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英米に伝えられた攘夷の日本(3-2)

セシーユ提督率いるフランス艦隊が1846年に長崎に来航し、日本でカトリックの布教が始められるという期待からか、「日本の布教」と題する長い文章が『1849年の伝道年報』に掲載されます。

フォルカード神父の報告書

節でフランスが宣教師2人の琉球滞在を認めさせたと紹介しましたが、それはフォルカード神父と中国人伝道士のオーギュスタン・高でした。フォルカード神父(Théodore-Augustin Forcade: 1816-1885)自身の手紙形式の報告書が『1846年の伝道年報』に掲載されています。

フォルカード神父(注1)

「琉球諸島の布教」と題された報告で、日付けは1845年8月12日ですから、1844年5月6日の琉球到着から15か月後です。15ページの長い報告((注2), pp.266-281)で、フランス語原文からの日本語訳が『幕末日仏交流記—フォルカード神父の琉球日記』(1993, (注3))の第3章に掲載されています。宣教師たちの報告書が、欧米列強の帝国主義発展のためにいかに重要視されていたかがわかるのは、『伝道年報』のフランス語版がパリで、英語版がロンドンで同時に出版されていたことです。

最初の10ページは泊の寺に幽閉され、監視がつけられ、外出もできない状況に置かれていたという訴えです。残りの5ページには、フォルカードが推測できた琉球と中国・日本との関係、行動の自由を布政官に再三願い出たこと、たまに見張りをまいて住民と接触しようとしたことなどが書かれています。

琉球は日本布教の入り口

1846年当時のフランスの思惑が『1849年の伝道年報』に掲載されたルテュルデュ師(Reverend Mr. Leturdu)の香港発1849年1月27日付の書簡に垣間見えます。ルテュルデュ師は琉球にいるフォルカード神父に合流する使命を受けてセシーユ提督率いるフランス艦隊で、1846年5月1日に琉球に到着します。その時の様子をルテュルデュ師は次のように記しています。「セシーユ提督の艦隊が琉球諸島の海域に入ると、フォルカード神父に対してフランス船が停泊地圏内に入り、救助はもうすぐだと知らせるために、21発の大砲が発射されました。神父の耳に鳴り響いたこの大砲の音ほど、人間の心に感謝の思いを起こした音楽はないと思います」。

この後、フォルカード神父は長崎に向かうセシーユ提督に同行して、1846年7月17日に琉球を出帆し、長崎での交渉後に琉球に戻る予定でしたが、航海上の問題と艦隊の食糧不足のために、琉球に寄ることができず、再び琉球の地を踏むことはありませんでした。ルテュルデュ師は2年間琉球に滞在し、その状況を記しているので、重要点を以下にまとめます。

  • セシーユ提督の目的は琉球・日本・朝鮮・中国北部を訪問することで、最初の琉球に到着すると、琉球政府と交渉して、あらゆる影響力を駆使して、信仰の自由を認めさせると約束した。
  • 現実には、我々[宣教師]が現地人と会話する自由、僧堂の中にも外にも[琉球の]軍隊を配置しないこと、我々自身が使用人を選べること、警察に尾行されず、現地人が我々に扉を閉ざさないことなどが認められた。提督は宗教については触れなかったが、現地人との関係を持つことができるようになったので、宗教への鍵も得たことになる。
  • セシーユ提督が出港するやいなや、我々はフォルカード神父が強いられた地位に落とされた。苦情を言うと、そのような譲歩はこの王国の法に反していて、全く無効だと言われた。
  • アドネット宣教師が[琉球に]到着した。彼はフォルカード神父に情報を運ぶ役割で、神父が琉球で私一人だったので、送ったのである。アドネット宣教師は1846年9月15日に琉球に着くとすぐに病気になった。航海の途中で真水を飲んだ結果、発病した。1848年7月に亡くなるまで、ずっと病気が続いていた。
  • 彼の死で、私は叫ばずにはいられなかった。「哀れな日本よ、汝がいかに試練を受けていることか! 2年間も汝の司教を奪われ、汝の救済に大きく貢献できたはずの使徒を今亡くした。今や汝の救済に尽くせるのは、ここに残る一人だけだ。その彼も生きながらえるか誰がわかろう! 王たちが共謀して謀っているのは、私の死でないとしたら、少なくとも私の離島だ。神よ、神よ! あなたは私たちを見捨てたのか? おお、マリアよ! これはあなたの島ではないのか? この島々はあなたの汚れなき心の庇護のもとにあるのではないのか? 我々がこの島から追放されるのをあなたは認めるのか? なんということか! 母なるあなたが所有する島から国外追放されるのを認めるのか! いや、いや、あなたはそれを認めないだろう」。
  • 1848年8月27日にフランスのコルベット艦が琉球に入港したので、マニラまで乗船して、そこでイギリスの蒸気船に乗って、ここ香港に到着した。我々は琉球に戻ることになるのだろうか? むしろ日本に行くべきではないか? まだ何も決まっていない。日本行きは最も危険だが、上陸できれば、不可能ではないし、日本の方が成果があると思う。神の摂理が決めることだが、イギリスかアメリカの大砲が私たちに道を開いてくれる。((注4), pp.232-241)

 ルテュルデュ師はこの後、「中国に呼び戻され、広東の牢獄で信仰の告白をして、聖なる死を遂げた」((注3), p.268)と、後年出版されたフォルカード神父の日記の編者は述べています。

フランス海軍の日本進出

  セシーユ提督は1846年7月(弘化3年6月)に長崎に来航しますが、それを指すと思われる記述が江南駐在のゴネ師(Rev. F. Gonnet)の1846年7月25日付の手紙(『1848年の伝道年報』掲載、(注5), pp.41-45)にあります。なお、「セシーユ」という読み方について、日本の文献では「セシル」と記しているものも多いのですが、セシーユ提督自身が琉球の役人に向かって、「私の名はセシーユです。(中略)この国の文字で、もっと正確に私の名を書いてもらいたいものです」と述べたと、フォルカード神父が日記に記しています((注3), p.268), p.126)。

日本に関して、ある噂が、もし本当なら、重要な噂がここで広まっています。確信を持って言われていることは、中国基地のフランス艦隊3隻がイギリスとアメリカの船数隻と共に、別のルートでこの帝国[日本]の首都に直接向かっているということです。その目的は、200年前に多くのヨーロッパ人の血が流されたことを皇帝に問責することだそうです。これはうまくいくと思いますか? この理由でも、どんな理由でも構いません。イギリスとアメリカは貿易のことを考え、フランスは騒ぐわけです(The English and the Americans are thinking of their trade, the French of making a noise)。そして彼らの手を引いて導く神は、もちろん、日本に宣教師を入れることを考えているのです。宣教師たちはその幸運な瞬間を待ち焦がれています。(p.45)

 実際にセシーユ提督率いるフランス艦隊が長崎に来航したのは、1846年7月29日(弘化3年6月6日)でした。日本側の記録によると、フランス側は3隻の艦隊に大砲数百、875人の兵士だと長崎奉行に申告した上で、日本近海でフランスの捕鯨船が難破した場合は乗組員を助け、オランダまたは中国船に引き渡すよう幕府に要望書を出しました。フランス船の水・野菜が乏しいというので、日本側が与えたところ、3日後に出帆しました(注6)

無礼な日本の対応

 この艦隊には、フォルカード神父も同行し日記に記しているので、『幕末日仏交流記—フォルカード神父の琉球日記』から要約します。フランス船に近づいた小舟から、フランス語と英語の質問状(乗組員数、武器、来航の目的について)を入れた小箱を竿の先に結び付けて差し出し、セシーユ提督が指示に従って回答を渡すと、その後長崎奉行の代表団が大勢の兵士に護衛されてやってきました。使者の主だった者たちを提督の部屋に招き入れると、横柄な態度、無礼な言葉で質問攻めにしました。その間、外に残された者たちがドアを叩き、わめき立てたので、暴力をふるわずに止めさせるのに苦労したと記して、「非常に驚いたのは、この日本人たちが、我々に対してあれほど無作法だったのに、彼らの間ではきわめて礼儀正しかったことだ」((注3), p.207)と書いています。翌30日に来た日本人たちを提督は自室に入れず、食堂のテーブルに座らせ会話が始まったと、フォルカードが会話を再現しているので、一部引用します。前日の日本側の無礼に懲りたので、フランス側は武装した番兵を置きました。

[提督]「あなた方日本人は文明人であるから、侮辱する時には、自分が何をしているのか知っている筈です。その上、停泊する前に書面で知らせたのだから、奉行は私が何者なのか知らないわけはありません。もう一度言いますが、私は小型船の船長ではなく、海軍准将です。私はあなた方の奉行と同じかあるいはそれより位の高い者で、地方長官と同じ地位にあります」

[日本側]「そちらが言うことには、理にかなっている部分もあります。そちらの地位が高いことは分かっているし、これほど高い地位の将校が今まで当地に来たことはありません」(p.211)

 日本人の下級官吏がフランス海軍提督の部屋に遠慮なく入って、上座に座ったところからフォルカード神父の「無礼な」という怒りが爆発したのが読み取れる内容で、この後も「一晩中小舟が何艘もやって来て、信じ難いほど無礼なやり方で、フリゲート艦すれすれのところで円を描いていた。士官たちは激怒し、この悪党共に発砲する許可を求めた。(中略)提督はだれよりもよく状況の深刻さを把握していたが、しかし、いかなる示威行為も許そうとはしなかった」(pp.214-215)と続きます。他国の領海内に無断で入ることも、歓迎されることも当然の権利だという認識が兵士たちも神父も同じだとわかります。

「日本の布教」(1849)

 この3年後、『1849年の伝道年報』に「日本の布教」と題した14.5ページもの長い記事((注4), pp.215-229)が掲載されます。日本の開国も間近だというので、日本がどんな国かについて、そして、日本におけるカトリック布教の歴史が書かれています。最初のページは以下のように始まっています。

 キリスト教文明がアジア全体を包囲する今、そして、中国への門を武力で開き、カトリック宣教師たちが二倍の努力をもって、モンゴルと朝鮮の奥地までも浸透した今、2世紀前に多くの聖徒と殉教者を提供した日本の占領を再開すべきか教会が調査する時かもしれない。今や希望の時が明らかにやってきた。ヨーロッパの国々の旗が日本の港の封鎖を突破するのを見る今、我が宣教師たちが日本の朝貢国であり日本に隣接している琉球まで勇敢に前哨部隊として突き進んだ今、そして教皇庁がこの危険な遠い地に司教を再び送る今、ローマが征服の想定なしには決してしない要請である。この未来の結果を予想して、やってくるであろう出来事の起源を過去の活動に遡って読者に示したい。(p.215)

 カトリックの布教が戦争用語を使って語られるいい例だと思います。日本の地理、宗教、天皇(「内裏」と呼ばれると解説)と将軍の違い、貿易に適した産業などが語られた後、日本におけるカトリックの歴史が詳細に語られています。

 この中で日本をめぐるポルトガル・スペイン・オランダの関係がどう述べられているか抄訳します。

 ポルトガル人の商人たちが宣教師と一緒に来て、日本の港に定住した。その何人かの行いは異教者[日本人]の目にキリスト教の誇りと映ったが、中には放縦な行いで日本人を驚かせたり、不忠な態度で日本人を苛立たせたりした。これら元々の原因に、さらに追加されたのが、フィリピンのスペイン植民者たちの競争である。スペインの貿易を暴力その他の方法で日本に進めようとした挙句、彼らの航海長の無謀な行為が事態を悪化させた。この男は日本の役人と複雑な問題を話していた時に、スペイン国王の権力の大きさを自慢することで日本側を脅すことができると思い、「国王は最初に野蛮国に神父を送って改宗させ、それから兵を送って征服するのだ」と言った。このような話に異教の悪意ある者たちは飛びつき、恐ろしい疑惑をひき起こした。同じ頃、オランダ印度会社が極東への事業展開を始めたところだった。その重役たちは創生期にあったプロテスタントの情熱とスペインに対する憎しみとを上手く使った。オランダはスペインの支配を振り払ったばかりで、その貿易から得られる利益を維持しようと必死だった。これはライバルの組織を崩壊させることによってしか達成しえなかった。オランダの使者が日本に到着し、真偽のほどはわからない陰謀—オランダ人の主張ではマドリードの宮廷とカトリック聖職者の間に存在する陰謀—を暴露することによって、当局の心配を助長することに努めた。この憎むべき策は二人のスペイン人信仰家を日本に引き渡すという行為に発展した。これらのスペイン人はオランダの海賊が捕獲した船で見つかった者たちで、この男たちは火あぶりにされた。しかし、いかなる国も、その国の代表者たちが犯した罪や悪行によって非難されるべきではない。(p.223)

 この解説箇所で「オランダはスペインの支配を振り払ったばかり」と書いてあるのは、スペインの支配下にあったオランダが独立したことを指すようです。1568年に信教の自由(スペインのカトリックに対して、プロテスタントを求める)などを求めて「オランダの反乱」と呼ばれる戦いが始まり、南部のスペイン王室支持のカトリックと北部の独立を求めるカルビン主義者とに分断されました。1590年代後半にはスペインの財政難、スペイン軍内の反乱や脱走でスペインがオランダを統一することが困難になり、12年の休戦を経て、1648年にオランダ共和国の独立が保証されました(注7)

 「日本の布教」と題した文章に挿入されているのが、「サン・フェリペ号事件」だと思えるのは、スペイン船の航海長の発した言葉ですが、年代も経緯も書かれていません。「サン・フェリペ号事件」は1596年10月19日にスペインの船が土佐沖に漂着し、二十六聖人殉教のきっかけになったとされています。「サン・フェリペ号事件」の真実は何だったのか探ってみたいと思います。

1 写真はアーカイブに掲載されている以下の書物からです。これが注3の日本語訳の原本のようです。
Théodore-Augustin Forcade, Le Premier Missionnaire Catholique du Japon Au XIXME siècle, Lyon, 1885.
https://archive.org/details/lepremiermissio00forcgoog
2 Annals of the Propagation of the Faith, a Periodical Collection of Letters from the Bishops and Missionaries Employed in the Missions of the Old and New World; and Of All the Documents Relating to Those Missions, and the Institution for the Propagation of the Faith, Vol.VII for the Year 1846., London, 1846. Yale University Libraryのデジタル・アーカイブのv.7-8 (1846-47)。
http://guides.library.yale.edu/c.php?g=296315&p=1976858
3 フォルカード、中島昭子・小川早百合(訳)『幕末日仏交流記—フォルカード神父の琉球日記』、中公文庫、1993
4 Annals of the Propagation of the Faith, a Periodical Collection of Letters from the Bishops and Missionaries Employed in the Missions of the Old and New World; and Of All the Documents Relating to Those Missions, and the Institution for the Propagation of the Faith, Vol.X for the Year 1849., London, 1849. この巻はV.9-10(1848−49)。
5 Annals of the Propagation of the Faith, a Periodical Collection of Letters from the Bishops and Missionaries Employed in the Missions of the Old and New World; and Of All the Documents Relating to Those Missions, and the Institution for the Propagation of the Faith, Vol.IX for the Year 1848., London, 1848. この巻はV.9-10(1848−49)。
6 フランス艦隊来航についての一連の文書が以下のサイトに掲載されているので、「来崎仏国軍艦具申書和解」弘化三年六月九日、「長崎奉行仏舩渡来始末上申書」六月十日 井戸対馬守などを「弘化三年六月」の項から参照してください。
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/yokoyama/okinawa/okcrindx.htm
7 ”Dutch Revolt (1568-1648)”, World History in Context
http://ic.galegroup.com/ic/whic/ReferenceDetailsPage/DocumentToolsPortletWindow?displayGroupName=Reference&jsid=d4d4dd5905639efc4398b55f5d47eac9&action
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