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英米に伝えられた攘夷の日本(6-5-3)

幕府はインドの反乱について、早い時期に把握していました。当時、日本が置かれた立場を理解するために、英米メディアで報道される第二次アヘン戦争とインドの反乱と並んで、ネイティヴ・アメリカンとの戦争や奴隷貿易、日本との条約交渉を辿ります。

幕府が把握していたインドの反乱

府がインドの反乱について1857年8月には知っていたことが、目付の岩瀬震忠(ただなり:1818-1861)の書簡からわかります。岩瀬が長崎に出張し、到着の挨拶を江戸の同僚に送った書簡が『幕末外國関係文書』に残っています。1857年8月10日(安政4年6月21日)付書簡「六月二十一日長崎へ出張の目付岩瀬伊賀守震忠書翰在府同役へ 清國騒亂蘭船購入貿易談判等の件」(注1)のインドの反乱関係部分を要約します。前日に長崎に到着し、早速オランダ商館から情報を入手した内容の報告ですが、最初に阿部正弘の病状について心配を書いています。「春以来、血色も悪く心配していました。多事の折柄、一日も早く出勤できるようになることを祈っております」という趣旨から始まっている書簡です。

  • 廣東の騒乱がますます難しくなっている様子の上に、インドでイギリスによる苛政を憤って、イギリス士官を殺し、一揆のような騒ぎになっているそうです。
  • この地はかねてよりロシアが欲しがっていた地ゆえ、この節の騒乱に乗じて、ロシアが進出を企て、いよいよやかましくなるかなと思います。

岩瀬震忠の手紙はこの後はカントン攻撃にフランスもアメリカも参加し、大国中国も数多くの強敵を引き受けて、どうなるのだろうか、オランダ人も非常に危うい事になってきたと言っていると、情報を伝えています。こんな中で日本が欧米列強と交渉しなければならないという危機感も伝わってきますから、英米の報道に現れた中国の戦争、インドの反乱、日本に関する情報、その他、気になった記事を時系列で紹介します。後に紹介するように、この時代には新聞の力が政治をも変える危険な側面が警告されており、政治家にとっても経済界にとっても新聞を味方につけるなど、メディアを利用する重要性が認識されていましたから、現在のメディアの影響力の功罪を考える上でも参考になると思います。日本関連の記事は見出しだけで、記事内容は後に紹介します。

第二次カントン攻撃、インドの反乱ほか

  • 1857年6月5日(NYDT):「奴隷貿易の復活」(注2)
  • 1857年7月30日(NYDT):「中国とインド」「インディアン戦争の恐れ/ビッグスー川にインディアンの大集会」セント・ポール・デイリータイムズより、7月24日
    イエロー・メディスン川(Yellow Medicine River:ミネソタ州)にスー族インディアンが集結して不穏な動きだ。もし戦争が起これば、10,000人のインディアンに対し、200人の部隊で戦うことになる。イエロー・メディスンの白人家族は駐留地に移った。兵卒の報告によると、インディアンはサルのように生意気に部隊を取り囲み、戦えと挑んでいるという。
  • 1857年8月14日(NYDT):「インドの反乱/デリーはまだ陥落せず/セポイの連隊50が反乱/中国の戦争」
  • 1857年8月18日(NYDT)「フォルモサ(台湾)島の占領/中国のアメリカ市民への賠償/ デリー陥落のニュースの一部確認」:NYDT特派員、アメリカ旗艦サン・ジャシント号より、1857年6月9日付
     アメリカ海兵隊のJ.D.シムズ大佐が以下の指令を受けた。フォルモサ(台湾)のフォンシャン市にアメリカ国旗を揚げて台湾島を正式に領有することだった。今回の戦争でアメリカ市民が被った損害の賠償として領有するのである。

     これは在中国のイギリス当局に大きな満足を与えた。中国とのさらなる衝突に向けて各段階で行われるからだ。私の考えでも、これは中国における我々の権利を確保するための賢明な方法である。我々の損失に対する報酬として確実で安全な方法である。世界のこの地域で我々が領土獲得を求めるなら、中国帝国の領土のうち獲得できるものの中で、フォルモサほど望ましい所はない。鉱物と農産物が豊かで、石炭も価値が高いし、世界の海洋国家が熱望する場所だ。

 1857年9月14日に『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』が『ニューヨーク・タイムズ』に変更されてからはNYTと省略します。

  • 1857年9月23日(NYT):二面「インドへのイギリス軍の大規模な補充部隊」
  • 1857年11月19日(NYT): NYT特派員、上海発、アメリカ旗艦サン・ジャシント号より、1857年9月7日付
    アメリカ合衆国軍艦ポーツマス号が日本に向けて8月22日に上海を出航した。箱館と下田に寄港する予定だ。箱館にはアメリカの領事代理がおり、下田には総領事がいる。
  • 1857年12月21日(NYT):「中国戦争再開」
  • Chinese Reading Proclamation宣戦布告を読む中国人
    『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』(1858年2月27日号, p.221, (注3)

  • 1857年12月31日(NYT):一面「 Friends of Chinaより、1857年10月31日付 カントン攻撃の準備/合衆国と日本との新条約交渉/インドの反乱」:香港発(10月3日)ロンドン・タイムズ特派員
     エルギン卿はカントン攻撃の結果がわかるまで香港に滞在するだろう。海兵隊部隊全体が到着次第、作戦が開始される。最初の補充部隊がインペレイター号で28日に到着した。戦艦コモラント号とランターター号がマニラから昨日到着。
  • 1858年1月1日(NYT):一面NYT特派員、香港発、アメリカ軍艦ポーツマス号より、1857年10月29日付「日本からの重要ニュース/ ハリス総領事と[日本]との新条約交渉/下田と箱館にアメリカ市民の居住が許可される/下田沖に危険な礁を発見」、二面「中国におけるイギリスの位置/ ロシアと中国/ インドの反乱」
  • 1858年1月2日(ILN):巻頭言「昨年[を振り返って]」
    ペルシャ戦争という現実があり、中国との切迫的な戦闘があったが、これら遠くの野蛮国との抗争は我々の見方では、戦争と呼べるものではない。
  • 1858年1月26日(NYT):一面、NYT特派員、上海・呉淞(Woosung)発、アメリカ軍艦サン・ジャシンタ号、1857年11月6日付、一面「ロシアとアメリカの日本との条約」(10月付)
  • 1858年2月6日(ILN, p.131):「日本」
     日本からの情報によると、昨年10月16日に長崎において、日本とオランダ政府の間で条約が批准された。上記の日に長崎港はオランダ貿易に開け放たれた。10ヶ月後には箱館港が開放される。同じ情報によると、日本政府は全文明国と同様の条約を締結する用意がある。そして、キリスト像を踏みつける習慣は廃止される。
  • 1858年2月8日(NYT):一面「中国戦争における英仏協力の計画/ 葉への最後通牒/ カントン攻撃間近」、二面「日本—国の様子—現地人の住居、慣習などーアメリカ総領事」1857年12月16日付ほか
  • 1858年2月15日(NYT):一面「[インド]反乱軍の敗北/カントンは即刻攻撃されるべき/最後通牒に従うことを葉は拒絶」1857年12月16日付他
  • 1858年3月6日(ILN, p.227):「中国における戦争:葉の捕虜、カントンで王室宝物を押収」1月14日付シーモア提督の公式報告書:カントン当局は我々[英仏]が市を攻略したことを認めなかったので、1月1日に部隊が市中を行進することにした。女王陛下の領事、パークス氏が喜ばしい情報を持って到着した。葉を捕虜にし、地方の全記録、銀で30万ドル相当の王室宝物を押収入手した。これら一連の行為に対して中国側からの抵抗はなかった。銀はカルカッタ号上で保護している。
  • 1858年3月8日(NYT):「カントン砲撃の詳細/中国、ロシアに宣戦布告/ラクナウ近くの反乱者の敗北」
    本社特派員より、アメリカ合衆国蒸気船サン・ジャシンタ号、香港1857年12月28日

     長く延期されていたカントン攻撃が始まった。12月28日夜明けとともにカントンに向けて砲撃が開始された。市内の各所で火があがった。戦艦からは1日に60砲市に向けて撃たれ、3日間続いた。12月29日に英仏部隊が市の後方の2砦を襲い占領した。中国軍は勇敢に抵抗したが、小規模な武器で防戦し、占領されると逃走した。カントン市は完全に破壊されるだろう。
  • 1858年3月11日(NYT):一面「英仏軍によるカントン占領—葉が捕虜」1858年1月15日付Friend of Chinaによると、1月5日に葉が捕らえられた。
  • 1858年3月15日(NYT):一面「葉の捕虜の詳細」1月15日付情報によると、葉はイギリスの病院船に収容された。カントンは英仏同盟国の保護領となり、新政府が設立される。
  • 1858年4月3日(ILN, p.345):「中国における戦争」(本紙特別アーティスト・特派員より、カントン、1月28日)
      市内に秩序が次第に戻っている。通りは(もしそう呼べるなら)活気を取り戻し、どこでも開店されつつある。住民は全体的に最近の屈辱に関心がないように見え、新しい支配者に服従している。多くの士官が現地人とすれ違う時はお辞儀をする。これを最下位の中国人役人に対してもする。この小さな儀式が東洋の全ての国々で最重要なことだとみなされている。
  • 1858年4月6日(NYT):「フランスとイギリスに協力するアメリカとロシア」
  • 1858年4月13日(NYT):一面「北京に対する示威運動—英仏同盟によるカントンの要塞化」本社の特派員より、合衆国蒸気船サン・ジャシンタ号、香港、1858年1月28日
      これまでも現在も、中国・日本・マニラの港の必要性が緊急に求められているが、この要求に服従していない。1年間も一人置き去りにされている、[アメリカ]国の船が近くまで来てくれないというハリス領事の苦情は国務省の目を開かせたに違いない。
  • 1858年4月17日(ILN, P.383):「中国」(本紙特別アーティスト・特派員より、香港、2月28日)
     葉のやつはインフレキシブル号でカルカッタに行った。そこで彼がどうなるか知らない。カントンは今は静かだ。北部がどうなるか我々は皆待っている。北京[政府]が礼儀正しいか否か、それが5月かどうかもわからない。エルギン卿はまもなく上海に行くだろう。ひょっとすると、北京の前に日本に行くかもしれない。ありえないことではないと思う。あの国[日本]の皇帝は外国列強に対して好意的のようだから、これはいい機会だろう。

1 東京大学史料編纂所(編纂)『大日本古文書 幕末外國関係文書之十六』、大正12年発行、昭和47年覆刻、東京大学出版会、当該文書の通し番号は139, pp.453-458.
2 一面”The Revival of the Slave Trade”, The New York Daily Times, June 5, 1857.
https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1857/06/05/issue.html
『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』、『ニューヨーク・タイムズ』には上記URLの日付を変えればアクセスできますので以後は省略します。
3 ”The War in China”, The Illustrated London News, Feb. 27, 1858, Vol.32, Jan.-June 1858, p.221.米国大学図書館協同デジタルアーカイブ、ハーティトラスト・デジタル・ライブラリー
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uc1.c0000066811