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英米に伝えられた攘夷の日本(7-2-1-3)

薩英戦争の責任問題を追及する1864年2月9日開催のイギリス議会下院の議論の続きです。


 前節でバクストン議員の薩英戦争の反対決議案を動議する演説を紹介しましたが、その動議を支持すると意見を述べたスコットランドのリベラル議員エイトン(Roger S. Aytoun: 1823-1904)が、イギリス帝国主義の恐ろしさを日本人はよく知っているから、イギリスが強制した条約によって、日本を無政府状態にし、日本人を不幸にすると日本人は確信していると述べます。

イギリスがインドで何をしているか日本人はよく知っている

 日本人は我々がしてきたことの歴史を十分に知っており、日本に我々が移住し、貿易する許可全体が彼らを無政府にし、不幸にすることを確信している。我々がインドでしていることについて日本人は無知ではない。我々が最初はインドに控え目な貿易商人として移住し、それから、我々に対する暴力を罰するフリをして、インドの人々の領土を獲得したことを日本人は十分すぎるほど知っている。日本人はまた、我々がインド人を圧政と専制政治から解放するフリをして、イギリスの征服を拡大し、インドの王たちの領土を奪ったことを知っている。そして我々は一歩一歩と止むことなく進み、我々はついにインドの最大地方の主人になり、ローマ帝国の消滅以来で最大の、程度においては比べるもののない帝国になったのだ。このような考えが日本人の心に強く作用しているのを疑うことができようか? 我々が日本人と通商することを認める条約が恐怖で強要されたことを疑うことができようか? イギリスの力に抵抗することから生じる結果を恐れて日本人が従ったことに疑いがありえようか?これまで外務省の代表たちはこの問題を議論することを拒否してきた。条約に署名した大君の政府が事実上の政府だという理由だけで。

 私の意見では、我が国の政府が日本に対して行ってきた行為は正当化できないと心の中でわかっていたから日本問題の議論を避けてきたのだ。しかし、原因が何であれ、この条約は強烈な不満感を日本の貴族[士族を含め]の心だけでなく、日本の人々の心にも引き起こした。

日本にいるイギリス人商人たちは日本人の不満を悪化させる行為をしている

 もう一つ、最も重要な問題がある—日本における我が国の商人たちの行為はどんなものだったか? 彼らは日本人の感情を尊重し節度をもって行動すべきだったのに、そうしなかったと思う。それどころか、日本人の不満を著しく悪化させる意図があった。彼らはまた我が国の権益を軽視した証拠がある。我が国の納税者が彼らの傲慢な行為を支援するためにいかなる負担を負っているかに彼らは無関心だ。その証拠はたくさんある。たとえば、偽名を使って税関[運上所]でドルを巨額の金貨に交換するよう要求した商人たちがいた。さらにモス氏事件があり、彼は明らかに罪を犯したが、罰せられるどころか、単なる法律の技術面から罪を逃れた。日本のイギリス人コミュニティは彼を支持する強い思いをはっきり示した。

訳者注

 「モス事件」とは、ヨコハマ居留地開始から2年目の1860年11月27日に神奈川で起こったイギリス人商人マイケル・モス(Michael Moss)による発砲事件です。オールコックが『大君の都』(1863)の中で詳しく述べているので、要約します。

 銃による狩猟に出かけたモスが獲物の雁を持って帰ってくる途中、彼の日本人従者が日本の警吏隊に襲われた。モスが助けようとすると、警吏隊はモスも逮捕しようとしたので、モスが銃で撃つと脅し、揉み合ううちに銃が発砲し、警吏の一人が重傷を負った。2人は逮捕され、イギリス領事が身柄を引き取ったのはその夜遅くだった。

 江戸城から10里以内で火器の使用は禁じられていたのに、モスがその日本の法律を犯したのだ。全ての外国人には猟に行かないよう警告されていたが、守られていなかった。弾丸は負傷者の「胸をずたずたにしていたし」、腕の傷はヘボンの見立てでは切断しなければ命の保証はないほどだったが、切断を政府は認めなかった。彼は単に運がよく、「終生不具になっただけだ」。

 モスの処分が要求されたので、領事裁判が行われた。裁判はモスが「悪意をもって負傷させたこと」で有罪とし、1,000ドルの科料と国外追放の判決を下した。被害者の兄弟が仇を討つと言っているという噂が広まっていたので、モスは「身の安全をはかるためには、日本を去らざるをえないことは確実だった」。オールコックにはこの判決は不十分に思われ、3ヶ月の禁固を付け加え、1,000ドルは負傷者への賠償金にすべきことを指示した。

 モスは香港に送られたが、神奈川の領事や香港の治安判事などの関係者のミスや略式処理の不備から、120時間服役しただけで正式に釈放され、モスはオールコックに対する損害賠償訴訟を起こして、オールコックが負けて、2,000ドル支払った。((注1), pp.254-257)

Sir Rutherford Alcock, K.C.B., Our Envoy Plenipotentiary in Japan.
From a Photograph by F. Beato, of Yokohama.

ラザフォード・オールコック卿、バス上級勲爵士、我が国の駐日全権大使
横浜のF.ベアトによる写真から(出典:ILN, 1864年7月23日号, (注2), p.97)

イギリス人居留民も代表者も日本人に対して傲慢だから友好的英日関係は不可能

 イギリス人の間に広がる傲慢な精神は別の時にも示された。報道によると、日本政府が大名行列と外国人の衝突を避けるために、大名が通る新たな道を建設するという。日本政府の要請で、イギリス代表者はイギリス人住民にその道を3日間通らないよう通告した。数人のイギリス人住民はイギリス代表者が適切だと思ったことに対し、非常に傲慢な断定的な調子の苦情の手紙を書いた。(中略)

 我が国の代表者自身、日本政府が思慮深く節度をもって扱われるべきなのにそうしてこなかった。一つの例は、ある港で絹の不足があり、我が国の代表者が日本政府に対して、絹の不足は江戸が独占しているからだと言い、現在報告されていることによると—単に報告だけだ—日本政府が商人数人逮捕し、一人は絹を売らせてくれと懇願したために命を失ったと、我が国の代表者が書いた。このような精神が外国人住民の間に存在する時に、今回の忌むべき事件が起こる前から我が国の代表者がイギリス外務省によって、日本では高飛車な対応を取るよう言われていたのだから、友好的な関係を永久に続けることは不可能だ。

どうして賠償金を幕府と薩摩藩両方から取ると外務大臣は思えるのか?

 リチャードソン氏の不運な殺害[生麦事件]が起こると、外務大臣は賠償を得る手段を取ったが、彼のとった方法は途方もないものだった。最近の上院での議論で、ラッセル伯爵[外務大臣]は大君に金銭的ペナルティを課すつもりだと言った。同時に、提督を通して、薩摩藩主に賠償を強制すると言った。ラッセル伯爵が大君と薩摩藩主両方を罰することが彼の義務だとどうして思えるのかわからない。

Satsuma’s Envoys Paying the Indemnity Money at Yokohama for the Murder of Mr. Richardson

薩摩藩使節団が横浜でリチャードソン氏殺害の賠償金を支払う(出典:ILN, 1864年2月20日, (注3), p.189)

鹿児島砲撃はニール中佐もキューパー提督も事前に予定していた

 イギリス旗艦ユーリアラス号上での薩摩藩の役人とのやり取りから、ニール中佐もキューパー提督も鹿児島砲撃を予定していたとわかる。キューパー提督は薩摩藩側に「この問題の解決をこれ以上遅らせることはできない。鹿児島は私の意のままだ。もし攻撃がひとたび始まったら、町は破壊される」と言った。ニール中佐は付け加えて「それは我々の望むところではないが、もし貴殿らが我々にそうせざるを得なくさせたら、それは貴殿ら自身の責任だ」と言った。

Lieutenant-Colonel Edward St. John Neale, C.B., the British Chargé-d’ Affaires in Japan
エドワード・セント・ジョン・ニール中佐、C.B.(バス勲章3等級)、在日本英国代理公使
(出典:ILN, 1864年2月27日号、p.208)

決議案の修正案

 次に決議案に修正を求める意見表明がアイルランド人弁護士で保守党のロングフィールド(Robert Longfield: 1810-68)議員によってされます。主旨は鹿児島砲撃の責任をキューパー提督に負わせるべきではないというものです。

リチャードソン殺害は計画性のない殺人、幕府と薩摩藩から巨額をゆすり取るのは強制取り立てだ

 リチャードソン殺害はmanslaughter(故殺)と言うのが正しい。計画的殺人ではない。幕府から10万ポンド、薩摩藩から25,000ポンドをゆすり取るのは、ある人に言わせると、強制取り立て以外の何物でもない。この要求の目的は女王陛下の領事であるニール中佐が軍事力を示す機会を作ることだ。ニールに与えられた指示は、もし藩主がこの条件を拒否したら、「藩主の港を封鎖するのがいいか、藩主の邸宅を砲撃することが可能か」現場の人間が判断することというものだった。港の封鎖は可能とは思われなかったので、ニールに残された唯一の道は藩主の邸宅の砲撃だった。

ニールは幕府の警告を無視して、事前警告なしに鹿児島砲撃を命令した

 独立心の強い藩主を負かすことは、日本政府に受け入れられるという強い思いがニールにあった。日本の閣僚がニールに宛てた1863年4月8日付けの手紙に「貴国の戦艦が薩摩に行って交渉することに関して、我が国の状況を理解していれば、これ以上の交渉は必要ない。したがって貴国の行動は予期せぬ災難を起こしはしないか心配すべきものである」と書いた。この心配は十分すぎるほどの根拠があった。ニール中佐は事前警告しなかった。

 キューパー提督はイギリス生まれではなく、人脈もなく友人もいない。彼に責任を負わせてはならない。彼はスケープゴートにされたのだ。ロングフィールド議員は決議案の修正を動議した。

訳者注:ロングフィールド議員がキューパー提督について、わざわざ「イギリス生まれではない」と述べた背景は、ILNのキューパー提督略歴の記事(1864年2月20日号、p.190)によると、父親が北ドイツのルーテル派牧師だということです。イギリス海軍に士官候補生として入隊し、中尉に昇格すると、イギリス海軍のジェームズ・ブレマー提督(Admiral Sir James John Gordon Bremer: 1786-1850)の長女と結婚しています。

修正案支持の議論

 ロングフィールド議員の修正案に賛同すると、ジョン・ヘイ卿(Sir John Hay: 1821-1912)が意見表明します。

鹿児島砲撃はイギリス政府による無知と性急さが特徴の東洋政策の究極点

 鹿児島の町への攻撃は女王陛下の政府が東洋で採ってきた政策の究極点だ。ちょっと前にシャム王国[現在のタイ王国]の町トレンガヌ(Tringanu)を攻撃した時の政策も今と全く同じで、イギリス人に暴行した賠償金をシャム政府に要求した。外務省の野蛮な政策(barbarous policy)が無知と性急さで進められたのだ。鹿児島焼失の責任は明らかにラッセル外務大臣にある。

 薩摩藩側が、藩主が不在で自分たちには条件に同意する権限がないので、時間をくれと言った時、ニールは強制することを決めた。報復の最初の手段として[薩摩藩の]汽船を拿捕したら、すぐに砲台から艦隊に向かって砲撃してきた。もし応酬しなかったら、イギリス提督は恥をかく。彼の指揮下のイギリス海軍は砲台を沈黙させることができたが、その時の天候は砲台の背後にある非常に燃えやすい町との区別を不可能にした。彼の船への砲撃は外務省が指示した報復の直接的な結果だった。

鹿児島の破壊は外務省の責任

 翌日、提督は町の別の場所を砲撃するという野蛮な行為を犯した。しかし、これはラッセル卿のはっきりした指示に従って領主の城を爆撃せよとニールが要求した結果だった。従って、報復が始まってから艦隊が湾を出るまで、この作戦の野蛮性—もし町の砲撃にこの言葉が当てはまるとしたら—外務省の命令に厳格に従ったのであり、その結果は町の破壊だった。私は提督に会ったことはないが、酷く不当に扱われていると思う。ニール中佐が勲章に推薦される一方で、キューパー提督の名前は一度も言及されず、政府は国中で彼の名前に重ねられる不名誉から彼を守ることさえしない。

 ロングフィールド氏の修正案が提案され、「キューパー提督が課せられた職務を誤解した責めを彼に負わせる」を削除すること。

訳者注
 トレンガヌ攻撃は1862年11月に行われ、このジョン・ヘイ卿が1863年4月21日の下院議会で外務次官に詳細を議会に報告せよと迫りますが(注4)、外務省も詳細の報告を受けていないと答えます。同年7月10日の議会(注5)では、激しい政府批判が展開され、「江戸」という名前も出されているので、抄訳します。

ジョン・ヘイ卿:議会は何も知らされていない、トレンガヌという町がどこにあるのかさえ知らない議員がいる。

 トレンガヌはジョホール州の首都で、人口は3万人で、1784年の条約以来シャム政府の統治下にあった。すず鉱山に巨額のイギリス資本が投入されていた。1810年にジョホール皇帝が亡くなると、オランダが年下の息子の継承を支持したが、数年後にイギリスが長男を王位につかせた。オランダは年下の息子をリンゴ(Lingo)という小さな島のサルタンにしたが、その子孫が1857年に追放され、シンガポールに亡命した。1862年に彼はシャム王の援助で、親戚であるトレンガヌの知事を訪ねた。

 近隣の州はトレンガヌの元のサルタンに対する怒りをぶつけ、騒動が起こっていた。そこで、[英領]インド政府の長官、デュランド大佐(Henry Marion Durand: 1812-71)は必要なら武力を使ってもトレンガヌから前サルタンを排除せよと命じ、イギリス戦艦はトレンガヌを砲撃した。翌日、イギリス軍が上陸すると、前サルタンは森に逃げた後だった。

チャールズ・ウッド卿(Charles Wood: 1800-85, Secretary of State for Indiaインド大臣)の答え:インド政府から正式の報告を受けていない。砲撃した士官たちを責めることは事実を把握するまでできない。

リデル議員(Henry Thomas Liddell: 1797-1878):攻撃から9ヶ月も経っているのに、インド政府が母国政府に報告しないことについて本議会は苦情を申し立てる権利がある。このような政府の東洋政策は即刻止めるべきだ。イギリスの名誉と威厳を傷つける。友好的な国の町を、正当な理由なく砲撃し、ニンポ(Ning-Po, 寧波)を法的根拠なく砲撃し、今頃は江戸を砲撃しているかもしれない(訳者強調)。このような政策を下院は終わらせるべきだ。国際法の専門家が反対の声をあげてほしい。この件は文明国が採る道としては正当化されない。自分が議席を保持する限り、東洋の弱い国に対して無差別に残虐な武力行使する政策に反対し続ける。このような政策は不当で非人道的であり、キリスト教のあらゆる原則に反する。

ハース卿(Lord Haas, Richard Southwell Bourke: 1822-72):政府がマイナーな植民地の知事だけでなく、海軍司令官にも明確な指示を出すべき時が来た。自己防衛以外では、海軍本部からの至急命令なくしては射撃・砲撃してはならないと。

 我が国の商人たちは、これらの遠国に自らの責任で行っているのだから、彼らの商売に支障をきたす政治問題が起きた時には、哀れな王朝のイザコザに我々[イギリス政府・海軍]が介入すると期待すべきではない。この件では、我が国の士官たちが無許可の戦争をしたことは明らかだ。そしてこれは犯罪の中でも最も深刻な犯罪だ。残念ながら、このようなことが起きたのは今回が初めてではない。今後このようなことが起こらないよう政府が対策を講じると確約することを切に望む。政府がシャムの皇帝の声明に対し何らかの回答をしたのか、また、我々が砲弾でトレンガヌから追いやったサルタンの亡命に対し政府が何をするのか知りたい。

薩英戦争議論の続き:ウォルコット提督(Admiral John Walcott: 1790-1868)が意見表明します。

鹿児島砲撃は薩摩藩の責任/ ラッセル卿の指示は外務大臣に相応しくない

 キューパー提督を鹿児島砲撃に関する責めから放免できれば幸いだ。提督は砲撃している時に、女子供老人病人が逃れられたかわからず、非常に心を痛めていたと確信している。しかし、この点に関して、艦隊に対する攻撃に即座に応戦しなければならず、事前警告などをする権限はなかった。報告によれば、「交渉の間、[薩摩藩]当局は海岸砲台に人を配置し、銃が艦隊の船に向けられていた」ので、当局はイギリス政府の要求を拒否するだけでなく、武力で対すると決めていたという証拠である。従って、人道への暴挙の責任は薩摩藩にあり、彼らが本当の犯人だ。この強い表現を謝罪しなければならないが、この言葉通りだ。討論を支持した議員が「鹿児島の破壊は全文明国の中でイギリスの評判に傷をつけた」と言ったが、艦隊を砲撃したのは薩摩藩主の重臣とアドバイザーたちの責任だ。しかし、ラッセル卿の指示のいくつかは外務省の長として相応しくないと告白せねばならない。

1 オールコック、山口光朔(訳)『大君の都—幕末日本滞在記(中)』、岩波文庫、1962.
2 The Illustrated London News, vol.45, 1864, July-Dec. インターネット・アーカイブ
https://archive.org/details/illustratedlondov45lond
3 The Illustrated London News, vol.44, 1864, Jan-June. Hathi Trust Digital Library,
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015006993201
4 “Attack on Tringanu”, debated on Tuesday 21 April 1863. イギリス議会議事録
https://hansard.parliament.uk/Commons/1863-04-21/debates/003415f3-55d0-407e-bf1f-b3cb3da9ea9b/AttackOnTringanu
5 “The Attack on Tringanu”, debated on Friday 10 July 1863. イギリス議会議事録
https://hansard.parliament.uk/Commons/1863-07-10/debates/35418a84-9924-4466-9399-c33948bd6868/TheAttackOhTringanu