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英米に伝えられた攘夷の日本(5-2-2)

『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』1857年1月3日号に掲載された柳亭種彦の『浮世形六枚屏風』(1821)の英訳と原作を比較します。

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』掲載の浮世形六枚屏風のストーリー

年号の最後とはいっても、大判の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(1857年1月3日)に2ページにわたって、日本の絵草紙を紹介した意図は何だったのか、どこを抜粋したのか、どんなコメントが付けられているのかを探ってみます。スネッセンの英訳を連載した『大衆とホイットのジャーナル』はこの4巻目をもって廃刊になったそうですから、購読者数が少なかったと推測できます。それでも「本作品が日本の人々の特徴、作法、考え方などを正確に伝えている」ことが紹介の理由なのかもしれません。

 では6年後にこの英訳を要約したと考えられる『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(注1)の記者はどんな思いで紹介したのでしょうか。以下に最初のコメントを抄訳します。

 今日読者諸氏に提供する本物の日本の物語の珍しさは、我々が知る限り他の物語が未だかつてヨーロッパとイギリスに届いていないという事実からも証明できる。旅行者を通して、日本帝国の一般的な民俗習慣については世界に知られるようになったが、その情報を役立てるのは主に博識な学者たちに限られていた。おそらく、この閉ざされた奇妙な国に関する情報を大衆に広める唯一の手段は、この新聞のコラムで度々提示されているイラストレーションだけだろう。

 この物語の趣旨自体が中国の物語と驚くほどの対極にあるように見える。この二つの国はその近さと位置から、ほとんど同じだと推測されるかもしれないが、この2人種の民俗と感性は似た点が全くない。読者が中国の物語の紡ぎ方や行動について思い起こせば、その違いはどの段階でも驚くほど明らかだろう。

 この後、筋の紹介に入ります。ちなみに、イタリア語訳が1872年に、フランス語訳が1875年に出ているそうですから(注2)、スネッセンの英訳も『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の記者による要約も、ずっと早いわけです。英訳に関しては、1871年に新訳が「日本の女性、みさを」という題名で雑誌『フェニックス』に掲載されていますので、最後に紹介します。まずは、スネッセンの1851年訳を『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』がどう要約しているのか、ストーリーのどの部分を採用しているのか、どんな誤解があるのか見るために、原作の各エピソードの後に、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の拙訳を付します。原文(注3)の要約にはR.T.(柳亭種彦)、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の拙訳にはI.L.N.と付して区別し、英訳の固有名詞と地名はローマ字のままにします。原文の旧漢字と旧仮名遣いは現代日本語に、会話文の旧仮名遣いは原文通りにしました。

R.T.

むかしむかし、関東の管領濱名入道の一族に、網干多門太郎員好(あぼしたもんたろうかずよし)という者ありけり。上総国半国を領し、文を好み武に長じ、名ある家来も多かりければ、勢いはおさおさ管領に劣らず、相州鎌倉小袋坂のほとりに、善美をつくしたる館をかまえ、又大潮金沢なんど所々に遊猟の亭をもうけ、いと目出度く富みさかえたり。

頃しも秋の末つかた、今を盛りの紅葉見がてら、射鳥狩せばやとて、かねてしつらえおきし大磯の下館へ赴き、日めもす遊び暮らして、はや黄昏の頃、鴫たつ沢にぞ至りける。実に「心無き身にもあはれは知られけり鴫立つ澤の秋の夕暮」と西行法師がよめりしも宜なり。はるか人家に引離れ、唯かたわらに古りたる辻堂の立てるのみ、いと物さびしき所なり。折しも遥か向こうの方に、鴫の一羽あさり居るを近習の侍、「あれあれ御覧候え、鴫立つ沢の名において、鴫の下り居るもひとしお興あり、先ず暫し此の堂にみ腰をかけられ、鴫の飛び立つを見給はば、時も秋の夕暮れなり、西行の歌のさまに少しも違ひ候まじ」と言いければ、多門太郎打笑い、「鴫立つ澤と詠みたるは、飛び立つ事にはあらず、唯何と無く下り居て、鳥の立てる様を云ふなり。斯の歌の体を描くに、鴫の飛ぶ所を描くは、返す返すもあやまりなり。あれ今あさりもやらず飛びもやらず、物寂しげに立てるこそ、鴫立つ澤とは云ふべけれ」と物語り給えども、歌道に疎き侍はよくも心得ざるにや、上の空に聞き流し、「彼の鳥の居る所までは凡そ三十間もあらん」と何気なく言い出ずるを、一人の侍聞きとがめ、「イヤ鴫と云ふのは鶉に等しき小鳥なり、斯くあざらかに見ゆるは二十間にはよも過ぎじ」と答うるに、以前の侍頭をふり、「人々のどよめく声に、恐れもやらず立てるこそ、遥かに隔たる證なれ」「イヤイヤ試みにこぶしを付け小的を射るべき心にて試し見るに、左まで遠くには覚えじ」と両人が言い募り、此の争いさらに果つべう様も見えず。時に員好が近習の侍、水間宇源太が倅同苗島之助、其の年漸く十四歳、お側去らずの小姓にて、今日もお供にありけるが、両人が前に進み出で、「先ず暫く此の争ひをやめ給へ、それがしが細矢を以て遠近を計り見るべし」と袴のそば高く取り上げ、弓に矢からりと打ちつがえ、よっぴいてひょうと放せば、矢はあやうくも鳥の背をすって蘆間に止まり、鳥は驚き飛びさりけり。多門太郎大いに怒り、「汝若輩の身を以て古老の武士を差置き、人も頼まぬでかし立て、あまつさえ鳥を射損じ、面目無くは思はずや」とさんざんにしかり給えば、島之助も其の怒り面に現れ、弓をかたえにはったと投退け、「あの矢取りて来るべし」と下部に向かい言い付けけるにぞ、何かは知らず沢に下り立ちようようにして拾い取り、件の矢を差出せば、島之助手に取り上げ、更に恐るゝ気色もなく、主人の前に進み出で、「鳥の下り居る其の所を、遠し近しと云ひ、二人が争ひ果てし無ければ、それがしが其の間を計り争論を静めんと存じ、始めより遠近を計らんとは申しつれど、鳥に射当てんとは申さず、是れ御覧候へ、それ故に征矢(そや)を用ゐず。陣頭の蟇目(ひきめ)の中へ鴫の羽を止めたれば、矢のとゞきしには疑ひも無し、東夷の荒くれしく歌の事は知らずと云へども、所も所折もをり、彼の鳥を射留めん心かつ以って候はず、如何に方々小腕と云ひ、未熟のそれがし目当はづれず、鳥の羽を蟇目に留め候こそ其の間近き證なれ」と言葉よどまず云ひ放つ。

 多門太郎はますます怒り、「おのれに道理あるにもせよ、主人に言葉を返すのみか、今投げ捨てし其の弓は我に投打なせしも同然、其のまゝに差置きなば寵愛あまって道知らぬ曲者を召使ふと、世の人口にかゝりやせん。さある時には家の瑕瑾(かきん)、切腹さすべき奴なれど、前髪あれば小児も同然、今日よりしては勘当なるぞ。其處退れよ」と、眼色変え、はったとにらみ給いければ、島之助も今更に何と返さん言葉もなく、大小差置きすごすごと、其の場をそのまゝ立ち去りけり。

此の日島之助が父宇源太は御供に加わらず、島之助は面目無くや思いけん、立帰って父に対面する事も無く、何地へか立去りけん、絶えて行方は知れざりけりとなん。

I.LN.

 物語は高官 Abosi Tamontaraがシギ狩に出かけるところから始まる。夕暮れ時に近くの沼でシギを見ると、家臣の間でその種類について議論が始まる。また、その沼が飛び立つシギの沼という、よく知られている名前にふさわしいか、あるいは、「葬式の木の沼」がふさわしいかと議論していた。主人も議論に参加したが、その間、重臣の不運な息子が羽一本だけ取ってシギだと証明しようと、矢を射る。弓矢は日本では非常に洗練された技術だが、彼の技量は不幸をもたらした。Tamontaraはこの沼に与えられた名称の不明瞭さに決着つけようと、偉そうな微笑を浮かべていたが、目下の者が彼の面前で矢を射る行為に怒り、少年が説明したにもかかわらず、追放し、父親もお役御免とする。

訳者注:スネッセン訳で西行の和歌の解釈部分に注をつけて、「原文の表現があいまいで、二つの読み方ができる。Sigo tatsu sawa(鴫が飛び上がる沼)かSiki tatsu sawa(死の木trees of Death)が立っている沼」((注4), p.113)だというのを、『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』では西行の詩の部分は削除して、注のコメントを取り上げ、「死の木」を「葬式の木」にしています。また、「父親もお役御免とする」はスネッセン訳では原文に忠実に「同じ日、Simano Sukeの父、UgendaはTamontaraのお供役から免じられていた」(On the same day, Ugenda, Simano Suke’s father, was discharged from duty as a companion of Tamontara, p.114)となっていますから、I.L.N.の記者の文(he drives the offender from his service, and dismisses his father also.)とは違います。

R.T.

此のところ発端より八年ほど立ちてのちのものがたりなり

摂州中之島の米商人、梶右衛門という者あり、年老ゆるまで一子無かりければ、或者の肝煎にて佐吉という者を養子となし、其の身は八十余歳にて身罷りぬ。梶右衛門の妻は法体して妙讃と法名し、家は佐吉にまかせおきて、寺参りのみ所爲として、更に浮世に交わらず。しかるに彼の佐吉は若きに似合わぬ律儀なる生まれにて、妙讃を真の母の如くにかしずき、家業大切と心がけ、物見遊山にさえ出でざりしが、いつか気鬱の病を引出し、次第に顔色おとろえければ、幇間とか世に云いて口がろしきおかし男、又町人風につくりたる芸子の類を呼び寄せて、佐吉が伽となしけるにぞ、薬よりは利目よく、少し心も浮き立つ様に見えたりけり。頃は如月半ばにて、野山の景色も春めき渡り、桜もやゝ咲き初めければ、「かかる折にうつらうつらと引籠りおる時は、いよいよ病重るべし、何處にもあれ立ち出でて気をはらすにしくべからず」と母妙讃の勧めにまかせ、「さあらば大和巡りに旅立ち、古き名所をも訪ねばや」とて店の事は重(おもて)手代に頼みおき、供人少々召連れそこそこに旅立ちけり。

 ここに又奈良南円堂のかたわらに、年の頃十七八とおぼしきみめよき娘、四歳ばかりの女子を連れ、柴原に出茶屋をかまえ、彼の娘は琴を弾き、女の子は行来の人に扇を差しつけ、銭をこうものあり。器量の勝れたる上に、琴の爪音気高く、歌う声もしおらしければ、話し伝え聞き伝え、つどい寄る者少なからず。あゝ、世に男女のえにしほどあやしきものは無し。中之島の佐吉は此の程奈良に来り、芝辻町という所に逗留して居たりしが、ふと琴弾の娘を見初め、人を以って尋ねさせければ、此の女は其の名をみさをと云いて、非人袖乞いの類にあらず、もと浪人の娘なれど、姉の身貧を貢がんとて、其の姉の娘小よしと云うを連れて、斯く浅ましき世渡りをばするなりと、其の行いのたゞしきを聞くに、ますます思いいやまし、かねて聞き及びたる名所古跡をば見巡らず、日毎彼の茶屋に来たり、心を付けて物など与えければ、いつと無く物云いかわし、みさをも佐吉が美男にて、然も情深きを憎からず思いながら、身の卑しきをかえりみて、云い出でんよすがも無く、互に心にのみ物思わせて、一日々々を過ごしけり。

I.LN.

 ここで幕が下り、物語は8年後の異なる事柄に移る。KadziyemonというUtsino Seniaの米商人がSakitsiを養子にして死に、未亡人は尼になる。もっと適切には信者だろう。商売一般から引退したとは言っても、まだ世俗世界で生活し、ビジネスにも家族問題にも多少は関わっているから。

Sakitsiは母を尊敬し、商売に励みすぎて病にかかった。ある程度回復すると、商売に代わるものを見つける。Yamatoに旅に出、途中で遊興世界に入ってゆく。NaraのNanyin寺の近くの茶屋に出入りする美少女と4歳の女の子がおり、姉はハープと歌で聞く者を魅了した。聴衆からの寄付を女の子は日本のエチケットに従って、扇の上で受ける。姉の魅力と会話に惹きつけられたSakitsiはハンサムな顔立ちで、少女の心を射止める。

しかし、この美少女Misawoは貧しく、優しい少女は家族の貧困からこの生活に追いやられていた。少なくとも、十分にいかがわしい生活スタイルだ。少女は自分の身分をわきまえているので佐吉に気持ちを表さなかったが、それでも二人の想いは静かに育まれていく。

R.T.

 さすがに長き春の日も、早入相の鐘の声、桜も人もちりじりに、あたりひっそと静まれば、「やれやれ大きに退屈した」と茶屋が床几を立ち出るは、是も浪華の島之内に徳若屋の才蔵とて、人に知られし置屋の亭主、みさをはそばへ立ち寄りて、「さぞお待遠でござりませう、まァまァ此方へ」と人無き小陰、才蔵は小声になり、「昨日一寸話した通り、そなたはいよいよ百両で得心して勤めてたもるか」「はい、其の金で、姉さんの姑御の大病を、思ふ様に療治がさせたさ、はてわたくしが得心でわたくしが身を売るに、誰が否と申しませう。とは云へ義理の有る兄さん、後で知れても貴方のはうへ参るまでは、先づ沙汰なし、それ故書いてお貰ひ申した此の証文へ、兄様の判はそっと盗み出して、わたしが押して置きました」と見すれば才蔵かんじ入り、「道理こそ、昨日おれに証文を書いてくれとの頼み、又と有るまい孝行娘、そのつもりで是からは大切にかけて勤めてたも。明日の朝四ツ頃に駕籠つらせて迎へに行き、其の証文と金と引替へ、それで都合はよからうかの」「有り難う御座ります。目かいの見えぬ母様へは、お屋敷へ御奉公にあがると云うて置きませう」「それも承知、切口上で侍の迎へに来たと知らせたら」「喜ばるゝで御座んしょ」と涙の顔を横にふる、心をふびんと思いながら、わざと笑いにまぎらして、「はて何にもきなきなおもやるな、しあはせ次第で玉の輿、乗物で呼屋からざゝんざ云うて出るのは今の間」「左様なら旦那様」「おむす明日」と才蔵はいそがし気にぞ別れける。

 ここに奈良般若坂に籠かきの戸平という者あり。去る年関東に下り、数村亭太夫という武士に足軽奉公していたりしが、亭太夫の妻初瀬の妹花世と密通して、花世懐胎の身と成りしかば、せん方無くや思いけん、花世を連れて出奔なし、故郷なれば此の所に逃げ上り、程無く女子出生して、是を小よしと名付け、今年四歳にぞなりにける。此の戸平に朽葉という一人の老母あり、風眼とかいう病にて一年ばかりわずらい、遂にめしいとなりければ、夫婦が嘆き大方ならず。かかる所に又珍事こそ出で来れり。関東にありける戸平が主人数村亭太夫、故ありて浪々の身となり、是ぞという世渡りも無くて一人の娘みさをというをさえ、養い難く見えければ、妻の初瀬が計らいにて、其の方にて兎も角もしつけくれよと妹の、花世が許へ娘みさをを送りけり。是亭太夫には深くつつみ、ここに隠れ住むよしを密かに姉の許へ知らせ、折ふし文を取りかわし、又姉の心を休めんと、かかる身貧の住居を知らせず、世を安く送るように、かねて云いやりし故なりけり。かの花世とみさをは伯母姪の中なれど、僅かに三ツ四ツの違い故、表向は妹と呼び、又戸平が為には現在主人の娘なり、取分け大切にいたわりつつ、日毎木辻へ通う辻駕籠をかき、身を粉にくだいて稼げども、元よりたくわえ無き上に、去年よりの母の大病、自ら家業も怠り、家内の道具も売りつくし、其の日をさえ送り兼ねるを、みさをは見るにたえかねて母は更なり夫婦の者にも、南円堂へ百日が間日参なし、百巻ずつの普門品をよむべき大願をかけたりと偽り、幼けれどかの小よしは利発なる生まれ故、彼には堅く口止めして、諸共に彼処へ行き、袖乞なしたる銭を金に替え、国元より来たる貢の金と云いなして、姉の花世にあたえけり。

I.L.N.

 茶屋の客からの寄付は家族の家計の足しにならなかった。Tofeiは以前武士(soldier)だった。兵卒でも名誉ある地位と見なされていた。しかし、仕えていた侍(military noble)の妹Fanayoと駆け落ちし、後に妻にする。やがて二人に娘Koyosiが生まれる。夫婦の負担は子供だけでなく、Tofeiの母Kutsiwaが病気で視力を失っていたことである。Tofeiの元の主人Kadaumaraは辱めを受け、財産を失い、娘を養うことができなかった。妻の勧めで、駆け落ちした妹Fanayoに一時娘を預けることにする。Fanayoからの手紙では、夫のTofeiとの暮らしが良いと思い込んだからだ。ところが、Tofeiは実は駕籠かきになっていて、貧困から家中の家具もなく、現実には自分の家族を養うにも困る状況だった。

 茶屋の客からの寄付だけでは保護者のTofei, Fanayoの足しにならないとわかり、彼らの困窮を軽減するため、心優しいMisawoはさらに思い切った手段を選んだ。自分をさらに貶める方策である。Saizoという男に自分の自由を数年間売る道を選んだのだ。

冷淡な男だったが、Saizoはこの思い切った方法を後悔する思いに逆らい、売買契約をした。金(100テール)が支払われ、Misawoの自由を譲渡する証文に署名がされた。それはSaizoが取引完結のために、茶屋にMisawoを訪れた時だった。[次は記者のコメント]このシーンは簡潔に語られているが、大きな効果を発している。実際、この物語を通して、作者による悲痛さの描写なしに、状況描写によって非常に自然な興味を高めている。

Misawoは家族の気持ちを和らげるために、本当は茶屋に行くのだが、家族安全を祈るために寺参りに行くふりをしていた。Misawoは今まで稼いだ小銭の銅貨を金に換え、それを国元からの送金と偽って渡していた。Saizoに渡さなければならない証文に伯母の署名を何とか嘘をついて書いてもらい、今またTofeiとFanayoに嘘をついて出て行くのである。

R.T.

あくれば三月三日にて、桃の節句の事なれば、小よしは早く起出でて、一ツ二ツ売残せし雛を、母の鏡台の上に並べて、余念無く遊び狂うや犬張子、口のかけたる徳利に、桃は手折りてさしながら、かかる貧しき住居には、いつ花咲の爺婆の赤本開けて片言まじり、雛に絵解きして聞かす、子供に罪は無かりけり。戸平は今日もいつもの如く、母の機嫌を伺いて、駕籠打ちかたげて出で行きければ、みさをは姉に打向い、「父さんの御本地にお立帰り遊ばされ、昔のお身にお成りなされ、又二ツには朽葉様が、眼病平癒祈りの為、南円堂へ日毎参詣、時ならぬ寒さ故か、今日はわたしは気合が悪い、どうぞお前名代に、お参りなされて下さんせ」と、頼むに花世は打頷き、「そんならわたしが行かう程に、母さんのお目がさめたら、其のお薬を上げてたも、厚着をして大切にかけ、わづらうてたもんなや。これ小よしおとなしうして、留守しませうぞ、其のかはりにはよいおみや、買うて戻るを待っていや」と、是れもとつかは出でて行く。

I.L.N

 その朝が来た。3月3日は桃の節句である。古くからの祭りで、日本中の富める者も貧しい者も祝うが、祝い方は大きく異なる。Tofeiの貧しい家庭でも儀式のようなものが行われた。小さなKoyoshiが以前のよかった時代の残り家具の中で、わずかの人形と1本の桃を供えることと、おとぎ話が唯一の儀式だった。

Tofeiはいつも通り仕事に出かけた。MisawoはFanayoに向かって言った。「私が毎日Nanyin寺にお参りに行くのは、あなたがお父様の家に戻れるよう、以前の立場に戻れるよう、Kutsiwa様の眼病が治るよう祈るためです。でも今日はいつになく寒く、気分が悪いので、私の代わりに行ってくれないか」と頼むと、Fanayoは引き受けた。「私が留守の間、母さんが目覚めたら、薬をあげておくれ。お前は暖かくして、悪化しないよう気をつけて。小よし、ママはちょっとお参りに出かけてくるから、お姉ちゃんにちゃんとして、待っておいで」と言うと、一人出て行った。

R.T.

折柄来かゝる徳若屋才蔵が差しのぞき、首尾はよいかと目で云えば、こっちへと頤[おとがい]で答えるみさを。おっと承知と才蔵が、勿体らしく咳払い、「たそ有るか案内頼む」「どうれ」とみさをがよそよそしく、手をつかえればおかしさこらえ、「拙者は塩谷判官の家来徳若才蔵と申す者、今日いよいよみさを殿お目見得に上がられて然るべく候よし、お局頭岩藤殿の、差図に依って迎への四ツ手、南無三鋲打乗物の、ひかりひかひかかがやくを、わいわいのわいとさと、かかせてわざわざ推参せり、急いで用意あられよ」と口から出次第間に合いを、

I.L.N.

  
間も無くTokuwakaからSaizoがやって来て、戸口から覗き込み、都合はいいかと合図をした。Misawoは最初に「こちらへ」と囁いた。そして大声で「はい、いいですよ」と言ったので、Saizoは咳払いをして「誰かおるか。迎えに参った」と言った。Misawoが手を叩くと、Saizoはニヤニヤしながら進み出た。「私はJenja判官の家来、Tokuwaka Saizoと申す者。Misawo様がお局頭のIwafudzi様の命に従って、お目見えする時が来た。四さお仕立ての輿を用意した。光り輝く輿で、金の肩枕がついておる。急いで用意せよ」。

1 The Illustrated London News, Vol.29. July-Dec. 1856, この最後に1857年1月3日号が含まれています。
https://archive.org/details/bub_gb_uJc0AQAAMAAJ
2 COMPILED BY FR. Von Wenckstern, A Bibliography of the Japanese Empire—Being a Classified List of all Books, Essays and Maps in European languages relating to DAI NIHON [GREAT JAPAN] Published in Europe, America and in the East from 1859-93 A.D., (フリードリヒ・フォン・ヴェンクシュルテン『大日本書史』)E. J. Brill, Leiden, 1895, pp.92-93.
https://archive.org/details/abibliographyja00palmgoog
3 柳亭種彦「浮世形六枚屏風」『近代日本文学大系』第19巻、国民図書、1929年
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1883502
4 ”THE SIX FOLDING SCREENS OF LIFE. AN ORIGINAL JAPANESE NOVEL”, People’s & Howitt’s Journal of Literature, Art, and Popular Progress, London, Willoughby & Co., 1851. 米国大学図書館協同デジタルアーカイブ、ハーティトラスト・デジタル・ライブラリー https://catalog.hathitrust.org/Record/006061835
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