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英米に伝えられた攘夷の日本(3-4)

サン・フェリペ号事件の背景にあった、日本をめぐるポルトガルとスペイン、イエズス会士とフランシスコ会士などの托鉢修道士との確執を見ます。

イエズス会の特色

 前節でサン・フェリペ号事件に関する証言などから、日本をめぐるポルトガルとスペイン、イエズス会士とフランシスコ会士との覇権争いのようなものが見えてきました。ボクサーがサン・フェリペ号事件を紹介している第4章の題名「イエズス会士と托鉢修道士」(Jesuits and Friars)にボクサーの主眼点が表されているようです。私自身、イエズス会士と托鉢修道士がどう違うのか知らなかったので、まずボクサーが指摘するイエズス会の特色について解説していることを拾ってみます。

  • フランシスコ・ザビエル[1506-1552]が薩摩に到着した1549年は、イエズス会が設立されてから10年に満たなかった。彼の友人であり同胞であるイグナチオ・ロヨラ[1491-1556]が1540年に設立したイエズス会憲章には、「ロヨラの軍隊的本能と軍隊訓練の影響が明らか」に表れ、会は最初からその軍隊的性格を反映していた。会のメンバーには厳しい規律と盲目的服従が基本的徳として教え込まれ、この組織全体が軍人精神を反映していた(第二章「イエズス会のメガネを通してみた日本」、(注1), pp.45-46)。
  • イエズス会より古い托鉢修道士教団(ベネディクト会、ドミニコ会、フランシスコ会など)は、明確に民主的で共和的傾向があった。修道院長などは評決、任期は限定的で、その権限も制限されており、総会も頻繁に開かれた。一方、イエズス会の「総長」[ボクサーは英語名Generalを強調し、この名称が軍隊用語の大将であることを指摘]は名実ともに最高司令官である。選挙はされるが、任期は終身制で、あらゆることに歯止めのない権力を行使することができた。戦時中の軍隊で最高司令官が部下の任命も解任も自由にできるように、イエズス会の総長も好き勝手にどんなポストの任命、解任もできた(p.46)。
  • ポルトガルのイエズス会が1540年に、ゴアが1542年、日本が1549年、中国が1583年に設立された。ローマにいる総長はこれらの支部の管理のために、定期的に特任巡察師(specially appointed visitors)を送り、極秘報告書を書かせて、個人の管理まで徹底して行っていた。この「戦う教会」(Church Militant)の新たな、よく組織化された支部がプロテスタントの進出を止めたのも不思議ではない(p.48)。
  • 日本でイエズス会が初期の頃に成功した理由の一つは、十字架の兵士たちの訓練と、武士道のスパルタ教育で育ったサムライとの間にある類似かもしれない。類似点を強調しすぎることはいけないが、[例えば]イエズス会では神意にのみ従って行動するために、世俗的執着から解き放たれた心を持つことが最重要であり、サムライは藩主のためにすべてを犠牲にすることに満足している(p.48)。
  • ヴァリニャーノ[Alessandro Valignano: 1539-1606, 巡察師]の報告書と、それに対してローマがどう反応したかを概観すると、一つの事実が明確になる。日本におけるキリスト教は最初から最後まで、あらゆる時期において、マカオからの「巨大船」(注2)に頼っていた。イエズス会士が日本に来たのも「巨大船」だったし、将来性のあるこの地で彼らの布教活動を支えたのも、船の積荷の販売から得た分け前だった。敵対的、あるいは無関心な大名たちがイエズス会士を迎えて、家来に布教するのを許したのも、巨大船に対する野心からだった。イエズス会士を追い出してしまったら、巨大船が来なくなるという恐れから、秀吉も家康も、宣教師追放の間際に何度も躊躇した。つまり、巨大船が日本布教の頼みの綱で、二者の緊密な関係は、一方が消えれば、もう一方が事実上崩壊するというものだった(p.104)。
  • ヴァリニャーノの1592年の報告書には、日本のイエズス会士の苦難の一つについて説明されている。多くの大名がイエズス会士に金塊ブローカーになってほしいとしつこく懇願した。1570年頃には中国と日本の間の金銀の異なる比率によって、日本から銀を中国に送り、中国で金を買うことで利益が得られることがわかったからである。ヴァリニャーノによると、この悪質な行為は最初、大村や有馬のようなキリシタンの小大名が、銀を少量中国に送って、金に換えるという小規模で始まったという。パードレ[神父]たちはいやおうなく仲介役をさせられ、キリシタン大名たちに恩を売るということで反対は起きなかった。豊後の大友宗麟は同じ行為を大規模にして、1578年に改宗するまでに年間3,000ダカット金の資本に達していた。これらの行為の結果、キリシタン大名だけでなく、異教徒の大名までがパードレたちに広東・マカオ・長崎間の金塊ブローカーとして手伝ってくれと、絶えずしつこくせがんだ(pp.111-112)。

ヴァリニャーノは映画『沈黙』(マーティン・スコセッシ監督、2016)の最初に登場しています。

イエズス会士と托鉢修道士との確執

 ボクサーはヴァリニャーノが日本をよく理解した人物として、彼の報告書を信頼しているようです。「力のあるイタリア人イエズス会士、ヴァリニャーノは遠回しにものを言う人物ではなく、最初の来日の時から、フィリピンのスペイン人托鉢修道士の存在が今後混乱を招くことになるという不信感を表明していた」(p.155)と書いています。キリスト教にしろ、仏教にしろ、各宗派/教団間の確執は歴史を通じて見られるが、キリスト教の記録は仏教よりも「ずっと黒い」(p.154)と評しています。たとえば、イエズス会が托鉢修道士を非難し軽蔑する時に使う「キチガイ托鉢修道士」(crazy friars)という語を紹介して、「この軽蔑的あだ名にどの程度正当性があるかは、以下に要約するヴァリニャーノとセルケイラ[Luis Cerqueira:1552-1614,イエズス会日本司教]の報告を読み、補遺IIIに掲載しているフランシスコ会士のヴァージョンを公正に比べて、読者自ら判断することができる」(p.155)と述べています。以下にボクサーの解説をまとめます。

 ポルトガルとスペインの関係については、1580年に両国がフェリペ2世のもとに同君連合王国として統一されたが、この二つの植民地帝国は従来通り別々に統治され、完全に独立していた。さらに、スペイン君主が認めたのは、東洋におけるポルトガルの宗教的特権で、カトリック教皇の勅書でも保証しているが、ポルトガル国王がアジアにおける布教活動の唯一の監督権を持つことだった。

 しかし、スペインが1575年にルソンを征服してから、マニラにあった托鉢修道士教団は中国大陸の福建と広東にも足場を伸ばそうと試みた。この試みは中国が非協力的対応で失敗したが、托鉢修道士たちがポルトガルの布教保護権を無視する対応を示すものだった。したがって、スペイン人がやがて中国から日本に布教先を変えるだろうというヴァリニャーノの予想には理由があった。ポルトガルとスペインの政治的経済的ライバル関係は、マカオのポルトガルが素晴らしい富をもたらす中国—日本貿易を独占していることを、当然ながらスペインが嫌うことによって生まれており(p.156)、それが教団の嫉妬を悪化させていた。イエズス会が長崎で貿易船と協力していたため、托鉢修道士たちもマニラの貿易商を通して日本に足場を作りたいと思ったのである。

 このように、ポルトガルとスペインの貿易商人と聖職者が協力し、ポルトガルとイエズス会士が、侵入しようとするスペイン人と托鉢修道士を入れまいと努力する一方、「征服者と托鉢修道士(conquistadores and frailes)」は同じく[日本に]入ろうと決意していた。

イエズス会—ポルトガルの日本独占の理由

 イエズス会以外の教団が日本に入るとなぜ不都合なのかをヴァリニャーノが1583年のセミナリオで長々と述べていると、ボクサーが要点を紹介していますので(pp.156-159)、抄訳します。

  1. 日本でイエズス会が成功した主な理由の一つは、仏教が数多くの宗派に別れたために仏教が崩壊したと多くの日本人が感じていたところに、イエズス会の教えが統一されていることが神性な起源だと印象付けられたことである。もし托鉢修道士が入ってきたら、この印象が破壊される。なぜなら、様々な教団の僧衣や習慣が多様なため、名目上は一人の最高神と一つの聖書だというキリスト教も、現実には仏教のように多くの異なる小派で構成されていると信じてしまう。
  2. キャプション:二人の托鉢修道士と一人のイエズス会士(注3)

  3. ヴァリニャーノはメキシコやフィリピンから来る托鉢修道士は、半野蛮のアステカ人やフィリピンの新改宗者に使った征服者的方法に慣れていることを念頭に置いていたようだ。ヴァリニャーノは次のように述べている。「日本は外国人が支配できる国ではない。日本人は外国人による支配を許すような弱いバカな人種ではない。スペイン王はこの国で権力や司法権を持ってもいないし、決して持つこともできない」、「日本ではすべてにおいて日本のやり方に従わなければならない」。
  4. もし托鉢修道士が大勢日本に入ってきたら、財政支援はあるのだろうか。托鉢修道士教団はその地の慈善によってまかなわれるべきだという提案をヴァリニャーノは非難し、日本は貧しい国で、もし托鉢修道士たちが強行しようとすれば、ヨーロッパの宣教師たちは伝道の名のもとに、実は生活費を得るために日本に来るのだという仏教僧たちの批判を強めることになる。王も教皇も托鉢修道士たちを維持するための巨額の追加費用を払うとは期待できない。
  5. ヴァリニャーノの最後の理由は最も興味深い。この後に起こる展開を考えると、予言しているようだ。ヴァリニャーノはこう述べている。「日本の多くの大名たちは我々イエズス会士が日本で何か悪巧みをしていると酷く恐れている。自分の領土でキリスト教改宗を許可すれば、その改宗者たちを使って、イエズス会士を支援しているスペイン王のために立ち上がって反乱を起こすのではないかというのだ。布教した国を占領するという最終目的がなければ、[ポルトガルとスペインの]王たちがなぜ布教に巨額を費やすのか[日本人は]理解できない。数人の大名が多くの機会にこのことをあからさまに言った。なぜなら、仏教僧が我々に反対する申し立ての主要な点がこれだからだ。スペインとポルトガル王国が統一されたことを知った今、新たな外国の宗教が入ることによって、この疑惑はさらに強まり、我々とこの地のキリシタンに簡単に危害を加える気になるかもしれない」。

 これらの理由をあげて、ヴァリニャーノはローマのイエズス会長に、托鉢修道士を日本に入れないよう、教皇の勅書を求めるよう依頼し、教皇もフェリペ国王も同意します。しかし、スペイン国王が国民の利益を犠牲にしてポルトガルをなだめたにもかかわらず、現実にはイエズス会と托鉢修道士との闘いは始まったばかりでした。托鉢修道士たちは教皇の声明は間違った情報と隠謀によって出されたと主張して、声明を無視し、マニラの非キリスト教当局も、マカオのポルトガル人に対する政治的経済的妬みから、托鉢修道士たちを支持しました。

フランシスコ会士の暴挙

 1590年以前はフランシスコ会士が2,3人日本に上陸しただけですが、イエズス会—ポルトガルの日本独占を破る機会が1592年に起こります。いろいろな経緯を経て、スペイン当局がドミニコ会托鉢修道士、フアン・コボ[Juan Cobo: 1546-1592]を使節として日本に送ります。彼は1592年6月に薩摩に上陸し、ペルー商人と一緒に肥後の名護屋に向かいます。この商人は長崎のポルトガル商人コミュニティに搾取されている(彼自身の言)と不満を持っていました。長崎のポルトガル人に対する、二人のスペイン人の不満は快く受け入れられませんでしたが、秀吉はコボに命じて、スペイン植民地帝国の位置と広がり方について、地球儀を使って説明させました。ボクサーは「この4年後に起こったことを考えると、これは重要な出来事だ」とコメントを挿入しています。このドミニコ会士はフィリピン総督への返書を持たされて返されますが、マニラに戻る途中に難破し、フォルモサ(台湾)の首狩り族の手で死にます。

 2回目の外交団が、フランシスコ会のペドロ・バウティスタ(Pedro Bautista)に率いられ、3人の仲間と共に、1593年に秀吉に丁重に迎えられます。秀吉が迎え入れた理由はこのスペイン人たちが将来ポルトガルの貿易競争相手になると見たからです。そうすれば、望んでいた中国の絹と金を、マカオに独占されている長崎貿易に払っていた値段より安い値段で手に入れることができると思ったからです。そこで秀吉は4人のフランシスコ会士に京都滞在を認め、マカオからの「巨大船」で行われる貿易の一味とみなされているイエズス会士と同じく、マニラの貿易商をおびき寄せる餌になることを期待しました。

 フランシスコ会士は秀吉の応対を額面通りに受け取り、大喜びして、ミサを公開して、まるでローマにいるかのように振る舞い、キリスト教が禁止されている国にいることを無視しました。イエズス会士たちも、キリスト教に好意的な日本の役人たちも驚愕し、托鉢修道士たちに何度となく忠告しました。日本ではイエズス会士がするように、仏教僧の格好をし、無謀な行いを慎むようにと。托鉢修道士たちは笑い飛ばし、イエズス会士が変装して布教をするのは卑怯だと責めました。

 ボクサーによると、当時のフランシスコ会士はメキシコ、ペルー、フィリピン、ポルトガル領ブラジルで成功した方法を採用しただけで、これらの国の文化、信仰、迷信などは無視して布教できたからです。ボクサーは以下のように述べています。「このような極端な方法を、日本・中国・ヒンドスタン[インド北部]のような古い、多くの点でヨーロッパよりも優れている文化の国々の住民に適用したら失敗するのは目に見えていた。イエズス会士たちはフランシスコ会士やドミニコ会士よりもずっと早くこの事実を認識していた」(p.162)。フランシスコ会士の中にはこの見解を持つ者もいて、この理由からフランシスコ会が改宗の対象としていたのは「無知な忘れられた」(p.163)下層階級だったのです。一方、イエズス会は上層階級に焦点を当て、彼らが改宗すれば、下層階級にも及ぶと考えたのです。

 キリスト教布教に対する秀吉の寛容な態度が、スペイン人貿易商から得られる利益を見込んでいるためだと、スペイン人托鉢修道士たちが理解せず、こんな時にガレオン船「サン・フェリペ号」が四国沖で難破したことから、一連の出来事が起こり、それはヴァリニャーノが10年前に予言していたことが正しかったことを示していると、ボクサーは指摘しています。

1 C.R. Boxer, The Christian Century in Japan 1549-1650, University of California Press, (1951)1967.
https://archive.org/details/THECHRISTIANCENTURYINJAPAN15491650CRBOXER
2 ボクサーはGreat Shipと表記し、具体的にはキャラック船やガレオン船を意味しているようですが、日本ではこの時代から「黒船」と呼ばれていたと述べています。
3 この挿絵の出典について、ボクサーは「序」で「マーク・ディンリー(Mark Dinely)氏のアルバムから」としています。