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英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-3-1)

ポツダム宣言の作成と占領政策について大きく関わりながら、強硬派に追放された外交官ユージン・ドゥーマンが1951年のアメリカ上院「太平洋問題調査会に関する公聴会」に証人喚問されましたので、その証言を紹介します。

ユージン・ドゥーマンの経歴

タンフォード大学フーバー研究所文書館の「ユージン・ドゥーマン文書」のサイトはユージン・ドゥーマンの外交官キャリアを以下のように記しています(注1)。参考のためにカッコ内に年齢を加えます。

  • 1912年(22歳):日本での通訳生として採用される。
  • 1915年(25歳):副領事、神戸。
  • 1921年(31歳):書記官、東京。
  • 1924年(34歳):外交官。
  • 1926年(36歳):書記官、二等書記官、東京
  • 1931年(41歳):一等書記官、ロンドン。
  • 1936年(46歳):総領事、ロンドン。
  • 1937-1941年(47-51歳):大使館参事官、東京。
  • 1942年(52歳):国務省に帰省、ワシントンD.C.。アメリカ大使、代理大使、モスクワ。
  • 1943年(53歳):連合国救済復興機関(UNRRA)を組織するために、合衆国に帰国。
  • 1944年(54歳):元大使ジョセフ・グルー(Joseph Grew: 1880-1965)の特別補佐官。
    国務・陸軍・海軍調整委員会の極東小委員会の委員長。
  • 1945年(55歳):ポツダム会議の極東問題アドバイザー。
  • 1944-45年:戦略諜報局に対する日本関係アドバイザー、ワシントンD.C.。

太平洋問題調査会に関する公聴会

 上記の経歴からわかるのは、ドゥーマンが1931年の満州事変から日中戦争、真珠湾攻撃、太平洋戦争、終戦と日本占領まで、日本の動向をアメリカ政府に報告し、日本政府との折衝を担ってきた歴史の証人だということです。アメリカの外交文書には1934年からドゥーマンの名前が登場しますが、アクセスできる範囲内の一次資料で興味を持ったのは、1945年11月から46年5月まで続いた「真珠湾攻撃に関する米議会アメリカ議会合同調査委員会」(以後「真珠湾攻撃に関する調査委員会」(Joint Committee on the Investigation of the Pearl Harbor Attack)と、1951年の「太平洋問題調査会に関する連邦議会上院司法委員会国内治安小委員会公聴会(以後「太平洋問題調査会に関する公聴会」(Hearings before the Subcommittee to Investigate the Administration of the Internal Security Act and Other Internal Security Laws of the Committee on the Judiciary United States Senate, Eighty-Second Congress, First Session on the Institute of Pacific Relations)です。

 時系列的には後になりますが、「太平洋問題調査会に関する公聴会」でドゥーマンが証言していますので、その証言を翻訳紹介します。「太平洋問題調査会に関する公聴会」が始まった原因は、赤狩りとかマッカーシズムと呼ばれる共和党上院議員ジョセフ・マッカーシー(Joseph McCarthy: 1908-1957)が始めた反共運動です。攻撃対象にされた中国研究者オーウェン・ラティモア(Owen Lattimore: 1900-1989)が関わっていた「太平洋問題調査会」の関係者を調査するために上院で調査委員会が設立されました。その公聴会が1951年7月25日から1952年6月20日まで続き、66人が証人喚問され、ドゥーマンもその1人でした。実はこの委員会は2つ目の調査委員会で、最初の委員会の結論がマッカーシーの糾弾を「詐欺、でっち上げ」と判断したため、マッカーシーと同じ反共主義者の上院議員マッカラン(Pat McCarran: 1876-1954)を議長として調査委員会が再度編成され、ラティモアが再び攻撃されました。最終報告書によると、この委員会の目的は以下のように記されています。

 太平洋問題調査会の影響力に関する「太平洋問題調査会に関する公聴会」の結論は以下のように記されています。

 ラティモアが自分は共産主義者ではないと訴えたことを虚偽証言とされて、裁判になりますが、その経緯をラティモアの訃報記事(1989,(注3))で『ワシントン・ポスト』が伝えていますので、抄訳します。

 ジョセフ・マッカーシーに「合衆国におけるソヴィエトの最高スパイ」と糾弾され、その後初期冷戦期間で最も有名で議論となった裁判の1つで無罪となったオーウェン・ラティモアが88歳で亡くなった。(中略)ラティモア氏は西洋で一流の中国研究者の一人だった。1950年にマッカーシーが彼を糾弾した時、ラティモア氏はジョンズ・ホプキンス大学の国際関係学部の学部長だった。この頃、合衆国中で反共の傾向が激しくなっていた。この後の5年間ラティモア氏がマッカーシーの告発と戦う間、彼の名前は国中で誰もが知るところとなった。マッカーシーは国務省とその他の政府機関と大学が共産主義者とその支持者たちに侵入されたと糾弾し、それが第一面の見出しになっていった。(中略)

 彼の糾弾を調査する上院委員会が編成され、委員会はマッカーシーの告発は「詐欺で、でっち上げ」だと判断したが、パット・マッカラン上院議員を議長とした2つ目の委員会が太平洋問題調査会の理事として、その雑誌『太平洋問題』(Pacific Affairs)の編集長としてラティモア氏を更なる証言に召喚した。ラティモア氏は委員会で「私は共産主義者ではないし、なったこともなく、ソヴィエトのスパイや支持者でもないし、共産主義や共産主義者の利益のいかなる形の推進者でもありません。全てがナンセンスです」と証言した。この証言が事実ではないとして政府は彼を偽証罪で告訴した。しかし、この起訴は地方裁判所に斥けられ、告発は「根拠がなく、不明瞭」と判断された。(中略)

 この裁判官は1955年1月にラティモア氏に対する新たな偽証罪の起訴を再び斥け、政府は全ての起訴を取り下げた。ラティモア氏はジョンズ・ホプキンス大学の国際関係学部長の役職を退いたが、講師として在籍し続けた。1963年にイギリスのリーズ大学(University of Leeds)に招待されて、中国研究学部を設立し、1975年に引退した。

「太平洋問題調査会に関する公聴会」におけるドゥーマンの証言

 この公聴会でドゥーマンに対してどんな質問がされ、ドゥーマンがどう証言したのか見ます。ドゥーマンの証人喚問は1951年9月14日でした。まず宣誓が行われ、氏名・職業が聞かれます。この時点では引退していると答えたので、国務省でどんな地位にあったのか聞かれて、1945年8月31日に引退するまでの経歴を述べてから、以下のようなやりとりが続きます。主な質問者のモリス氏は小委員会の弁護人です。ドゥーマンはD、モリスはMとイニシャル使用で抄訳します(注4)。原文にはない小見出しを適宜つけます。

M:あなたが国務省での最後の役職として述べた極東委員会の重要性について説明してください。

D:様々な省、主に国務省、陸軍省、海軍省ですが、これらの省の間で、交渉を通して戦争で起こる問題を話し合うことが不十分だと、それまでに感じられていました。そして1944年だったと思いますが、国務・陸海軍調整委員会として知られる委員会が編成されました。この委員会のメンバーは、それぞれの省の次官補で、委員長は国務次官補のジェームズ・ダン(James Dunn: 1890-1979)でした。この調整委員会の下に小委員会が2つあり、1つはドイツ、もう1つは日本で、この小委員会の機能は、共同協定や、政治的軍事的内容に関する様々な問題を3省のリーダが話し合う会議をまとめることでした。

 極東に関する小委員会の委員長は私でした。その機能は主に日本に関する政策を作成し、まとめることでした。軍事的政治的内容です。ですから、日本に関する政策面で決められた最終決定の全ての大元だと言えると思います。

M:ドゥーマンさん、オーウェン・ラティモアが国務省の中国デスクのチーフのコンサルタントとして提案されたことがあるか覚えていますか?(中略)

D:1945年の早い時期だったと思いますが、私は今申したように、極東小委員会の議長でしたから、極東部(Far Eastern Division)、当時は極東オフィスと呼ばれていた部局の機能にも運営にも興味はありませんでした。しかし、このオフィスの一人が、ラティモア博士を中国部局のアドバイザーに任命するよう呼びかける書類が国務省内で出回っていると私に伝えました。その書類は中国部局のチーフが主導したとのことです。

M:それは誰だったのですか?

D:ジョン・カーター・ヴィンセント氏です。この件を当時極東部長だったバランティン氏(Joseph Ballantine:1888-1973)と話し合い、ラティモアは当時とその数ヶ月前から、当時の国務省長官代理だったグルー氏を貶める言動を繰り返していたこと、グルー氏に関してそんな発言をする人をグルー氏の下の地位に就けることは不適切ではないかと指摘しました。そして、この件をグルー氏に報告したところ、人事担当者を呼んで、その書類を握り潰すよう命じました。

グルーの不干渉の提案

イーストランド議員:ラティモア氏のグルー氏に対する苦情は何だったのですか?

D:それは長い話になります。

イーストランド議員:それはグルー氏が極東における共産主義に反対し、共産主義者たちが日本を占領することを防ぐための平和条約を望んでいたからじゃないですか?

D:苦情の主な原因は、グルー氏が主張していた、アメリカは日本が制定したい政府の形に介入しないという態度を取るべきだという点です。つまり、もし日本が天皇を維持したいと望むなら、ぜひそうさせるべきだ、もし日本が君主制を廃止したいと望むなら、ぜひ廃止させるべきだというものです。

イーストランド議員:なぜ共産主義者は天皇を倒したいのですか?

D:おっしゃった点は、アメリカだけでなく世界中の共産主義者の主要点の1つです。彼らはもちろん、共産主義と君主制は矛盾するとよく知っています。ですから、最初に君主制を廃止するのです。また、日本で共同体社会が2000年続いたのは、天皇が国家を統一する要素が大きな理由だということも共産主義者たちはよく知っています。これは私も理解できないことですし、西洋人は誰も理解できないと思いますが、これが事実です。

イーストランド議員:ラティモアはその事実を理解していましたか?

D:ラティモアは国をまとめるのは天皇だという事実を理解していました。

イーストランド議員:グルーに対する彼の反感は、戦争に勝った後、共産主義者に日本を占領させない政策をグルー氏が支持していたからじゃないですか?要するに、そういうことじゃないですか?

D:あなたの質問に答えるとしたら、大きくは意見の相違です。

イーストランド議員:それがあなたの判断ですか?

D:これが私の判断です。(pp.704-5)
(中略:ニューヨークで発行された共産党政治協会の綱領が読み上げられます)

D:今思い出しましたが、この件の2週間後ぐらいに、ジョン・ホプキンス大学の学長イザイア・ボーマン(Isaiah Bowman: 1878-1950)が大統領に面会に来ました。1945年2月頃だったと思います。ラティモア氏の件で、国務省に介入してくれないかと頼みました。国務省に持ち上げられましたが、何も起こりませんでした。(p.707)

(中略:ヴィンセントについての質問)

1 “Eugene H. (Hoffman) Dooman papers”, Hoover Institution Archives, Stanford University
http://pdf.oac.cdlib.org/pdf/hoover/reg_312.pdf
2 ”Institute of Pacific Relations—Report of the Committee on the Judiciary Eighty-Second Congress, Second Session, Pursuant to S. Res. 366 (81st Congress), A Resolution Relating to the Internal Security of the United States, Hearings Held July 25, 1951-June 20, 1952 by the Internal Security Subcommittee, July 2 (legislative day June 27), 1952”, Washington, 1952. Hathi Trust Digital Library
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uc1.$b643218
3 Bart Barnes, “China Expert Own Lattimore, Victim of McCarthysim, Dies”, The Washington Post, June 2, 1989.
https://www.washingtonpost.com/archive/local/1989/06/02/china-expert-owen-lattimore-victim-of-mccarthyism-dies/6081c429-de4c-4506-a689-2c3c173145e4/
4 ”Hearings before the Subcommittee to Investigate the Administration of the Internal Security Act and Other Internal Security Laws of the Committee on the Judiciary United States Senate, Eighty-Second Congress, First Session on the Institute of Pacific Relations, Part 3”, United States, 1951. Hathi Trust Digital Library
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uc1.a0002243236&view=1up&seq=5