- アンドリュー・ラングへの窓 - https://www.andrewlangessays.com -

英米に伝えられた攘夷の日本(4-7)

「日本、そしてロシアの戦争」の情報源として、『ブリタニカ百科事典』(1842)掲載の「JAPAN」の内容を紹介します。

1842年刊『ブリタニカ百科事典』の日本に関する情報

 『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の巻頭記事「日本、そしてロシアの戦争」(1854年4月8日号、4-5参照)の情報源は何でしょうか。最初に思いつくのは百科事典です。1854年の記者が参考にできる『ブリタニカ百科事典』の最新版は1842年刊第7版第12巻掲載の「JAPAN」です。13ページもの長い詳細な情報が掲載されています((注1), pp.510-522)。内容のほとんどはケンペル(Engelbert Kaempfer: 1651-1716)の英訳版『日本の歴史』(The History of Japan, 1727)から引用されています。ケンペルは1690(元禄3)〜1692(元禄5)年の間オランダ商館の医師として日本に滞在したので、150年前の日本ということになります。

 その他の出典は、スウェーデン人植物学者のツンベルク(Carl Peter Thunberg: 1743-1828)で、同じくオランダ商館の医師として1775(安永4)〜1776(安永5)年日本に滞在し、『ツンベルク日本紀行』(Voyages de C.P. Thunberg au Japon, 1796)を出していますが、英訳はされていないようです。出典として1842年に最も近いものは、『トーマス・スタンフォード・ラッフルズ卿の人生と公職の回顧録——特に1811〜1816年のジャワ政府と1817〜1824年のベンクレーン[ブンクル]の植民地政府における公職と、東群島の商業と資源に関する詳細および、書簡選集——』(1830)からの引用です。ラッフルズ(Thomas Stamford Raffles: 1781-1826)は大英帝国の東アジア進出の立役者であり、シンガポールを植民地化した創始者とされています(注2)。彼が英領ジャワの知事だった1812年に日本との通商の可能性を探りに使節を日本に送ります。その報告が『ブリタニカ百科事典』に引用されています。

 同時期に日本進出を狙っていたロシアの使節、クルーゼンシュテルン(Adam Johann von Krusenstern: 1770-1846)の『世界周航記:1803, 1804, 1805, 1806年』(英訳1813)、ゴローニン(英語表記はVasilii GolovninまたはVasily Golownin: 1776-1831)の『日本幽囚記——1811, 1812, 1813年——及び日本と日本人の観察、リコルド艦長による日本沿岸航海とゴローニン艦長と仲間たちの救出のための日本との交渉記録』(英訳1818)などからも引用しています。

日本は金・銀・銅の宝庫

 『ブリタニカ百科事典』(1842)から「日本、そしてロシアの戦争」の内容に該当しそうな情報を拾って紹介抄訳します。「広大で強力な日本帝国はアジアの東海岸上の幾つかの島から構成されている」と始まり、地理、動植物、気候、産物、政治形態、海外との交流、鎖国政策に至った経緯、今後の展望という内容です。「日本、そしてロシアの戦争」の中で「蜜」という比喩を使っていた日本貿易の魅力は、貴金属が豊かな国という記述に該当します。金・銀・銅以外の金属についても述べられていますが、産地まで記述しているのはこの3種類の金属だけです。

 日本は金属が豊かな国である。(中略)金は帝国の幾つかの地域で見つかり、金鉱から精錬されたり、幾つかの川の砂から集められたり、また銅と混ざって見つかったりする。最も豊富で質の高い金鉱は日本(Niphon)の本島の北の地方に存在する。ここには非常にいい砂金も存在し、ここの領主は自分のために砂金を集めさせている。次に駿河の金鉱は最も豊富だと言われている。ここでは掘り出された銅の中に金が混ざっている。他にも生産性のある金鉱が存在し、採掘労働が報われるだろう。しかし、その幾つかは湧水が多く、排水方法を教えられていない現地人は排水処理方法を知らない。

 銀は他の地域で見つかっている。特に北部地域のKattamiという所で採掘できるが、金ほどの量はない。日本貿易にとって最重要で、最も豊富な金属は銅である。帝国の異なる地域に埋蔵量の非常に多い銅山がある。駿河ではAtsingo、そしてKijnokuni。後者の銅山の銅が世界中で最も良質で、可鍛性が高く、細工がしやすい。場所によっては前述のように、大量の金を含んでいる。この精錬に関して、日本は大きく進歩した。全ての銅が堺(Saccai)という帝国の5大都市の一つに集められ、そこで精錬され、小さな円筒に鋳られる。これは四角い箱に詰められて、オランダ人に高い値で売られる。銅は日本の主要輸出品である。(p.512)

著者によって異なる日本人観

 『ブリタニカ百科事典』の「JAPAN」の筆者が誰か分かりませんが、過去150年間に日本に滞在したヨーロッパ人の記した日本人観が人によって異なることをさりげなく述べています。最新の訪問者はラッフルズが日本視察に送ったエインズリー(Dr Ainslie)という人で、彼の1812年の日本人観は「神経質(nervous)、活気あふれる人々で、その肉体的、知的活力はアジア人より、ずっとヨーロッパ人に近い」(p.515)というものでした。一方、ツンベルクが1775〜1776年に見た日本人は以下のように記されていると紹介しています。『ブリタニカ百科事典』の筆者のコメントも含まれているかもしれませんが、該当箇所を抄訳します。

ツンベルクは日本人を質素、器用、慎重、公正、フレンドリーと述べているが、恨んでいる時の日本人は、疑い深く、迷信深く、自尊心が強く、執念深いという。傷つけられたことを決して許さないが、その憎しみを用心深く隠し、相手の心臓に一突きする機会を忍耐強く待つ。この根深い怨恨は全ての野蛮国家に共通の特徴だ。だから、我々が耳にする彼らの間の抗争は世代から世代に引き継がれていく。この復讐の精神は自尊心と、日本人が抜きん出ている尊大な名誉心から起こる。ツンベルクはこの特異な人々の性質を描く際に、日本の進歩状況とは一致しない性質が原因だとしているように見える。彼は自由を好むこと、放縦に堕落する種類の自由ではない自由を日本人が熱望しているという。しかし、日本人には自由はなく、残酷な法律に縛られ、気まぐれな暴君の慈悲に国民の生命と財産が委ねられている。これほど堕落した社会に自由を愛する気持ちなど存在しない。この気持ちは洗練された人々の間でのみ花開き、それは権力の暴力に立ち向かう平等な法律によって守られるものである。(p.515)

 日本女性についても、エインズリーは「中国やその他のアジアの国々と違って、[日本の]女性は家庭に閉じ込められていない。ヨーロッパの女性と同じように外に出て、社会と自由に交わる」(p.515)と述べていると紹介しています。一方、出典は明らかにされていませんが、日本の結婚式について紹介するくだりで、日本人の性行動についての文脈で「純潔とはほど遠い。女性の多くはヨーロッパ人その他と一時期暮らし、売春の賃金を受け取る。その後、彼らの性質を十分に知った上で、いい結婚をするのである」(p.516)と書いています。

日本転覆計画という噂

 「日本、そしてロシアの戦争」で、日本を侵略すれば「侵略者に味方する大きな陽動作戦が起こることは疑いない」と述べていますが、その根拠が『ブリタニカ百科事典』に見られるかのヒントになるのが以下の記述です。キリシタン迫害について詳述した後に、以下の内容が続きます。

ケンペルの主張によると、ポルトガル人がオランダ人の性質を中傷するために、酷い悪意に満ちた話をこしらえた。オランダ人が反乱者と海賊の代表であり、信用するに足らない人々だというのである。オランダ人の方も同じ策略に頼り、成功した。オランダ人が拿捕したポルトガル船の中で、オランダ人が発見したのはポルトガル王に宛てた手紙だったと述べられている。それは日本人でキリスト教改宗者のMoro船長という人物が書いたもので、[日本の]現政権を倒す陰謀計画が含まれていた。オランダ人はこの貴重な発見から利益を得ようとすぐに動いた。直ちに日本当局にこの手紙を知らせた。モロ船長は逮捕され、懸命な無実の主張にもかかわらず、火あぶりの刑に処せられた。ポルトガルの謀反の証拠として押収された手紙が示され、噂によると、陰謀の全容は皇帝の命と王位を狙った計画だったという。そして陰謀者たちがポルトガルから送ってほしいという船と兵士、陰謀にかかわっている日本の領主たちの名前、その他様々な項目が明らかになった。これらは大規模な反逆の証拠として受け止められた。この発見によって、1637年に即座に布告が出された。外国人とのあらゆる交流を禁止し、反する者は死罪、また、キリスト教の布教は禁じられ、こちらも厳しい処罰が伴うこと、日本人が外国人から商品を購入することも禁止となった。ポルトガル人はマカオに追放、日本列島から全ての外国が永久に締め出された。(中略)この時から日本貿易はオランダ人に限定された。(中略)この大変革がもたらされたのは、主にオランダ人の陰謀によると思われる。ポルトガル人が被った迫害が日本政府に対する策略を企てさせたのは当然かもしれない。しかし、この話全体がポルトガル人のライバルであるオランダ人の証拠に基づいている。オランダ人はポルトガル人を破滅させようと躍起になっていたので、その目的達成の方法について良心の呵責などあまり感じず、この陰謀を明らかにした結果、キリスト教信仰の撲滅の布告、虐殺と数千人のヨーロッパ人の追放がもたらされたので、最も卑劣な動機によって、これらのことが実現されたことは明らかである。(p.520)

 この後もオランダに対する非難が続きますが、実際にケンペルがどう述べているのかなど、後節で検証します。『ブリタニカ百科事典』掲載「JAPAN」の最後の段落ではロシアの日本進出の試みについて述べています。ロシアのゴローニン艦長の『日本幽囚記』から引用し、後半は「JAPAN」執筆者の意見のようです。

日本人はロシアとイギリスの東洋での支配的勢力について極端に警戒している。ロシアが北方沿岸で、イギリスがアジアの南方沿岸で確立したことについてだが、これら[日本人]の警戒心はオランダ人によって助長されていると考えられる理由が多々ある。オランダだけが日本にアクセスでき、しかも、ヨーロッパが東洋で獲得した領土に日本を加えるつもりだと、日本人に納得させているのだ。したがって、現在のところ、この特異な国の鎖国政策に変化が訪れる見込みはない。日本の排除の原理は中国より厳しい。中国は広東の自由港を通して全ての国と無差別に貿易している。ところが日本は通商の特権を1港だけ、2国だけに限っている。この2国は、もし現行の制限が撤廃されたら必要とされる程度の外国製品を日本に提供するのが自分たちの利益だとは思えないし、思わない。この点で、1814年の英蘭協定によって、ジャワをオランダに譲渡したことは深く悔やまれるべきだ。これによって、イギリスが日本と交渉する窓口が閉ざされてしまった。スタンフォード・ラッフルズ卿による[日本]列島と自由な交流と拡大した貿易を推進するという賢明で開明的な計画を挫折させてしまったのだ。

 百科事典というより、帝国・植民地主義のプロパガンダのような内容です。イギリスのジャワ島占領(1811)とオランダへの返還(1814)については、「イギリスの1811年ジャワ侵略」という視点から当時のイギリス・メディアの1側面に焦点を当てた論文「19世紀の反帝国主義:イギリスの1811年ジャワ侵略の現代的批判」(2014, (注2))を紹介します。長引くナポレオン戦争で平和を求める機運が高まっていた時に、イギリス軍とイギリス東インド会社の軍隊がジャワ島のバタビアのオランダ軍を襲い、勝利してジャワを占領します。ラッフルズがジャワの知事になったのはこの時ですが、ナポレオン戦争終結で、1814年の「英蘭協定」では1803年前の状態に戻すという意味で、ジャワをオランダに返還することになります。『ブリタニカ百科事典』は返還すべきではなかったという意見表明のようです。

 1811年のジャワ占領については、政治家・企業家はもちろん、多くのメディアも快挙と喜ぶ中、ウィリアム・コベット(William Cobbett: 1763-1835)というジャーナリスト・活動家は、ジャワ島占領がイギリスの農民や労働者のためにならない帝国主義・植民地拡張主義だと、自分が立ち上げた新聞『ポリティカル・レジスター』(Political Register)で批判を展開します。反対の理由はいろいろありますが、帝国・植民地拡張主義は関係する少数の政治家やビジネス・エリートの利益になるだけで、イギリスの一般民衆には利益にならないどころか、海外に展開する軍隊のために貧しい労働者階級が徴兵されるという不利益が大きいこと、また、当時3,000万と推測された現地のジャワの人々にとっては、イギリスはオランダの次の侵略者と受け取られ、正義と人道に反すると強く抗議しました。この論文の筆者はコベットの論が現在の世界にも当てはまると、「『ジャワ』を『イラク』に、『イギリス』を『アメリカ』に置き換えると、植民地支配の野望と帝国主義的拡張の危険に関するコベットの恐ろしい警告は不気味な予知能力として私たちの心を打つ」(p.14)と述べています。

1 Encyclopaedia Britannica or Dictionary of Arts, Sciences, and General Literature. Seventh Edition. Vol.XII. Adam and Charles Black, Edinburgh; 1842, Hathi Trust digital Library.
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=wu.89119129567
2 Farish A. Noor, “Anti-Imperialism in the 19th Century: A Contemporary Critique of the British Invasion of Java in 1811”, RSIS Working Paper, No. 279, Sept. 2014.
https://www.rsis.edu.sg/wp-content/uploads/2014/09/WP279.pdf