事力で日本にも開国を迫れという調子の文章がカトリック神父の報告書に書かれています。

西欧列強が中国の次に狙う日本

トリックの伝道を世界中で展開する「伝道協会」(Society for the Propagation of the Faith)の1840年代からの年報を読むと、西欧帝国主義の実態が見えてくるようです。この年報は「新旧世界の布教に従事する宣教師と司教の書簡集および伝道協会と布教に関するすべての文書」という副題がつき、世界中に派遣された宣教師が各地の様子を伝える内容です。この協会はローマ・カトリック教会が世界中で伝道するための資金援助組織で、1822年にフランスのリヨンで組織され、1922年に本部がフランスからローマに移されて、ローマ教皇がすべてのローマ・カトリック伝道のための募金・分配機関にしたそうです(注1)

 イエール大学図書館のデジタル・アーカイブに1842年〜1853年の年報が掲載されています。その中に日本に関する記述がないか調べたところ、興味深い内容に溢れています。たとえば、『1846年の伝道年報』(注2)に、中国での布教について書かれているのですが、第一次アヘン戦争(1839-1842)後のことが以下のように書かれています。

中国の古い帝国はぐらついている。今までキリスト教への対応を固守していた障壁を、中国は初めて下げて、キリスト教禁止令の不当な厳しさを緩めた。拷問や死をも恐れない勇敢な使徒たちは、朝鮮半島の、人を寄せ付けない海岸に再び上陸した。朝鮮半島を囲む海は使徒たちの英雄的な企てから日本を守りはしないだろう。日本で再び聖なる旗を上げることになっている者たちは、すでに日本の海岸に近づいている。(p.141)

 次に、報告書「中国の布教」に掲載されている1844年10月13日付のクラヴリン神父[Father Clavelin]の手紙(pp.174-188)にも、日本について言及されています。彼が上海に上陸してからの見聞記です。

[広州湾の舟山島]定海で最も強く印象付けられたのは、古代の寺院は今やイギリス兵の兵舎に変わっていたことです。(中略)寺院に設置されている像をイギリス兵が面白がって破壊しました。一人は鼻をへし折り、もう一人はツノを、そして3人目の兵士は歯を攻撃しました。こうして哀れなブッダは像全てを失いました。(中略)寺院を出ると、私たちは丘に登りました。丘は[町を囲う]塀の内側に位置しており、頂上から[上海の]街全体と港、その周辺が見渡せました。イギリスは第二次戦争[1841年10月の舟山島占拠]開始時にこの高さをよじ登ることで、この町の所有者になったのです。最初の休戦はすぐに破られてしまいましたが、休戦の結果、イギリス軍は定海から引き上げました。中国軍は次の[イギリスの]侵略から自分たちを守るために、ヨーロッパ人が以前やってきた場所に堅硬な城壁を急いで築き、その上に大砲50基を据えました。イギリス軍はすぐに戻ってきて、自分たちが以前上陸したところが強固な要塞と化しているのを見て、ポジションを変えただけでした。一つの連隊が反対方向から町を攻撃し、短期間の抵抗はありましたが、町に入りました。それは中国人にとって驚きで、彼らは「この野蛮人たちは魔法使いだ。我々はここを強固な要塞にしたのに、彼らは大砲に向かってくるのではなく、何の防護もない別の方向から町を奪還した」と言っていました。これで中国人が高い軍事知識を持っていることがお分かりでしょう。彼らは爆弾の使い方も知りませんでした。イギリス軍が最初に爆弾を彼らに向けて発射した時、それが砲弾のように真っ直ぐ飛んでくるのではなく、上から落ちてくると知ると、弾を避ければ十分だと思って、その後、一見無害に見える発射体を検分しようと、彼らは破裂弾に走って行きました。それが爆発した時の彼らの驚きがどんなものだったか想像してみてください。(pp.177-180)

アヘン戦争でイギリス軍として戦ったインド兵

 近代兵器の威力を知らない中国兵を侮蔑する神父の言葉に戦慄を覚えますが、第一次アヘン戦争の犠牲者は、1847年にイギリス政府に提出された報告によると、イギリス軍の死者69人、負傷者451人、中国軍は推測で死傷者18,000〜20,000人とされています((注3), p.1)。

 クラヴリン神父は、この舟山島の戦で、イギリス軍は1,200人の兵士を投入し、そのうち200人がインド人で「異教徒かモハメッド教徒」だと述べ、以下のように続けます。「この戦いの間、これらの黒人兵があまりの不品行を働いたために、中国人、特に商業に従事していない階級の中国人の心にイギリスの名前に対する深い憎しみを生みました」(p.181)。弱体化していた中国政府はこの感情を取り締まるために、イギリスの交易所に放火した者や、イギリス船員を虐殺した者を公開処刑するなどしたと述べています。

 第一次アヘン戦争でインド兵がイギリス軍として戦っていたというのは、正式なイギリス領インド帝国成立が1857年ですし、どういうことだろうと調べてみると、以下のことがわかりました。「舟山島定海をイギリス軍が占領した時、イギリス軍にはベンガル志願兵隊、マドラス工作・鉱夫隊、マドラス砲兵隊、マドラス原住民歩兵隊の第18, 26, 49, 41連隊が含まれていた」((注4), p.410)そうです。これらのインド兵は東インド会社のもとで、志願制で集められました(p.408)。

 ところが、アヘン戦争のイギリス軍が多くのインド兵で構成されていたことは欧米では一般に知られず、日本でいち早く知られたというのです。上記の1844年10月13日付のクラヴリン神父の手紙がどの程度広く一般に知られていたのかはわかりませんが、少なくとも欧米のメディアは扱っていなかったそうです。その理由が「日本人の目から見たアヘン戦争」に以下のように述べられています。

 中国に戦争をしかけたイギリス軍の大部分が英印軍で「傭兵」として募集されたインド人で構成されていたことは秘密でも何でもなかった。(中略)しかし、一般読者向けに書くイギリスの作家たちはこのことをあえて強調しなかった。傭兵についてはたまに言及されるだけだった。名前をあげて述べられる戦闘員は全てイギリス人の将校ばかりだった。第一次アヘン戦争に関するイギリスの印刷物、銅版画、スケッチにインド人部隊が不在なことが目を引く((注5), p.1)。

 上記はマサチューセッツ工科大学の「ビジュアル文化」というサイトに掲載されている「アヘン戦争」の一部で、『容赦なき戦争—太平洋戦争における人種差別』(1986)や『敗北を抱きしめて—第二次大戦後の日本人』(1999)などで著名な歴史学者ジョン・ダワーの解説の拙訳です。この欧米の対応とは対象的に、日本では1849年に出された『海外新話』でアヘン戦争のイギリス軍は「絶えず色分けされ」ており、「白人と黒人」や「黒白夷人」(p.1)という語が頻繁に使われていたと指摘しています。作者の嶺田楓江(1817-83)は中国側の資料をもとに戦記物語風にアヘン戦争を描き、「事実」として書かれていることの多くは「単なる空想」だとダワーは批判していますが、いくつかの題材は英文の記事や書物では沈黙していたり、完全に欠如しているものがあり、注目されるべきだとも述べています。その一つが「インド兵部隊が特に残虐で不潔」だと捉えられている点です。これはクラヴリン神父の報告と似ていますが、『海外新話』ではイギリス軍の白人兵も黒人兵も残虐行為を行ったこと、特に女性へのレイプについて度々述べられ、木版画でも描かれていると指摘しています。ダワーは以下のように解説しています。

 第一次アヘン戦争に関する同時代のイギリスの記述では、イギリス側が行った略奪を無視したわけではない。大英博物館にはその証拠が残されている。(中略)また、イギリスの埋もれた資料の中には外国人によるレイプに言及したものも見つけることが可能である。特に略奪や寺院の破壊行為などが引き金となって、地域住民の敵対行為があったとも言われている。同時にイギリスの記述では、並行して起きたことに注意を促している。彼らの見方では、もっと酷い行為を中国人の暴徒が、イギリス軍に攻撃された市の住民に対して行ったとして、略奪・放火・レイプなどをあげている。(中略)嶺田も強欲な中国人群衆に注意を促している。(中略)同時に多くを中国側の視点から書いているため、嶺田は外国人侵略者が頻繁に行ったレイプや残虐行為に個人的、社会学的な側面を加えている。彼は多くの中国人女性がレイプされた後、自殺したと報告している。特に2件の貞淑な上流階級の女性の逸話を紹介している。将軍の妻と学者の若い娘の話で、イギリス軍の手にかかってレイプされるより自殺を選んだという。そして、なぜ多くの住民たちが敵が上陸する前にパニックになって逃げたか、その結果、外国人と現地の暴徒によって家を略奪されるがままになったかを読者に分かるようにした。(pp.1-3)

 イギリス軍内のインド兵については欧米だけでなく、インドでも中国でもあまり知られていない事実だったようで、2015〜16年のインド・中国メディアによると、第一次アヘン戦争で戦ったのは主にタミール人兵士なのに、それが歴史から抹消され、その事実を知った著名なインド人作家アミタヴ・ゴーシュ(Amitav Ghosh: 1956-)が、アヘン戦争とインドの関係を『ケシの海』(Sea of Poppies, 2009)に始まる三部作小説にして、三作目の『火の洪水』(Flood of Fire, 2015)で東インド会社の兵士としてアヘン戦争で戦うインド兵の目を通して描いたといいます(注6)

 『海外新話』が中国側の資料に頼ったため、イギリス軍は中国軍に多大な損害を与えられたと書かれているが、そんなことは「現実には起こらなかった」(注6)とダワーは指摘し、中国側の粉飾を真に受けたためだろうとのことです。それでも、大英帝国の地図が掲載され、イギリス軍の威力が示された『海外新話』は幕府にとって不都合な本で、すぐに発禁処分になります。吉田松陰も読んでいたということで、武士階級では広まっていたようですが、農村でも読まれていたことを知りました。「横浜開港資料館」HP(注7)によると、鶴見区の旧家関口家の幕末の当主関口東作が『海外新話』を写し取っていることが発見され、農村でもアヘン戦争について、イギリスの軍事力の強大さなどが知られていたそうです。

フランス海軍・貿易・カトリック宣教師の関係
 1844年10月13日付のクラヴリン神父の手紙には、アヘンに滅ぼされる中国の人々が描かれ、その後、以下の質問が投げかけられます。

 この[アヘン]貿易を続けるイギリスは、今後もずっと成功するのでしょうか? 神のみぞ知る。しかし、確かなことは、真の宗教を広めるためにはイギリスが強力な資力であり、手段だということです。現在の中国にとってのイギリスが、将来、他の国にも同じ存在になることを祈りましょう。もう既に多くの新しい交易所がイギリスの商品、イギリスのトウモロコシ、イギリスのリネン、イギリスの綿等々で溢れかえっています。貿易は新たな販路を求めています。それは日本です。多くの商館が日本に目を向けています。その一人が日本を調査するために、モリソン号を送りました。琉球島に寄港した後、日本の港に入りましたが、この国と交渉することはできませんでした。砦から大砲が2,3発撃たれましたが、非常に稚拙で、一発もモリソン号に届きませんでした。このことから、日本の軍事力は中国のと同じだろうと噂になり、フリゲート艦1隻で抵抗をすぐにやめさせることができるだろうと推測されました。[イギリス]政府の帆船が一隻、この[日本]列島の海岸近くに今もいて、日本に攻撃させる機会を狙っていると確信しています。こうすることで、日本に強力な軍艦を伴って行く口実になり、日本になぜ攻撃したのか、国際法に違反することだと言うためです。セシーユ提督はフランスに帰国する前に、日本に行って連続砲弾を浴びせたいと切に願っています。(pp.183-184)

 カトリック神父によるこの手紙の文面から伝わってくるのは、西欧植民地・帝国主義というのは軍事力と貿易と宗教が一体となった活動だということです。宣教師の情報はフランス政府や軍、そして経済界にとって重要で、カトリック宣教師たちが「外交官」「通訳」「情報提供者」(注8)の役割を担っていたことが、これらの文面からもわかります。最後に言及しているセシーユ提督(Jean-Baptiste Cécille:1787-1873, 英語読みではセシル)というのは、フランス海軍の提督で、フランスの極東政策に重要な役割を果たした人物のようです。「19世紀中葉のフランス極東政策と琉球」(2000,注8)という論文を参照しながら、クラヴリン神父の手紙の内容を確かめてみます。

 アヘン戦争で中立を保っていたフランスは1841年に、アヘン戦争中の中国の状況を観察するために広東に代表団を送り、「フランスの貿易活動及び拡大の見通しについて」などの報告を指示しました。極東地域で「海軍基地と貿易のための貯蓄倉庫」を確保すること、「海軍基地は『中国のすぐ近く』に建設するよう」1843年9月に指令しました。イギリスと中国との間に南京条約が1842年に結ばれると、1843年12月に北京にフランス使節団が派遣されます。セシーユ提督はこの使節団の護衛として随行します。この使節団の主目的は中国との通商でしたが、極秘任務として「中国周辺海域に領土の足場(基地)を獲得すること」が挙げられていました。1844年に使節団は中国と条約交渉に入り、「広州等の開港と自由貿易、対等な国交と領事常駐等」「宣教師の伝道の自由」「カトリックに関心・理解を示す中国人を処罰しない」ことが条約に盛り込まれました。

 この交渉の際に、フランスによる琉球諸島支配を中国政府に要求し、「フランス以外の列強に琉球諸島を譲渡させない」案が示されましたが、拒否されました。これで、フランスが琉球に関心を持っていることが初めて国際社会に示されたといいます。セシーユ提督は琉球遠征の準備を始め、通訳として宣教師を琉球に送りたいとパリ外国宣教会に申し出て、1844年4月に先遣隊を琉球に送って、通商友好条約締結の希望を伝え、宣教師2人の琉球滞在を認めさせました。

   [ + ]

1. ”Society for the Propagation of the Faith: Roman Catholicism”, Encyclopedia Britannica
https://www.britannica.com/topic/Society-for-the-Propagation-of-the-Faith
2. Annals of the Propagation of the Faith, a Periodical Collection of Letters from the Bishops and Missionaries Employed in the Missions of the Old and New World; and Of All the Documents Relating to Those Missions, and the Institution for the Propagation of the Faith, Vol.VII for the Year 1846., London, 1846.
以下のYale University Libraryのオンラインのうち、v.7-8 (1846-47)をクリックすると、デジタル版が読めます。
http://guides.library.yale.edu/c.php?g=296315&p=1976858
3. Peter C. Perdue, “Hostilities” in “The First Opium War: The Anglo-Chinese War of 1839-1842”, MIT Visualizing Cultures
https://ocw.mit.edu/ans7870/21f/21f.027/opium_wars_01/ow1_essay03.html
4. :Madhavi Thampi, “Indian Soldiers, Policemen and Watchmen in China in the Nineteenth and Early Twentieth Centuries”, China Report 35: 4 (1999)
https://indiachinainstitute.org/wp-content/uploads/2009/07/madhavi-thampi.pdf
5. John W. Dower, “The Eye of the Beholder”(見る人の目) in “The Opium War in Japanese Eyes”, MIT Visualizing Cultures
https://ocw.mit.edu/ans7870/21f/21f.027/opium_wars_japan/oje_essay02.html
6. Arpita Bosel, “Tamil recruits in the Opium War: Ghosh opens hidden chapter”(アヘン戦争のタミール兵:ゴーシュが隠された事実を明らかにする), The Times of India, Jun 9, 2015
http://timesofindia.indiatimes.com/city/chennai/Tamil-recruits-in-the-Opium-War-Ghosh-opens-hidden-chapter/articleshow/47593282.cms
Xu Qin, “Opium War through Indian eyes”(インド人の目を通して見たアヘン戦争), Shanghai Daily, November 13, 2016
http://www.shanghaidaily.com/sunday/book/Opium-War-through-Indian-eyes/shdaily.shtml
7. 「『旧家の蔵から—開港場周辺農村の幕末・明治—』から」『開港のひろば』78号、2002年10月30日発行、横浜開港資料館
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/078/078_02.html
8. 上原令「19世紀中葉のフランス極東政策と琉球」『史料編集室紀要』(25), 2000
http://okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/8021/3/No25p83.pdf