toggle
2016-12-04

サトウ、ミットフォードらの日本語力

 R.L.スティーヴンソンの忠臣蔵論(1883)で高く評価しているA.B.ミットフォードの『昔の日本の物語』(1871)は「四十七士」で始まっています。ミットフォードは泉岳寺を訪れた時に見せてもらった四十七士の遺品を書き写して英訳しています。訪日3年以内に日本語の文書を書き写し、英訳したというので、ミットフォードを含めた当時のイギリス公使館の通訳官や外交官の日本語学習とその日本語力について調べてみました。

サトウ、ミットフォードらの日本語力

ットフォード(A.B. Mitford: 1837〜1916)の『昔の日本の物語』(1871 (注1))には著者の名前の後に「在日本イギリス公使館二等書記官」(Second Secretary to the British Legation in Japan)と肩書きが付けられています。ミットフォードは1858年に外務省に入り、ペトログラード、北京での任務を経て、1866年10月から1869年末(1870年1月1日に日本を出帆)まで江戸に勤務し、1873年に外務省を辞職しているので(注2)、この本の出版時(明治4年)にはまだ外交官だったということです。ちなみに、彼の日本滞在を1870年までとしている論文が多いようですが、ここでは彼の死の1年前、78歳の時に出版された『回想』(Memories, 1915)の記録を典拠とします。46年以上たって、高齢になってからの回想とは言え、序に書かれているように、アーネスト・サトウ(Ernest Satow: 1843〜1929)から詳細な記録を借りて確認したそうで、この事実はサトウの『一外交官の見た明治維新 上下』(A Diplomat in Japan, 1921 (注3))の序でもサトウがミットフォードに貸したと述べていますから、信頼に足る記録です。

 サトウの『一外交官の見た明治維新』や日記を読むと、この時代の英国外交官・通訳の日本語力が卓越したものだと、よくわかります。サトウが英国公使館の通訳生として来日したのが1862年9月で、その時の彼の日本語力はゼロだったのに、2年後の1864年9月4日の日記の一部を以下のような日本語で書いています。

 この時、4カ国(イギリス・フランス・オランダ・アメリカ)連合艦隊が下関海峡の開放を実現すべく横浜から下関に向かっていて、サトウは通訳として日本語教師と共に乗っていました。日本語文の最初の部分は、「九月四ツ日 朝九時 下関ヲ志して出帆。佐(左)ハ仏国軍艦三艘、亜国(アメリカ)商船一艘、右ハ蘭ノ四艘、中ハ我国軍艦八艘、石炭商船一艘、出帆ノ頃ヨリ、飛脚軍艦コケット、姫嶋ニ倒(到)来、行力ヲ増シテ、段々追駈ケ、当艦迄来タリケリ」と始まっています。漢字はもちろん旧字体です。『薩英戦争 遠い崖—アーネスト・サトウの日記抄2』(注4)にこの部分の日記の写真が掲載されているので、彼の筆跡もわかります。

 また、来日4年半後の1867(慶応3)年3月末から4月1日にかけて、大坂城内で行われた将軍慶喜の外国公使謁見をめぐって、イギリスとフランスの理解の違いが通訳の能力に影響されている側面を萩原延壽が指摘しています(注5)。当時、日本語を解する部下を持っていなかったフランス公使ロッシュが入手できる情報が限られていたのに対し、イギリス公使パークスはサトウという有能な通訳の理解を介して、当時の日本の政治を動かしていたのは、天皇(朝廷)、将軍(幕府)、大名(雄藩)という三つの要素が存在していたと理解したのに対し、ロッシュの念頭には将軍慶喜しか存在していなかったといいます。その端的な現れが、4カ国の代表のうち、パークスだけが慶喜に対し、”His Majesty”(陛下)の使用を拒んで、”His Highness”(殿下)という呼称を用い、通訳を務めたサトウは「殿下」という言葉を避けて、「上様」と訳して、「気まずい場面が生ずるのを防いだ」そうです。

 ところが、将軍は一国を代表して外国との条約に署名できる身分ではないから、”His Majesty”とは呼べないと言ったのはサトウ自身だったというのです。慶喜の謁見の前年1866年3〜5月にかけて、サトウがJapan Timesに匿名で論説を3編投稿したとされています。その内容について、サトウ自身は『一外交官の見た明治維新』で以下のように述べています。

大君[将軍]と締結した条約が不満足なものであることを述べたてた。その条約は、外国人との貿易を大君の直轄地の住民だけに局限して、この国の大部分の人々を外国人との交渉から断ち切るものであった。そこで私は、条約の改正と日本政府の組織の改造とを求めたのである。私の提案なるものは、大君を本来の地位に引き下げて、これを大領主の一人となし、天皇を元首とする諸大名の連合体が大君に代わって支配的勢力となるべきである、というのであった。それ以来私は、現存の条約の改良と修正について、いろいろの提言をするようになった。阿波侯(訳注 蜂須賀斉裕)の家臣である沼田寅三郎という、いくらか英語を知っている私の教師に手伝ってもらって、これらを日本語に翻訳し、パンフレットの形で沼田の藩主の精読に供したところ、それが写本されて方々へ広まった。(中略)しまいには、その日本文が英人サトウの「英国策論」、すなわちイギリスの政策という表題で印刷され、大坂や京都のすべての書店で発売されるようになった。これは、勤王、佐幕の両党から、イギリス公使館の意見を代表するものと思われた。そんなことは、もちろん私の関知するところではなかった。(上、pp.197-198)

 日本の内政に関して中立であるべきだというイギリス外務省の方針に反する論説を書いたことを、『一外交官の見た明治維新』を書き始めた42歳の頃には、「はなはだ規則を無視したもので、実によろしくない行為であることは言うまでもないが、そんなことには私はほとんど無頓着だった」と書いています。1866年にサトウは23歳でした。

 サトウの研究者であるイアン・ラックストンは、サトウが論説の中で、将軍が国家元首でもないのに外国との条約に調印したことは詐欺的だと述べていると紹介しています。そして、「幕府の条約調印が外圧によって強制されたことをサトウは都合よく忘れている」、「1858年の日本では西欧のような条約締結という伝統がなかったことも無視している」、「ここには西欧の価値観を東洋のコンテクストに押し付けようという意図がある」と批判しています(注6)

 上記の引用からもわかるように、サトウたちは日本語教師を雇っていました。サトウは『一外交官の見た明治維新』の中で、度々ミットフォードの日本語力にも言及しています。

ミットフォードは、彼が以前に北京でシナ語を勉強した時のように、絶えず日本語の勉強に没頭して、著しい進歩を見た。私は、彼の役に立てようと思って、一連の文章と対話を編纂しはじめたが、これは数年後に会話篇という標題で出版された。(1867年の記述、上p.247)

ミットフォードは、この国へ来てからまだ十二か月以上たってはいなかったが、だれの助けも借りずに日本語で会話をやってのけることができた。それは、同君が語学力を有していた著しい証拠である。(下、p.84)

 サトウとミットフォードは日本各地を一緒に公用で旅していますが、そんな旅にも、それぞれの日本語教師を同道させていました。慶喜の謁見はミットフォードも随行しましたが、1868年3月26日に行われた天皇引見にはハリー・パークス公使の他にはミットフォードだけが随行しています。その理由をサトウは次のように述べています。「謁見の席に陪席を許される公使館員は、ミットフォード一人だけであるが、これは同君がイギリス本国で宮廷に伺候した経験があるからだ。山階宮がミットフォードを天皇に紹介し、天皇は彼に『苦労』という言葉をかけられる。これは意訳すると、”Good to see you”となる」(下、p.182)。翌年1869年1月5日の天皇謁見にはサトウも同席しています。

サトウの日本語学習方法

 サトウが日本語学習について詳しく記しているので、当時のイギリス公使館の人々がどうやって日本語を習得していったかがわかります。サトウは日本に到着した翌日には『会話体日本語』を仕上げたばかりのアメリカ人宣教師S.R.ブラウン師と、日本語辞書を作成中のJ.C.ヘボン博士に紹介され、公使館を説得してブラウン師から週2回の教授、日本人の教師を雇うことを認められました。もう一人日本人教師が必要でしたが、こちらは自分たちのポケットマネーで支払わなければならなかったと書いています(上、p.66)。

 ブラウン師は「鳩翁道話」という訓話集を一緒に読んでくれたので、文語の構成がわかりかけたといいます。この「鳩翁道話」はミットフォードが英訳していますので、後に紹介します。サトウの日本人教師の一人は紀州和歌山出身の医師・高岡要で、書簡文を教え、高岡が草書で短い手紙を書き、それを楷書に書き直して、その意味をサトウに説明し、サトウはその英訳文を作り、数日後に英訳文を日本語に訳し直す訓練をしたそうです(上、p.68)。書道の教師にもついたそうですが、商人用流派の「御家流」の教師を選んでしまい、維新後に「多くの大名を弟子に持ち、東京の能書家六人の中の一人に数えられていた」高斎単山に師事したが、「書道は少しも上達せず、普通の日本人ほどにも書けなかった」(上、p.69)と述べています。

 そして書簡文の訓練が実践で初めて役に立ったのが、1863(文久3)年6月に、幕府の閣老から短い書面がイギリス公使館に来た時に、忠実な訳文ができたことだと誇らしく述べています。サトウが横浜に着いたのが1862年9月7日でしたから、来日9か月目に外交文書を忠実に英訳出来たということになります。

サトウの日記・手紙の日本語

 20年後の1884年にサトウが日本人妻の武田兼と、2人の息子に会った時の様子を日記にローマ字日本語で書いています。「ヒルゴ(午後)、コドモヲミニイッタラ、フタリトモソウケンデ、オトナシクテ、メズラシイ。エイタロウ(栄太郎)ハ、イッサクネンヨリ、カクベツセイガノビナイ。チエガツイタ。ヒサキチ(久吉)、イロシロク、ワガオトウト、セオドーア(Theodore)ニヨクニタリ」(注7)

 さらに、この約30年後の1913(大正2)年に、イギリスで引退生活を送っていたサトウが武田兼に宛てた日本語の手紙が以下です。この手紙の背景として、サトウと兼の間に生まれた息子2人のうち、長男の栄太郎がアメリカに渡っていて、1908(明治11)年にアメリカ女性と結婚し、アメリカ永住が濃厚になった頃、次男の久吉(1883-1972)が植物学研究のためにイギリスに留学したという事実があります。1910(明治43)年から6年間、ロンドンのインペリアル・カレッジ・オブ・サイエンス(Imperial College of Science)、バーミンガム大学、キュー・ガーデンなどで研究を続けていました。そんな背景で、母親の兼は長男に続き、次男も海外に行ったまま帰らないのではないかと不安になったらしく、サトウに不安を訴える手紙を書き、それに対する返事が以下のサトウの手紙(1913(大正2)年5月31日付)です。尚、「即(すなはち)」以外の漢字のルビは1980年刊の単行本所収の手紙にはついていないので、サトウの手紙にもルビはなかったと思われます。21世紀の読者用に振られたルビでしょう。原文が縦書きであることを念頭にお読みください。

て久吉の儀に付、仔細御申越候趣致承知しょうちいたし候。御心配に不及およばず候。右は左の通に候。当人最初渡来のみぎり、五年間当地に修行の積に拙者と約束相成候。其終に至れば、日本に帰り、元の通り御まへさまの側に居候筈に御座候。最早三年過行き、僅に二ケ年残候。扨て此度一寸御見舞として御地に出張致し、当秋九月に又一度英国へ来り、一ケ年ロンドンの学校に修行を遂げ、夫れから半年位ドイツやフランス国に遊歴し、其後、すなはち只今から二ケ年相過候はば、終に日本へ帰着致し、御まへさまと一所に住居の筈に御座候。右の次第に候間、べつして御心痛の訳は無之と存候。何時迄もロンドンに居事無御座候。(注8)

 一方、久吉がロンドン到着後に父と会った時の様子を母に宛てた手紙(1910年5月2日付)も紹介されているので、文章の比較のために一部を引用します。「ベルをならして、戸をあけて貰つて中に入ると、御父様が出て来て下され候。兎に角自分の室に通つて衣服をきかへて、夕食をたべながら種々の話をし、其晩十一時寝ね候」(注8)
。久吉は帰国後、植物学者・民俗学者・登山家として活躍し、日本山岳会と日本自然保護協会を設立したそうです(注9)。サトウは公には兼のことも子どもがいることも認めなかったようですが、家族に対する経済的支援は続け、1884年に九段・富士見町の旧武家屋敷を家族の住まいとして購入しています。久吉は亡くなるまで、ここに住んでいたのですが、亡くなった後は法政大学が1976年に購入し、市ヶ谷キャンパス内の屋敷跡にサトウと武田兼について記した石碑を建てています(注10)

 サトウは兼宛ての手紙で「拙者」という言葉を使っていますが、久吉宛ての手紙では「私」や「おとつさん」を使っているので、兼には古くて硬い形式を使ったということでしょうか。日本語学習の初期の頃に、「拙者」を”I, the shabby one”(拙い者である私)と逐語訳したと、正直に述べています(上, p.70)。

幕末・明治初期のイギリス公使館が通訳官に求めた日本語力

 サトウは来日11年後の1874(明治7)年には後進の日本語の審査をしています。通訳生として来日した後輩が3年後に通訳官に昇格するための審査ですが、通訳官の資格に関するサトウの見解を支持して、ハリー・パークス公使が「領事部門に勤務する館員に期待するのは、日本語を徹底的に勉強することである。日本語の知識が話すことと、読むことに限られ、日本の文字を書き、それを使って文章を作ることができなければ、徹底的に勉強したとは到底言えない」(注11)と注文をつけたそうです。この審査でサトウが課したのは、以下の内容です。

英文和訳:
パークスがイギリス外務省本省に送った報告書(ヘボンの明治5年刊『和英語林集成』、宝永4年刊『真艸字引大成』の使用可)、日本語筆跡の巧拙も審査対象
和文英訳:
1.副島種臣(1828-1905)外務卿のパークス宛公文書(辞書使用可)
2.『日新真日誌』掲載の投書5通。1通は副島らの民撰議院設立建白書の批判(辞書及び日本語教師の助けも可)
この他の英文和訳・和文英訳問題用のテキスト:
サトウ著明治6年刊『会話篇』、加藤弘之著明治2年刊『交易問答』、尾崎雅嘉著天保4年刊『百人一首一夕話』、間宮林蔵述安政2年刊『北蝦夷図説』、日本語公文書
日本語口述筆記、日本の政治体制・歴史・地理についての質問、会話

 サトウやミットフォードと同じく、日本語ゼロで来日していた後輩通訳生に3年後にこれほどの日本語力を要求するとは驚きです。4人の通訳生が昇格審査を受けようとしましたが、1人は日本語が書けないために受験を断念し、審査を受けた3人のうち合格したのは1人だけでした。不合格者2人に関するサトウの講評は「両氏が日本語の勉強をはじめてから、すでに三年が経過していることを考えると、普通の程度の勤勉さを持ち合わせていれば、両氏は容易に審査の基準に到達できたはずである」と厳しいものでした。

 試験問題用テキストの一つ、『百人一首一夕話』は百人一首の江戸時代の解説書で、実物のデジタル版が国文学研究資料館サイトから見ることができます(注12)。イギリスの若者が来日3年でこんなものを読まされ、英訳させられたのかと驚嘆します。『日新真日誌』というのは、イギリス人J.R.ブラック(John Reddie Black: 1826-1880)が1872年に創刊した新聞です。「副島らの民撰議院設立建白書」は板垣退助・後藤象二郎・副島種臣・江藤新平らが1874(明治7)年1月17日に左院に提出し、「板垣らは、翌日、新聞『日新真事誌』に建白書の内容を公表し、大きな反響を得ました。建白書では、政府の有司専制が政治危機を招いているとして、『天下の公儀を張る』ために民撰議院を設置すべきであると主張しています」と国立公文書館(注13)が解説しています。

 ミットフォードは「四十七士」の中で、自分が訪れた泉岳寺と義士の墓について述べてから、彼と友人が特別に許可を受けて、蔵の中に保存されている遺品を見たことを臨場感たっぷりに書いています。遺品の中にあった文書が「興味深かったので、その写しをするために休暇を願い出た」と述べて、詳細な訳を記しています。

印刷ページを開く

   [ + ]

1. A.B. Mitford, Tales of Old Japan(1871). インターネット・アーカイブ掲載のものは1883年の新版です。
https://archive.org/details/cu31924023513595
2. Lord Redesdale(ミットフォードの爵名), Memories, vol.1 (1915), Hutchinson & Co. 初版は1915年のようですが、インターネット・アーカイブ掲載の版は1916年発行の第9版。
https://archive.org/details/cu31924024873170
vol.2:https://archive.org/details/cu31924071237816
3. Ernest Satow, A Diplomat in Japan, J.B. Lippincott Company, 1921
https://archive.org/details/adiplomatinjapa00satogoog
(日本語訳『一外交官の見た明治維新』上下巻、坂田精一訳、岩波文庫、1960)
4. 萩原延壽『薩英戦争 遠い崖—アーネスト・サトウ日記抄2』朝日文庫、2007, p.175.
5. 萩原延壽『外国交際 遠い崖—アーネスト・サトウ日記抄5』朝日文庫, 2007, pp.12-13.
6. Ian Ruxton, “Ernest Satow, British Policy and the Meiji Restoration”, 『九州工業大学研究報告 人文・社会科学』45号, 1997-03, pp.33-41.
https://ds.lib.kyutech.ac.jp/dspace/handle/10228/3545
7. 萩原延壽『離日 遠い崖—アーネスト・サトウ日記抄14』朝日文庫,2008,p.340.
8. 萩原延壽『旅立ち 遠い崖—アーネスト・サトウ日記抄1』朝日文庫, 2007, pp.80-81.
9. 「武田久吉(1883-1972) 植物学者、民俗学者、登山家」北海道大学山岳部・山の会HP http://aach.ees.hokudai.ac.jp/xc/modules/Center/Review/syowa3/syokubutu.html
10. 「法政大学市ヶ谷キャンパス内史跡 アーネスト・サトウゆかりの屋敷跡と市ヶ谷キャンパス」2011年10月27日
http://www.hosei.ac.jp/gaiyo/daigaku_shi/museum/2011/111026.html
11. 萩原延壽『北京交渉 遠い崖—アーネスト・サトウ日記抄11』朝日文庫,2008,pp.158-162.
12. 国文研データセット「百人一首一夕話 天保4(1833)年刊」
http://www2.dhii.jp/nijl_opendata/NIJL0047/110_0145/
13. 「13.民撰議院設立建白書」国立公文書館常設展HP
http://www.archives.go.jp/exhibition/jousetsu_19_2_details.html

http://repo.lib.hosei.ac.jp/handle/10114/7345
http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/7345/1/58-4oku.pdf

http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/7953/1/59-4oku.pdf