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英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-16-4)

日清戦争当時、日本中が熱狂し、内村鑑三が「義戦」と熱烈に支持した戦争が、ソウル・北京・東京のアメリカ公使が国務省に報告した外交文書からは、日本が不当に仕掛けた戦争だったことが見えて来ます。

日清戦争を野蛮対文明の戦い、義戦と支持した知識人

 日清戦争(1894-95)当時のメディアも世論も戦争を熱狂的に支持しました。福澤諭吉や内村鑑三などの知識人までもが日清戦争を支持していたのは驚きです。福澤諭吉(1835-1901)は1875(明治8)年初版の『文明論之概略』の中で、ペリーの開国要求を「我と商売せざる者は之を殺すと云うに過ぎず」((注1), p.22)、欧米文明の中での「国と国との交際に至ては唯二箇條あるのみ云く平時はものを売買して互に利を争い事あれば武器を以て相殺すなり言葉を替えて云えば今の世界は商売と戦争の世の中と名くるも可なり」(pp.12-13)と述べていました。その約20年後に日清戦争を「『文明と野蛮の戦い』と捉え、この『文明の戦争』のために国民は一心協力すべきだ、たとえば軍費を醵出きょしゅつしようではないか、とその主宰する『時事新報』の社説(明治二十七年七月二十九日=豊島沖の海戦の捷報しょうほうが伝えられた日)で説いた」と指摘されています((注2), p.303)。

 一方、内村鑑三(1861-1930)は日本から世界に発信する英字新聞The Japan Weekly Mailの1894(明治27)年8月11日号に”Justification for the Korean war”(コリア戦争の正当性)を、その日本語訳「日清戦争の義」を『国民之友』(9月3日号)に掲載しました。なぜ欧米読者宛には「コリア戦争」と言っているのかは、アメリカ外交文書を読むとわかります。

 「吾人は信ず日清戦争は吾人に取りては実に義戦なりと、其義たる法律的にのみ義たるに非らず、倫理的に亦た然り」((注3), p.105)と宣言して、その理由を述べています。しかし、終戦の頃には「義戦」ではなかったことを知り、世間に「義戦」と訴えたことを恥じ、日露戦争(1904-05)時には、戦争に「義戦」などはないとして「非戦論」を訴えます(注4)

アメリカ外交文書から見る日清戦争

 1894年のアメリカ外交文書補遺に「中国-日本戦争」(Chinese-Japanese war、(注5))という題名で、日清戦争が始まるまでの経緯を詳細に報じたものがあります。1893年の東学党反乱の鎮圧を名目として日本がソウルに派兵した時から1895年3月の下関条約交渉までのアメリカ国務省と北京、ソウルのアメリカ公使とのやり取りが掲載されています。総ページ数100ページ、電信文書数110以上の詳細な内容です。日本で「義戦」、「文明の戦争」と熱狂的に支持された戦争が中国、朝鮮、アメリカではどう理解されていたのか見ます。なお、アメリカ外交文書でも英米メディアでも国名はChina, Koreaとなっているので、「中国」「コリア」と訳します。「コリア」の綴りはこの時期のメディアではCoreaとKoreaが混用されていますが、外交文書は一貫してKoreaです。

東学信者の請願

 「中国-日本戦争」の文書No.1はソウルのアメリカ総領事オーガスティン・ハード(Augustine Heard: 1827-1905)から国務長官ウォルター・グレシャム(W.Q. Gresham: 1832-1895)宛の3ページ半にわたる報告です。これ以降「ソウル発」と表記する文書は在ソウル・アメリカ公使館から国務長官宛に出された文書です。重要と思われる文書を抄訳します。

No.1、ソウル発、1893年4月4日(pp.5-8):

 2,3日前から、40人ほどの男たちが宮殿の門の前に跪き、宮廷の役人が出てきて、彼らの請願書を受け取って、国王に渡してくれることを要求している。この男たちは1859年に起こった新興宗教の代表者たちで、創始者・崔済愚(チェ・ジェウ、さいせいぐ Che Cheng: 1824-1864)は1864年に全羅道(チョルラド)の知事によって、異端者・魔術師として処刑された。この宗派を根絶するために、あらゆることが行われてきたが、迫害されたからか、逆に信者が急増し、主に南部で現在数千人の信者がいる。

 請願書の内容はわからないが、第一の目的は創始者の処刑の罪状を取り消して、彼らの信仰を認めてほしいというものだと言われている。また、外国人とキリスト教への抗議と、コリア国王が介入するよう求めているらしい。今、門前にいるのは40人だけだが、ソウル市内に数百人から数千人いると見られており、40人が疲れた頃、新たなメンバーに代わる。東学の現在のリーダーによると、東学は1859年に儒教・仏教・道教をもとにした[西欧に対する東の]教えを立ち上げた。

 東学による欧米牧師の襲撃が続いており、コリア政府はジレンマに陥っている。もし請願書を受け取ったら、外国に敵対することになる。無視したら革命が起こると。3月31日に国王は決断を下し、門前の信者を追放した。請願書を受け取らなかった理由は適切な手続きを経なかったからだった。翌日、国王は詔勅を出し、東学信徒に対して、間違った教義を捨て、正しい儒教の教えを学ぶよう父親のように諭した。

東学から日本公使館への警告

No.4、ソウル発、1893年4月20日(pp.10-11):

 学者や役人の団体が東学信者を厳しく罰してほしいと国王に嘆願書を出した。[アメリカ総領事の感想]コリアンは平和的な性格で、暴動は長いことなかったため、外国人(欧米人)には危機感は全くない。

 4月13日に日本領事が日本人住民に警告を発した。女子どもは仁川(インチョン、Chemulpo)に移動できるよう準備をすること;コリア当局は全力で守ろうとするだろうが頼りにならないから、頑強な男たちは警察か公使館に知らせよ。この警告を入手したアメリカ総領事は日本領事に、どんな情報に基づいての警告か尋ねたら、噂だという。

日本公使館の警告に反応して東学が日本公使館にプラカードを貼った。アメリカ公使館による英訳(p.14)の一部

 あなた方は強欲におせっかいに他国にやってきて介入し、衝突するのを主な仕事とし、自分たちの起源を殺害する。一体これはどんな精神なのか、なぜこんなことをするのか? 以前、1592年[豊臣秀吉の朝鮮出兵]に日本が国中の軍力を集めてコリアを侵略し、完全に全滅してから戻ったことについて、コリアはどんな許されない罪を犯したというのか? 私たちは本当に悲しく悲惨だった! これをどうして忘れられようか! 私たちには忘れることのできない敵意が本当にあなた方に対してある。しかし、あなた方が私たちに敵対する忘れられない思いとは何なのか?

 なぜあなた方は東方の国(コリア)の賢者にもう一度耳を傾けないのか?(中略)できるだけ早くあなた方の国に帰れ。

訳者注:「自分たちの起源を殺害する」の英訳は”murder the origin [of your coming]”となっていて、[ ]内は英訳者の補足です。これは、日本が朝鮮半島から渡来人が技術・文化をもたらして成り立った国を意味した”origin”(由来、素性、原点)と理解できます。

 昭仁上皇も2001年に「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」と認めています(注6)。また勝海舟は上記の東学の主張の書かれたちょうど1年後の1894(明治27)年4月に「朝鮮は昔お師匠様」という趣旨の談話をしています。東学の主張と重なる貴重な内容なので引用します。

朝鮮を馬鹿にするのも、たゞ近来の事だヨ。昔は日本文明の種子は、みな朝鮮から輸入したのだからノー。特に土木事業などは、ことごとく朝鮮人に教わったのだ。いつか山梨県のあるところから、石橋の記を作ってくれ、と頼まれたことがあったが、その由来記の中に「白衣びゃくえの神人来りて云々」という句があった。白衣で、そしてひげがあるなら、疑いもなく朝鮮人だろうヨ。この橋の出来たのが、既に数百年前というから、数百年も前には、朝鮮人も日本人のお師匠様だったのサ。((注7), p.248)

中国軍と日本軍の朝鮮出兵

No.5, ソウル発、1893年5月1日(pp.14-16):

 騒動があるという南部へ調査に言っていたコリアンと、南部から来たカトリック神父の話では東学の集会も騒動もない。

No.6, ソウル発、1893年5月16日(p.15):

 東学信者数千人が忠清道(チュンチョンド)の東部に集結し、その数は日毎に増えているという報告。彼らは武器はないが、毎日訓練し、野営地に塀を築き、真ん中に「日本人と外国人をぶっ潰せ! 正義が栄えますよう!」と書かれた大きな旗を立てて、周囲には小さな旗にそれぞれの出身地を書いている。役人が解散するよう言ったが、彼らは聞く耳を持たず、軍隊を求めた。

 5月15日に西洋式訓練を受けた800人の部隊が道を封鎖するために出動した。東学の旗には暴力的なことが書かれており、外国人は恐怖を感じているが、私[アメリカ総領事]は実際に暴力があるか疑問視している。彼らがソウルに到着しても、恐れなければいけないのは都市の暴徒の方だ。東学自身は危険ではないと信じている。彼らは静かで平和的で、創始者の名誉回復と自分たちの宗教を認めてほしいだけだ。彼らは極貧の人々を集め、政党の支配下にあるのかもしれないが、その党が何かわからない。

金玉均の暗殺報告

No.7, ソウル発、アメリカ公使館書記官・アレン(H.N. Allen: 1858-1932)から国務長官宛、1894年4月6日(pp.16-7):

 3月30日早朝に国王の役人がやってきて、1884年の革命の首謀者で日本に亡命していた金玉均(キム・オッキュンKim Ok-kiun: 1851-1894)が上海のアメリカ居留地で同じコリアン洪鐘宇(ホン・ジョングHong Chong-oo、パリに数年暮らした)に暗殺されたと報じた。この二人は親しく、ホンが一緒に上海に行こうと誘ったようだ。陛下は暗殺者をコリアに連れてきて裁判にかけたいと切望しているので、上海のアメリカ総領事に電報を打って、逮捕に協力してほしいと依頼した。しかし、ハンター氏は介入を断ると返答した。

 しかし、ホンは中国当局に逮捕され、間もなく軍艦でコリアに送還する。東京で似たようなことが起こり、Yeという男が国王の署名で別の謀反人Pak Yung-hoを殺せという指示を携えていると主張し、Pakの通報で日本の警察が逮捕した。Yeは別の共謀者Hongの証拠も提供した。後者はコリア公使館に亡命した。日本政府はコリア代理公使にホンを裁判にかけるので引き渡すよう依頼したが、彼は自分が法廷で判事として出席しない限り、引き渡さないと拒否した。日本側はこの条件を拒否し、日本の外務省の命令により警察がコリア公使館に侵入してホンを収監した。これが宮殿からの情報です。

No.8, ソウル発、4月17日(p.17):

 金玉均の死体と殺人者洪が中国の軍艦で今月12日に仁川に運ばれ、コリア政府に渡された。死体はすぐにソウルに運ばれ、そこで切断されて、遺体が国中に送られた。切断は14日の夜行われたが、その朝、外交主席の大鳥(圭介:1833-1911)氏が外国代表全員を招集して、日本の外務省の指示でコリア政府に切断に対して抗議するので、参加してほしい、しかし強要はしないと言った。我々全員の思いは、非公式の個人的見解は別として、この国の習慣に介入しない方がいいというものだった。

内村鑑三著「日清戦争の義」より

人情を有するものにして何人か近頃朝鮮人金某氏に加えられし暴虐に堪ゆるを得んや、彼は長く日本国民の客たりしもの、然るに支那本土に於て支那制御の下にある朝鮮政府の教唆に依て暗殺せられ、彼の死体は暗殺者と共に支那帝国の軍艦を以てゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝ(原文強調)朝鮮国に護送され、死体は肉刑の残害を経て広く国内に暴露され、暗殺者はすべての栄誉を以て冠せられたり、支那は社交律の破壊者なり、人情の外敵なり、野蛮主義の保護者なり、支那は正罰を免かるゝ能わず。((注3), p.106)

国務長官から叱責の電報

No.10, ワシントン発、国務省からソウルのアメリカ公使館宛、5月31日(p.18):

 金玉均の件につき、アレン氏が上海のアメリカ総領事に電報で金玉均の殺人者をコリアの司法に引き渡す助けをするよう依頼したことを、国務省は遺憾に思う。金玉均は上海のアメリカ居留地でコリアンに殺害されたが、これは我が国の総領事が介入する理由には全くならない。総領事の保護と管轄の権限はこの範囲に住む合衆国市民以外には適用しない。その他の件は省略しても、この理由からだけで国務省はアレン氏の行動を承認しない。

イギリス・フランス・中国・日本の軍艦の登場

No.11、ソウル発、6月1日(pp.18-19):

 東学反乱は日毎に数を増し、コリア政府は制圧が難しくなっているので、アメリカ艦隊のスケレット(Joseph S. Skerrett: 1833-1897)提督にコリアにおけるアメリカの権益とアメリカ市民を守るために仁川に軍艦を送るよう依頼した。2,3日前にイギリス・フランス・中国・日本が軍艦を仁川に送った。

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o.12、北京発、アメリカ公使デンビー(Charles Denby Jr.: 1861-1938)から国務長官宛、6月9日(p.20):

 中国はコリア国王の要請に応えて、6日に1500人の部隊を中国の商船で送った。その後、2,225人に増やす予定。中国軍艦2隻も仁川に行くよう命じられた。李鴻章(リーホンチャンLi Hung-Chang: 1823-1901)総督は長いこと迷った挙句に部隊を送った。総督は日本に公式に、問題が解決したらこの部隊を撤退させると確約した。同じ確約をロシア公使にも伝えた。彼はまた、コリアの日本人を守るために軍艦を送ってくれたら嬉しいと日本に言った。中国軍は反乱がソウルに近づくのを阻止するためだと理解されている。

内村鑑三著「日清戦争の義」より

 東学党の南朝鮮に起るや、直ちに傀儡政府に諭して援兵を支那本国に乞わしむ、其目的たるや恩誼を以て益々羸弱るいじゃく政府を縛らんとするにありしは反乱の案外にも微弱にして外人の手を借りずして鎮圧するに至りしを以て証すべし、支那は朝鮮の不能を計りゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝ之をして永く其依頼国たらしめん事を欲せりゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝ、((注3), p.106)

日本軍の条約無視の大規模派兵

No. 13、ソウル発、6月18日(pp.20-21):

 コリア政府は南部の反乱が成功したのに落胆し、急遽中国に派兵を要請したが、中国軍の到着前に反乱の主導者を逮捕し、全羅道の首府を奪還した。日本もコリアに部隊を送り、これをコリア政府が恐れて、中国に撤退を依頼。中国はそうすると約束したが、日本海軍500人が仁川に到着し、6月10日にソウルに進んだので、中国は中国部隊をそのままにした。

 6月13日に日本部隊800人がソウルに来た。日本は仁川に200人部隊を残し、ソウルまでの沿道とその他の重要な場所に配置した。中国とコリアの日本公使・大鳥氏が、日本人住民と公使館を守るための部隊だと言ったが、日本人住民はソウルに1000人、仁川に4000人、釜山と元山(Wensan)に1万人程度いるので、この理由はあり得る。1884年の反乱で60人殺され、1882年の反乱で40人殺されたからと示された。1884年の反乱後、1885年の天津条約で中国と日本はお互いに報告なしにコリアに部隊を上陸させないとなっている。中国はこの条約を守っており、日本もそうすると予想されている。

 16日に日本軍3000人が仁川に上陸。中国の同意なく、仁川の外国居留地の上に砲台を設置し、野営している。完全な条約無視である。アメリカは他の外国と共にこの行動に反対した。コリアは日本に対して酷く警戒している。国王は中国に撤退を懇願したが、中国は日本軍が残る限り撤退できないと拒否した。日本は中国が撤兵しない限り、撤退しないと言う。ここの中国人1000人は非常な恐怖を感じ、明日中国に帰国する。日本軍による広範囲の虐殺を恐れているからだ。

 仁川に6カ国の28隻の軍艦が停泊している。武力衝突が起こった場合、フランスとロシアはどうするかわからない。コリアンは彼らを非常に恐れている。コリア国王はアメリカの軍艦がいることを感謝した。

No.14、国務省から在ソウル・アメリカ公使宛、6月22日(p.22):

 合衆国はコリアとコリア国民の安全に友好国として関心を持っているので、大統領の指示により、コリアにおいて平和的状態を維持するよう最大の努力を払うよう。

No.15、ソウル発、6月24日(p.22):

 中国と日本部隊の存在は大きな危険がある。中国は同時撤退を望み、日本は頑固に拒否。日本側に隠された目的があると疑われる。日本は戦争を望んでいる模様(訳者強調)。コリアの独立が危機にさらされている。国王は根気強く日本政府と折衝している。

内村鑑三著「日清戦争の義」より

吾人の朝鮮政治に干渉するは彼女[コリア]の独立今や危殆に迫りたればなり、世界の最大退歩国が其麻痺的蟠屈の中に彼女を抱懐し、文明の光輝已に彼女の門前に達するにも関せず[中国の]惨虐妄行の尚お彼女を支配すればなり、(p.108、原文は全文に強調記号が付されていますが省略)

正当化できない理由で日本が戦争を起こそうとしている

No.16、ソウル発、6月25日(pp.22-23):

 コリア国王は最初はアメリカの援助だけを頼むつもりだったが、戦闘が起こった場合を考えて、他の列強にも援助を頼んだ。私はイギリス・ロシア・フランス代表と一緒に日本と中国の当局に同時撤退を要望する。ドイツ公使は本国に問い合わせる前に参加することはできないと言った。

 日毎に状況が悪くなっている。日本軍は5000人をソウルに砲台と共に野営している。東京のコリア大使から宮廷宛の電報を見せられた。中国と日本が5000人ずつの部隊でコリアで戦闘する。

No.17、北京発、6月26日(pp.24-25):

 現在まだ4000人の日本部隊がコリアに駐留していること、日本軍が重要な動きのために準備態勢を整えていると知らされた。中国も部隊を増員している。日本公使から、日本軍がソウルを占拠し、中国が15マイル南に野営していると知らされた。日本政府は中国がコリア事情に介入しないと確約しない限り、撤退しないと言った。

 北京では日本の行動は軽率で、不当に好戦的だと批判されている。正当化できない理由で国際紛争もないのに、この2国の戦闘が迫っている。日本軍の戦争用戦力は12万人で、李鴻章総督には欧米式に訓練された5万人の兵士がいる。これ以外に中国全土に外国訓練兵が数千人いるし、旧式の兵士の数は数え切れない。

日本政府のコリア政府に対する要求

No.18、ソウル発、6月29日(pp.25-26):

 26日に大鳥氏が陛下[コリア国王]に書類を渡した。内容は次の通り:日本とコリア両国の安全のためにコリア政府と政策の抜本的改革が必要であり、その改革は日本当局の助言のもとに行うこと、その改革が日本政府と軍に満足いくものでなければ撤退しない。私[アメリカ公使]には、日本がコリアに対し非常に親切に見え、日本はコリアが中国との冊封関係を断ち、その上で、独立国としての地位を強めるために弱い隣国を助けたいと言う思いだけのようだ。

No.19、ソウル発、7月2日(pp.28-29):

 6月28日に大鳥氏がコリア外務省に、コリアが中国の進貢国かどうか翌日までに返答せよと要求した。コリア政府は非常に困っている。否定すれば中国を怒らせ、肯定すれば日本が激怒すると。そして次の回答をした:「コリアは日本と同じ独立国である(1876年の日朝修好条規を見よ)。国内統治でも外交でもコリアは完全な独立性を謳歌している(国王からアメリカ大統領宛の書簡を見よ)」。

 こうして条約を引用して、日本がこの回答に満足する間は攻撃されないと思ったという。日本はこの回答に喜んだと聞いた。

No.21、北京発、7月6日(p.30):

 コリアは危機的な状況で、戦闘が切迫している。日本の攻撃的な行動にもかかわらず、中国政府は和解の態度を示し、イギリスとロシアに平和的解決に努力してほしいと依頼した(訳者強調)。イギリス公使は私[在北京・アメリカ公使]に、合衆国政府に依頼して、列強が共同で日本に戦闘開始することに抗議するためのイニシアチブをとるよう依頼してほしいと言った。私は李鴻章が依頼しない限り、できないと断った。しかし、この危機的状況と中国の態度について国務長官にお知らせする義務があると思った。

No.22、北京発、7月8日(p.30):

 [李鴻章]総督がアメリカ公使館にワシントンに電報を打ってほしいと依頼;列強が共同で日本政府に日本軍の撤退を要請するイニシアチブをアメリカ政府にとってほしい。

No.27, ソウル発、7月18日(pp.31-32):

 日本軍15000人が到着し、他に軍夫3000人で、この輸送に日本の商船が日本とコリアの間で使われるため、外の世界との通信が非常に難しい。日本軍は規律正しく、日本当局はコリアンの間で好評だが、日本キャンプの近くで日本軍がイギリス代表に介入した。

訳者注:この後、イギリス代表と大鳥公使とのやり取りが続き、イギリス側は日本軍に暴行を受けたと主張し、大鳥公使は調査の結果、イギリス公使の言い分を全面否定し、イギリス公使に謝罪を要求すると高飛車な返信をしました。

国務長官は日本が戦争を目論んでいると見る

No.28、国務長官グレシャムから在ロンドン・アメリカ公使トーマス・ベイヤード(Thomas F. Bayard: 1828-1898)宛、7月20日(pp.36-39):

 残念ながら、7月7日以降コリアの状況と中国・日本の関係は良くなっていない。日本と中国の戦争と、それに伴うコリアの悲惨はあり得ないことではない。

 コリア政府はワシントンのコリア公使を通じて、日本と中国の軍隊が駐屯しているためコリアの独立性が深刻な脅威にさらされていること;コリアは独自に自国を防衛することができないこと;コリア政府はアメリカから私心のないアドバイスと友好的な仲介を要望したことを伝えた。私[国務長官]はソウルのアメリカ公使に、コリア政府が把握している危機を回避するために努力するよう指示した。コリアに長く続いた反乱はコリア政府によって鎮圧された。しかし数千人の日本軍部隊と中国部隊がいまだにコリアを占領している。この2国の軍隊の存在はコリアの独立と安全に深刻な脅威である。

 中国は日本と同時撤兵が望ましいと思っているが、日本は戦争を目論んでいるようで、中国の提案を拒否した。コリアはアメリカがコリアの防衛のために調停してくれることを切望している。

 6月28日にコリア公使が再び国務省に来て、ソウルの日本公使が宮殿に行き、コリア政府の政治改革を要求し、その改革が達成できるまで日本軍を撤退させないと言ったと伝えた。コリアは日本に抵抗することができず、コリアはアメリカの利害的関心のない友情に頼った。2,3日後に公使が本国の指示で国務省を3度目の訪問をし、中国・日本・コリアのアメリカ公使がコリアの平和のために尽力するよう、日本軍をコリアから撤兵するよう依頼してほしいと頼んだ。

 これらの会談で私はコリア公使に次のことを伝えた。合衆国はコリア政府に同情し、主権が尊重されることを望んでいるが、我々はコリア政府にも他の国々にも偏りのない中立性を維持しなければならないこと;我々の影響力は日本に対して友好的にだけ行使することができること;いかなる場合でも他の列強と共同で介入することはできないと伝えた。

 6月28日に、東京のアメリカ公使から電報で、コリアの状況と日中関係は非常に危機的だが、日本は友好的な調整を期待しており、日本公使が北京から撤退した場合に、中国にいる日本人と日本のアーカイブをアメリカが守ってくれるか尋ねたと伝えた。国務省からアメリカ公使への指示は、日本政府がそのような措置をとった場合、大統領は友好的に検討するだろうが、中国の同意なしには行えないというものだった。

国務長官の日本批判

 その2,3日後の日本公使と別件で会談した時、私はコリアの不運な状況に触れ、コリア政府が日中軍にコリアの領土から撤退するようアメリカに仲介してほしいと切望していることを伝えた。日本公使はコリアの反乱がコリア政府の悪政と腐敗が原因であること、必要とされているコリアの国内行政の改革が達成するまでは日本軍を撤退させないと言った。私は日米両国が長年特別な友好関係にあるから、自由に言わせてもらえば、コリアの無力に同情しているアメリカとしては、もし日本がか弱い隣国を親切に公平に扱ってくれたらこんな嬉しいことはないと言った。私はさらにアメリカ政府は日中双方に心からの敬意を持っていること、日本がコリア領土で中国に戦争を仕掛ける決意でいることは明らかで、それはここで戦争するのと同じくらい遺憾なことだと言った。日本公使は日本政府はコリアの領土を欲しがっているのではない、平和のための要求だと言い、コリアは独立主権国家だと認めた。

 日本がコリアに派兵した理由を確かめるよう指示された在東京アメリカ公使ダン(Edwin Dun:1848-1931)が7月5日に確かめた結果を伝えた:

最初の派兵は1882年の条約[済物浦(サイモッポ)条約:日朝条約]に基づいて行われ、その後、中国が大部隊を送ったことを知った日本は日本軍の増強が必要になった;コリアの内乱は役人の腐敗と圧政が原因なので将来の平和を保証するためにコリア統治の根本的改革を依頼した;そのため中国と共同行動を提案したが中国政府が断った;コリアの領土に関する計画を否定;日本は中国を無視して改革を進める;北京と東京のアメリカ公使館が交渉を再開するかもしれない。

コリアへの出兵の日本の言い訳

 7月11日に東京のアメリカ公使が電報で、日本政府に国務省の指示を伝えたら、以下の回答が来たと知らせた:

日本軍はコリアで戦争するためにコリアに駐屯しているのではなく、秩序の維持とコリアの独立を確保するため、内乱の再発を防止するため; 日本は役人の腐敗・着服・悪政・不満の真の原因を除くことを望んでいる;中国の曖昧な態度でコリアが必要な改革を採用しなくさせているため、東洋の平和を脅かしている;反乱は完全に治まっていない;日本は撤兵したいが、将来の秩序が確保されるまでは撤兵しない;コリアとの戦争は考えていない。

7月13日に中国公使が国務省に来て、私[国務長官]に伝えたこと:
中国はコリアから全外国軍が同時に撤兵することを提案したが、日本は拒絶した;中国の政策は平和政策であり、日本とも他のどの国とも戦争したくない。

私[国務長官]は合衆国は中国とも日本とも友好関係を続け、増強することを望んでいる;両国政府が平和的関係を維持することを切望しているが、斡旋以上の介入はできない;それ以上のことをする権利も思いもない;大統領の指示で、東京のアメリカ公使を通して、平和のために友好的だが強い意見表明をしたから、それ以上は何もできない;他国と連合していかなる介入もできない。中国公使は日本が撤兵を拒否していると繰り返し、列強が強い影響力を日本に公使しない限り戦争は不可避だと恐れていると言った。

訳者コメント:この3日後に日本軍はコリア国王の宮殿に押し入り、宮殿を占拠しました。「ソウル市は大混乱、アメリカ公使館は避難民で一杯になった」と7月24日のソウル発報告は伝えています。そして海戦が始まり、8月1日に日本の宣戦布告の報告が入ります。これが「義戦」だと日本では報道され、祝賀ムードで満たされたようです。

1 「文明論之概略」巻之六、第十章「自国の独立を論ず」、『福澤諭吉全集巻三』、時事新報社、明治31(1898)年、国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898729
2 松本健一『明治天皇という人』、毎日新聞社、2010.
3 『内村鑑三全集 3』岩波書店、1982.
4 鈴木範久「解説」、内村鑑三・鈴木範久(訳)『代表的日本人』、岩波文庫、1995.
5 ”Chinese-Japanese War”, Appendix I, Foreign Relations of the United States 1894, Department of State, 1895, pp.5-106. ハーティトラスト・デジタル・ライブラリー
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=hvd.32044106525116
6 「天皇皇后両陛下 『高麗神社』参拝で伝えた平和への願い」『NEWSポストセブン』2017年9月28日
http://news.livedoor.com/article/detail/13673606/
「『韓国ゆかり』衝撃与えた現天皇『統合』背負う新天皇」『朝日新聞DIGITAL』2019年4月29日
https://digital.asahi.com/articles/ASM4Q4J8ZM4QUPQJ001.html
7 江藤淳・松浦玲(編)勝海舟『氷川清話』、講談社学術文庫、2000.