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英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-8)

パナイ号事件について、中支那方面軍司令官・松井石根大将が『ニューヨーク・タイムズ』の特派員を呼び出して、米国の新聞を使って自分の地位保全を図る計画に協力を求めました。

『ニューヨーク・タイムズ』のパナイ号爆撃報道8日目:1937年12月20日 続き(注1)

 日本陸軍の幹部たちは、パナイ号を機関銃で掃射する命令が1936(昭和11)年の陸軍クーデターのリーダーだった橋本欣五郎[1890-1957]大佐によって出されたことを知った。彼の懲戒の問題をめぐって、陸軍最高司令部の中で厳しい闘争が進行中だ。彼は今まで処罰を逃れるために政治力を使ってきたので、今回もし逃れたら、規律が影響を受けると保守系将校たちが心配している。揚子江の日本海軍長谷川少将は調査の結果パナイ号の空爆は意図的ではないことが証明されたと言った。

レディーバード号号爆撃の首謀者は2.26事件の首謀者

 日本軍が中国軍と延長し続ける前線で戦闘している一方、陸軍最高司令部ではさらに厳しい戦いが繰り広げられている。この激しい戦いは12月12日に日本兵が発動機艇から合衆国砲艦パナイ号に機銃掃射した時に頂点に達した。なぜなら、これが橋本欣五郎大佐の個人命令で行われ、揚子江地域の最高司令官の松井石根(1878-1948)大将がこの大佐をあえて処罰するかを上級将校たちが疑い始める状況になっているからだ。

 どの国の陸軍でも、大佐が自分の将軍の権力を試すことをあえてするとは、外部の人間には信じられないことだ。この危機的状況は橋本大佐が1936年2月26日に東京で起こった悪名高い陸軍クーデターの首謀者の一人だったということで説明される。この事件では内閣の数人が殺害され、日本の首都は数日間恐怖に包まれた。

 実際には反乱となった蜂起が鎮圧された後の調査で分かったのは、橋本大佐が未遂のクーデターを計画したいわゆる若手将校の徒党の主要リーダーの一人だったことだ。橋本大佐はその役割で懲戒処分され、この初秋まで予備リストに入れられていた。50万人の兵士を中国に送ることになった時に、彼は現役勤務に呼び戻された。

「日本当局は危険を予想」(pp.1, 16)

 本記者が最高権威(訳者強調)から聞いたところによると、陸軍の保守派だけでなく、政府内全般でも、不安が急速に高まっているという。もし橋本大佐が少なくとも、パナイ号を空爆した海軍の飛行部隊長、三竝貞三少将と同等の処罰を受けなければ、日本陸軍の幹部にはもはや道理がないからルーズベルト大統領の例にならって、日本の天皇に直接抗議すると全ての外国政府が感じるだろうと恐れた。

 橋本大佐が政治的影響力を使って地位を守ることは、陸軍の全階級における規律に破滅的な影響をもたらし、兵卒でさえも、将校たちが罰せられないなら、自分たちが略奪や強姦してもいいのだという態度を取ると言われている。松井大将を支持する保守派の陸軍将校たちは、南京占領に続く、規律の崩壊と惨状はこの状況から直接来ていると言う。彼らは規律を立て直す必要性を痛切に感じている。この将校グループは揚子江地域を指揮する長谷川潔司令官下の日本海軍は、パナイ号砲撃を懸命に償おうとしたが、陸軍は7日もたっているのに、責任回避と問題を曖昧にしようとすること以外何もしないと認めている。

 [陸軍の]保守派将校たちは橋本大佐と彼の支持者たちが、パナイ号が砲撃され撃沈された日に英国砲艦レディーバード号を砲撃したことの弁解について「信じられない」と表現した。この遅れた説明は昨夜[12月19日]提供されたが、砲撃が起こった時、川には霧がかかっており、レディーバード号の煙突からの煙で、岸にいる者たちはこの船が中国砲艦で、北岸に逃げる中国兵を満載した多数のはしけとジャンクを隠すために川に煙幕を張ろうと確信していたという。

 陸軍の報道官は昨夜、上海で、パナイ号事件の陸軍の役割に関する報告を文書として今日発表すると約束した。日本兵を満載した発動機艇がパナイ号砲撃前にパナイ号を止めて、パナイ号の司令官と発動機艇の司令官が名刺交換したと報道官が認めた。しかし、パナイ号の国籍を確認した部隊は揚子江北岸に向かい、浦口(Pukow)への進軍に参加したと報道官は言った。

橋本欣五郎大佐の経歴

 橋本大佐は興味深い経歴を持っている。1917(大正6)年にロシアの日本大使館武官だった。彼は大使館の窓から何日もロシア革命の市街戦を観察していた。彼は市街戦の技術的詳細に対する関心を長く示し、彼の敵によると、彼はロシア滞在中に革命思想に感銘を受けるようになったという。

「橋本は党派を結成—1936年反乱後に青年団体が創設された」

 橋本欣五郎大佐は過激でファシスト傾向を否定しているが、1936年の東京の陸軍蜂起以降の行動は陸軍内のより保守的グループと日本の政権内に相当の不安を起こした。(中略)予備リストに入れられた後、彼が1936年に大日本青年党を設立した時、この新たな動きについて「見ていてくれ。橋本はただじっと座って話すだけの人間じゃない」と周囲に語った。彼が強い関心をもって観察されていたことは言うまでもない。

 彼の青年運動は急速に発展し、陸軍の青年将校たちは強固に団結し、橋本大佐は彼の支持者の間に大きな影響力を持つ進出勢力になった。彼の権力、または大胆不敵さが発揮されたのは、攻撃されたパナイ号救出のために英国砲艦ビー号が揚子江を航行していた時である。橋本大佐はビー号に警告を発し、もし航行を続けるなら、岸の砲台から攻撃すると言ったが、ビー号は警告を無視して、航行を続けた。橋本大佐は彼の部隊は英国国旗と中国国旗の区別ができないから航行は危険だとビー号の司令官に言った。後にAP通信によると、蕪湖での英国砲艦レディーバード号の砲撃に関して、橋本大佐は英国の抗議に対して、「川の船を全部砲撃せよ」と命令されていたと言った。

 日本の政治におけるこの新たな人物は元トルコとロシアの武官だった。軍人としての彼は日本帝国中に知れ渡っていた。彼は一時、満州侵略の時の主要銃砲隊を指揮していた。1936年2月26日の反乱は1000人以上の青年将校たちが行った。この結果、岡田啓介[1868-1952]首相と3人の閣僚が殺害され、政府の建物と通信が占拠され、東京には戒厳令が敷かれた。反乱者たちは皇軍と数日間戦った後降伏したが、彼らはしようと始めたことを完遂した。

 この反乱の目的はマニフェストによると、「日本の国家構造を破壊する反逆者を根こそぎにする。この悪の影響力を破壊することにより、反乱者たちは国家構造の栄誉を高め、正義を進めることを望んでいる」。

訳者注:サミュエル・アンターマイアー(Samuel Untermyer: 1858-1940)はニューヨークの著名な弁護士・市民活動家・百万長者で、園芸に造詣の深かったマイアーがニューヨーク州ヨンカー市に敷地の一部を寄贈し、「アンターマイアー公園」と名付けられているそうです。また作曲家グスタフ・マーラーとも親交があり、これらの情報は「マーラー基金」サイトに掲載されています(注2)

訳者解説:上海駐在特派員ハレット・アベンドが(Hallett Abend: 1884 -1955)インタビューした日本軍の「最高権威」というのは、中支那方面軍司令官・松井石根大将だと6年後にアベンドが出版した回想記の中で明かしています。パナイ号事件時の『ニューヨーク・タイムズ』特派員と日本軍との関係がよくわかる内容なので、該当箇所を抄訳します。また、このインタビューからアベンドは4編シリーズの日本軍内の「センセーショナルな」内幕を記事にしたというので、追って紹介します。この記事の中でも、回想記の中でも、2.26事件で岡田首相が暗殺されたと誤解したままですが、当時の『ニューヨーク・タイムズ』では1936年3月1日版で「岡田は生きている」という一面記事が出ていますので、アベンドが注意深く追っていなかったのか、松井が誤った情報を与えたのかわかりません。以下の翻訳は長いので、本文にない小見出しをつけています。

第12章「日本の最悪の『問題児』(Bad Boy)」((注3), pp.268-273)

[1937年]12月13日午前10時頃、日本大使館武官のT.本田[忠雄]海軍少将が息せき切って私のところにきて、日本の旗艦出雲に一緒に行ってくれるかと懇願した。日本の第三艦隊の司令官K.長谷川[清]中将が非常に重大な件で私に会いたがっているという。

 本田の車で出雲に急行した。乗船するとすぐに長谷川中将の私室に招き入れられた。海軍の中国飛行作戦長の三竝貞三少将がいた。長谷川がすぐに「我々はパナイ号を沈没させた!」と言い出した。非常に正直で率直だったが、20分質問しても、中国における海軍の最高司令官から聞けたのは、日本は謝罪し、いかなる正当な補償も払うということだけだった。

 私が責任の所在を示す詳細を要求すると、長谷川は最初、三竝少将が彼自身は落ち度はないのだが、日本の遺憾の意を示すために引退すると言った。「しかし、誰がパナイ号の砲撃を命令したのか」と私が言うと、三竝少将が不注意に「陸軍のBad Boyで、海軍の落ち度ではない」と認めた。その時、私は海軍を守るための架空か匿名の陸軍司令官だと思った。

松井大将が『ニューヨーク・タイムズ』特派員にお願いがある

 パナイ号の爆撃に関する事実全部は2週間後まで明らかにされなかった。事実は奇妙な方法で私の元に届いた。日本の高官、その名前は事件の6年後も明らかにできないが、その人物がある日曜に私の元にやってきて、「松井大将の頼みを個人的に聞いてもらえないか」と言った。「どんな頼みか」と私は警戒して聞いた。「松井が中国の司令官でいられるようにすることだ。事態が危機的状態で彼か別の将校を召喚して退役させるところまできたのだ。大将はもし『ニューヨーク・タイムズ』が事実全部を出版したら、ニューヨークから東京に電報が行き、そうすれば、彼は権威を回復することができるかもしれないのだ」。

 『ニューヨーク・タイムズ』が日本軍内の確執に無意識な参加者として使われることを許すつもりはなかったので、何の約束もしなかったが、松井の本部に行って彼が言うことを聞くことには同意した。

松井大将との出会い

 松井石根大将は確かに私の友達だった。全くの偶然の幸運で、私は1935年の夏に彼をインタビューし、その時彼は私を気に入って、信用してくれた。私たちが最初にコンタクトを持ったのは、上海の日本語新聞の翻訳サービスに含まれている5行項目からだ。この小さな項目に引退していた松井大将が日本に戻る途中で上海に寄ったが、汎アジア主義運動に関心があり、インドシナ、シャム、マラヤ、ビルマを回った後に来ると書いてあった。

 これはストーリーになりそうだ、電報で送るストーリーではないが、郵便で送って『タイムズ』が日曜版のどこかに入れ込んでくれるようなものだった。そこで私は日本総領事館に行き、松井大将とのアポを依頼した。下級領事は時間の無駄だ、松井は全く重要な人物ではない、「もう引退しているよろよろの老人で、今は政治的趣味に時間を費やしてる人物だ」と言った。

 私は松井が好きになった。彼は快く、長く興味深いインタビューをしてくれた。そして私は彼を上海クラブのランチに連れて行った。私はこの小さなか細い老人が気の毒になった。彼は100ポンド(45.4kg)もないぐらいの体重で、右腕と顔の右半分が痙攣する中風に苦しんでいる。領事館員たちはこの気持ちの良い善意の老人を無視し、冷たくあしらいさえしていると感じた。

 この後、1937年の戦争が来て、上海周辺で3ヶ月間の激戦があった。揚子江谷の全日本陸軍の最高司令官に松井石根大将が任命されたという発表で、名前が似ていることに私はちょっと不思議に思った。そして、私が初めて日本軍本部に行ったとき、全能の最高司令官が1935年夏の我が小さな中風の老人の友人その人だと知った。彼が2年前に失墜していた時に私が彼に対して礼儀正しく、フレンドリーだったことが、1937年の重要なスクープ・ニュースをくれることにつながった。

パナイ号事件の首謀者は橋本欣五郎大佐だ

 そこで、1937年のクリスマスの週に再び松井の本部でどんな個人的願いを私が叶えることができるか知ることになった。私がパナイ号の沈没を知った日に長谷川中将が率直だったのと同じように、松井も最初率直だった。なぜなら、私たちがお茶とフランスの最高ブランディーを前に座るやいなや、松井は吐き出したからだ。

M:「事態は橋本大佐が召喚されるか、私が司令官を辞め、帰国しなければならないところまで来た」。
A:「蕪湖の橋本欣五郎のことですか?」
M:「そう、その男だ。あいつは傲慢で反抗的で暴動的ですらある。それに彼は無知で危険だ。あいつは日本が世界中と戦うことを望んでいる、今すぐにだ!」

 そして松井大将は半時間ほどの間に信じられない話、翌日たやすく検証できたことを話した。その話で、私は4編シリーズのセンセーショナルな記事を電信で送った。それは12月12日に揚子江で起こったパナイ号沈没とその他の暴虐の責任者をついに明らかにした。

(中略:この後、2.26事件の記述、ここでも岡田首相が暗殺されたと誤ったままです)。

 揚子江上の船全部を爆撃しろと海軍飛行隊に命じたのは橋本で、飛行隊員は英米の船もいると反抗したが、橋本が激怒した。陸軍ボートからの機銃掃射も橋本が命じたと言った。

 長谷川中将は何が起こったかを知っていたが、橋本の権力が強すぎて海軍の中将さえも、たかが陸軍大佐に反対することができず、海軍が責めを負うことを認め、世界に事実を知らせるより三竝中将を犠牲にした。

 松井が南京に行って勝利入城式をしたとき、橋本は招待されないのに蕪湖から現れ、松井のすぐ後ろに、白馬に乗って入城行進をした。白馬は総司令官をしのいだ。松井はこの日、橋本が日本を合衆国と英国との戦争にすぐに巻き込む行動を意図していると言った。

 「あいつが本土に帰るか、俺が帰るかだ。もう、あんな扇動者の行動と野望の責任を持つことはできない」(Either he must go home, or I go home. I cannot longer be responsible for the actions or policies of such a firebrand)と言った。

訳者コメント:アベンドの証言はまだ続き、彼の記事が起こした衝撃がどんな形で現れたか書かれていますので、松井大将のインタビュー記事の後で紹介します。

   [ + ]

1. The New York Times, December 20, 1937.
https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1937/12/20/issue.html
2. “Samuel Untermyer (1858-1940)”, Mahler Foundation
https://mahlerfoundation.org/mahler/personen-2/untermyer-samuel-1858-1940
3. :Hallett Abend, My Life in China: 1926-1941, Harcourt, Brace and Company, New York, 1943. ハーティトラスト・デジタル・ライブラリー
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uc1.$b52521