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英米に伝えられた攘夷の日本(8-2-1)

日本は金銀の交換で40%〜60%の利鞘が稼げる国という報道と同日の『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』に「万延元年遣米使節」訪米(1860)の銅版画が掲載されます。

日本使節団訪米を伝えるILNの報道

 前節で紹介した「日本の通貨」の記事が掲載されたILNの1860年6月16日号には、日本で「万延元年遣米使節」と呼ばれる日本使節団のワシントン到着の様子も掲載されています。

キャプション:Arrival of the Japanese Embassy at Washington(日本使節団のワシントン到着)
上段:Box Containing the Treaty and Treasure(条約と宝物を入れた箱, p.585, (注1)

 アメリカ訪問の日本使節団はワシントンに到着し、予想された通り、驚くほどのセンセーションを巻き起こしている。『ニューヨーク・トリビューン』の特派員は5月14日にワシントンに到着した一行の動向を記録しているので、要約する。

夜明け:日本使節団をのせたフィラデルフィア号はポトマック川を上り、日本の画家は全行程で絵を描いていた。(中略)

 早い時間なのに海軍造船所は多くの婦人を含め大勢の群集で埋まっていた。11時半頃、造船場の大砲が蒸気船が現れたことを知らせると、群集が埠頭に突進した。フィラデルフィア号が近づき、上甲板の海軍バンドが国歌「星条旗」を演奏した。ベレット市長が乗船し、大使たちに紹介された。彼がワシントン市民を代表して歓迎の辞を述べると、大使はお礼を述べた。最初に条約の箱がボートから運ばれ、次に数人の海軍士官たちにエスコートされて日本人が続いた。彼らは上陸する時、アメリカと日本の国旗の下を通った。(中略)海軍造船所から宿舎のウィラード・ホテルまでの間、極端な興奮が続いた。一行は1時45分頃にホテルに到着した。歩道の群衆があまりに多く、また、日本人一行の行列が長かったので、1時間以上かかった。住民全体がこれほど興奮して熱狂しているのを見たことがない。町を通るこの行列全体はまさに拍手喝采に値した。ウィラード・ホテルのレセプション・ルームは日本の客人を迎えるために集まったこの国のお偉方とその妻、姉妹、娘たちでいっぱいだった。疲れ切った客人たちは1時間以上もこれらの人々と挨拶をし、ようやく部屋に引き下がることが許された。そして人々が散り、軍隊は部隊に戻った。(p.581)

キャプション:Reception of the Japanese Embassy by President Buchanan in the East Room of the White House
(ホワイトハウスの東の間でブキャナン大統領に迎えられる日本使節団, p.580)
上段左から:Bearer of the Treaty, Capt. Lee, Interpreter and Ambassadors, Capt. Porter, Capt. Portman, Capt. Dupont
条約を運ぶ者、リー大佐、通訳と大使たち、ポーター大佐、ポートマン大佐、デュポン大佐
President Buchanan, Gen. Scott, Secretary Cass(ブキャナン大統領、スコット将軍、キャス国務長官)

 日本使節団は5月17日にブキャナン大統領に謁見した。正午少し前に一行はホテルを出て、彼らの乗った無蓋馬車の前後は警官が守り、両側は海兵隊と砲兵が警護した。大使たちの衣装の刺繍の豪華さと大きさはこの行事にふさわしいものだった。[ホワイトハウスの]東の間(East Room)に海軍と陸軍の士官たちが並び、壮大な披露の式の光景となった。正午にフォールディング・ドア[折れ戸]が開かれ、大統領が閣僚たちを従えて入ってきた。すると、キャス長官が控え室に下がって、日本の長官たちとその従者たちを連れて戻ってきた。彼らは登場すると、深くお辞儀をした。そして、正使が大統領に適切な挨拶を述べた。メッセージを伝えると、日本使節は部屋を出たが、すぐに戻ってきて、前と同じようにお辞儀をし、大統領が彼らのメッセージに対する返礼のメッセージを通訳を介して伝え、大統領のスピーチが大使たちに手渡された。大統領は大使たちと握手をし、閣僚たちとスコット将軍とペニントン議長が紹介された。式が終わると、大使たちは来た時と同じ行列でホテルに戻った。

 日本との条約批准の式は22日に国務省で行われた。単に条約文書の正確さを比較し、確かめあうだけの式だった。25日に大統領は大使たちを晩餐に招待し、多くの著名な紳士たちも招待された。聞くところによると、日本の長官たちは、日本と外交関係にある列強の国々の外交官だけにしてほしいと固執したという。その国とは、イギリス、フランス、ロシア、オランダである。

大統領謁見について、アメリカの『フランク・レスリーのイラストレイテッド・ニュースペーパー』(Frank Leslie’s Illustrated Newspaper、以下FLIN)では以下の印象が伝えられています。

 この式の間じゅう、日本の一行は床をじっと見つめるか、大統領をまっすぐ見ていた。彼らの態度全体は全く厳粛で、敬意がこもっており、上品で育ちの良さが表れていた。述べておかなければならないことは、使節が東の間から最初に下がったのは、皇族、または正使を連れてくるためだった。日本の作法では、彼らに権限を与えている書簡が手渡される場に正使は臨席してはいけないことになっているからだと述べられた。

 問題の書簡は非常に大きな、見事な緋色の絹の包みから出された。この会見は、予想されていたようなバカげた、面白おかしいものとはほど遠く、厳粛で真面目な性質のものだった。衣装、言語、慣習の奇妙な違いを通して、大使たちが高潔、誠実、道義、知性、洗練さを備えた人々であることがわかり、新世界が彼らに振る舞い方の良し悪しや、公的責任感について教えることは何もないことが明らかだった。(1860年6月2日, p.10, (注2)

 ILNの記事は違和感なく読み過ごしたのに、アメリカの報道で「本当だろうか?」と思わされた箇所があります。日本使節が将軍から大統領に宛てた挨拶文を読み上げた後、東の間を下がった理由についての箇所です。マサオ・ミヨシの解説によると、使節側の失敗だったそうです。「あわてたデュポン大佐は、気まぐれな貴族一行を追いかけていき、イースト・ルームに呼び戻さざるを得なくなった。アメリカ人は、この使節一行の唐突な退室について、日本人の神秘的な儀礼の一部であるという印象を受けた」((注3), p.134)と、ワシントンD.C.の新聞『イヴニング・スター』の記事をあげています。この新聞が本当に「神秘的な儀礼の一部」だと書いているのか確かめたくなり、ネット上で検索したところ、アメリカ議会図書館が古い新聞をネットで読めるようにしているサイトにいきつきました。「東の間の隊列」という題名の記事が謁見の日に出されていますので、比較のために該当箇所を訳します。

 次に、使節団は大統領の前からさがり[部屋を出て]、すぐに正使を連れて戻ってきた。彼らの作法によると、正使は彼らに権限を与えている [将軍から大統領へ宛てた] 手紙が手渡される場に臨席してはいけないことになっていた。彼らはゆっくりと後ずさりしてさがり、途中で2度止まって深々とお辞儀をした。その度にブキャナン大統領は返礼のお辞儀をした。間もなくして彼らは戻ってきた。前に見たのと同じ儀式をしながら、正使を真ん中にして部屋に入ってきた。そして通訳のポートマン氏を通して大統領に示されたのは、返礼の挨拶を受ける準備ができたことだった。(注4)

 ミヨシは、使節団参加者の日記で、この失敗についてふれているものがないのは当然で、もし「この失敗が幕閣に知れたら、使節三人全員とまではいかないまでも、少なくとも正使の切腹は避けられなかったかもしれない」(p.134)と述べています。しかし、そもそも、アメリカ側はこの儀式の流れを使節団に説明したのかという疑問がわきます。

 ILNが万延元年遣米使節について報道したのはこれだけですが、アメリカのメディアは使節団の一挙一動を同行取材して伝えています。

万延元年遣米使節の訪米目的

 ハリスが幕府との間で1858年7月29日(安政5年6月19日)に結んだ日米修好通商条約第14条に、この条約は1859年7月4日に発効し、その日またはその前にワシントンで批准書の交換が行われること、もし予期せぬ理由からそれまでに批准が交換されなくても、条約は上記の日に発効することと明記されました。国務省刊『アメリカ合衆国の条約』第7巻(1942, (注5), pp.1028, 1071)によると、ワシントンを批准書交換の場所と提案したのは幕府側で、ハリスが同意したとされています。

 また、日本側はアメリカまで航海できる船が日本にはないので、使節を合衆国の軍艦で送り迎えしてほしい;アメリカ海軍の士官に同行してもらいたいと依頼したとハリスが伝えています。ハリスは自分の江戸参府にも下田の副奉行が同行し、これが日本のエチケットだと説明しています。これが受け入れられたのか、日本使節の訪米中の行動にはデュポン海軍大佐が担当者として任命されたとアメリカの新聞でも報道されています。

 訪米の費用について、ハリスは国務長官宛報告書で自分の江戸滞在(6ヶ月)中の警護、多くの召使の給与など一切の費用を幕府が払ったことも伝えた結果、アメリカ政府は日本使節団歓迎に5万ドルを計上しました(pp.1973-1975)。日本使節歓迎行事の経費を巡っては、メディアが批判し、市民による訴訟問題に発展しました。

 使節団の正使は外国奉行の新見豊前守正興(しんみぶぜんのかみまさおき:1822-1869)、副使が同じく外国奉行の村垣淡路守範正(むらがきあわじのかみのりまさ:1813-1880)、目付の小栗豊後守忠順(おぐりぶんごのかみただまさ:1827-1868)をはじめ、高位の武士18人と従者53人とされていますが、その中には絵師など様々な職業の人々が含まれていました。

キャプション:Muragaki Awajinokami, Shimmi Buzennokami, Oguri Bungonokami (From photograph taken at Willard’s Hotel, Washington, D.C., U.S.A., June 4, 1860)(ワシントンD.C.のウィラード・ホテルで1860年6月4日に撮影された写真より、(注6)

日程

 訪米の日程は日本側から延期の希望が出され、使節団がアメリカ海軍のフリゲート艦ポーハタン号に乗船したのは1860年2月9日、神奈川を出帆したのが2月13日でした。日本の外務省の記録では総勢77人とされていますが(注7)、当時のメディア報道を元にした『アメリカ合衆国の条約』では72人とされ、そのうち1人がサンフランシスコで病気になり、サンフランシスコ止まりの咸臨丸に残ったとされています(p.1077)。

ポーハタン号と咸臨丸のホノルル・サンフランシスコ到着に寄せたアメリカ・メディアの期待感

 万延元年遣米使節団に関して、アメリカ・メディアは熱狂的に報道し、やがて過剰な歓迎に対する批判も出てきます。

 3月5日、ポーハタン号が日本の遣米使節団を乗せてこの離島に到着し、非常に大きな興奮を起こした。世界史上前例がないこの出来事は、東洋の国々の中でも最も勤勉な国と新世界の中で最も進取的な国との間の広範囲の儲かる貿易という利益が約束されているので、この島の住民に大喜びで迎えられた。ホノルルの主要新聞『ポリネシアン』は以下のように書いている。「この使節団は日本の政治組織の原則に従って、日本帝国の貴族の中で最高位のプリンスである2人の主要大使とその仲間、ほぼ同列の位の4人の貴族と16人の役人と52人の低い位の従者から構成されている。(中略)これら客人達は頭の回転が早く、知的で好奇心旺盛で、絶えず活発だ。彼らにとって目新しいものは全て検分され、質問され、表記され、スケッチされる—特別な能力を持った絵師が公式報告書に必要な挿絵を付ける目的で使節団に同行している—この報告書が公開されれば、興味深いことに、ペリーの日本遠征の素晴らしい公式報告書に似たものになるだろう。ホノルル市民の好奇心に対して、彼らは丁寧で愛想よく、忍耐強く接している」。(FLIN, 1860年5月19日, p.4「日本使節団のホノルル・サンドイッチ諸島到着」)

この精神[世界は全員の利益のためにある1家族]の進歩の喜ばしい兆しの一つが、我が国政府が日本の門を世界に向けて押し開けた条約だ。日本は排他性、特異性、地方性[偏狭]の最後の拠点だった。咸臨丸(Candinamarrah)が最近サンフランシスコに到着したことが、日本政府が善意で現代文明の道に入ってきたことを示している。「古法」[鎖国制度]という厄介な圧力が取り除かれたとき、地球上で日本ほど科学情報を欲した国はなかったことを知って世界が驚いたのはずっと前のことだ。我が国の機械的発明は日本人に容易に理解され、熱心に採用された。日本の知識人への贈り物で、ヨーロッパの科学製品ほど受け入れられるものはないと言われている。そのような人種が世界の公道に連れて来られたと考えるのは喜ばしい。我が国政府が最初にそう導いたのであり、今や日本にとってアメリカは外国の味方として最初でかつ最も近い国と日本人にみなされていると考える。これは、我が国のロシアとの関係と一緒に、ヘルチェン(アレクサンドル・ゲルチェンとも、Herzen: 1812-1870,ロシアの哲学者)によって予想されているように、将来莫大な利益を我々にもたらさないはずはない。ヘルチェンは太平洋が未来の地中海になるだろうと予言した。(FLIN, 1860年4月28日, p.336「国々の団結—日本」)

『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された相反する日本人の印象

 サンフランシスコを出発後、パナマに到着した日本使節団一行の印象を報道した「本社の通常パナマ特派員」の日本人観と、別の特派員によるハンプトン・ローズ(Hampton Roads, バージニア州南東部)到着時の一行の印象を抄訳します。

「使節団のパナマ到着」:我が社の通常パナマ特派員より、アスピンウォール(Aspinwall)、水曜日、1860年4月25日

 日本の大使たちと一行72人を乗せた合衆国コルヴェット艦ポーハタン号が昨日の朝24日5時にパナマに到着した。全員良好な健康状態である。(中略:汽車でアスピンウォールに行き)大使たちと一行はすぐに17砲の礼砲の中でフリゲート艦ロアノーク号(the Roanoke)に乗船した。ロアノーク号には特派員の同行が許されているので、異人たちを観察するいい機会だ。私の意見では、それ以外どんな運命が降りかかろうとも、彼らの誰一人、美しさのために絞首刑にされることはないだろう。時々ワシントンに来るインディアン使節団の中で、多くは高貴な外観をし、威厳のある前面をしているが、ほとんどはしゃがんだ姿で、背丈は1.52mもなく、目と口は大きく、痩せていて、黄色っぽい頬をし、全員が酷い服装で、世界で最悪の人々だ。(NYT, 1860年5月10日, p.1, (注8)

「日本使節団—ロアノーク号のハンプトン・ローズ到着」:特派員、ハンプトン・ローズ、日曜日、1860年5月13日

 大使たちは自分たちの費用を合衆国が支払うと聞いて非常に驚いた。彼らは自分たちで支払う用意をして来ていて、十分な資金を携えていた。これが自分たちが受けた最高に素晴らしい好意の表現だと思った。この人々を見て、間近に観察して、私は「通常パナマ特派員」とは違う結論に達し、彼の日本人批判を遺憾に思う。この日本人たちは世界中で最も洗練されており、優しい立ち居振る舞いで、表情は愛嬌がある。我々の外見が彼らに奇妙に見えるのと同じく奇妙な外見だが、気持ちがいい外見だ。(NYT, 1860年5月14日, p.4)

 「通常パナマ特派員」の記事で「インディアン使節団」としているのは、「日本使節団」と実名を使うのは憚られると記者が感じたのでしょうが、この記者の蔑視の順位がネイティブ・アメリカン、次に日本人というかのように、当時の差別感があからさまに表されているようです。 

使節団の言動を伝える報道

 次にポトマック川を上ってワシントンに向かう船上で行われた晩餐会での振る舞いや、船からの眺めに対する一行の言動などが報道されます。

日本人は自分たちを”Niponese”と呼ぶ。フィラデルフィア号上で豪華な晩餐に招待され、日本人は肉以外全て食べた。ナイフとフォークをやすやすと使いこなし、彼らのテーブルマナーは、コースのどの段階でも全く落ち着いていて、このような儀式に慣れている者たちと同じくらい、食事を楽しんでいた。彼らが恥ずかしいと感じたとは全く見えず、ましてや気後れなど少しもなかった。大使たちは食事後テーブルから立ち上がると、デュポン大佐に上品なもてなしをありがとうとお辞儀をして、上のサロンに行き、そこでタバコをすって自由な会話を楽しんだ。使節団の誰もが日記をつけ、シャツの胸に鉛筆、ベルトにインク壺を下げていた。ポトマック川を上り、首都に近づいたと聞くと、最高の関心を示した。建物の名前や目的を熱心に尋ね、メモに忙しかった。何人かは扇に景色を描いていた。(NYT, 1860年5月15日, p.1)

 以下の特派員の感想に、当時のアメリカの価値観が表れています。「教育があり、洗練されている」ように見える男たちは「女々しい、脆弱」で、「アスリート、労働者」風の屈強な様子の男たちは「我が国の最良の人たち」と同じだという表現です。

 使節団がホテルに着いてから今まで、周辺はあらゆるタイプの人々が、東洋の見世物(these Eastern curiosities)を一目見ようと集まっていた。しかし、各ドアに「当ホテルのお客様以外は入館禁止」というお知らせが貼ってあった。それでも群衆は侵入したが、奇妙なことに、そのほとんどは恐ろしい数の女性たちだった。彼らは大広間に群がり、異人たちの顔を覗き込み、彼らの服に触り、あらゆる方法で、好奇心と驚きを示していて、彼らの興味の対象である使節団の冷静沈着さと対照的だった。日本人は自分たちの部屋に着くとすぐに休んだ。彼らの周囲の者たちによって示された執拗な詮索に対して、彼らはまるで何も見えない、押されたりしていない、群衆の中で窒息してないかのように、又は彼らの拷問者によって様々な方法で迷惑をかけさせられていないかのように、全く無感覚で冷静沈着のように見えた。(中略)

 図書室で起こった出来事は彼らがジョン・ブル[イギリス人]を好きではないことを示しているようだ。通訳の一人が非常にいい英語のアクセントで言った:「サンフランシスコいい都市。ワシントンいい都市。私たちはアメリカ、ロシア、フランスが好きだ—イギリスは好きじゃない」(”San Francisco fine city; Washington fine city. We like America, Russia, France—not like English”)そして、肩を大げさにすくめて、イギリスへの侮蔑の表現で彼は去った。

 今までのところ、彼らは注目されていることを非常に喜んでおり、ホテルの部屋に完璧に満足していると言った。また、見物人の詮索好きに気を悪くしていないと言った。彼らは[アメリカ人より]もっといい行儀作法だと確かに示している。プリンス以外、使節団の何人かは非常な金持ちで、教育があり洗練されている。これは全員ではないとしても、ある程度、彼らの明らかな脆弱さ[女々しさ、effeminacy]を説明している。

 彼らの中には自国でアスリート、労働者をしている人たちもおり、我が国の最良の人たちと同じぐらい屈強な男たちだ。(中略)彼らが持ってきたミニエー銃(Minie rifle)はペリー 提督が残したサンプルを彼ら自身が改良したもので、装填法を改良し、我が国の陸海軍も非常に称賛している。

 ウィラード・ホテルの女性たちは使節団の中で一番若くて一番器量のいい2人を可愛がっている(making pets of)。彼らは英語が少し話せる。客室係のメイドたちはキッチンの召使たちに非常に深い関心を持つようになっている。その結果がどうなるか占うフリをするつもりはないが、関係者のために言う。日本使節団が全員男性で、母国から離れて長くなるから、もし宗教が許せば、2,3カップルが出来上がるのは不可能ではないと思う—(中略)これは人種の性質における新たな進展を示すだろう—ヤンキーまたはアイルランド人と日本人の交配である。(NYT, 1860年5月16日, p.8)

“Tommy”

 通詞見習いの立石斧次郎(1843-1917)がアメリカでトミーと呼ばれて女性達の人気者になりました。以下はアメリカの週刊誌『ハーパーズ・ウィークリー』(以下HW)に掲載されたトミーの銅版画と解説文です。この他にも「トミー」に関する記事が多いので、いくつか抄訳します。

Japanese Tommyの肖像画を提供する。彼は目下ワシントンの寵児だ。トミーは使節団の随行員で、頭が切れて行動的でインテリの小さな奴で、既に多くの英語を獲得している。トミーは最初女性達のペットだったが、誰かがスカートのフープペチコートとその上部構造が「硬い」と吹き込んだものだから、トミーはそれを確かめようとしたため、それ以来女性達は彼に近寄らなくなった。(1860年6月2日, p.340, (注9)

バルティモアでは大きな行列が出迎え、消防車や花火、観兵式が行われ、ホテルのバルコニーから2万人の群衆が集まったのが見えた。「トミー」は相変わらずご婦人達全員の注目の的だ。「条約の箱」を入れた馬車の後部にいたが、条約の箱が馬車の大部分を占め、トミーが座る場所がない。自分の気を引いた女性達に対する彼のずる賢い流し目と優雅なお辞儀は彼を目立たせ、婦人達全員がトミーを探していたので、彼を一行の中から探し出すのは簡単だった。口から口へ「トミーはあそこよ!」「あ、あれが彼?」という声がコーラスとなって、ブーケやその他のプレゼントが彼に投げられ、手渡された。(HW, 1860年6月23日号、p.391)

キャプション:Our Japanese Visitor “Tommy” among the Ladies of Washington.
(我が日本の客人「トミー」がワシントンの婦人達に取り巻かれる)(1860年6月2日, p.340)

炎上するトミー報道

 トミーをめぐる報道には、フェイク・ニュースあり、「炎上」と呼べるような現象ありで、そこに人種問題も絡んでいます。HWの6月23日号に「トミー」と題した記事と以下の銅版画が掲載されています。『トリビューン』紙特派員の記事、『ヘラルド』紙の記事、NYTの記事を引用して、フェイク・ニュースはどれか読者を試しているかのようです。『トリビューン』紙からの引用の一部を抄訳します。

 トミーは小さな男の子を自分の部屋に誘い込み、そこで男の子を赤い絹のズボンで飾り立て、ホテルの休憩室に行かせ、人前で笑い者にさせた。昨夜は彼は何らかの方法で非常に苦労して、紙の絞首刑用首輪を得て、自分の茶色い首に巻いた。アメリカのファッションだと、仲間の間を新たな尾羽を得た孔雀のように練り歩いた。

 彼が私に打ち明けたことは、この国でふさわしい妻を見つけたい、そして日本に戻らず、彼女と一緒にここで平和に暮らしたいということだった。サインを求める扇が手渡されると、「アメリカ女性がとても好き;プレティな女性と結婚してここで暮らしたい(原文の注:’pletty’というのは彼独自の’pretty’を修正したもの)。(中略)乙女の群れが一日中トミーを慈しみ深く見つめている。夜遅くまで、遠慮なく手を差し伸べる。乙女たちの付き添い監督者も彼に注目している。(中略)トミーが自分に注がれる好意に甘やかされるか否かは彼の上司や経験豊かな同僚を非常に不安にさせる問題で、彼らは時にトミーの無秩序な気性を抑えようとするが成功していない。
 トミーは興奮した時には罵り言葉を会話の中に奇妙な方法で入れる。しかし彼はそれが不適切だという認識はない。彼にとっては強調の表現でしかない。

 6,7歳の美しい少女がベレット市長に連れられて日本人を見にきた。トミーは彼女に深い興味を感じ、彼女にあらゆることを説明した。(中略)可愛い異人を見にこいと仲間全員を呼んで、彼女が去ろうとした時、「ここではこんなに小さな子にキスするのが許されているか」と聞いた。日本では全く正しい行いだとみなされていると言った。(HW, 1860年6月23日, p.389)

キャプション:”TOMMY,” THE FAVORITE OF THE LADIES. (HW, 1860年6月23日, p.389)
(ご婦人方のお気に入りの「トミー」)

 この2日後のNYTに「”Tommy”と彼の拷問者たち」という見出しの社説が表れます。あるメディアで報道された女性たちの言動が目にあまるという趣旨の意見表明です。その中に使節団の担当をしている海軍省担当者からと推測される手紙が署名なしで引用されています。その一部を抄訳します。

 トミー(日本使節団の第3通訳)については多くのナンセンスが書かれたが、その報道の2,3は注目される。あるレポーターはセンセーションを起こす記事を書かなければ雇用主に義務を果たしたとは言えないと考えているようだ。そして、事実をねじ曲げて、新聞を情報を得るためではなく、スキャンダルを読むためだと考える読者におもねる記事を書いた。トミーがこの国に来てから持ったとされるいかなる種類の恋愛のスキャンダルに全く真実はない。トミーは確かにばかな若いご婦人たちからラブレターを受け取るが、すぐにそれを使節団担当の海軍副司令官に渡し、副司令官はそれを燃やすか、アメリカ女性のあるべき姿を忘れているこの無分別な若い女性たちの両親に送り返す。日本使節団担当の海軍士官はこれまで日本使節の評判や快適さを阻害する恋愛沙汰(amour)やクリノリン(crinoline女性のスカートを膨らますペチコート)の侵入から日本使節を守る任務を果たしてきた。今後も忠実にその義務を果たすだろう。もしラブレターが送られるとしても、トミーにはどうしようもない。彼が取れる行動はそれを副司令官に渡すことだ。それを彼は忠実に実行している。トミーは優秀な少年で、クリノリンが努力してきた全てに甘やかされてはいない。もし海軍省が義務を果たしてきたように、世間がその義務を果たしたら、日本人の間に広まっている意気消沈や不安を心配することはないだろう。(NYT, 1860年6月25日, p.4)

 この引用部分の前後には、次のような意見表明がされます。「トミーの拷問者」である少女たちが「ワシントン・バルティモア・フィラデルフィアの女性たち」で、「我が国の『地方』(”provincial”)都市の女性たちはつまりアメリカ人女性であり、彼女たちの評判は我々の評判であり、彼女たちの性質は我が国全土の運命に関わり、彼女たちの行動は良かれ悪しかれアメリカ人全体の名前に影響する」;外国使節を担当する「副司令官」の義務の一つが、毎朝約30センチもの手紙の束、バカなお嬢さんたちが1人のモンゴルの少年に書いた手紙を読むことだというのは情けない。トミーがモンゴル[系]の少年だから、そして彼がブルー・ヘアと金色の目、あるいは金色の髪とブルー・アイの「ワシントンの乙女」の写真を胸に抱いているからこんなことになる。そして以下が結論部分です。

 我々の目の前に展開されている女性の低脳な愚行(imbecility)の眺めを、驚きのようなもの、悲しみ以上のものを伴って考えざるを得ない。我が国の公立学校と我が国の繁栄が我々にもたらしたのはこれだけなのか?模範的な共和国の娘たちの間に、感傷的な好奇心のなすがままに自尊心や誇りを失う愚か者がこれほど多く見つかるとは;そして子供をこれほど薄っぺらな監督しかしない親がこれほど多いとは。

クリノリン

 トミーの追っかけ女性たちがスカートの下に履いていたのが「クリノリン」と呼ばれるペチコートで、鯨ひげなどで作られていたのですが、上掲の挿絵の右側がその一例です。出典は『フランク・レスリーの婦人雑誌』(Frank Leslie’s Lady’s Magazine, 1864年3月号, p.246, (注10))ですが、「黒人と白人」(Black and White)という題名の2対3連の挿絵の3連目です。

1 The Illustrated London News, Vol. 36, 1860, Jan.—June. Internet Archive
https://archive.org/details/illustratedlondo00lond
2 Frank Leslie’s Illustrated Newspaper, Vol.9, May 26, 1860. Internet Archive
https://archive.org/details/franklesliesillu00lesl
3 マサオ・ミヨシ著、佳知晃子監訳『我ら見しままに—万延元年遣米使節の旅路』平凡社、1984.
4 Evening Star, Washington D.C., Thursday, May 17, 1860, Library of Congress,
http://chroniclingamerica.loc.gov/lccn/sn83045462/1860-05-17/ed-1/seq-1/
当該記事は3ページ目、Image 3です。
5 Hunter Miller (ed.), Treaties and other International acts of the United States of America, The Department of State, 1942. Hathi Trust Digital Library.
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=hvd.32044049916984
6 The First Japanese Embassy to the United States of America Sent to Washington in 1860 as the First of the Series of Embassies Specially Sent Abroad by the Tokugawa Shogunate, 日米協会 The America-Japan Society, Tokyo, 1920. Internet Archive. https://archive.org/details/firstjapaneseemb00ameriala/mode/2up
7 「万延元年遣米使節・咸臨丸150周年(2010年)」外務省、平成22年6月
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/kanrinmaru150.html
8 The New York Times, May 10, 1860. これ以降のNYTの記事は、このURLの日付の数字を変えればアクセスできます。
https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1860/05/10/issue.html
9 Harper’s Weekly, vol.4, 1860. Hathi Trust Digital Library.
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015006963360
10 Frank Leslie’s Lady’s Magazine, Vol.14-15, 1864. Hathi Trust Digital Library.
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=umn.31951000968034t