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英米に伝えられた攘夷の日本(4-8)

「日本、そしてロシアの戦争」(1854)という記事の背景に、ゴローニンの『日本幽囚記』が再版されたことも関係があるか探ります。

ゴローニンの『日本幽囚記』の影響

 前節では『ブリタニカ百科事典』(1842)の影響を検証しましたが、「日本、そしてロシアの戦争」(1854年4月8日)の1, 2年前に改訂再版されたゴローニンの『日本幽囚記』の影響も大きいのではないかと思えます。

 1811年に千島列島の測量をしていたロシアのディアナ号艦長ゴローニンと一行は国後島で松前藩に捉えられ、1813年に釈放されるまでを記録した本を1816年に出版します。その英訳が1818年に出版されてから、改訂版が次々と出されます。インターネット・アーカイブに掲載されているだけでも、関心の深さが分かるので、リストにしてみます。

 これらを参照する過程で、古い本の実物を図書館から提供してもらい、グーグルがコピーして世界の人が無料でアクセスできるようにしているインターネット・アーカイブやアメリカの大学図書館協同デジタルアーカイブHathiTrustの貴重さを痛感します。200年前の黄ばんだページやインクの滲みまで見えるので、200年前の人たちが読んだものをそのまま日本の片田舎で読めることは、原典にあたる意味でも、技術の進歩のありがたい側面です。

 1818年の『英国レビューとロンドン批評ジャーナル』に書評が出ていて、そこには1817年刊とされていますが、インターネット・アーカイブとHathiTrustデジタル・アーカイブに掲載されている最初のものは1818年です。この書評そのものが、当時の日本観を表していて面白いので、抄訳します。24ページもの書評です(注3)。以下のように始まっています。

19世紀以前にイギリスに伝えられた日本人観

 日本は疫病に犯されている。それは通商の自由が全くない、あるいは、政治的関係が最も遠いという病である。その日本は確実に交流するだろう。その偉大な独立国家としての存在、その海岸線の長さ、その国土と産業について、ヨーロッパは3世紀近くにわたって知らされてきた。しかし、最近の日本の歴史・状況・風俗習慣などに関するわれわれの知識の総量は限られていて、まるで彼らが他の惑星に住んでいるかのようだ。我々が日本人を見るのは遠くからしか許されておらず、それもオランダの虚偽説明を通してだけである。

 日本について尋ねると、昔の地理の本や、ポルトガルやオランダ貿易商の説明しかなかった。例えば、美の印として歯を黒く塗ること;尊敬の印として素足になること;藁製の靴を履いていること;帽子は草でできていること;ベッドも椅子もテーブルもナイフもフォークも使わず、マットの上にあぐらをかいて手で食べること;日本人は偶像崇拝者であること;宗教的皇帝と政治的皇帝がいること;日本の法律は極端に厳しいこと;彼らの気質は残酷で裏切りをする油断できないものであること;彼らはすべての外国人、特にキリスト教徒を憎んでいること;最後に彼らはオランダ人に踏絵をさせて、禁止されている宗教に無関心だと示させること;そしてこれだけでなく、その他の屈辱の代わりに、オランダ人が金・銀・銅・樟脳で取引する許可を与えていること:そのレートと条件はこの利己的で変化しない人々に最近、破滅的な損害を与えていること;これ[貴金属を指す?]が富の源だったために、儲けがなくなっても、この人々は独占を続けている。

 これらのこと、及びその他のたいして重要じゃない時のいくつかの情報が日本に関する我々の知識であり続け、そのわずかの情報でさえ、ほとんどが不正確だった。オランダ人と中国人が日本の港のうち1港で貿易する独占権を持っていた。したがって、日本人の性質や最近の取引について我々が知る唯一の方法を所有していた。オランダ人はこの問題を大きなミステリーにしてきた。彼らは海岸線の地図を隠すことさえしてきた。彼らが訪問を認められた港の描写も、住民との交流から得られた情報も隠してきた。これらの情報を伝えれば、競争になって彼らの独占が危うくなるからである(p.226)。

日本幽囚記によって覆された日本人観

 この後、この書評ではゴローニンの日本での経験を長々と紹介し、「外国人の扱いに関して、日本の歴史上の異なる時代で日本人の行動と感情に奇妙な違いを見るのは興味深い」(p.226)と述べた上で、1542年にポルトガル人が種子島に漂着した時から、1638年[と評者は記述]の鎖国令までを簡単に紹介しています。その後、「この時から現在まで、日本の沿岸には鎖国という最も厳しい制度が確立した。(Nangasakyの港だけは、金儲けという疫病に汚染されているオランダ人と中国人のための隔離病棟が解放されていた)」(p.228)と述べて、ゴローニンの経験を紹介しています。そして、評者は1810年代の日本について5点特徴を拾ってコメントしています。その1点目に以下のことを述べています。

まず、この人々[日本人]の獰猛さと残酷さについて我々が聞いてきたことは、全く根拠のないことだったようだ。あるいは、少なくとも今の世代の日本人には適用しない。[ゴローニンの]記録全体を通して、暴力や冷酷さや悪意の例はほとんど見られない。それどころか、捕虜たちはいたるところで、現地人から最高の扱い受け、同情、そして親切に遭遇した。ロシア人たちが以前、日本の海岸を略奪したので、捕らえられたロシア人を見ると、同じような敵意を持っていると疑って、報復感情をかきたてられ、ロシア人に対して勝利の表現をしても正当化されただろうが、そうではなかった。日本人がロシア人を縛り監禁するという最初に苦しみを与えたのは、単に恐怖から起こったことだ。このような予防措置をとらなければ、ロシア人の逃亡をもたらしてしまうかもしれない。この危険の心配が減少するにつれて、監禁が次第に緩められていった。不幸なことに、日本人の恐怖はあまりにも簡単に起こり、取り除かれるのがあまりにも遅い。これ以上の腰抜け(cowards)はどこにもいない。(pp.143-144)

レーナルの描写(1770)とは違って民衆は陽気で幸せそう

 第2点目にこの評者があげているのは、ゴローニンが接した民衆の描写から読み取れる点です。それが1810年代以前に伝えられていた日本人像と違うと主張しています。特に名前をあげているのは、ギヨーム=トマ・レナール(Guillaume-Thomas Raynal: 1713-1796)です。書名はあげていませんが、『東西インドにおけるヨーロッパ人の居留地と貿易の哲学的政治的歴史』(1770)内の記述を指しているようです。この人物の略歴について『エンサイクロペディア・ブリタニカ』(注4)から引用します。ちなみに、『ブリタニカ百科事典』は2012年から紙媒体を止め、デジタル化していますので『エンサイクロペディア・ブリタニカ』とします。

 レーナルはフランス革命の知的環境を築いたとされています。イエズス会の教育を受け、若い時はイエズス会士でしたが、やがて宗教生活を捨てて著述業に打ち込みます。オランダに関する歴史書(1747)とイギリス議会に関する本(1748)で有名になります。最も重要な作品は6巻からなる『両インド史』(1770)で、インドとアメリカにおけるヨーロッパの植民地を論じ、被植民者に対するヨーロッパの残酷性を非難しています。この本は非常な人気を博して、1772〜1789年の間に30版を重ねたそうです。被植民者に対するヨーロッパの残酷性が宗教的不寛容性によるという主張のせいで、1781年にローマ・カトリック教会の禁書にされ、レーナルは国外追放、彼の歴史書は焚書にされました。彼は1784年にフランスに帰国を許されますが、1790年までパリに入るのは許されませんでした。1789年に三部会(貴族・僧侶・平民)に選出されましたが、暴力に反対の彼は辞退しました。急進主義(radicalism)を非難するレーナルはイギリスの制度をモデルにした立憲君主制を呼びかけ、彼のメッセージが1791年に三部会の後身である国民会議で読み上げられます。国民会議は彼の資産を没収し、レーナルは貧困の中で死にます。尚、『東西インドにおけるヨーロッパ人の居留地と貿易の哲学的政治的歴史』というのは英訳の本の題名を拙訳したもので、原題の訳は『両インド史』です。英訳は6年後に出され、20世紀に入ってからも再版が続いていたようです。『日本幽囚記』の評者がレーナルの記述との比較を述べた箇所が以下です。

 日本人が他人に対して親切で寛容な精神を持っているという点に関して、述べておかなければならないことがある。日本の法律の流血を伴う厳格さや、政府の恣意的な性格から我々が推測したり、あるいはこれまでに言われてきたものより、日本人も日本社会も、はるかに陽気で生活に満足しているように見える。日本の村では勤勉、清潔、豊かさが支配しているようだ。町では富とそれに伴う娯楽と消費が広がっている。本当の苦しみや現実の圧政は少ないように見える。レナールその他が描いた、日本の海岸線を包む霧のように、日本人の心に絶えず垂れ込めている暗鬱さというのは、すでに晴れたのか、そもそも最初から存在していなかったのだ。(p.245)

 レナールが日本と日本人をどう描いているのか、『東西インドにおけるヨーロッパ人の居留地と貿易の哲学的政治的歴史』から該当箇所を紹介します。この第1巻(1776, (注5))で、ポルトガルとオランダの日本における貿易に関して13ページほどさいています。

 1609年に嵐によって日本の海岸に流されたオランダ人の船長が、日本の人々は彼を親切に扱ってくれたと伝えた。

 その1世紀ほど前、日本政府は変革していた。寛大な人々は暴君に激怒していた。太閤様(Taycosama)は一兵卒から大将になり、大将から皇帝になった人物で、全権力を奪い、人々のあらゆる権利を剥奪した。(中略)異端審問(inquisition、キリシタン迫害時代を指す)は公的・私的に行われたものも、市民を動揺させた。人々はお互いのスパイ、密告者、告発者、そして敵になった。(中略)その後の3世代は自分たちの血の中でのたうちまわる運命にあった。反乱者の親は禁じられた子孫を生んだ。(中略)

 この世紀を通して、日本は犯罪者でいっぱいの地下牢、あるいは処刑の場に似ていた。国民は暴君と同じぐらい残酷になった。(pp.145-146)

 この後、「1688年以降」として、唐人屋敷の描写がありますが、為政者として名前が挙げられているのは「太閤様」だけで、「暴君」による圧政が続く日本という理解のようです。鎖国の説明の後に以下が続きます。

 このように、この国の非人道的な政策は、国民性を和らげることによって温和な気性を獲得する方法を奪った。日本人はその気候のように燃えやすく、日本を取り巻く海のように落ち着きがない。日本人は自分たちの行動に与えられるべき最大限の自由度を必要としている。それは活発な貿易を推奨することによってのみ達成される。

活発な精神の日本人

 『日本幽囚記』の評者が、3点目の特徴として挙げているのが以下の点です。

 日本人は向上心と器用さと活発な精神の人々である。芸術技術において大きな進歩をしており、科学においては目覚ましいレベルに達している。しかし医学においては、最も高名な医者でも我が国の医学部の学位にふさわしいとは思えない。彼らの根本原理は、患者は大量に食べることで、食べさせればさせるほど、回復するというものだ。

 日本人の時間の計測法は不器用で複雑だし、軍事技術は非常に未熟だし、その他多くのことで我々は軽蔑と嘲りを覚えるかもしれないが、一般的な文明度と人々の獲得能力には驚かされる。日本人は皆読み書きができ、ロシアの船員たちが読み書きできないと知った時、最下層の人までもが驚いた。手紙による通信は兵卒でも社会の最も貧しい階層でも普通にしている。新年の月の祝いには、みんな遠くの友人に祝いの手紙を送る。本書の著者が言うには「日本人は非常に読書好きで、雑兵でさえ、当番中にも絶えず本を読んでいる。(中略)

 日本人の飽くなき好奇心と、好奇心を満たすために行う彼らの取るに足らない質問の数々は、彼らが得たい情報の相対的重要度を判断するための判断力欠如の証拠だというよりも、彼らが世界から完全に隔離されている表れである。日本人にとって、ロシアのあらゆることが目新しかった——捕虜たちは日本人が知らない規範によって動いている地球の一部から来たのだ——まるで別の惑星からの来訪者のように見えた。(中略)日本人の自国の軍事力とその結果に関する考えは、もちろん、他国に関する彼らの無知に比例している。スコットランドのハイランダーが昔、ルイ14世の偉業をよく聞かされたので、この王は[スコットランドの]グラントの地主と同じくらい偉大な人なのかと尋ねた。日本人も似たようなもので、自分たちの村の火事のことを世界中が聞いているに違いないと思っている。この偏見を正すには、他の人類と交流して、芸術技術や思想について相互コミュニケーションを持つ以外いい方法はない。(pp.246-247)

日本をめぐる列強の動きについて

 4番目のポイントはゴローニンの『日本幽囚記』からイギリスが学ぶことという視点で論じられています。

この本の最も重要な部分は日本の鎖国政策に緩みの兆候が見えるという点である。日本人は上層階級も下層階級も、奉行も千島の奴隷も、ロシア人に対して親切心と尊敬の念を見せていた。そしてロシア人ともっと打ち解けた交流を切望していた。それは禁断の木の実に対する彼らの切なる焦がれのようだ。したがって、新たな通商・政治関係の確立に対する唯一の障害は政府の恐怖と警戒心だけだ。しかし、この恐怖は取り除くか、他の方向に向けることができるかもしれない。日本におけるオランダの影響は、オランダがフォルモサ島(台湾)を失うことによって、ほとんどなくなった。オランダはこの海域で怖るべき存在ではなくなったのだ。(中略)ロシアは現在、権力と貿易と栄光の範囲を至る所に拡大している。ロシア軍はセーヌ川の岸に現れ、ロシア大使は今やペルシャにいて、インドとペルシャ湾への通路を達成しようとしている。彼らは現在、隣人の中国と新たな特権を求めて交渉中だ。ロシアは数々の発見の航海をしており、北極近くを見つけているし、地中海で貿易の新たな機会を探っている。そのロシアが日本の金鉱に近接していることを忘れるはずがない。(p.247)

 この後、徳川幕府の専制の方法を述べています。奉行を毎年変えることで、長期権力によって起こるよからぬ野心や反抗を抑え、家族を江戸に人質にとる参覲交代によって、幕府の権力を忘れさせずに、復讐を抑え込むこと、彼らの行動を絶えず見張り、役人を小さな過ちでも厳罰にすることなどをゴローニンの本から例をあげて解説しています。その結果、役人たちは些細なことでも江戸の許可を仰がなければならず、「下の者に対する圧政方法は彼ら自身の奴隷化のレベルにまで達している」(p.249)と述べて、以下の結論で締めくくっています。

 したがって、日本は多くの点で他のアジアの国々よりも発達しているにもかかわらず、地球上の多くの場所を汚し、低下させる独裁政治の広がりという点で、例外ではない。
 結論として述べるのは、本書の中には千島列島(我々にとって全く新しい情報)の社会情勢と貿易について非常に興味深い情報があること、カムチャッカと日本の間の海に大きな貿易が確立される可能性が噂されていることである。(p.249)

 ロシアの北極とカムチャッカへの進出については、18世紀前半にロシアがデンマーク人のベーリング(Vitus Bering: 1681-1741)に、カムチャッカからアメリカへのルートを探るよう命じ、1732年にはロシア海軍にシベリアからアメリカと日本へのルートの探検を命じます。18世紀後半には北極海の探検、北極沿岸の地図作成などがされ始め、19世紀前半に地理・水路発見の探検も行われました(注6)。イギリスもカムチャッカに注目していたようで、『ブリタニカ百科事典』の1823年版「拡大・改良版、第6版」に、「カムチャッカ」の項目が8ページ((注7), pp424-431)もあります。

書評に対する出版社の反撃

 この書評の翌年1819年にゴローニンの『日本の思い出——宗教・言語・政府・法律・日本人の生活習慣・地理・気候・人口・生産物——及び英日通商関係の始まり・終焉・再生の年代記』が出版されます。この解説「英日通商関係の始まり・終焉・再生の年代記」が1852年刊『日本及び日本人——日本幽囚記——付録:英国と日本の通商記録』につながっているので、次節で紹介します。ちなみに、1819年刊の本の巻頭に出版社から「広告」と題した上記の書評への反論が掲載されています。反論の理由は、訳者の名前も記されていないため、書評の中で「まるでゴローニン本人が英語で書いた本のようだが、これはロシア語で書かれ、ドイツ語訳[訳者名も記されています]から英訳されたものだ」と述べて、ロシア語原題もドイツ語訳の題名も記載しないことを皮肉に批判しているからです。読者を欺くとさえ述べているので、出版社が反論したのでしょうが、21世紀の目からは評者の言い分の方が納得できます。訳者名を記さないのは翻訳権という概念がなかったからなのかわかりませんが、((注7)のレナールの英訳をご覧になればわかるように、1776年出版の本には訳者名が明記されています。

1 Captain Golownin, Narrative of My Captivity in Japan, during the Years 1811, 1812 & 1813; with Observations of the Country and the People, to which is added an Account of Voyages to the Coasts of Japan, and of Negotiations with the Japanese, for the Release of the Author and his Companion, by Captain Rikord. London, Henry Colburn, 1818.
https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.93791
2 Captain Golownin, Recollections of Japan, Comprising a Particular Account of the Religion, Language, Government, Laws and the Manners of the People, with the Observations on the Geography, Climate, Population & Production of the Country, London, Henry Colburn, 1819.
https://archive.org/details/recollectionsofj00goloiala
3 ”Golownin’s Captivity in Japan”, The British Review and London Critical Journal, vol.11, No.21, 1818, pp.225-249. Hathi Trust Digital Library.
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=nyp.33433081648028;view=1up;seq=267
4 “Guillaume-thomas Raynal”, Britannica Online Encyclopedia
https://www.britannica.com/biography/Guillaume-Thomas-abbe-de-Raynal
5 Guillaume-Thomas Raynal, J. Justamond (tr.), A Philosophical and Political History of the Settlements and Trade of the Europeans in the East and West Indies, Vol.1, London, T. Cadell, 1776.
https://archive.org/details/aphilsophicalan01justgoog
6 ”Russina Northern Expedition (18th-19th centuries)”, Woods Hole Oceanographic Instituition,
http://www.whoi.edu/page.do?pid=66618
7 Encyclopedia Britannica: or a Dictionary of Arts, Sciences, and Miscellaneous Literature; Enlarged and Improved. The Sixth Edition. Vol.XI, Edinburgh, Archibald Constable and Company, 1823. Hathi Trust Digital Library.
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=nyp.33433000973341