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英米に伝えられた攘夷の日本(7-2-1-5)

薩英戦争の責任を追求された外務副大臣が弁明しますが、砲撃の証拠として出された『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の銅版画の信憑性が疑わしいと言い、新聞社側が社説で怒りを表します。19世紀版フェイク・ニュース論争です。

次に立ち上がって意見表明したキングレイク議員(A.W. Kinglake:1809-91)の重要な論点を訳します。

日本が砲台を国内のどこに作ろうと、それは独立国家の権利だ

 キューパー提督を使ってイギリス政府は日本の主権にはっきりと介入した。独立国家が砲台を自国の領土内のどこに、いつ作ろうと、疑いのない権利だ。しかし、キューパー提督はこの権利についてどう対応したか? 彼は神奈川奉行に次のように書いた。

閣下の通信に挙げられている場所に砲台を建設するのを防ぐのが私の任務である。また、[イギリス船の]停泊地や横浜の町などにも禁じる。横浜港は日本と条約締結した西洋の国々の商業目的のためだけに収用されたので、西洋の条約国から防衛する必要はない。攻撃行動や日本のニーズのための条約の権利の拒否以外に、日本が外敵から防衛する必要性は将来もない。

イギリス外務副大臣は、日本には自国を防衛する自由はないと言うのか?

(外務副大臣レイヤード氏がHear, hear)外務副大臣の声援から、彼の意見は、日本が商業目的のために放棄した港を防衛する自由はもはやないというものだと推測する。しかし、このような威圧的な政策がダウニング街[首相官邸]で意図的に考案されたとは信じない。この結果[鹿児島爆撃]は、本国の大臣が駐日イギリス公使に厳格な指示を送ることの不可能性と、駐日公使が不運なことに、条約を最大限に利用しようとする商人たちと、公使が冷静に穏やかに対応することを困難にさせた世論[ヨコハマ居留民]に取り囲まれていたから起こったと考察する。

「ヒヤヒヤ」と野次を飛ばした外務副大臣・レイヤード氏 (Austen Henry Layard: 1817-94)が次の論者です。A4サイズで8ページ半の長演説です。

日本との条約締結でイギリスは米露に遅れをとるわけにはいかなかった

 キングレイク議員と他の議員は、我々が日本に条約を強制したと考えているようだ。我々は日本との条約交渉に入った最初の国ではなかった。中国での戦争の時、イギリスの軍事力が成功した時、アメリカの提督[ペリー]が巨大な艦隊で日本に行った。彼は日本を脅さずに、共通の表現を使って、日本人に米国と通商条約を締結した方がいいという結論に到達するよう導いた。次にロシアが踏み込んできて、アメリカとの条約と似たようものを要求した。この2カ国が条約締結したので、自分はイギリス政府が同様の特権を求めることを怠ったら何というかと議会に諮っただろう。平議員諸君(hon. Gentlemen below the gangway)は激しい言葉で政府を非難して次のように言っただろう。ヨーロッパの力の均衡、または紙くず条約(waste paper treaties)の均衡の問題があったら、政府は戦争する準備が十分にできているが、商業と貿易に関する時は政府は何もしないと主張するだろう。

東洋のイギリスと呼ばれる日本が世界と隔絶したままでいられることはできない

 日本の市場にアメリカからの綿、ロシアからのナイフとハサミがある間はマンチェスターとシェフィールドの製品が除外されるという苦情が起こっただろう。この理由だけでも、女王陛下の政府は日本との条約関係に入るべきだ。日本が意図している鎖国状態のままいられるかどうかについては自分は問わない。しかし、自分の意見では、東海のイギリスと呼ばれる列島は文明国にとって非常に有用な製品に富んでおり、アメリカと中国及び東半球の他の部分との間の偉大な通信・交通線上にあるから、世界と隔絶したままでいることはできないだろう。同時に我々が日本に無理に押しかける権利はないことを認める。しかし、我々がそうしたのだというのは、自分は否定する。

 次に、政府が条約交渉する権限のない日本の当局と条約を締結したとイギリス政府が非難された。そもそも我々が条約を締結したのはアメリカとロシアが締結したのと同じ当局、日本政府の長と我々が思った大君だ。

西洋人が来る前の日本が幸せで穏やかだったというのは嘘で、武士以外の人民は奴隷だった

 自分は本議会の議論で提示された事実の多くを信じない。確かに自分は旅行記全てを読んだ訳ではないが、信頼できる人々の多くの記述を注意深く読み、日本に住んだことのある我が国の外交官やその他の人々と話し、日本人の状態を研究する偉大な機関がある。自分が得た情報が正確なら、日本は我々が到着する前は幸せで穏やかな状態とはほど遠かった。駐日アメリカ公使、プリューイン氏(Robert Pruyn: 1815-82)がアメリカ議会に提出した報告で、我々が日本に入る前、人民は全くいい状態ではなかったと述べた。それどころか、彼によると、最も哀れな人々だ。一定の数の大名が支配し、彼らは封建領主で大勢の家来を有している。人口のその他の人々は奴隷に過ぎない。(中略)役人は町で会う武器を持たない最初の人を試し斬りするのが普通のことだ。

日本使節団が日本の現状から開港を延期してほしいと要望し、イギリス政府は譲歩した

 今までの議論の多くで我々が日本と調和的に対応する意思がなく、酷い対応だと言われた。その批判は全く根拠がない。その反対にイギリス政府はずっと調和的に対応したいと示してきたし、あらゆる妥当な譲歩を行ってきた。日本政府は条約改正のために我が国に使節団を送ってきて、最も重要な条約港は貿易に開かないと申し入れた。女王陛下の政府は日本の大臣たちが遭遇している困難な状況を考慮して、この港をしばらくは貿易に開かないことを受け入れた。この譲歩をしただけでなく、他の列強にも譲歩するよう説得した。

日本に二重の賠償金を要求したのは正当だ

 スタンレー卿は二重賠償金を要求するのは正当かつ適切ではないと言った。二重の要求はラッセル伯爵[外務大臣]の指示だった。根拠は幕府への10万ポンドは殺害に対してでなく、条約で開かれている道でイギリス人が攻撃されるままにした罪に対して。薩摩藩への25,000ポンドは殺害された者の遺族と負傷者に分けられる。この金額を過剰だと言う人と少なすぎると言う人がいる。リチャードソン氏は金持ちで、遺族は賠償金をうける権利がある。

 もし薩摩藩が大君の政府の支配外にあり、殺害者の処罰を強要できないのだという言い訳を受け入れたら、他の大名全員に同じことをしてもいいのだと勇気付けることになり、さらなる攻撃がイギリス人に加えられる。大君に賠償を求めたら、「大名を支配することはできない」と言うだろう。薩摩藩だけに賠償金を求めたら、幕府は「以前のようにやるのがいい、大名と交渉すべきだ、我々は責任はない」と言うだろう。だから二重の賠償を求めるのがベストだ。

藩主を罰したのはイギリスだけではない、英仏蘭米の連合艦隊が長州藩の砲台と町を破壊した

 これら半独立の長たちが外国に対して行う行為を罰したのはイギリスだけではない。長門の領主[長州藩]がイギリス・フランス・オランダ・アメリカの船を砲撃した責任に対する処罰をすると幕府に言って、これらの国々が戦艦を送り、彼の町の一部と砲台を破壊した。

下関戦争

 ここで外務副大臣が言及しているのは1863(文久3)年7月の下関戦争のことですが、その1年後にも連合艦隊が長州藩攻撃を行いました。1863年の攻撃の理由をILNがどう伝えているか抄訳します。

ILNの解説:ヨコハマ、1863年7月28日(出典:1863年10月10日、(注1), p.364)

 長門侯(Prince of Nagato:長州藩主)は独自の小戦争をしている。彼の領土は瀬戸内海と下関の周囲だ。アメリカの蒸気船、ペンブローク号(Pembroke)が最初に攻撃され、2箇所撃たれた。次にフランスの郵便船が攻撃され、オランダ戦艦メドゥーサ号(Medusa)が砲撃された。メドゥーサ号は20回ほど砲撃されて、4人が殺され、5人負傷した。懸命に応戦したが、1時間半、砲台と船の攻撃に晒された。砲台6基、蒸気船1隻(ランスフィールド号)[壬戌丸]、ブリッグ船1隻(ランリック号) [癸 亥丸]、バーク帆船1隻が攻撃してきた。メドゥーサ号はほとんど何もできず、勇敢に戦った後、ヨコハマに戻って来た。

 アメリカ戦艦ワイオミング号(Wyoming)はペンブローク号への攻撃のニュースを受けてすぐに下関に向かった。ランスフィールド号とランリック号の間を通り、通りながら両号に攻撃を浴びせてから、攻撃を砲台に集中した。大砲を数機破壊し、2隻の船が沈没するのを見た。ランスフィールド号はボイラーを砲撃され、爆発した。砲台の多くが木の間にあるため、ワイオミング号はそれ以上何もできずにヨコハマに戻った。

 フランス提督がセミラミス号(Semiramis)でタンクリード号(Tancrede)を連れて下関に向かったが、砲台に近づけなかった。しかし、1基が反対側にあるのを見て、すぐに砲撃すると砲台は静かになったので、200人の兵を引き連れて上陸して、2つの村を焼失させた。

 その間、数千人の日本人部隊が下関から近づいて、フランス部隊を遮断しようとした。しかしセミラミス号からの絶え間ない砲撃の嵐に直面できず、退却した。砲台には特に深刻な攻撃はされなかった。長門侯はあらゆる船が彼を攻撃するために送られたことを知ると、2,3時間の戦闘後に退却した。

Attack on the Dutch War-Steamer Medusa, Opposite Shimonoseki
オランダ戦艦メデューサ号への攻撃、下関の向かい側(出典:ILN, 1863年10月10日, p.364)

1864年の下関戦争

 上記の銅版画と記事は第一回下関戦争についてですが、英仏蘭連合艦隊が報復のために1864年9月6日に再び下関で戦闘をします。

解説(出典:ILN, 1864年10月29日、(注2), p.436)

 再び戦闘が近づいている。大名、つまり名目上は大君の家臣だが、半独立藩主の1人、長門侯が瀬戸内海を[欧米に]開放することを拒否し、イギリス海軍コーモラント号(Cormorant)が試験的に藩主の砲台の下を通ったら、船首を砲撃した。コーモラント号とバロッサ号(Barossa)はすぐにヨコハマに戻り、イギリス艦隊が9月末までに下関に向かう。上海港ではイギリス海軍将校に命令が下り、船を複数チャーターして、瀬戸内海のイギリス艦隊用に1,200トンの石炭を運び、その船は瀬戸内海に残り、艦隊に参加するようにという命令だ。

THE BRITISH FLEET AT YOKOHAMA
ヨコハマのイギリス艦隊(出典:ILN, 1864年10月29日、(注2), p.436)

 補充部隊が揃った頃には、駐日イギリス全権大使のラザフォード・オールコック卿は17隻の戦艦と1,500人の部隊と他に海兵隊を自由に使えることになる。

解説(出典:同上, p.503)

 今週、本紙の日本特派員兼特別アーティストのC.ワーグマン氏によるスケッチの銅版画をお届けする。彼は9月5,6日の下関海峡で行われた長門候の砲台への連合艦隊の攻撃中、軍艦の1隻に同乗していた。(中略:地理の説明)この地方は大君の強力な家来の一人、長州という大名に支配されている。中世のドイツやフランスの封建領主のようだが、彼らは帝国の権威に名目上は服従していても、彼ら独自の政策を行い、自由に使える軍隊を持っている。大名の何人かは半独立の地方管轄権を持ち、江戸の主権政府が約束したヨーロッパ商業が日本の海岸に自由にアクセスできる条約を一度ならずも破ったのだ。読者諸氏も覚えているように、薩摩藩主は12ヶ月前に、我が国の国民数人に危害を加えた結果として、我々による鹿児島砲撃で、我々に満足を与えざるを得なかった。
 長門候は外国船が下関を通る道を閉ざし続け、1863年8月にイギリス艦隊から受けた警告の教訓を無視したので、女王陛下の全権大使、ラザフォード・オールコック卿が最近フランス・オランダ・アメリカの外交官と共同で江戸城で次のことを決めた:連合海軍の遠征隊を送り、攻撃的な砲台を武装解除し、この水路に押し入ること。(中略:連合艦隊の詳細)

 8月23日と28日に連合艦隊16隻は合計250の大砲を伴って、イギリス陸軍工兵隊分遣隊と海兵隊500人が上陸部隊として横浜を出発し、9月4日に下関に到着した。

 翌日の午後、攻撃が始まった。計画としては、[以下の]銅版画に示されたように、コルベット艦が海峡の南側に並び、喫水の軽い船が全砲台に一斉射撃をする。(中略:計画の詳細)

 午後4時に全戦艦が位置についた。最初の砲撃はコルベット艦からだった。すぐに砲台から応戦してきた。20分ほど日本側からの砲撃は激しかったが、他の船が加わると、岸の大砲のほとんどは静かになった。7時頃、イギリス戦艦ペルセウス号(Persaus)のキャプテンとオランダ戦艦メドゥーサ号のキャプテンが上陸し、多くの大砲の火門を塞いで使えなくして退却した。非常に大胆な行動だった。敵が森の中から彼らめがけて射撃していたからだ。

 2隻が夕暮れまで「赤い砲台」(または第7砲台)との応戦を続けた。1日目の攻撃の銅版画の右側の丘の麓にある砲台である。2番目の銅版画で示したように、翌日の夜明けにコルベット艦の艦隊に砲撃を浴びせたのがこの砲台だ。

The War in Japan 日本での戦争(出典:ILN, 1864年11月19日, p.505)
上:Action of Sept. 5, in the Strait of Simonosaki 9月5日の戦闘、下関海峡で
下:The Red Battery Opening Fire on the Corvettes, Sept. 6 9月6日、赤い砲台がコルベット艦に砲撃

 翌朝、7隻が前日と同じ位置に並ぶ間に上陸の準備が行われ、9時きっかりに1900人の海兵隊、工兵隊、水兵たちが上陸した。このうちの1,100人はイギリス軍だった。海兵隊は最初に大きな大砲1台の砲台がある丘に登るよう命じられたが、丘の上にたどり着くと、大砲は取り外されていた。敵は近くの林の中から海兵隊員めがけて撃ってきた。海兵隊が丘の反対側から降りて行った頃には、そこの4台大砲のある砲台を占拠するのに対してあまり反撃はなかった。

The Assault on the Lower Battery at Simonosaki
下関の低い方の砲台を攻撃 (出典:ILN, 1864 年12月24日, p.624)

 その間、フランス軍は15台の大砲を据えた砲台と、大砲9台の砲台を占拠した。数時間かかって、これらの大砲を転倒させ、カートリッジを壊したが、その間、水兵たちは背後の森から重砲で攻撃して来る敵に相当悩まされた。夕方6時に敵の位置めがけて海兵隊と水兵たちが銃撃し、応戦が続いたが、敵は我が軍が来る前に逃げ、逃げる際に弾薬を燃やそうと火をつけた。我が軍がすぐに消火して、多くの武器と弾薬が我が軍の手に落ちた。暗くなったので船に戻った。

Inside the Lower Battery at Simonosaki after the Conflict 下関戦闘後の下の砲台の内部
(出典:ILN, 1864年12月24日,(注2)

解説(ILN, 1864年12月24日, p.622)

表紙の銅版画は、2日目の9月6日に、砲台の1つを占拠したフランス軍の様子。日本の大砲は江戸で鋳造され、砲車も日本製だ。イギリス軍とオランダ軍が20人ほどで、岸に近い砲台を占拠し、大砲を使えなくする作業をしているところである。後方にイギリス人士官2,3人が見ている姿が描かれている。旗を持っている男の隣がアレクサンダー大佐で、この光景は[その前の絵の]戦闘の2,3時間前のものである。大佐はこの戦闘で足をひどく負傷した。

The War in Japan: The Naval Brigade and Marines Storming Stockade at Simonosaki, Sept.6h
日本における戦争:海軍陸戦隊と海兵隊が下関の砦柵[さいさく]に突撃(ILN, 1864年12月10日, p577)

解説(ILN, 12月10日, p.575)

砲台を占拠して大砲を取り外す作業の間に、日本側の木造障害物か兵舎の背後に重砲2,3機と主要な弾薬の弾倉が置かれており、そこから下にいる作業中のイギリス軍とフランス軍に砲撃を続けた。アレクサンダー大佐が200〜300人連れて、ここを攻撃に向かった。この困難な戦闘で数人が殺された。日本側は小屋に火を放って森に逃げた。彼らは海兵隊が陸でも戦えると知って驚いたと言われている。

外務副大臣レイヤード外務副大臣の議論続き

 外務副大臣の弁明が続きますが、失笑を買っていることが議事録にはっきり示されています。

日本人の裏切り行為を現場のニール中佐やキューパー提督はよく知っている

 ラッセル卿の指示は「薩摩藩はヨーロッパから高額の蒸気船複数を買ったから、それを拿捕し、要求が入手できるまで保持せよ」だった。政府は海岸近くに町があるとは知らなかった(笑Laughter.)なぜ議員諸君が笑うのかわからないが、諸君はイギリス内の誰よりも日本の地理に詳しいのだろう。

 ニール中佐とキューパー提督は8月11日に鹿児島に到着し、町の前に錨を下ろした。日本人が最初にしたことは何か? 裏切り行為だ。彼らは一行を上陸させて交渉しようと言った。日本人を信用している諸君は、この招待を断った者たちが悪いと言うだろう。ニール中佐とキューパー提督は日本人をよく知っているから、この罠に乗るのは賢明ではないと思った。翌日、長だと名乗る日本人が艦隊に近づいて、提督の船に乗せろと言った。大勢の従者を連れて。イギリス軍艦について無知な彼らは奇襲して船を占拠しよとしたのかもしれない。(“Oh!”)これについて道徳上の疑問の余地はない。自分は下院諸君の意見よりも、現場の意見を尊重する。裏をかかれたと思ったその日本人は言葉を失って、すぐに立ち去った。

即座に応戦するのがイギリス海軍士官として、政府代表としての義務だ

 ニール中佐はこれ以上交渉する意味はないと悟り、キューパー提督に任せると言った。翌日、薩摩の船を拿捕させ、提督が日本人の目の前で「それを見せびらかした」(原文強調)と主張されたが、諸君が地図を見ていれば、その主張がいかに根拠がないかわかるはずだ。船を湾から出すには砲台からの砲撃に晒されざるを得ない地理的状況だった。

 船が拿捕されるや否や、日本側が我が艦隊をめがけて恐ろしいほどの砲撃と銃撃を開始した。”Quite right”(全くその通り)と叫んだ議員は日本がしたことを非難しなかった。イギリス提督が砲撃されても応戦しなかったら、その提督を非難すべきだ。もしキューパー提督が応戦せずに逃げたら、下院だけでなく、イギリス全国の意見は、どうだっただろうか? 応戦するのが彼の義務だった。それ以外の道は彼にはなかった。仮に彼が何らかの理由で応戦しなかったことが正当化されたら、もし、彼が報復せずに去ったと仮定したら、その必然的結末はどんなものだっただろう? 日本中で、我が艦隊が破れて逃げたという叫びが起こるだろう。数え切れない殺人が起こるだろう。外国人の命がことごとく安全ではなくなるだろう。キューパー提督が海兵としてだけでなく、イギリス政府の代表として、即座に応戦するのが義務であることは明らかだ。町を破壊したことで、自分がキューパー提督を擁護する必要はない。

日本では火事は日常茶飯事だから住民は逃げる準備ができている、逃げなかったら日本当局の責任

 キューパー提督が町をめがけて撃ったと言った議員がいるが、そのことは報告のどこにもない。また提督が町を砲撃したと言われたが、報告には砲爆のことは一言もない。キューパー提督もニール中佐も、町に意図的に弾丸を投げ込んだと思われる言葉は一言も書いていない。(“Oh!”)2日目には確かに薩摩藩主の城に砲弾が投げ込まれたが、証拠によると、1日目は鹿児島に投げ込まれていない。町に火を付けたのは砲台からの火薬だ。さて、日本の町って何だ? 薄い竹と紙でできてるだけじゃないか。木材などほとんど使ってない。日本では火事は絶えず起こっている。5,6年おきに町が完全に消失することは珍しくない。市民は火事の備えが完全にできており、すぐに逃げる準備ができている。どの町にも消火にあたる男たちが大勢いる。日本の至るところで、火事になれば、人々はすぐに逃げる準備ができている。もし今回、人々が逃げなかったら、それはイギリス艦隊の責任ではなく、日本当局自身の責任だ。当局は4日前から警告されていたのだ。艦隊は11日に到着し、砲撃は15日に起こった。最初から彼らは艦隊を砲撃するつもりだった。(中略)自分は市民の大多数が鹿児島から逃げたと信じている。なぜなら、このような場合、日本当局が最初にすることは市民を避難させることだからだ。何人かは命を失った可能性がある。それを自分ほど悲しむ者はないが、人命の損失が非常に少なかったと知ることはせめてもの慰めだ。

『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の挿絵は信用ならない

 貧困者の家が破壊された後、キューパー提督は悪人の城を無傷のまま鹿児島を去ることはできなかった。したがって、キューパー提督が城を砲撃したのは全く正しい。その火が町の他の部分に燃え移ったと言う証拠はない。(”Oh!”)“Oh!”は議論ではない。もし私の説明に反対なら、立ち上がって論駁せよ。バクストン議員は独立的証人を召喚すると言った。その一つは『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の挿絵だ[7-2-1-1参照]。この称賛すべき役立つ出版物に批判的なことは言いたくないが、秘密にされている人は世界の果ての場所でどう絵が描かれたのか知っている。このニュースの関係者が鹿児島攻撃の時に鹿児島にいたのか疑わしい。南アメリカの町の絵が日本の町として改作されることも全く不可能ではない。バクストン議員の次の証人はエールズバリー(Aylesbury:バッキンガムシャー州の州都)の新聞記事だ。自分はエールズバリー紙に非常に敬意を払っているが、議員からの二次情報では受け入れられない。

バクストン議員:その証言は海兵の証言だ。

鹿児島には砲台があったから「無防備な町」ではない

レイヤード議員:その海兵が誰か知りたい。その名前も証言も見ていないが、自分はイギリスの提督の証言を信じる。動議について、政府はキューパー提督のような勇敢で優れた士官に罪を転嫁する希望はない。それどころか、彼を支持するのが国の義務だ。(中略)

 政府が出来事の報告を受けて最初にしたことは、町が不運にも傷ついたことを残念に思うと伝えたことだ。その遺憾の思いは国民も感じた。したがって、この点でこれ以上言う必要はない。11月14日付の通信で次のように伝えた:「女王陛下の政府はイギリス人とその資産が効果的に保護され、日本人の人口に危害が起こらないことを特に願っている。(中略)」。決議案の中心部分は文明国の間で広く行われている戦争の慣例に反すると言う点だ。そうなのか? もちろん違う。区別は非常に明確だ。もし都市や町に砲台やその他の攻撃方法がある場合、船がこの砲台から攻撃され、応戦し、その結果、その町を焼失させるのと、無防備の町を焼失させるのと全く違う。

『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』が外務副大臣のフェイク・ニュース論に反論

 外務副大臣が『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の挿絵の信憑性を疑問視する発言をしましたが、バクストン議員は議論の中でILNから引用していますので、その一部を抄訳します。

『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』もこう言っている。1日目に「町の半分が焼け落ちた。夜、艦隊がイカリを下ろすと、砲台は砲撃を止めた。ペルセウス号は時々ロケット弾を発射して燃え盛る火を絶やさないようにした。翌日、戦闘が続き、砲台は沈黙させられた。残っていた町は焼け落ち、薩摩藩の城は弾丸を撃たれ続けた。その後、艦隊は蒸気を上げて去り、かつて鹿児島だった所は廃墟と炎の塊だった。

 『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』は1864年2月13日号の社説((注3), p.146)で以下のように述べています。

 火曜日(2月9日)の夜の討論で、鹿児島の砲撃に関してレイヤード氏が使用した表現について、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の経営陣(Conductors)からの説明が必要とされている。鹿児島の破壊を非難する決議案を支持するバクストン氏のスピーチの中で、我が社の日本特派員アーティストから伝えられた鹿児島砲撃のスケッチに付随した記事の抜粋をバクストン議員が読み上げた。引用の目的はイギリス艦隊によってもたらされた膨大な廃墟を示すためだった。その返答として、政府に代わって、外務省の副大臣が「この称賛すべき役立つ出版物に批判的なことは言いたくないが、秘密にされている人は世界の果ての場所でどう絵が描かれたのか知っている。このニュースの関係者が鹿児島攻撃の時に鹿児島にいたのか疑わしい。南アメリカの町の絵が日本の町として改作されることも全く不可能ではない」と言った。

 このジャーナル[ILN]に現れる遠い地の光景や出来事の銅版画に付随する絵画的価値が何であれ、その最高の価値は、疑いなく、その真実性と信憑性にある。これらの価値を守るために、経営陣は費用と労力を惜しまない;そして我々が提供する表現の忠実度に対して、世界中から賞賛が絶え間なく送られていることが、我々のためにスケッチするという厄介で時に危険な使命を引き受けている紳士諸君に我々がよく働いてもらっているという最高の保証である。

 したがって、白熱した議論の中でレイヤード氏が口を滑らせたことは、もし、それが外務副大臣ほどの立派な人でなければ、我々の注意をほとんどひかなかっただろう。我々は以下のことをレイヤード氏に納得させることが義務だと感じる。バクストン氏が本紙のページから示した証拠は最高位のもので、本紙の日本特派員アーティストであるチャールズ・ワーグマン氏が送ってきたオリジナルのスケッチだけでなく、ワーグマン氏の絵の正確さと完全に一致する他の証拠もレイヤード氏に見せられれば満足だ。

 レイヤード氏の率直さと礼儀正しさはよく知られており、エネルギッシュな討論の興奮の最中に否定された我々に対する公平さを、都合のいい時に喜んで示してくれることを我々が疑う理由はない。我々はまた、バクストン議員が本紙から引用した抜粋の真実性に満足してもらうように、バクストン氏にそのスケッチと新聞をお渡しするのが我々の義務だと思う。

1 The Illustrated London News, vol.43, 1863, July-Dec. Hathi Trust Digital Library.
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uc1.c0000066860
2 The Illustrated London News, vol. 45, 1864, July-Dec. Internet Archive.
https://archive.org/details/illustratedlondov45lond
3 The Illustrated London News, vol. 44, 1864, Jan.-June. Hathi Trust Digital Library.
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015006993201