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英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-3-7)

国務省の広報ラジオ放送「我々の日本占領政策」(1945年10月7日)の内容にドゥーマンが異議申し立てをしたこと、アメリカ上院「太平洋問題調査会に関する公聴会」(1951)でのドゥーマンの証言の最後の部分を紹介します。

「国務省ブルティン 我々の日本占領政策」(1945年10月7日)の最後の部分です。(注1)適宜、原文にはない小見出しをつけます。回答者の役職は6-7-3-5をご覧ください。

アメリカは日本社会党を全面的に支持し、国家神道を廃止する

インタビュアー:
最近の興味深い出来事は、日本でリベラルで急進的な感情が戻ってきたことです。前労働・社会政治グループが一緒になって1政党、社会党になったそうですが、この件で我が国はどんなスタンスを取るのですか?

ヒルドリング:
それが本当なら、日本における全ての民主的傾向を支持する我々の政策に沿って、社会党にあらゆる支持を与えます。そして全ての民主的グループを軍国主義狂信者から守ります(訳者強調)。
(中略)

インタビュアー:
もう1つ鍵となる重要な問題ですが、神道についてどうするんですか。特に「国家神道」と呼ばれる国家主義の宗教となっている一派です。

ヴィンセント:
神道は日本人個人の宗教である限りは介入すべきものではありません。しかし国家が管理する宗教としての神道は廃止されなければなりません。国家神道を支持するために国民に課税されることも、学校に神道が入る場もありません。
(中略)

インタビュアー:
日本の学校制度の一掃はどうなんですか?相当めんどうな仕事ですよね。

ヴィンセント:
しかし、日本人は学校の一掃に協力しています。極度な国家主義教育を受けた教師は全員排除されます。小学校は出来るだけ早く再開されます。

デニソン:
学校制度が本当の変化が始まる場所です。若い世代に民主主義を理解させる教育をしなければなりません。年上の世代も同じです。

インタビュアー:
それは随分長い時間がかかりますね。

デニソン:
どのくらいかかるかというのは、我々がいかに速く指令を実施できるかにかかっています。我々があらゆるチャンネル—教科書・新聞・ラジオなど—を通して日本国民に届いたら、あなたが考えるほどの時間はかからないかもしれません。

インタビュアー:
その楽天的観測のベースは何ですか、デニソン大佐?

デニソン:
日本の外で多くの日本人を観察する機会がありました。ハワイの日系アメリカ人とか。彼らは子どもが7歳になると、祖父母と暮らすために1年間日本に送ります。日本の生活とハワイの生活の違いがとてもはっきりして、大多数は完全に合衆国に忠誠的な人間としてハワイに戻ってきます。戦争中に彼らの忠誠心は証明されました。

インタビュアー:
その忠誠心を説明するものは何ですか?

デニソン:
単にアメリカの生活スタイルの方が好き(原文強調)ということです。7歳では、アイスクリーム・映画・漫画などですが、年上になると、もっと重要なことについて学び理解し、評価できるようになります。日本の人々も我が国の生活スタイルが好きになると信じています。彼らが本当の市民的自由の味(訳者強調)を覚えたら、二度と昔のやり方に戻りたいとは思わないでしょう。

日本人は服従・従順を吹き込まれているから、本当の民主主義は育たない

ヒルドリング:
私も同意します。実際、人々を民主主義に向ける再訓練に関しては、日本はドイツほど問題がないということもかなりあり得ると思います。ナチは非常によく訓練され、洗脳されていたので、その殻を打ち砕くのは大変です。日本人は服従・従順という1つの基本的思想を吹き込まれていますから、扱うのは簡単です。(p.742)

ヴィンセント:
大佐、それはむしろ難しくしているかもしれませんよ。それをどう見るか次第です。日本で本当の機能する民主主義がなければならないとしたら、服従という特性は進取の気性にとって変わらなければなりません(訳者強調)。

インタビュアー:
ヴィンセントさん、占領下の日本人の態度についてお話し願えませんか。

ヴィンセント:
新聞が多くを語っています。私が今ここで言えることは、日本人は諦めて敗北を受け入れているが、どんな対応を受けるのか心配しているということです。占領軍に協力する気持ちはあるという証拠がたくさんあります。しかし、長い間軍隊の支配に耐えてきたので、健全な民主的リーダーシップの出現には時間と励ましが必要です。

 私たちは「東洋を急かす」ようなことも、マッカーサー将軍を急かすこともしてはいけません。社会・経済・政治体制の改革は穏やかなプロセスで行わなければならないし、賢く始めて、慎重に育んでいかなければいけません。(p.743)


 アメリカ上院「太平洋問題調査会に関する公聴会」(1951)におけるドゥーマンの証言の中で、国務省の広報ラジオ放送「我々の日本占領政策」でヴィンセントが表明した占領政策にドゥーマンが異議申し立てをした箇所から抄訳します。重複する部分がありますが、流れ上、ドゥーマンが読み上げたその箇所を含めます。

ドゥーマンが異議申し立てした占領政策内容

M:つまり、ヴィンセントの立ち位置は絶えず、7000万から8000万人の日本人が生計を立てるのは、できるだけ日本の4島の都市部で見つけられるものに限るというものですね?

D:その通りです。言い換えれば、農業と漁業と日本人が支えられる程度の小規模産業に強調点が置かれています。
(中略)

M:ドゥーマンさん、この[ラジオ放送の]トランスクリプションの中で特に強調したい箇所があったら教えてください。(p.735)
(中略)

D:個々のヒルドリング大将が話している箇所です。[ドゥーマンが読み上げる](p.743)
(中略)

D:これがヴィンセント氏の考え方を示す点です。つまり、日本は主に本州とその他の島にある資源だけで生きるべきだ、農業と漁業と消費者製品の開発に努力を集中させるべきだと言うのです。先ほど申し上げたように、日本はペンシルベニアの1/4に相当する土地で、そこから生み出すもので8500万人に生計を立てろ、しかも鉄・鉄鋼・石炭・綿・羊毛、その他の一次原料や天然資源がない国です。(pp.743-4)

M:ドゥーマンさん、現時点でその結論を裏付けるその他の資料がありますか?議事録に残したいという。

D:マッカーサー将軍が9月1日だったと思いますが、声明を出した…。

M:何年ですか?

D:すみません、1946年です。日本占領の1周年記念に日本国民に向かって、左翼からも右翼からも危険があると警告する声明を出したのです。

 言い換えれば、彼は共産主義の危険性を警告したのです。実際に、その後、1947年2月に共産主義者たちがゼネストによって国を乗っ取ろうとしましたが、マッカーサー将軍がそれを止めました。しかし、『ヘラルド・トリビューン』が1946年9月3日にワシントン特派員のジョン・メットカーフ氏(John Metcalfe)の記事を出し、国務省がマッカーサー将軍の日本国民に向けた宣告に対し非常に不快を示したという記事でした。読み上げてよろしいですか。

 国務省の消息筋によると、日本で「共産主義」の叫びをあげるようにと国務省が望んでいるという指令をマッカーサー将軍に出したことはないという。マッカーサーの声明にあるコメントに驚愕しているという。彼は日本列島が「平和の強固な防波堤か、または戦争への危険なスプリングボード」になると言ったのだ。

 目下世界でアメリカとソヴィエトの関係が微妙になっている最中に起こったこの事件が特に腹立たしいとここ[ワシントン]で受け止められている。

 アメリカの極東における外交政策の目的は、正当で恒久的な平和を確立することだと、国務省の消息筋は語った。「ソヴィエト・ロシアに対する友情の橋を建設する」ことを目指しており、「共産主義に対する防波堤」を建てるつもりはないし、反ソヴィエト感情を鼓舞するつもりもないと情報筋は言った。

議長:それは何年ですか?

D:1946年9月3日です。(p.744)
(中略)


 この後に公聴会議事録に『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』の記事が上記のものを含め、4種類掲載されます。いずれも、マッカーサー将軍と国務省との軋轢を伝えるものです。

 弁護人モリスはアメリカ議会図書館所蔵の志賀義雄(1901-1989)と徳田球一(1894-1953) 共著の『獄中十八年』(1947)の英訳から引用して、読み上げました。その箇所の要約は以下です。

  • 府中刑務所に収監されていた二人が終戦をラジオで聞き、10月4日にSCAP(連合国軍最高司令官総司令部)が政治犯の釈放を指示したこと。
  • アメリカ軍の報道官が刑務所にやってきて、政治犯がいないか看守に尋ねたところ、回答は「いない」だった。
  • 9月30日にアメリカ、フランスのジャーナリスト3人が刑務所の見学を装って来て、看守を追求した。志賀と徳田が収監されている所に来て、”Where is Mr. Tokuda? Where is Mr. Shiga?”と叫んだのが18年間で初めて聞いた外の声だった。
  • 10日後にSCAPとエマーソン(国務省)、ハーバート・ノーマン(E. Herbert Norman: 1909-1957,カナダ人外交官, 日本研究家)が迎えに来た。

 モリスの質問は、この引用箇所のエピソードを国務省の人間から聞いたか、このエピソードは日本では常識的によく知られていたかでした。ドゥーマンは国務省の人間からも聞いたし、日本人の知り合いからも聞き、日本ではよく知られたエピソードだと証言します。

 モリスの質問は、アメリカ人とカナダ人の役人が2人の共産党員を公用車で迎えに来たことで、日本共産党に100,000人の新入党者が増えたのではないかという点でした。

 ドゥーマンの証言はp.754で終了します。

ハーバート・ノーマン

 カナダ政府のサイトに「ハーバート・ノーマン図書館」の紹介があり、ノーマンが生涯、カナダと日本の相互理解と友情に貢献したと記され、彼が「狂信的なマッカーシズムの嵐に巻き込まれ、1957年4月4日にカイロに赴任中に自殺した」とマッカーシズムを自殺の原因と明記しています(注2)。ドゥーマンとの共通点は、ノーマンも宣教師の息子として日本(軽井沢)で生まれ、1940年に東京のカナダ公使館に勤めて、戦後、1946年に駐日カナダ代表部主席に就任したことです。日本研究者としても著名でした。マッカーシズム・赤狩りは有能で貴重な「専門家」を破滅させました。

1 ”Hearings before the Subcommittee to Investigate the Administration of the Internal Security Act and Other Internal Security Laws of the Committee on the Judiciary United States Senate, Eighty-Second Congress, First Session on the Institute of Pacific Relations, Part 3”, United States, 1951. Hathi Trust Digital Library
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uc1.a0002243236&view=1up&seq=5
2 “E. Herbert Norman”、カナダ政府
https://www.canadainternational.gc.ca/japan-japon/library-bibliotheque/ehnorman-biography-biographie.aspx?lang=eng
日本語版:https://www.canadainternational.gc.ca/japan-japon/library-bibliotheque/ehnorman-biography-biographie.aspx?lang=jpn