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英米に伝えられた攘夷の日本(3-3)

日本におけるキリシタン迫害の元凶とされる1596年のサン・フェリペ号事件がどう伝えられているか、同時代人の証言と、明治時代に日本で伝えられた解説を見ます。

サン・フェリペ号事件の真相は?

 「サン・フェリペ号事件」について信頼出来る記述があるか調べてみました。1951年刊の『日本におけるキリシタンの世紀 1549-1650』(The Christian Century in Japan 1549-1650, (注1))という歴史書が信頼できる証拠を示していることがわかりました。日本には信頼できる一次資料がほとんど残されておらず、著者のチャールズ・ボクサー(Charles Boxer: 1904-2000)は大英博物館やポルトガルの古文書館の第一次資料と日本を含めた先行研究を丹念に調べて、根拠をもとに経緯を述べています。

 チャールズ・ボクサー(Charles Boxer: 1904-2000)は、ヨーロッパの初期海外進出の歴史、特にアジアやブラジルにおける帝国建設の歴史の専門家として、イギリス屈指の歴史家だと『ガーディアン』紙の訃報記事(2000年5月16日「チャールズ・ボクサー:ポルトガルの行政とその暗い帝国主義の過去の歴史家」(注2))が伝えています。ボクサーは本国イギリスよりも外国でよく知られ、高く評価されていると述べられています。訃報が伝えられると、ポルトガルの文化外交によって進められた黄金時代のイメージの陰にある汚職と搾取の広大なパノラマを昔の行政文書から明らかにした学者として、ボクサーはポルトガルで賞賛されたそうです。『ニューヨーク・タイムズ』も長い訃報記事(2000年5月7日「チャールズ・ボクサー、愛と戦争のレジェンド、96歳で死す」(注3))を出し、彼の最も有名な著作の一つに『日本におけるキリシタンの世紀 1549-1650』をあげています。

 ボクサーが「サン・フェリペ号事件」についてどう記述しているか、どんな一次資料に基づいているか、第4章「イエズス会士と托鉢修道士」(Jesuits and Friars)から該当箇所を訳します。

[サン・フェリペ号]は150万シルバー・ペソ以上の価値のある積荷を載せて、7月にアカプルコに向けてマニラを出帆した。台風で航路を変更せざるを得ず、1596年10月19日に土佐の海岸沖に接近した。サン・フェリペ号事件に関するペドロ・マーティンス(Pedro Martins)司教の宣誓証言が信用できるとしたら、航海長(pilot)は船の壊滅的損傷状態にもかかわらず、長崎に向かうのがいいと提言した。しかし、司令官(スペインでは「将軍」と呼ぶ)はフアン・ポブレ修道士(Fray Juan Pobre)の説得で、この提言を退けた。ポブレは前年に日本に来ていて、秀吉が京都のフランシスコ会士たちの父のような存在だと請け負ったのである。その2日後に船は難破し、積荷と乗船者たちは困難な中、船を離れるしかなかった。その地域の大名はフレンドリーとはほど遠く、四国のさむらいは積荷のほとんどを着服した。この点ではヨーロッパのどの国でも海岸沿いの住民は同じことをしただろう。スペイン側は京都に代表団を送って、秀吉に彼らのために善処してくれるよう懇願した。

 日本在住のフランシスコ司教代理、ペドロ・バウティスタ(Pedro Bautista)は必ず成功すると希望的観測を述べただけでなく、(もしマーティンス司教が信頼できればだが)、仲介をしようというイエズス会の申し出を素っ気なく拒絶するよう、スペイン人たちをそそのかした。なぜなら、彼はすべてをうまく握っていたからだ。同じ情報源が述べるには、フランシスコ会修道士たちはあまりに不器用で、関白にとりなしてもらうためにフレンドリーな京都所司代の前田玄以法印宗久(Maeda Genni Hoin Munehisa)を使う案を同様に拒否した。彼らはその代わりに奉行で秀吉の特別調査官だった増田長盛(Masuda Nagamori)を選んだ。増田は彼らを「裏切った」。小西行長が増田にいい通訳を同行させるよう提言すると、増田は「合意に達するのが目的なら、いい舌が必要だろうが、私の目的は盗品を回収することだから、必要なのは手だけだ」とぞんざいに言い返した。これだけでもいい前兆ではなかったが、この後にやってきたのは更に悪かった。((注1), p.164)

 ボクサーが「サン・フェリペ号事件」の根拠として注で挙げているのは、大英博物館所蔵(文書番号付き)のペドロ・マーティンス司教、1596年日本航海のカピタン・モール(戦隊司令官)だったルイ・メンデス・デ・フィゲイレド(Ruy Mendes de Figueiredo)とその他の目撃者の宣誓証言書です。ペドロ・マーティンス司教はサン・フェリペ号事件の2ヶ月前の1596年8月に日本に到着したポルトガル人の最初の司祭です(注4)。到着後に秀吉に謁見し、親切にされたといいますが、秀吉は半ば冗談に「マカオに帰れ」と言ったそうです(p.163)。

 ボクサーはこの段落の後、秀吉がこの頃財政難に陥っていたこと、彼の浪費癖と朝鮮出兵がその理由であること、朝鮮戦争を更なる規模で始める必要性に迫られていたこと、前年の地震で伏見城が被害を受けていたことなどから、サン・フェリペ号の積荷が「神からの贈り物」だから押収すれば損失の埋め合わせができると主張する増田や主治医の施薬院法印[Seyakuinn Hoin施薬院全宗のことか?]の提案に耳を貸したと述べています。この後、ボクサーの以下の文が続きます。

もしイエズス会宣教師が信用できるとしたら、秀吉はしばらく没収することを躊躇した。マーティンス司祭が率直に認めているように、秀吉は外国の貿易商を優遇することに重きを置く政策の政治家であって、略奪する政治家ではなかった。また、スペインの宝船[宝を積んだ16世紀の船]を恣意的に捕らえることで、フィリピンとの貿易の可能性を危うくする気持ちは全くなかった。

 このように秀吉が躊躇している時、そして、イエズス会宣教師たちが謹んで願い出るなら押収した積荷を返すと、明らかに誠意をもって彼らに確約している時、不運な出来事が起こった。それは、増田や施薬院やその他の取り巻きの反キリスト教の考えに、秀吉の気まぐれな心の向きを変えてしまった。スペイン人の航海長、フランシスコ・デ・オランディア(Francisco de Olandia)が判断を誤って、太閤秀吉の調査官たちにスペイン王の権力を印象付けようとして、増田に向かって軽率に認めてしまったのである。スペインの海外征服は多くはキリスト教の「第五部隊」(現代の用語で)によって促進されてきたこと、征服者たちが到着する前に宣教修道師が編成されて敵国内でスパイ活動などをする「第五部隊」となってきたことを述べたのである。この見解は、仏教の僧侶たちが少なくとも1570年から、耳を貸す人には誰にでも話してきたこととぴったり一致した。いわば「馬の口」[信頼出来る第一次資料]から発されただけに、反仏教だと公言していた秀吉でさえ無視することは難しかった。この申し立ては彼が求めていたことの口実になったか、あるいは(もっとあり得る)、キリスト教が政治的脅威だと非難する増田と施薬院が正しいと決断することになった。

 いずれにしろ、彼の反応は素早く、決定的だった。彼は直ちにフランシスコ会修道士たちを、国法の違反者であり、治安の騒乱者として、長崎ではりつけを命じた。(pp.165-166)

 ボクサーの解説では、この後に1597年2月5日の26聖人殉教の決定のうち、秀吉がなぜイエズス会修道士を除外したのかが簡単に述べられています。秀吉は最初は全ての宣教師を非難リストに入れていましたが、イエズス会士たちがマカオ貿易の仲介者として、まだ必要だと考え直したと指摘しています。結局、6人のフランシスコ修道士、17人の日本人改宗者、3人のイエズス会日本人助修士を処刑したが、「最後の3人は間違って入れられてしまった」(p.166)ということです。

 次の段落でポルトガル側とスペイン側の見解の違いについて述べています。当時の行政文書や目撃者の宣誓証言書などを根拠として記述するボクサーがどう解説しているか、重要だと思える箇所を訳します。

 注意していただきたいのは、前述の部分のほとんどはポルトガルとイエズス会側の事件の説明だということだ。なぜなら、スペイン側と生き残ったフランシスコ会修道士たちは、ポルトガルが征服者としてのスペインを非難し、サン・フェリペ号の積荷を押収するよう日本側を扇動したのだと激しく主張したからである。フアン・ポブレ(Juan Pobre)修道士(目撃者でこの巨大なガレオン船に乗船していた)がはっきりと主張したのは、積荷を押収するという秀吉の決断は増田が航海長を尋問する「前」[原文強調]で、イエズス会の説明がほのめかしているように後ではないということだった。更に、イエズス会士はフランシスコ会士のために仲介してほしいと頼まれた時に断ったばかりか、処刑を取り仕切った審判をもてなすことさえしたのだと、スペイン人たちは主張した。付け加えるまでもないが、マーティンス司祭と彼の同胞たちはこれらの告発や同様の非難を正式な宣誓で否定したが、それでも、[この告発は]広く信じられ、スペインの植民地全体で繰り返されて、スペイン人とポルトガル人の間の不信感を大きく助長した。二国間の悪感情は表面化していないということでは決してなかった。(pp.166-167)

 ボクサーは何度も「もしマーティンス司教が信頼できれば」と、古文書に残されている宣誓証言の信ぴょう性を疑問視する文言を挿入しています。注では、フロイスの伝聞と基本的には同じと書いていますので、フロイス[Luís Fróis:1532 – 1597]の報告書『日本二十六聖人殉教記』(注5)から該当箇所を引用します。

この施薬院はその羨望していた悪魔に刺激されて、胸中に抱いていた悪意を表に出し、奉行がスペイン人たちの財産を没収しもち帰ったその時に、キリシタンたちを王に告訴した。その奉行も船に乗っていた人々についていろいろと悪口を言い、彼らの中には宗教を述べるという口実で密偵として修道者も派遣されていたとつけ加えた。また、悪意を持っていたので、他の事もいろいろと話した。それゆえに施薬院の告訴とこの奉行が王に伝えたことから、後述のように、この試練の火の手が揚がった。(p.37)

サン・フェリペ号事件は日本でどう伝えられたか?

 一方、ボクサーが信頼している日本の研究書『安土桃山時代史論』(1915,大正4年,(注6))では以下のように記されています。これは歴史学者・村上直次郎(1868-1966)の講演速記録です。1911(明治44)年に滋賀県大津市で日本歴史地理学会が行った講演集の一部ですから、出典は示されていませんが、明治末期にどんな講演がされていたのかを知る意味でも、長い引用をします。ボクサーは多くの日本の研究書も詳しく読んでいて、この書について「興味深い論が収められている本」と注で述べています。

千五百九十六年即ち慶長元年にイスパニヤ船が土佐の浦戸に入港しました。此船はフイリツピン諸島からメキシコへ行く途中で非常な暴風に會ひまして、到底航海を續けることが出來ない、そこで日本に避難して船を修繕し食料品其他入用な物を積込んで再び航海を續ける積りで土佐に來たのでありました。此船が浦戸に碇泊してゐた時にどう云ふ譯でありましたか、船長(或は航海長とも言ふ)が世界の地圖を開いて、さうしてイスパニヤの領土の非常に廣いことを示しまして、どうして是程澤山な領土を有つて居るかといふ問に對し、イスパニヤに於ては先づ各地に宣教師を派遣し、段々基督教徒の數が殖へるに至つて、兵士を送り信徒と相應じて其地方を占領するのであると言つたと云ふことであります。何故そんなことをいつたか、詰りイスパニヤの不利益になることは明かであるから、殆んど事實と思へない程であるが、色々な史料にさう書いてありますし、その當時に於ても實際いつたことと思はれてゐたのであります。
是より前に其船から船長以下數名を使者としまして、贈物を携へて秀吉の許へ行つて前に言ひましたやうに船を修繕し、必需品を積込む許可を得やうとしたのでありますが、今の話が傳はつた為めに秀吉の方では遂に其船を没収して了ひ、又乗込員は長崎へ送つて、マニラへ送り還へさせました。さうして其船に乗つてゐた宣教師は曩[さき]に人質として日本に留まつてゐたマニラの使者と共に捉へて、國禁に背き基督教を傳へた者として、京都大阪の町々を引廻した上、遂に長崎に送つて死刑に處しました。其人數はサン、フランシスコ派に屬するイスパニヤの僧が六人で、日本人が二十人でありました。是が政府が基督教徒を死刑に處した初めでありまして其後段々迫害が盛んになつ[ママ]のであります。前に述べましたイスパニヤの船長の言は甚だ不審には考へられますが、徳川時代になりまして日本をイスパニヤの領土とすることは最も望ましいことである、併ながら兵力を以て之を取ることは困難であるから、先づ基督教を説き、基督教が盛んになるに至らば信徒が自然とイスパニヤ國王を尊崇するやうになり、従つて日本がイスパニア國王を奉ずるに至るであらう。その為には宣教を盛んにしなければならぬと言つて、イスパニヤ政府に献策して居る宣教師が數名あります。前に船長が言つたことは誠に不謹愼に思はれますけれども、宣教師の中にも斯う云ふことを献策して居る者がある位でありますから、イスパニヤの方には斯う云ふ策略を用ひたいと思つてゐた者が随分あつたらう。又イスパニヤが國の勢力を張る為めに斯う云ふ方法を用ひたと云ふことを信ずる者は、國内にも随分あつたらうと思へるのであります。尤も前の様な献策をした宣教師等は、眞面目にさう考へてゐたのであるか、或は宣教の便宜を得る為めに、政府に説き、國王の心を動かす方便としたのであるかは分らないのであります。
浦戸に避難したサン、フェリペ號の船長の言つたことは長く禍をなして、一時基督教が默許せられてゐたのが、秀吉の時に禁ぜられましたし、徳川時代になりまして、再び宣教師が自由を得て廣く内地に入り込むやうになつたけれども、終に基督教を絶對に禁止しなければならぬやうになつたのも、主として此嫌疑によるのであります。(pp.347-349)

1 C.R. Boxer, The Christian Century in Japan 1549-1650, University of California Press, (1951)1967.
https://archive.org/details/THECHRISTIANCENTURYINJAPAN15491650CRBOXER
2 Antonio de Figueiredo, “Charles Boxer: Magisterial historiian of Portugal and its dark imperial past”, The Guardian, 16 May 2000.
https://www.theguardian.com/news/2000/may/16/guardianobituaries1
3 Douglas Martin, “Charles Boxer, a Legend in Love and War, Dies at 96”, The New York Times, May 7, 2000.
http://www.nytimes.com/2000/05/07/world/charles-boxer-a-legend-in-love-and-war-dies-at-96.html
4 Jesús López-Gay, S.J. , “Father Francesco Pasio (1554-1612) and His Ideias About the Sacerdotal Training of the Japanese”, Bulletin of Portuguese and Japanese Studies, No.3, 2001.
http://www.redalyc.org/pdf/361/36100303.pdf
5 ルイス・フロイス、結城了悟(訳)『日本二十六聖人殉教記』聖母の騎士社、1997.
6 村上直次郎「安土桃山時代の基督教」、日本歴史地理学會(編)『安土桃山時代史論』所収、仁友社、大正四年
引用部分の段落表記は原文のままです。ボクサーが直接読んだ物を知る意味で、旧仮名遣いと旧漢字はできるだけ原文通りにしました。