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英米に伝えられた攘夷の日本(5-2-3)

柳亭種彦『浮世形六枚屏風』の主人公みさをが伯母一家を救うために身売りをする場面の原文(1821)と『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載された要約(1857)です。

R.T.(原文)

[才蔵の口上を]まことと思い母朽葉、枕屏風を押しのけて「左様ならお前さまは、ご奉公のお目見えに今からお出まし遊ばしますか」「あい姉さんや戸平殿は、かねがね承知の事なれど、お前の病気の其の中へ、心無しと思ふ故、今日まで延べて置きました」「はて訳も無い事おっしゃります。戸平といふせがれはあり、嫁と云ふは勿体なけれど、花世殿はあれ程に、孝行にして下さりますれば、何も不自由はござりませぬ。申すではなけれども、取分け貴方は大切のお体、かう云ふ所にうかうかと置き申すのは心遣ひ、一日なりとも早い方が、此の婆は却って安堵、やれやれ貴方、ご苦労さまに存じます。して判官様のお屋敷はどの辺でござりまする」と問われて、才蔵が真面目になり、「上屋敷は扇が谷、南無三それは鎌倉だ、伯州でも遠すぎる。おゝそれそれ此の程奥方花世御前病気によって、ご保養がてら八幡辺にご逗留、あの山崎の渡し場を左へ取り、判官様のお屋敷はもうここかへと、お尋ねあらば早速あい知れ申すべし」と取繕へば尚すり寄り、「わたしもあの辺へ参った事もあったれど、見も聞きもせぬ其のお屋敷、いつ頃御普請なされました」と聞かれてはっと思いながら、「イヤ昔も昔、大むかし、彌勒十年辰の年、諸神の立ったる御屋敷」「お広いことでござりませう」「広いとも広いとも、お座敷なんぞを見てあれば、綾のヘリが五百畳錦のヘリが五百畳、高麗縁が五百畳千五百畳のたァたみを、さらりやさっと敷かァれたり」と、己が名から案じ付き、我を忘れて舞ひ出す才蔵。

I.L.N.(『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』)

年老いたKutsiwaは彼が言ったこと全部が本当だと思い、寝間の屏風を開いて、「何と!召使いとなるために直ぐ行きなさるのか」と言った。「そうです。姉さんとTofeiさんは嫌々ながらも同意してくれました。ご病気が今頃は治るだろうと想像して、今まで引き延ばしていたのです」「そんなこと構いません。息子Tofeiも嫁も私もとても残念です。主婦のFanayoが私の病気の世話をとてもよくしてくれるので、病気は問題ありません。あなたには今まであまり言ってこなかったが、あなたは本当に立派だと感じていました。この出来事で私が今心に感じていることを一刻も早く申し上げたく思いますが、長くなるから別の時にしましょう。私は貴方が仰ってるお方をよく知っていますが、この判官様のお屋敷はどの辺でしょうか?」

この質問にSaizoの顔色が変わり、ばつが悪そうな表情をした。「お屋敷は扇の谷にある。鎌部屋の平野[plain of sickle-rooms:鎌倉のことか?]があり、数百本の灌木を通らなければならない。本当に広大な景色だぞ。貴方はご病気だから、平癒の寺の近くの8本の旗の山で泊まるのがいいかもしれない。その山の向こうの渡し場で左に折れ、そこでお屋敷はどこか尋ねれば、すぐにわかる」「貴方の説明は最近の場所のようです。あの辺はよく行きましたが、そんな所は聞いたことも見たこともありません。そのお屋敷はいつ建てられたのでしょうか」

才蔵は非常に困ったが、「ああ、ずっと昔じゃ。Miraku10年だ。藩の人々が建てたお屋敷じゃ」と答えた。「とても広いお屋敷なのでしょうね」「これ以上ないほど広い。大広間は驚くほどだ。500枚の縞柄の縁付きカーペット、500枚の縁付きコリア・カーペット、500枚の刺繍のシルク・カーペット、全部で1500枚で誰もが驚く」。彼は名前を思い出そうとしたが、度忘れした。

R.T.

みさをは見るにあぶあぶと、「風が当たれば御身の毒、まァまァこちへ」と朽葉が手を取り、寝間に誘いあたふたと、枕屏風を引廻し、「どれ着物をきかようか」と口には云えど無い袖の、ふりも作らずみだれ髪、ついそこそこにかき上ぐる。才蔵は胴巻より百両の金取出せば、みさをは心得証文と引き換えに、件の金手に取りながらあたりを見回し、かねて認め置きたりけん、書置諸共かたわらなる、雛に並ぶ犬張子の中に隠して、「そんならば大切に養生遊ばせや」と云う声聞いて母朽葉、又もや寝間をさぐり出て、「もうお出で遊ばしますか、定めし今日は総模様、立派にお着替えなされた所を、たった一目見たけれど、云ふに甲斐ない此の盲目、どれ探ってなりと見ませう」とすり寄ればみさをは驚き、切ない時の神ならで、仏の前にかかった打敷昔模様の綸子の地黒をこれ幸いと仏壇よりそっと外して膝に押し当て、探らすればにこにこ顔、「おゝ是でこそ数村様のお娘御、随分お首尾なされまして、暑さ寒さは云ふに及ばず、あがり物に気をつけて、おわづらいの出ぬ様に、大切にお勤めなされませ」と売られて行くとはしらがの母、

I.L.N.

 これを見たMisawoは出し抜けに「ここは風がひどいので、風邪を引いてしまいます。こちらへ」と言って、Kutsiwaの手を取り、寝間に誘い、屏風を立てた。「何を着たらいいだろう?」と言うと、髪の毛を掻きあげたが、今言ったような着替えはしなかった。Saizoは銅の巻物から100両を取り出した。Misawoは交換に証文を渡し、金貨を手にして、周囲を注意深く見回した。そして以前書いておいて上記の人形の後ろに隠していた別れの手紙と金を犬の箱に隠した。

 Kutsiwaは質問するために前に進み出た。また、娘がこの機会のためにどんな衣装を着ているか確かめようとした。しかしMisawoは部屋の仏壇にかけられていた古いシルクのカーテンを急いで取ると、普段着の上にかけた。盲目の老婆はそれを触って騙された。

R.T.

[母朽葉が]喜ぶ折から納戸より立ち出る小よしは頑是無く、「おやおやおかしな前垂れして」と云いかくるをみさをは打ち消し、「あゝ是れ姉がうつゝいベゝを着て、羨ましう思やらうが、おし付けそなたも大きうなると、わたしが方へ引取って、なァ申し朽葉さま」「おゝそれそれ小職(こじょく)とやら、小僧とやら、お使ひなされて下さりませ」とつい何となく云う言葉も、疵持つすねにあたりをきょろきょろ、合点行かねばうっかりと、小よしは二人の顔打守り、物も得云わず居たりけり。才蔵は打ちしわぶき「遅なはっては屋敷の手前、拙者何とも迷惑致す、いざ御越し」としかつべらしくすゝめられて涙を隠し、暇乞いさえそこそこに、みさをは外へ立ち出でて、小手招ぎして小よしを呼び出し、「母様か父さんか、今にも戻らしゃんした時、わたしを尋ねなさんしたら、毎晩教へて置いた通り、花咲爺の此の赤本ここの所をいつもの様に、絵解きして聞かせると、わたしが行った所が知れる、必ずわすれてたもんなや」と名残おし気に見返り見返り小声になって、「親方さんお待遠でござりませう」「イヤもう待遠より、云ひ付けぬ切口上によわり果てた、さァ急いでやらかさう」とみさをを駕籠に打乗せて、足を早めて帰りけり。

I.L.N.

Koyosiが入ってきて、その新しいエプロンについて言い始めたのをMisawoが止め、[Misawoは]訳のわからないことを言った。彼女は次にその子に、親族が戻って来たら、自分の留守の説明を子どもが読んでいた小さな絵本からするように指示した。この本には今の状況に似た話が含まれている。そして、[Misawoは]Saizoに急かされて行った。

R.T.

斯くとも知らず主人の戸平、忙しげに立帰り、そこら見回し上り口、忘れた煙管手に取り上げ、「南無三道で落としたかと、戻ってみればやっぱりここに、どうでもほんのあはう草、煙草のお陰で暇つひやした。それはさうと母者人、もうお目がさめましたか」「おゝさめた段かいの。今塩谷様のお屋敷から迎へが来て、みさを様は御奉公のお目見得に上がると云ふて、身ごしらへにも人手は無し、お一人で小袖を召し替へ、鋲打の乗物で行かれたに、彼のこなた道で逢ひはしやらぬか」と、云うに戸平は不審晴れず、「さう云ふ事が有るならば、何ぞお役に立たねばとて、一通りは私に、御相談も有る筈の事、どう云ふわけでせわし無く」と問えば朽葉は打笑い、「こなた衆夫婦はかねがねに、承知の事と貴方のお言葉、よもや嘘はおっしゃるまい、それを忘れてけたゝましい」「イエイエイエ此の戸平は真以って(しんもって)存じませぬ。フウ今道で見た四ツ手駕籠、おれに逢ふと垂を下し、どうやら急にかくれる様子、何にしても合点が行かぬ、後ぼっかけて」と駆出す、向うへ廻って娘の小よし、「これ父さん、今姉さんの行かしゃんした所はわたしが知って居る」「ヤ、そんなら吾が身が聞いて置いたか、さァどうぢゃ早う云ふやれ」と気をあせれど、頑是無い子のいたいけに、そばなる赤本押開き、「むかしむかし有ったとさ」と云うに戸平は気を焦ち、「是れ小よし其処どころぢゃ無い、みさを様のお行方は、さア何処ぢゃ、ちゃっと云うて聞かしや」「アイ此の赤本の絵解きをするとおれが行先が知れると、姉さんが云うてぢゃから、まァ下に居て聞かしゃんせ。そこで、正直爺と云ふものが有って、犬の子の命を助けてかはいがって育てたら、其の犬がだんだん大きく成って、ある時爺にいふには、明日私を連れて出て、転んだ所を掘って見ろと、教へると思ったら夢がさめたから、夜が明けると此の犬を連れて出て、転んだ所を掘ったれば、小判や小粒といふお金がたんと出て、それで一期栄えた」とまわらぬ舌で長々しく云うに、戸平は唯うろうろ、「えゝ何の事たか埒も無い、どうでも貴方に追付いて、様子を聞くのが近道」と、駆出す足に思わずも、蹴かえす雛の犬張子、「ヤ、ヤ、是りやこれ小判、フウ犬が転んで金が出ると、今の絵解きは犬張子が、ころべば金が出るとの謎々、中に込めたる此の一通、なにお両方へ申し置き、みさをと有るは合点行かず」と封おし切れば母朽葉、「何じゃみさを様のお文が有る。どう云ふ事ぢゃ読んで聞かしや」と、耳そば立つればくりひろげ、驚きながら笑いに紛らし、「お気遣ひなされますな、くれぐれもお国許の親御の事が案じられる、お前さまのご病気がお心ようなったなら、鎌倉へ私に下って安否を聞いてくれ、お気にさへ入ったならもう家へは戻るまい、直に屋敷へ落付く程に、宿下りまで逢われぬと、夫婦の者へ残し文。「イヤ申し母者人、風がひやひや当っては、ご気分にさはりませう、ま一寝入りなされませ」と寝屋に連行き障子を立て切り、

I.L.N.

 そのすぐ後にTofeiが戻り、Misawoが出て行ったことを呆然として聞いた。絵本の話は、親切な人に助けられた犬が、その人を宝が埋まっている所に連れて行ったというもので、問題を解き明かす役には立たなかった。絶望したTofeiがうっかりと犬の箱(日本ではこのような家具は空想的な形である)につまずくと、Misawoからの手紙と100両の金が出てきた。しかし、彼はMisawoが消えた理由をKutsiwaに隠し、部屋が寒すぎるからと彼女を部屋から出した。

R.T.

[戸平は]思はず知らぬ一人ごと、「もしみさをさま、お情過ぎてうらめしい、なんぼ貴君が編笠で顔をお隠しなされても、毎日通る南円堂、袖乞をなさること、知らいで何といたしませう、あゝ、身貧な此の暮し、貢いで下さるおこゝろざし、それを無足に致すまいと、今日までわざとしらぬ顔、陰で拝んでおりました、それさへ有るに勿体無い、おまへ様の身の代で、何と浮世が渡られませう」とどっかとすわってはらはら涙。いつの間にかは戻りけん、門に様子を聞き居る女房、「えゝ、そんならみさをはアノ曲輪へ」「おゝ様子はあらまし此の書置、母者人に聞えぬ様読んでみやれ」と投げ出せば取る手おそしとおし開き、

一筆申しのこし参らせ候、たゞ今まではごふうふに深くつゝみ、まい日まい日小よしをつれ、観音さまへ参るといつはり袖乞にいで、国もとよりの貢と申し、少しは御ちからになり候へども、それも思ふ様にはかどりかね、此の様にうかうか致し居り候ては、いよいよ貧苦の御身になり候はんかと、それが悲しく島之内之置屋へ、百両にこの身をうりまゐらせ候、此の金にておもふやうに朽葉様の御養生なされ、何になりとも少しも早く、御商売に御とりつき、若しも余計の金子あり候はば、鎌倉へ御下しくださるべく候、是れもにはかの御浪人の事に候へば、さぞ御不自由がちと察し参らせて、なにもなにも取急ぎあらあらかしこ。

と読み下せば戸平は聞くに絶え兼ねて、件の金をひっつかみ、駆け出すもすそを花世は引き止め、「きつさう変へてこりゃ何処へ行かしやんす」「はて知れた事、此の金返してみさを様を」「イエイエ一旦証文すんだ上では、元金はさておいて一倍しても返さぬおきて、わしには現在姪の事、勤めさするは本意で無けれど、斯うなるからは仕方が無い、これ此の文にあれが書いて置いた通り、此の金を資本とし身を粉に砕いて身上仕上げ、国元の姉さん御夫婦御貢ぎ申して、其の内に見受けするより外は無い」とさまざまに云いなだめ、母は更なり鎌倉へも武家奉公といい下し、夫婦いよいよ心を用い、金にあかして養生なしけるにぞ、程無く母の眼病平癒なし、是れになおなお力を得て、すこししるべの有りければ、摂州難波へ引移りけるとぞ。

かくてみさをは島之内の芸子となり、其の名を小松と改めしが、きりょうよき其の上に、利発なる生まれなりければ、全盛ならぶ方も無く、常に二ッの櫛を押並べてさしけるにぞ、難波の人彼を仇名して、二ッ櫛の小松とぞ呼びなしける。
 又米商人佐吉はみさをが行方知れずなりければ、せんかた無く是れも難波へ立返り、病気保養の其の為とて、折にふれ其処此処と浮かれあるき、月雪花の三ッ紋を付けるにぞ、誰云うと無くかれをも仇名して、三ッ紋の佐吉と呼び、同じ難波に住みながら、さすが繁華の土地なれば、未だみさをにはめぐり逢わざりけりとなん。

I.L.N.

 Fanayoが戻ってくると、その悲しい別れの手紙が読み上げられ、真実が告げられた。証文に署名がされ、金が支払われたので、取引を元に戻す望みはなかった。その金は一家の必要経費に使われ、Kutsiwaの盲目を治療し、夫婦がSi-SiouのNaniwaに引退するのに使われた。

Misawoはリュート奏者になり、日本の慣習に従って、Komatsuと名前を変えた。しかし、この名前の下品な接頭辞はFutatsugushiというあだ名である。SakitsiもまたMisawo、現在のKomatsuの行方が一切わからなくなり、絶望してNaniwaに戻り、そこでMitzumonという名前を称した。しかし、一度も愛人と接触することはなかった。それどころか、忙しく外出していた。