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英米に伝えられた攘夷の日本(7-2-1-8)

『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』(ILN)が日本に戦争をしかけろと煽るような社説を掲載する一方、アメリカ・メディアは鹿児島砲撃に対して激しくイギリスを非難します。また、ILNでは暗殺されたイギリス人士官の加害者である攘夷の志士の公開処刑の様子を度々伝えています。

『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』「社説」:1863年10月24日, p.411(注1)

東洋人に譲歩することは西洋人の評判にとって自殺行為だから、戦争は徹底的にやれ

 薩摩藩主は8月中旬に学ぶべきことがあると悟った。彼は偉大な大公で、年に60万ポンド得ていると言われている。彼の兵士たちはライフルで武装し、完璧に規律を理解し、侮れない敵だ。(中略)その上彼は傲慢な貴族で、立証済みの保護主義者だ。中流階級に権力を与えることと、いかなる状況下でも外国人を日本に入れることに激しく反対している。(中略)

 我々は[この戦闘の]詳細を待ち望んでいるし、この後何が起こったか知りたい。(中略)降伏が続いて起こったのなら、我々は日本に最高の条件で対することができるかもしれない。しかし、いずれにしろ、大名たちの軍事力が破壊され、「商業の恵」(フランス人は文明化する時に「栄光」と呼ぶが、意味は同じだ)が、我々が公認した我が国の軍事ミッショナリーが接した驚くような人々に自由に受け入れられる。しかし、この戦闘にコミットしたからには、最後までやり通さなければならない。なぜなら、東洋人に譲歩することは西洋人の評判にとって自殺行為だからだ。(中略:大名クラスと一般市民をいかにコントロールするかについて)

日本には「国民」は存在しない

 ヨーロッパとの交際に関する日本の国民感情については、確信に至ることは難しい。一見すると、彼らが権力者を憎む非常にいい理由がある。戦争が武士階級の征服と大君の圧政に終止符を打つなら、数百万の目には好ましいかもしれない。もし権力者が許すなら、日本国民は喜んで我々と親しく交わると言われている—自由貿易の教義は、もちろん最も修正された形ではあるが、商人たちの間である程度行われている—(中略)

 我々は世界のいろいろな所で非常に多くの実験をしてきた。そのほとんどから我々は、国民感情について不完全な情報しかなかったことを悲惨な方法で学んだ。また、人口全体が突然改宗すると期待するのが危険だということも学んだ。特に日本に関して、このような期待を現実に持つことは危険だ。我々は日本に関して多くのことを聞いたが、最重要のことについては我々が極端に無知だということを確かめる程度の知識しかない。

 日本にはヨーロッパの言葉が意味する「国民」が存在しない(原文強調)ことは明らかだ。弱者はほとんど奴隷のような状態にあまりに長く慣れてしまって、自分たちの社会条件をもっと正当なものにする希望を持つことさえできない。その他の動機が働かなくなると迷信が恐れられるようになる。現時点で何百万もの日本人の心に、進歩を妨げるような強力な迷信があったかどうか我々にはわからない。(中略)

イギリスが中国で、フランスがマダガスカルでしたことを繰り返すのはやめよう

 我々が中国で、フランスがマダガスカル[フランスのマダガスカル植民地化]でした脅しを繰り返すのはやめよう。(中略)もちろん、イギリスの船と大砲が、日本にイギリス人入植者を入れる道を切り開くことができるのは疑いない。我々の正当な要求に従わなかったので、一撃を加えたのだ。今のところ、世界の目に我々は正しいと映っている。日本の大君と大名たちがつぶれないまでも、怯えるまでは、何度も何度も攻撃する必要があるかもしれない。しかし、これ以上進むのが望ましいかどうかは、重要な問題だ。(中略)

自由貿易のために大名たちを手取り早く片付けるのは正当化されるかもしれない

 条約がうまく生きていないので、条約違反とイギリス人の殺害に対して我々が報復した今、別の条約か古い条約の再批准を恐喝する価値があるか、検討する価値があるかもしれない。もし我々がこの問題について十分な知識を持っていれば、そして、大名が望まなくても、日本は我々と通商したいのだと言うことができれば、我々が日本を大名たちに反して仲間に入れ、250の貴族盗賊を手っ取り早く片付けることは正当化されるかもしれない。そうすれば、我々は砦をいくつか作り、自由貿易を布告し、誇り高く我々が人類の文明のためにさらなる貢献をしたと言える。しかし、現時点での脅しに関する限り、武勇ある敵との戦争になるのは必然で、中国でやったことの繰り返しになり、しかも、もっと不利な状況での戦争で、多分ビルマの戦闘にちょっと近いものだ。(後略)

鹿児島砲撃に関するアメリカ・メディアの反応

 鹿児島砲撃のニュースに『ニューヨーク・タイムズ』と『ハーパーズ・ウィークリー』が意見表明しているので、抄訳します。

「日本戦の進展」(NYタイムズ,1863年10月4日, (注2), p.4)

日本が戦争をするのはヨーロッパの1国ではなく、日本と条約を結んだ全キリスト教列強だ

 日本戦の規模は広がっている。大名たちは極限まで進めると決心しているようだ。攻撃をイギリスだけに向けるのではなく、大名たちは全ての外国野蛮人を禁じた。2世紀以上も日本との通商と滞在の特権を与えられていたオランダさえも除外していない。これらの貴族[大名]たちは自国から全外国人を追い出す命令に満足しなかった。彼らは全外国を攻撃するほど軽率で、全外国がイギリスの肩を持つよう強制した。したがって、日本が戦争をするのはヨーロッパの1国ではなく、日本と条約を結んだ全キリスト教列強だ。大名の無謀さはイギリス・フランス・オランダなどを日本の屈辱に対して連合同盟にした。日本は中国やインドよりも問題のある敵だと証明するかもしれないが、これほど日本に勝ち目のない状況では、最終的結果を疑うことはできない。

 この異常な国の運命が将来どうなろうとも、サンフランシスコ経由の情報によると、日本は最近成功を収めた。それは彼らにこの衝突を続ける決意を確信させたことは確かだ。イギリス艦隊は鹿児島(Kayosima)から拒絶されたようだ。彼らが8月30日に薩摩藩主にリチャードソンの殺害者たちを引き渡すよう強要するために行ったのかどうか。この場所は強固な要塞で守られており、イギリスの船が港に入ったとき、我々がよく知っている「偽装した砲台」(原文強調”masked batteries”)が火を吹き、彼らが射程から離れる前に多くが機能不全にされた。

英仏蘭は日本に不愉快な条約を守るよう、招かれざる客におもてなしをせよと強要するために戦争をする

 この戦争の最初の重要な出来事は、外国人に日本の敵を侮り過ぎてはならないと教えるべきだ。彼らは勇敢で、普通考えられているよりずっとヨーロッパの武器と戦術に詳しく、そう簡単に降伏しない。攻撃している国々の政府でさえ、そうだと感づき、あそこにいる彼らの軍事力が現在の企てには全く不十分だとわかり始めている。この確信でイギリスとオランダは鹿児島にいる士官たちに援軍を送る決断をし、イギリスは歩兵2連隊を、オランダは戦艦4隻を送るところだ。しかし、この増援でさえキューパー提督と仲間が日本人の意地と勇猛さに勝つことはできないだろう。そしてオランダ・フランス・イギリスはすぐに、不愉快な条約を守るよう強要し、招かれざる客におもてなしをせよと強要するために、この国々と戦争をすることは割に合わないと知るだろう。

「薩英戦争」(The Anglo-Japanese War)、NYタイムズ, 1863年11月15日, p.4

 最近鹿児島を襲撃したイギリス軍は、我々がサンフランシスコ経由の報道で推測させられたよりも、もっと恐ろしく、戦闘はもっと死に物狂いで、結果はもっと悲劇的だ。これはロンドンの新聞に掲載された電報報道と、ごく最近もたらされたイースト・インディアン・メイルのニュースから明らかだ。

 鹿児島を砲撃したキューパー提督に率いられた小艦隊はフリゲート艦2隻と小さい船5隻だった。イギリスの出現は突然だったが、日本が準備体制がなかったわけではない。複数の砦には90以上の大砲が備えられ、その中には150ポンド砲と13インチ迫撃砲が数基あり、そのほとんどはアメリカ製だ。イギリス艦隊が鹿児島市の前に位置を取るやいなや、海岸砲台が発砲してきた。即座に船が応戦し、交戦が夕方まで続いた。

イギリス軍の損害は13人死亡、50人負傷、多くの船の機能不能

 薩摩藩主の家来は勇敢に戦い、大砲をうまく使い、攻撃者に深刻なダメージを与えた。なぜなら、イギリスの声明によると、13人死亡、50人負傷、そして多くの船が機能不能になり、夜になって交戦が止むやいなや、イギリスは横浜に戻って修理するのが賢明だと思った。この退却は日本側には勝利とみなされたに違いないが、これは「ピュロスの勝利」[損害が大きすぎて割に合わない勝利]だ。なぜなら、守備隊は鹿児島を守ることができなかった。その日が終わる頃には、城も工場も兵器庫も炎柱が上っていた。不運な住民がどうなったか、我々は知らされていないが、その朝には20万人いたことを念頭におけば、イギリスの攻撃が予想されていなかったため、住民の運命について想像できる。

 キューパー提督が鹿児島で受け取った小切手は、元々の問題の解決を促進することにはならないことは確かだろう。砦の抵抗が成功したことは、日本人に新たな勇気を鼓舞したことは疑いない。イギリス艦隊は陸軍の協力なしには、海岸を回遊する以外は何もできず、野蛮にも[訳者強調]町々を焼打ちにした。

イギリスは日本の分割統治を望んでいる

 イギリスは完全に手を引くか、日本と大戦争[原文強調]をするしかない。イギリスは自信をもって日本の分割統治(divide et impera)を望んでいるが、彼らは分割統治の計略が実行できるとあまり自信を持つべきではない。大名たちと大君の政府との決裂は本当というより、そう見える[原文強調]という方がかなり可能性が高い。大君の好みは重要ではない。彼は単なる暗号に過ぎない。彼が江戸へ戻ったことは老中たちの政策を少しも変えなかった。御門が実際の君主であり、彼はただ外国人に攻撃的で、薩摩藩主と同じく現地の暗殺者たちを引き渡すことも罰することも望んでいない。

 この日本の教皇の直近のやり方が、彼が大名たちの反外国政策を実行する準備が十全にあることの証明である。彼は内閣の4人をキリスト教徒との平和を望んでいるという理由で解任した;彼は野蛮人[西洋人]とのあらゆる交通を禁じる命令を出した;彼は長崎奉行に、長崎を出ることを拒否した侵入者たちを皆殺しにするよう命じた。これらの命令は実行されなかったが、この延期は奉行の人道主義と良識によるものであり、江戸や帝から撤回されたものではない。したがって、帝と大名たちの間に様々な意見の違いがあるわけではない。もし大君が甘んじてイギリスの傀儡になるほど弱いのなら、彼は自分を支えるために国民の身体警護をえることはできない。

イギリスは日本と大戦争するか、日本におさらばするかしかない

 このような状況下で、繰り返すが、イギリスは大戦争の準備をするか、日本におさらばするかしかない。イギリスが手に入れた足場を捨てることは、もちろん、考えもしないだろう。そうならば、この二つの島国の間で絶えず大規模な衝突があることを我々は警戒しなければならないかもしれない。多くのイギリス人はそのような戦争を嫌っているが、ロンドンの『タイムズ』はそれが必然的であるばかりでなく、正当化されるとみなしている。しかも、それが単にリチャードソンの暗殺者たちを日本が罰することを拒否したという理由からなのだ。

リチャードソンは最初の加害者だ

 暗殺は残虐だが、この不運なイギリス人自身が実際は最初の加害者だったことを忘れてはならない。彼が日本の大街道の一つを馬で通った時、現地の庶民ですらそこにいることが法律で禁じられていたのだ。彼は確かに犯した過ち以上の罰を受けたが、彼が街道に不法侵入したことは、この帝国の貴族の首長に対する侮辱だとみなされた。これが彼の死という結果をもたらした暴行につながったのだ。リチャードソンが日本に住み、商売をする権利を与えた条約は、この国の法律、習慣、制度を破る権利は与えていない。

 リチャードソンの無分別と、イギリス当局によるその後の行為で日本人の心に生じさせた悪感情は、日本が外国人にとって暮らすのに非常に不安で困った場所にした。アメリカとヨーロッパは非常な困難と最も不利な状況下でこの島国に入国を許可されたのだ。現地人[日本人]の不信感と嫌悪感を克服するには、奇妙な気配りとデリカシーが必要不可欠だ。しかし、イギリスの高圧的な傲慢さは調停のあらゆる試みを無駄にし、今や、外国人という名前そのものが日本人にとってあまりに憎むべきものになってしまったので、よそ者全員が立ち退かなければならないだろう。

「イギリスの野蛮性」(British Barbarity, NYタイムズ, 1863年11月24日, p.4)

 世界中の至る所で時々出来事が起こり、それは近代文明と人類の非常に表面的な性質を表している。我々がその存在さえ忘れ、長いこと家畜化された人間社会の野生動物が突然その爪と牙をむき出す。民族学者によると、最も洗練された種族にも野蛮な血が依然として顕われ、獰猛で残虐な恐ろしい行為という形で世界にその姿を予想もせずに現す。このような多くの場合、我々は驚かない。(中略)南部の役人が故意に不運な囚人を侮辱し、餓死させると、我々はこれが奴隷制度の正当な結果だと見る。イギリスの大砲がヒンズー教徒の反逆者たちを砲撃したときも、ショックは受けたが、それほど驚きはしない。なぜなら、我々はイギリス兵のもっと下劣な情熱を燃え上がらせた残虐行為を思い出すからだ。しかし、時には全人類の脈拍が恐怖で震えるような、あらゆる文明人が本能的に非難の叫びをあげるような行為がある。今回の件は特に、この謀略者と実行者が文明の特別守護者だと自称してきて、長い間、隣人たちの小さな違反にも聖なる憤りを説教し続けている者たちだからだ。

イギリス政府はしばらく前から日本列島に「文明を紹介すること」を求めていた

 強者が弱者に対して犯した恐ろしい残虐性のブラック・リストに最初に挙げられるものとして永久に残るその犯罪は、18万人の住民に対する戦争がないのに、彼らが住む無防備の日本の町がイギリス提督によって砲撃され燃やされたことだ。イギリス政府はしばらく前から日本列島に「文明を紹介すること」(原文強調)を求めていたのを思い出そう。(中略:リチャードソン殺害事件と薩英戦争の詳細)イギリスの提督と代理公使はこの町を守る砲台とフェアな戦闘をしたが、黙らせることができず、警告なしに、故意に18万人の男女子供達が住む町、紙と木で建てられている家々を砲撃し、火をつけた。この不幸な町には戦争の原因も挑発も全くなかったのに!

 サンフランシスコがリチャードソン氏の殺害に全く関係ないように、鹿児島の町も何の関係もない。もしイギリスが藩主から満足感を得るべきなら、藩主の海軍を燃やすだけで十分なはずだ。
 大きな町を砲撃すること自体、恐ろしいことだが、挑発されたのでもなく、宣戦布告もなしに猛烈に燃えやすい東洋の町を砲撃し焼失させること、しかも女子ども、病人、老人に逃げる時間さえ与えないということは、言い表せないほど吐き気をもよおす恐ろしいことだ。

 病人、か弱い女性、赤ん坊、盲人、足萎え、年寄り、病床にある者たちが逃げる可能性もなく、この燃え盛る炎の中にいる;悲鳴、号泣、呪いが沸騰する大釜の中で無力の拷問を受けている者たちから上がるのを想像せよ;四方八方火の壁で、砲弾が炸裂し、建物を破壊し、悲惨な女子どもの手足や切断された肉体の破片が散乱する様を思い描いてみよ。しかも、この人間の苦しみと地獄のような復讐が2日2晩(原文強調)続いたのだ!

 これがイギリスが日本に紹介した文明だ! そして、この恐ろしい人類に対する野蛮以上の犯罪に、イギリス議会は多分この勇敢な提督に感謝するだろう(後略)。

「日本での戦争」(The War in Japan, 『ハーパーズ・ウィークリー』, 1863年12月12日, (注3), p.786)

 もし我々が1858年と1859年に起こったイギリス軍兵士が大砲でインドの戦争捕虜を吹き飛ばしたことを除けば、最近、キューパー提督率いるイギリス艦隊が日本の鹿児島の町を砲撃したことほど残忍なことは、我々の現代史の中では起こったことがない。

 この暴挙の言い訳は一人のイギリス人男性の殺害だ。彼は自己の人種の傲慢さで、日本人に対する偏見を犯し、自らの愚かしさの罰を命で償ったのだ。その報復の方法として、イギリスは最初に日本政府から巨額をゆすりとり、それを獲得すると、ボストンと同じ大きさの町の砲撃に、女子どもへの警告なしに進んだのだ。この時イギリス艦隊を指揮していた悪党は実際に自慢し、彼の政府は彼に代わって「少なくとも町の半分が炎に包まれた」と自慢した。彼らは[北軍の]ギルモア少佐が女性子ども全員に1ヶ月も前に警告を出した場所[南キャロライナのチャールストン]に対してギリシャ火薬(Greek fire)を使ったと非難したペックスニッフ[二枚舌]なのだ。

 イギリスは日本で自分たちの手の上に象がいると知ることになるだろう。イギリスの日本とのビジネスはイギリス製品を売ることだ。アヘン輸入を中国政府が禁止したことを撤回させるようイギリスが中国を砲撃したように、簡単に日本にイギリス製品を買わせるために日本を砲撃することはできないと悟るだろう。日本人は戦うだろう。イギリスはあちこちで「町の半分」を破壊するかもしれないし、多くの無力な女子どもを死に追いやるかもしれない。しかし、大名たちに率いられている日本列島の人々はこの戦いを諦めることはないだろう。そして、勇敢で冒険的な日本の海兵たちが現在日本の海域外で戦争をしていないと我々は大きな誤解をしている。

 栄えている港を事前通知なしに砲撃することは確かに偉業である。しかし軍神はこのような残虐行為に眉をひそめ、このようなことは惨事以外の何物ももたらさない。

 1865年2月25日号『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』に鎌倉大仏の銅版画が掲載され、特派員アーティストのワーグマンがその左横に「日本におけるイギリス士官たちの殺害者のうちの2人の処刑」という題名の記事で、攘夷の志士たちの初の公開処刑の場面のスケッチの解説をしています。この記事の次に「日本・鎌倉の寺の仏教偶像大仏」(The Buddhist Idol Daiboodh, in the Temple of Kamakura, Japan)という題名の記事を配置し、殺されたイギリス人士官が大仏見物に行ったことから始め、鎌倉の大仏について説明しています。

The Daibuudh, or Colossal Broze Image of a Buddhist Idol, in the Temple of Kamakura, Japan
大仏、仏教の偶像のブロンズ像、日本・鎌倉の寺(出典:ILN, 1865年2月25日, (注4), p.193)

読者も覚えているだろうが、2人のイギリス人士官、第20連隊のボールドウィン少佐とバード中尉が日本・鎌倉の寺の近くで、2,3ヶ月前に殺された。2人は全外国人の好奇心の最大の対象物である鎌倉の大仏を見るために、馬に乗ってヨコハマからこの場所に来たのだった。

Execution of Two of the Murderers of the British Officers in Japan
日本におけるイギリス士官たちの殺害者のうちの2人の処刑(ILN, 1865年2月25日, p.192)

「日本におけるイギリス士官たちの殺害者のうちの2人の処刑」

 [1864年]12月16日、2人の士官の殺害に関連した2人の日本人の処刑をスケッチしろとヴァイス(Vyse)領事に言われ、馬で処刑場に行った。処刑場の外にはヨコハマの商人と役人の馬100頭がいた。乗り手たちは中に入っていた。我々は通常の柵矢来に囲まれている中庭に通され、そこには多くの見物人がタバコを吸いながら、話しながら待っていた。中庭には長方形の穴が掘られ、その近くにわらのござが置かれ、2人の犠牲者がその上にひざまづいていて、彼らの頭を受ける目的だ。穴の右側には水を入れたバケツ2つと柄杓が置かれている。役人数人が公使館の職員と話しながら歩き回っている。1時間以上待たされてから、判事が囚人に判決を読み上げた。それが終わると、囚人は不気味な叫びをあげ、足を引きずる音がしたので、ヨーロッパ人たちは囚人たちが逃げるのだと想像し、瞬間、大きなパニックが起こった。しかし日本人の通訳が我々に説明して、再び静寂が戻った。最初の囚人が目隠しされ、腕は固く紐で縛られた。彼は4人の男たちに導かれて、ござの上にひざまづき、頭を穴の上に置いた。4人の男たちは彼をつかまえていたが、彼は筋肉一つ動かさず、冷静そのものだった。処刑人はこの仕事を喜んでいるようで、刀を持ち、竹の鞘が渡された。彼は水に手を入れ濡らしてから、刀の柄に白いコットンを巻いた。それから鞘を外し、位置についた。

 囚人をつかまえていた4人の男たちは彼の肩を裸にした。これらの準備の間、私は気分が悪くなったと告白する。処刑人が数回見せかけの動作をしている間、私は頭を背けたが、鈍いドサっという音を聞いて、見回したら、男が跪いていた場所には頭のない体が血を流して横たわっていた。処刑人はまるで人参を切り取るように鮮やかな一太刀で頭を切り落としたのだ。男の頭は穴に落ち、水がかけられて、次の犠牲者が運び込まれた。彼は数カ所刀で傷つけられ、足の傷で歩けなかったからだ。彼は前の男ほど落ち着いておらず、何度も処刑人に、まだか(madaga?)と聞いた。彼の頭も前の男同様一太刀で切り落とされた。2人の頭は洗われ、袋に入れられた。私は喜んでここを去った。

 このスケッチをするにあたり、読者がショックを受けない場面を選んだ。この2人の男たちは殺人者の友人で、外国人を殺す意図があったと言ったようだ。他の2人と一緒に出身地を出て、殺人の後、箱根山まで追跡されて、そこで逮捕された。しかし年上の方が逮捕者たちと戦ったので、刀傷を受けたという訳だ。実際の殺人者たちがどこにいるか仄かしたと言われているので、他の2人も裁きにかけられる事は確かだろう。日本が我々に開かれて以来、外国人に対する悪行の結果、現地人[日本人]が処刑されたのは今回が初めてだ。とにかく、大君の政府が外国人と友好関係を続けたいと望んでいる兆候だ。

The Execution of Shimadzu Seiji, at Yokohama, for the Murder of Major Baldwin and Lieutenant Bird
ボールドウィン大佐とバード中尉の殺害で清水清次の処刑がヨコハマで(ILN, 1865年3月18日, p.264)
キャプション(下):Japanese Procession conducting the Criminal through the Streets of Yokohama
犯人をヨコハマの町で引き回す日本の行列

イギリス人士官たちの暗殺者の残り1人の公開処刑

 イギリス人士官2人を殺した攘夷の志士の残りの1人が捕らえられ、ヨコハマを引き回されて、処刑された記事が、1865年3月18日号『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』に掲載されました。

「ヨコハマで日本人暗殺者の処刑」(pp.261-2)

 ヨコハマの本紙の特別アーティストが2枚のスケッチを送ってきたので、本号にその銅版画を掲載する。3,4ヶ月前にイギリス人士官、ボールドウィン少佐とバード中尉の暗殺に関係した男たちの一人、清水清次の日本の処刑方法を示している。処刑の前日、[1864年]12月27日に犯人は荷馬に載せられ、町を引き回された。彼の罪状は大きな旗に書かれ、彼の前に載せられた。日本兵12人が銃剣をつけて、警護として前を歩いた。後方に2人の騎馬役人とヨーロッパ人の群衆が馬に乗ってついていた。

 通りは日本人とヨーロッパ人でいっぱいだった。殺人者は筋骨たくましい男で、立派な頭と断固とした表情で、行進中ずっと歌い、無関心な様子で周囲を見回していた。通りが終わったところで、彼はパイプタバコを吸い、食べ物を与えられた。それから、処刑場に連れて行かれた。そこは篝火と松明で光景が照らされていた。しかし守備隊が同席するには時間的に遅すぎたので、処刑は翌日まで延期された。男は収容所に戻され、翌朝9時にイギリス海兵隊と第20連隊の軽歩兵全体がペンロース大佐に率いられて、また、砲兵隊半分がウッド中尉に率いられて処刑場まで行進した。処刑場に着くと、彼らは四角状に整列した。日本部隊は道路上に整列した。

 しばらくすると、囚人が以前のようにエスコートされ、今回は乗り物(norimon)に載せられて登場した。酒と食べ物を与えられ、ゴザまで歩いて行き、頭が穴に落ちるような所でひざまづいた。彼は目隠しをしないよう依頼し、許されると、彼は自分の死体は自分が指定する場所に送って埋葬し、墓に銘板を置くよう要求した。処刑人に話してから、彼は長い詩を歌うというか、叫んだが、誰もその意味が理解できないようだった。そして彼は刀を振り下ろそうとしていた処刑人に「ちょっと待て」と言い、頭を穴の上に置くと、「今だ」と言った。刀が振り下ろされたが、彼の首数カ所傷つけただけだったので、処刑人は首を切り離すまで3回も切った。そして銃が1発、発砲され、頭は袋に入れられ、町の入り口に晒される。

The Execution of Shimazu Seiji
日本:清水清次の処刑(出典:ILN, 1865年3月18日, p.265)

1 The Illustrated London News, vol.43, July-Dec. 1863. Hathi Trust Digital Library.
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uc1.c0000066860
2 The New York Times, October, 4, 1863. https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1863/10/04/issue.html
以後、NYタイムズのアーカイブは上記URLの日付を変えればアクセスできます。
3 Harper’sWeekly, 1863 vol.7, Hathi Trust Digital Library.
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015022644960
4 The Illustrated London News, vol.46, Jan-June. 1865, Hathi Trust Digital Library.
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=chi.60765671