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英米に伝えられた攘夷の日本(6-5-5)

19世紀後半のイギリス・メディアが権力と化した姿勢に警鐘を鳴らしたジャーナリストと、パーマーストン首相/政権と『タイムズ』の報道の関係を厳しく批判したマルクスの論を紹介します。

19世紀後半のメディア

 19世紀のイギリス人ジャーナリストW.T.ステッド(William Thomas Stead: 1849-1912)が、1886年にメディアが権力になりつつあるという警告論文「ジャーナリズムによる政府」(注1)を発表しています。この論文発表時、ステッドは37歳ですが、惜しいことに、タイタニック号の沈没で亡くなってしまいました(注2)

  • 新聞は時には極めて重要な問題を決定づける力を持っている。
  • 政治家と新聞の関係:国会で通したい法案を抱えている大臣は2,3人のジャーナリストを友達にして、その法案支持の記事を書くよう勧め、記事が報道されたら、「世論が支持している」と宣言する。いわゆる「世論」というのは、その友達が自分の言葉を再生したものに過ぎないということは大臣自身がよく知っている。
  • 新聞は国家の決定におけるキャスティングボート(決定票)を握っている。
  • 現在の未発達で原始的な状態のジャーナリズムでさえ、その力は強く、今後、国家において更に力を増すかもしれない。ジャーナリズムの将来は完全にジャーナリストにかかっている。現在その展望はあまり望めない。ほとんどのジャーナリストにとって、ジャーナリズムが政府の手先だという考え方は異質なものだ。しかし、もし、このことを考えられたら、社説のペンは権力の王笏(おうしゃく)である。
  • 私は比較的若いジャーナリストに過ぎないが、私は以下のことが新聞の手でなされたことを見てきた。内閣がひっくり返され、大臣が辞任に追いやられ、法律が破棄され、大きな社会改革が推進され、法案が変えられ、概算が改作され、計画が修正され、条例が通され、将軍が推薦され、知事が任命され、軍隊が世界中に送られ、戦争が宣戦布告され、戦争が回避されてきた。1874年にグラッドストン氏が保守派大臣に冗談めいて、「ポール・モール・ガゼット[夕刊紙]に注意しろ。私を悩ませた新聞だから、君を困らせないように注意した方がいい」と言った。
  • 新聞が内閣の決定に与える影響力は下院がふるう影響力よりはるかに大きいことは疑いない。平和か戦争かの問題では、議会の権力は、不名誉な平和を達成するか、犯罪的戦争に突入するかの決定を行った人たちを、事件が終わった後で懲戒免職にする権力だけだ。

ジャーナリストのあるべき姿

  • ジャーナリストの義務は見張りの義務である。「もし見張りが剣が来るのを見ても、人々に警告を発するためのトランペットを吹かず、誰かが剣にやられたら、その人は自分の悪行のために殺されるが、私はその血の責任を見張りの手に求める」[旧約聖書エゼキエル書33-6]。人間の義務はできる限りの善を行い、全ての悪を防ぐことである。善を行うことを知っていながら行わない者には、直面するのを用心しなければならない非難よりもずっと激しい非難が来る。
  • 事実を知ることが第一の、そしてあらゆるものの中で最も不可欠なものである。
  • ジャーナリズムの扇情主義は世論の目を引きつけて、行動の必要性を認めさせるものであれば、正当化できる。単なる喚き自体は人間の行の中で最も下品な行為だ。しかし、ジャーナリズム的広報記事「ロンドン浮浪者の苦しみの叫び」の扇情主義が貧困層の住居に関する英国審議会を立ち上げさせたのだ。

『タイムズ』とパーマーストン首相の関係

 カントン攻撃に関する『タイムズ』の記事から、当時の一部イギリス・メディアの酷さがわかりますが、マルクスが「ロンドンの『タイムズ』とパーマーストン卿」(『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』1861年10月5日、(注3))と題する記事で批判しています。

  • 「イギリス人は『タイムズ』を読むことで、自分の国の政府に参加している」。これはある著名なイギリス人作家が言ったことだが、この王国の外交政策に関する限り全くその通りだ。国内の改革政策に関しては、国民は決して『タイムズ』の指示に動かされない。
  • 過去30年間パーマーストン卿は大英帝国の国力をふるう絶対的権力を奪って、この国の外交の道筋を決定してきた。同時に『ロンドン・タイムズ』がイギリスの全国紙の地位を獲得した。つまり、外国に対して、イギリスの心を代表する地位を獲得したのだ。
  • 国家の外交を管理する独占権が(中略)たった一人の男に移ったら、イギリスの外務大臣、すなわち、パーマーストン卿に移ったら、対外関係について国家のために考え、判断する独占権と、対外関係に関する世論を代表する独占権がプレスからプレスの1組織、『タイムズ』に移ったということである。
  • パーマーストン卿は秘密裏に、国民にも、議会にも、彼の同僚にも知られていない動機から、大英帝国の外交を管理した。彼が自分の秘密の行いについて、世論の批判を下す権力を奪ったこの唯一の新聞を手に入れようとしなかったとしたら、彼は大馬鹿に違いない。
  • 『タイムズ』の語彙には徳という言葉はどうしても見つからない。(中略)『タイムズ』はパーマーストンの単なる奴隷になってしまった。パーマーストンは『タイムズ』の徳の何人かを内閣の下位のポストにこっそりつかせたり、その他の者をおだてて彼の社交仲間にした。その時以来、『タイムズ』のすること全てが、大英帝国の外交に関する限り、パーマーストン卿の外交政策に合う世論を製造することに制限されてきた。パーマーストンがしようとしていることのために世論を準備し、彼がしたことについて世論が黙従するようにしてきた。
  • この仕事を達成するための『タイムズ』の奴隷的労働は最近の議会の報道によく現れている。この議会はパーマーストン卿にとって全く不利なものだった。下院のリベラルと保守の独立系議員たちがパーマーストンの独裁に反逆した。彼の過去の不正行為を明らかにして、同一人物の手に同じ制御不可能な権力が握られる状態が続く危険性を国民に知らせようとしたのである。
  • ダンロップ氏がアフガン文書に関する特別委員会の設置を動議することで攻撃を開始した。これはパーマーストンが1839年に議会に提出したものだが、実は捏造された文書だった。
  • 『タイムズ』は議会報告の中で、ダンロップ氏のスピーチを全て隠した。ご主人[パーマーストン]にとって最も致命的だと『タイムズ』が考えたからだ。
  • その後、モンターニュ卿が1852年のデンマーク条約に関する全文書を提出するよう動議を出した。(中略)パーマーストンはこの動議を出させないために、事前に議会流会を企んでいた。議会は実際に流会にされたが、その前にモンターニュ卿は1時間半スピーチをした。
  • 『タイムズ』はパーマーストンから流会があることを知らされていた。議会報告を骨抜きにし、料理する役割を特別に担っていた編集長は休暇をとったため、モンターニュ卿のスピーチは骨抜きにされずに『タイムズ』のコラムに現れた。

マルクスは他の記事で、はっきりと次のように述べています。「パーマーストンの新聞:『タイムズ』『モーニング・ポスト』『デイリー・テレグラフ』『モーニング・アドバタイザー』『サン』は[パーマーストンから]命令を受けた」(注4)

イギリス・アフガニスタン戦争

 マルクスが「ロンドンの『タイムズ』とパーマーストン卿」の中で言及している「捏造された文書」は、第一次イギリス・アフガニスタン戦争に関する外交文書です。1839年に議会に提出された時、最重要文書が捏造され、イギリス・アフガニスタン戦争を始めたのはアフガニスタンのドースト・ムハマド・ハーン(Dost Muhammad Khan: 1793-1863)王だとされました(注5)。実際には在カブールのイギリス代表、アレクサンダー・バーンズ(Alexander Burnes: 1805-1841)がドースト・ムハマド王と交渉した結果、1838年10月にインド総督の宣戦布告が出されました。

現在のブリタニカの解説(注6)によると、イギリスは植民地インドを基地に、アフガニスタンにも影響力を拡大し、ロシアの影響力に対抗しようとして、イギリスが起こした戦争とされています。ドースト・ムハマド王が反英で、ロシアの侵入に抵抗することができないと恐れたイギリスは、亡命中のシュジャー・シャー(Shah Shoja: 1803-1842)を王位に就け、1839年4月にイギリス軍をアフガニスタンに送ります。外国による占領や、列強が即位させた王に不満を持ったアフガニスタン人はドースト・ムハマドのもとに結集してイギリスと戦います。1940年11月に降伏したドースト・ムハマドはインドに送られます。その後も国中で戦いが勃発し、イギリス軍は防御不能になって、1842年1月にカブールから撤退します。イギリス軍の撤退後、シュジャー・シャーは暗殺され、1843年にドースト・ムハマドはカブールに戻って、王位に就きます。

 第一次イギリス・アフガニスタン戦争の詳細を『アフガニスタンにおける戦争の歴史』(1851)が伝えていますが、2巻もの長いものなので、フリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels: 1820-1895)の要約(注5)から紹介します。イギリスがアフガニスタンに送った部隊はベンガル軍、ボンベイ軍などインド人兵士が中心だったようで9,500人、シュジャー・シャー軍はイギリス人少将に率いられた6,000人と記されています。

 カブール市外に野営したイギリスの将校と兵士たちはカブールの女性たちと「非常な数で姦通した」(The English officers and soldiers had intrigued a good deal with the women of Kabul)と表現されていますが、次の説明が続いているので、強姦したと理解できると思います。「カブールの男たちは弁償も手に入れられず、ムハマド派の怒りは広がり、遂に報復を決意した。怒りの中心は侵略者に対するものだった」。

イギリス議会での公文書捏造問題議論

マルクスが「ダンロップ氏がアフガン文書に関する特別委員会の設置を動議」したという点について、当該の議会議事録(1861年3月19日下院、(注7))を要約します。1861年、パーマーストン首相は76歳で2期目の政権でした。1939年にパーマーストンは外務大臣だったので、文書捏造の当事者だったわけです。

ダンロップ氏(Alexander Colquhoun-Stirling-Murray-Dunlop: 1798-1870)の動議

  • 1839年に議会に提出されたアフガニスタンに関する文書が捏造されていたこと、議会が欺かれていたことがケイ氏の指摘[上記の『アフガニスタンにおける戦争の歴史』(1851)]で判明した。議会は捏造文書に基づいて「許可されない、不正義で、正当な理由のない」戦争をしたと評されている。
  • 中央アジアに影響力を伸ばしていたロシアがインドを侵略するのではないかという不安と、ロシアがペルシャ国王と同盟を結んだことなどがイギリス・アフガニスタン戦争のきっかけだとされた。
  • カブールを支配していたドースト・ムハマド・カーンがテヘランのロシア代表者と連絡していると言われたので、彼を追放し、親英の王を代わりに立てなければならないとされた。[アフガニスタン]国民から10年前に国外追放された王を外国が武力によって復位させる方法は、その国の独立を確立するにも、この地域における我が国の地位を強めるにも、いい方法だとは到底思えない。
  • カブールにおけるイギリス代表のアレクサンダー・バーンズの1837年10月31日付報告書によると、カンダハールにいるドースト・ムハマドの兄弟が息子をテヘランに送り、ペルシャ国王と在テヘランのロシア大使に贈り物を持たせると聞き、バーンズはドースト・ムハマドに止めさせるよう説得した。ドースト・ムハマドはバーンズの目の前で兄弟に手紙を書いた。イギリスを怒らせるからペルシャと同盟を結ばないよう、イギリス政府と友好関係を保つ以外生き延びる方法はない、もし息子をペルシャに送ることを諦めないなら、自分を敵とみなせという内容だった。こららの手紙はイギリス議会から隠された。
  • その後、ロシア大使がカブールに向かっているという知らせが来たが、どうしたらいいかとドースト・ムハマドがバーンズに相談したので、バーンズは「文明国家の聖なるルールは、平和時に使者を拒絶することはできない」と答え、ロシアの代表者との話し合いの内容をイギリス政府代表者の自分に伝えるよう助言した。
  • バーンズはインド総督に報告し、ロシア代表者がドースト・ムハマドに対して、ロシアに友好的であれば金銭その他の援助をすると申し出たこと、イギリスにとっては危機的状況だから、これらを伝えてくれたドースト・ムハマドに友好と忠誠に感謝する手紙を出すよう懇願した。それに対し、インド総督はドースト・ムハマドにロシアと接触しないよう命じる手紙を出し、ドースト・ムハマドは手紙で「私はイギリスを捨てなかったが、イギリスが私を捨てた」と書いて、ロシアとの関係を再開した。これらの文書は議会から隠され、ドースト・ムハマドがイギリスの敵と見せて、イギリスがアフガニスタン戦争を始めるために文書の改ざんや隠蔽を行なったようだ。隠蔽され、改ざんされた文書をもとに議会はイギリス・アフガニスタン戦争開始の是非を判断させられた。
  • バーンズは自分の観測と反対の言動をインド総督=イギリス政府がしたため落胆したがイギリスの官僚としては従わざるを得ず、イギリスの[アフガン戦争]政策の代表者とみなされたためにアフガン人に殺された。バーンズはイギリス政府によって、この不当な戦争の扇動者とされ、ドイツのアフガン戦争の歴史書には「戦争の扇動者アレキサンダー・バーンズ卿」という章題までつけられている。彼の名誉挽回のためにも、今後議会に提出される文書が公平・正確・本物である保証をし、国民の信頼感を取り戻すためにも、以下を動議する。
  • 特別審査会を任命し、1839年に議会に提出されたアフガニスタン関係の通信文、その後1858年に提出され、1859年に印刷された文書を検証する。これらの文書を提出する準備段階の状況を調査する。政府によって議会に提出される通信文や文書がその内容を正確に反映するものだと保証する方法に関する意見を求める。

この後、パーマーストン首相の弁明が長々とありますが、その反応をジョン・ブライト(John Bright: 1811-1889)が述べているので、紹介します。誰の野次かまで記されています。

  • noble Lord[首相]の様子と言葉遣いから、怒りの情熱に犯されていたようだ。(パーマーストン卿:”Not much”)「それほどでもない」と仰った。確かに、話すうちに落ち着いて来られたようだ。しかし、noble Lordは攻撃されたと感じたのだ。noble Lordはこの場合、裁判にかけられている。スピーチの間中、noble Lordは公務執行中に死んだ男に侮辱を浴びせ続けた。彼の公務とはnoble Lordの気の狂った頑固な政策を押し付けられたものだった。そして彼の血がこの政策に反対して天に叫んでいる間、noble Lordは本議会で45分間、故アレクサンダー・バーンズ卿に侮辱を浴びせることを止めなかった。
  • 動議は少なくとも2万人のイギリス臣民を犠牲にした戦争政策で誰かを非難するものだとは思わない。これは決して答えの出ない性質の犯罪であり、この政策全体が犯罪だ。本議会のいかなる委員会もこの加害者を適切に罰することはできない。My hon. Learned Friend [ダンロップ]は委員会で、noble Lord [首相]やその他の有罪者を世論の裁判に引きずり出すために20年前のことを持ち出しているのではない。公務中に殉職した公務員の意見を切断し、捏造し、不正なものにして本議会に提出するという最低の道義心と正義感の持ち主が現政権と[イギリス領]インド政府に今もいるかを知る価値はある。
  • 憎むべき違反が本会議と真実に対して行われたのだから、我々が知りたいのは誰が行なったのかだ。

次にディズレーリが立ち上がり、アフガニスタンに対し「侵略戦争」を行なったと厳しい批判を述べています。

  • アフガン戦争の責任者は本国[イギリス]の外務大臣[パーマーストン]であり、どんなに時間が経過しても、その責任から逃げるような人は大臣にふさわしくない。したがって、この問題について私が述べることはイギリス政府のみに影響する。
  • 私はアレキサンダー・バーンズ卿を個人的には知らないが、我々全員がほとんどの公務員を判断する場合、公務中に書いた公文書から判断する。私が見たのは非常なエネルギー、偉大な献身、豊富なリソース、彼に求められた管理状況に見事に適応する性格、彼が果たした立場などである。したがって、今夜軽蔑の口調でアレキサンダー・バーンズ卿の評価をしたnoble Lord[首相]に同意できない。
  • アフガニスタンの侵略に関するインド政策全体が最も誤った政策だと強く思っている。我が国民を2万人も失わせただけでなく、少なくとも2000万ポンドを喪失し、さらなる災害・惨事の原因となった。
  • 当時の政府とイギリスの大臣たちをいかなる状況下でも評価する用意があるし、我々皆が評価すべきだと思う。彼らは自国のためと自分たちの人格のためにベストと考えたことに従って行動したと信ずる。
  • 1859年に印刷しても安全な情報が1839年には危険であり、適切ではないとわかるかもしれない。
  • アフガニスタン侵略が忌むべきことで、賢明ではなかったことを本議会が認めるだけで十分だ。政府は間違った決断をしたかもしれないが、能力の及ぶ限りで、良心に従って決定したのであり、国の権益を守りたい、帝国を維持したいという思いで行なったことは疑いない。私はアフガン戦争の政策について現時点で立ち入るつもりはない。これは歴史の判断の問題だ。

この矛盾に満ちた意見を述べたディズレーリは1878年に首相として第二次イギリス・アフガニスタン戦争を始めます。ドースト・ムハマドの息子が王位を継いでいて、イギリスの使節がカブールに入ることを拒否し、ロシアの使節は認めました。それがイギリスの第二次アフガン戦争の始まりで、イギリス軍はカブールを占領し、1879年に条約を結び、カブールにイギリス大使館を置くことと、他国との関係構築はイギリス政府の承認と助言のもとに行うことに同意させますが、その後すぐにイギリス使節がカブールで暗殺され、イギリス軍が再びカブールを占領します(注6)

 この帝国主義時代の欧米列強のしたことが現代の問題につながっていると指摘する意見記事が『ニューヨーク・タイムズ』(2019年6月7日)に掲載されました。アメリカではメキシコとの国境に詰めかける中南米からの難民問題でトランプ大統領が移民締め出し政策を強行しているところです。「なぜ移民は『我が国の国境を尊重』しなければいけないのか?西洋は移民たちの国の国境を尊重したことはない」(注8)と題する記事の前半部分を抄訳します。

 最近、アメリカ合衆国はアフリカ系アメリカ人に奴隷制度の償いをすべきかという議論が盛んになっている。償いすべきだ。しかし、アメリカとヨーロッパに対して、ずっと大きい請求書がかさんでいる。アメリカとヨーロッパが他国に対して、植民地時代の冒険と、植民地に仕掛けた戦争と、世界秩序に不平等を構築したことと、環境に二酸化炭素を過剰放出したことの償いをすべきだ。

これらの債権国は西洋に対して、毎年インドやナイジェリアに金塊を送れなどと本気で提案しているわけではない。これらの国の国民は公平性を求めているのだ。富める国の国境が物と人、インドの繊維とナイジェリアの医師たちに開かれることを求めている。移動を求めることで、賠償としての移民を求めている。

現在、2.5億人が移民である。彼らは富める国が彼らの国の未来を奪ったから移動している。イラク人やシリア人はアメリカの違法な戦争の影響から逃げている。アフリカ人はヨーロッパ植民時代の元ご主人様のために働く口を求めている。ガテマラ人とホンジュラス人は彼らに銃を密売して彼らから麻薬を買った国に入ろうとしている。この人々は、我々が彼らの国にいたから、アメリカに来るのだ。

彼らに我が国の国境を尊重しろと言う前に、自問してほしい。西洋は他国の国境を尊重したことがあったか?移民の大半は貧しい国からそれほど貧しくない国へ移動する。富める国へではない。移民の割り当てはホスト国が他国を荒廃させた程度によって決めるべきだ。イギリスはインド人とナイジェリア人を受け入れるべきだ。フランスはマリ人とチュニジア人、ベルギーは多数のコンゴ人を受け入れるべきだ。

1 W.T. Stead “Government by Journalism”, The Contemporary Review, vol.49, May, 1886, pp.653-674. https://www.attackingthedevil.co.uk/steadworks/gov.php
2 ”William Thomas Stead”, Britannica Online Encyclopedia,
https://www.britannica.com/biography/William-Thomas-Stead
3 Karl Marx “The London Times and Lord Palmerston”, New York Daily Tribune, October 21, 1861.
https://www.marxists.org/archive/marx/works/1861/10/21.htm
4 Karl Marx “The News and its Effect in London”(ロンドンのニュースとその影響), New York Daily Tribune, December 19, 1861.
https://www.marxists.org/archive/marx/works/1861/12/19.htm
5 Frederick Engels “Afghanistan War. John W. Kaye’s History of the War in Afghanistan, 1851, 2 Vols.”, July 1857,
http://marxists.anu.edu.au/archive/marx/works/1857/afghanistan/review.htm
6 ”Anglo-Afgan Wars”, Britannica Online Encyclopedia
https://www.britannica.com/event/Anglo-Afghan-Wars
7 House of Commons, 19 March, 1861 “Select Committee Moved For”(下院、1861年3月19日、「特別審査会の動議」)
https://api.parliament.uk/historic-hansard/commons/1861/mar/19/select-committee-moved-for
8 Suketu Mehta “Why Should Immigrants ‘Respect Our borders’? The West Never Respected Theirs”, The New York Times, June 7, 2019
https://www.nytimes.com/2019/06/07/opinion/immigration-reparations.html?action=click&module=Opinion&pgtype=Homepage