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アンドリュー・ラングとアーネスト・サトウの出会い

 R.L.スティーヴンソンのコラム「挿絵の寄り道」が1883年刊のThe Magazine of Art(vol.6)に掲載されていますが、内容は忠臣蔵の紹介です。F.V.ディキンズ訳の『仮名手本忠臣蔵』(1880)と、斎藤脩一郎・グリー共訳「伊呂波文庫」抄訳『忠義の浪人』(1880)のフランス語訳を紹介し、A.B.ミットフォードの「四十七士」(1871)に言及しています。スティーヴンソンの記事が1883年に出版されていることが、ラングと日本との関連でとても興味深い出来事とつながっていることを発見しましたので、この出来事から紹介します。

出会い:ラング、アーネスト・サトウ、ハーバート・スペンサー、森有礼、伊藤博文

末から明治にかけて、厳密には1862(文久2)年から1882(明治15)年まで、日本で活躍したイギリス人通訳・外交官のアーネスト・サトウ(Ernest Satow: 1843〜1929)が1883(明治16)年に休暇で帰国中に、ハーバート・スペンサーに招待されたサヴィル・クラブで、伊藤博文・森有礼と共に、アンドリュー・ラングにも会ったと日記に記しています。サトウの日記を翻訳し、経緯について解説している萩原延壽の『遠い崖—アーネスト・サトウ日記抄14』(2001 (注1))から引用します。

 帰国後[1883年2月27日]約一ヶ月がすぎたころ、サトウは森[有礼]を訪ねた。
「森によると、ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer)が非常にわたしに会いたがっているそうである。そこで先方の都合がよいときに、いつでもアシニーアム・クラブ(Athenaeum Club)に出かけると約束した。」
 スペンサーは、日本の自由民権運動にも大きな影響を与えた、社会進化論と自由放任主義を説くイギリスの著名な社会学者であり、アシニーアムは、メンバーに文人や学者を多く擁する有名なクラブで、スペンサーも森もそのメンバーであった。
 ハーバート・スペンサーがサトウから日本の神道について話をききたがっていることは、すでに外務省の知人から耳に入っていたが(三月十九日の項)、森有礼の斡旋で、会合は四日後に実現した。
「四月九日、アシニーアム・クラブに出かけ、森からハーバート・スペンサーに紹介された。スペンサーは五十五歳(じつは六十二歳)ぐらいの、やせ形の男で、頭ははげ上がっているが、あごの下までつづくほおひげをたくわえている。神道の儀式に関連したいくつかの事項について、私から話を聞き出そうとしたが、残念ながら、わたしは答えることができなかった。かれはわれわれをサヴィル・クラブ(Savile Club)の夕食に招待してくれた。」

 サトウがイギリスの著名な季刊誌『ウエストミンスター評論』(1878年7月号)に発表した論文「古代日本人の宗教的儀式」(The Mythology and Religious Worship of the Ancient Japanese)などを通して、サトウの神道研究のことは、スペンサーの耳にもつたわっていたのであろう。
 まもなくサトウはサヴィル・クラブでの夕食会の席で、スペンサーと森ばかりでなく、当時滞英中の伊藤博文とも会うことになった。
「四月二十八日 サヴィル・クラブで、ハーバート・スペンサーと夕食をともにし、そこで伊藤、森、アンドリュー・ラング、化学の教授だというドイツ人某と会った。」

 この会合について、ラングの側からの言及は今のところ見つかっていませんが、スペンサーがサトウを招待した理由が、サトウの日本の宗教に関する論文(注2)にあったので、ラングもサトウの話を聞きたかったということでしょう。こんな歴史的会合にラングが同席していたというのを知って興奮しました。森有礼は1879(明治12)年11月から1884(明治17)年4月までイギリス駐在特命全権公使としてロンドンに滞在していました。1881年から参事院議長だった伊藤博文は1882(明治15)年3月から1883(明治16)年8月まで、立憲制度調査のために渡欧していました。この会合の年、サトウは40歳、森有礼は36歳、伊藤博文は41歳、ラングは39歳でした。

 ハーバート・スペンサー(1820—1903)については、熊楠がラングについて述べた文章で、スペンサーやダーウィンなどと共に「素人学問にて千万の玄人に超絶せるものなり」と紹介しています(本サイト「アンドリュー・ラング紹介(1)」参照)。スペンサーはこの頃、社会学者、哲学者として絶頂期にありました。最初の本『社会静学』(Social Statics, 1851)は1881(明治14)年に『社会平権論』という題名で日本語に訳されました。その後、『心理学原理』(The Principles of Psychology, 1855)、『第一原理』(First Principles, 1862)、『生物学原理』(Principles of Biology, vol.1, 1864, vol.2, 1867)、『社会学研究』(The Study of Sociology, 1874)、『社会学原理』(The Principles of Sociology)の最初の部分が1876年に出版されています。『第一原理』は1883年に日本語訳が出ています。スペンサーは「適者生存」(survival of the fittest)という言葉を作ったことでも有名です。19世紀後半のアメリカでもスペンサーは大人気で、アンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie: 1835—1919)などの「抑制がなく、悔やむこともない資本主義」を鼓舞したと批判されていますが、現在では、スペンサーの再評価が始まっているそうです(注3)

 スペンサーと明治日本との関係は、福沢諭吉がスペンサーの『社会学研究』を出版されてすぐに愛読し、反論も含めて多数の書き込みをしていること(注4)や、自由民権運動に大きな影響を与えたとされること、また、森有礼が1884(明治17)年に英文の憲法草案を書き、スペンサーに贈呈して、スペンサーが意見を述べたことなど(注5)、かなり深いものがあるようです。

ロンドンのクラブ

 サトウの日記に記されていた、アシニーアム・クラブとサヴィル・クラブについても、当時のイギリス文化を知る上で見ておく必要があります。萩原延壽の解説では、「アシニーアムは、メンバーに文人や学者を多く擁する有名なクラブで、スペンサーも森もそのメンバーだった」とあります。サヴィル・クラブと共に、「ジェントルマンのクラブ」と称される、これらのクラブとはどんなものだったのでしょうか。「19世紀後半のロンドン・クラブ」(注6)という論文と、今でも続いているアシニーアム・クラブとサヴィル・クラブ(注7)のホームページに掲載されている歴史を中心に見ていきます。1883年当時、スペンサーは両方のクラブの会員だったということでしょう。ラングもサヴィル・クラブのメンバーだったようです。

 19世紀のロンドンのクラブはジェントルマンとしての地位確立とコネクション作りの場を提供する役割があり、1860年代から1900年の間にクラブの数も会員数も、それまでの4倍に増えました。最初の頃は職業別のクラブ、次に政治色の強いクラブが増え、どのクラブのメンバーかでジェントルマンとしての箔がつく側面も大きかったようです。もともとは17世紀後半のコーヒー・ハウスから発達し、都市の社交の場として発展していきました。特徴として、豪華な建物・内装、今でいうレストランとしての機能から図書室まで多様なサービスがあり、会員の資格審査の厳しさも挙げられています。現存するデータによると、1850年代には60ほどだったクラブ数が、1890年には436に増え、当然会員数も増加しています。

 クラブの種類は、芸術・文学・演劇・政治・軍関係・職業別・スポーツ・大学・社交などですが、劇的に増えたのは軍関係で、次に政治関係クラブで、1890年には全クラブ会員数の47%を占めています。また、1870年には皆無だったスポーツ・クラブが1910年には22,000人の会員数を擁するというスポーツ・クラブのブームが見られました。演劇クラブは20世紀初頭にブームになりましたが、芸術と文学のクラブはその前から存在していました。ただし、全クラブ数の中では少数派だったそうです。

 アシニーアム・クラブの創立は1824年、サヴィル・クラブは1868年で、アシニーアムの方が「伝統的」なのでしょう。このクラブの会員に選ばれることがいかに大きなことかというのは、スペンサーが1868年にアシニーアム・クラブに入会が認められて初めて知識人としての社会的地位が確定したということからもわかります。スペンサーはこのクラブでかなりの時間を過ごしていたといいます(注8)

 一方、サヴィル・クラブはラングを始めとする文学関係者のクラブとして有名になります。今でも存在するこのクラブのホームページによると、それまでの伝統的な息の詰まるような雰囲気のクラブに飽き足らず、「新しいクラブ」として、フレンドリーで堅苦しくない雰囲気を目指して、1868年に設立されました。会員が瞬く間に増えたために、サヴィル・ロウ通り(Savile Row)に移転し、クラブの名前の由来になり、その後も会員数の増大に伴って移転を続けますが、クラブの名前を変えようと提案する者はいませんでした。ロンドンの文芸関係者を中心として、ロバート・ルイス・スティーヴンソン、トーマス・ハーディー、H.G.ウェールズ、ラドヤード・キプリング、W.B.イェーツなどの名前が挙げられています。21世紀のサヴィル・クラブのホームページにラングの名前が挙げられていないのは残念ですが、当時無名だったスティーヴンソンやキプリングを世に出したとも言えるラングは、スティーヴンソンがサヴィル・クラブの会員に選ばれた1874年には、クラブの重要なメンバーであり、ロンドンの文芸界の中心人物の一人だったのです(注9)。21世紀の現在でも存在するクラブのベスト6にサヴィル・クラブも入っており、今でも男性のみのジェントルマンズ・クラブというカテゴリーです(注10)

1912年のサトウ・ラング・ディキンズの接点

 アーネスト・サトウの日記と手紙を読むうちに、もう一つの発見がありました。サトウが晩年イギリスで引退生活を送りながら、ディキンズに書いた手紙の中で、再びラングに言及しているのです。1912年9月15日付の手紙(注11)ですから、ラングが亡くなって2か月ほど後です。ラングが亡くなったことは書いていないので、知らなかった可能性もあります。サトウとディキンズはこまめに手紙のやり取りをしていて、読んだ本の感想や、日本についてのコメント、お互いの関心事である植物学関係のことなどを書きあっていました。

 アンドリュー・ラングのイギリス文学についての本を読んだかい? 「さわやか」(breezy)という表現がぴったりで、ウィットに富んだひねりが各ページに散りばめられている。「アディソンとスティール」のような僕が愛読している作家たちを他の人がどう思っているか読むのは楽しい。この本でラングが賞賛している作品のテキストも入っていたら、この本はもっとよかったんだけどね。たとえば、僕が高く評価している『チェインバーの英文学百科事典』(注12)のように。

 サトウの愛読していた「アディソンとスティール」について『ケンブリッジ英米文学史』(The Cambridge History of English and American Literature, Vol.IX: English From Steele and Addison to Pope and Swift, Chap.II: Steele and Addison, 1907-1921 (注13))と、サトウのお勧めのラングの『英文学史——ベオウルフからスウィンバーンまで』(History of English Literature from “Beowulf” to Swinburne, 1912 (注14))を読み比べてみました。確かにラングの解説の方が、スティール[Richard Steele: 1672-1729]とアディソン[Joseph Addison: 1672-1719]というコンビがどんな分野でなぜ人気が高かったのかが生き生きと伝わってくる上、ラングの人となりも伝わってきて魅力的だと感じました。その一部を翻訳します。サトウは「アディソンとスティール」と書いていますが、文学史では「スティールとアディソン」の順番で表記されています。

ラングの『英文学史』第27章「17〜18世紀:文芸全盛期の散文」

スティールとアディソンはアン女王の時代[1702〜1714]の双子のスターだった。スティールやアディソンよりも、スウィフト[Jonathan Swift: 1667-1745、『ガリヴァー旅行記』など]の方が偉大な天才として私たちの印象に残っているが、スウィフトは二人ほど愛されも、読まれもしていない。アディソンの死の2,3年前まで、二人は結ばれていた。二人は小学校からオックスフォード大学まで一緒で、二人が演劇に魅了された頃はお互いの作品に協力し合い、スティールが創設した有名なジャーナル、『タトラー』(The Tatler)と『スペクテーター』(The Spectator)に共同執筆した。幾つかのエッセイは二人のパッチワーク作品である。二人とも品の良いモラルと行儀作法を時代のファッションにしようと願っていた。(中略)

 二人ともモラリストだったが、アディソンがより道徳的だったのに対し、スティールは比べものにならないほど、どうしようもなく説教的だった。彼の心は正しい位置にあった。女性と純愛と自制[禁酒など]と既婚状態を敬っていたからだ。しかし、彼の二番目の妻プルー(”Prue, Miss Scurlock”)に書いた多くの短いメモが証明していることは、彼があらゆる場所から、あらゆる時間帯に書いていて、その結果、可哀想にプルーは一人で食事をすることがしょっちゅうだったことだ。仕事が夫のリチャードを引き止めたのだが、彼はミルクを飲んで家に帰り、翌日は恐ろしい頭痛だった。政府のポストにも就き、ペンで稼ぎ、スティール夫人[1706年に亡くなった最初の妻]の遺産もあり、二人は十分豊かだったはずだが、リチャードはプルーにたまに1ギニーか2ギニー[現在の1ポンド相当]与えるだけで、リチャードは絶えず差し押さえ執行人から逃げていたし、借金をしていない時はなかった。家には石炭もろうそくも肉もないことが度々あった。

 スティールは最も愛すべき男で、最も気前がよかった。(中略)彼は、除隊されて貧困のために教区から追われる哀れな兵士たちの味方だった。彼は子どもたちを熱愛した。彼の涙はホメロスの戦士たちの涙と同じく、英雄的でいつでも流せた。しかし、彼がボトルと贅沢の誘惑に負けると、まるで『クリスチャン・ヒーロー』[Christian Hero, 1701:彼が兵士時代に書いたマニュアル]の代わりに、悪人になったようで、彼の妻と子どもたちは苦しまなければならなかった。(中略)スウィンバーン氏[A.C. Swinburne: 1837-1909, ヴィクトリア時代の詩人]はスティールを「センチメンタルな放蕩者」(sentimental debauchee)と呼んだが、確かに、彼が輝いたのは実践においてではなく、説教においてだった。アディソンは彼を「可哀想なディック」(poor Dick)と呼んだが、彼が「全ヨーロッパに対してはリチャード卿[Sir Richard:1715年に爵位を与えられた]だとしても、今では世界中にとって彼は「可哀想なディック」である。しかし、彼が説教をするときは本心から言っていて、善と親切と信仰をという彼の訴えは、確かに彼の時代よりも、後世の世界をより人間的で品のいい所にした。

 この後にスティールの生涯と作品について4ページにわたって述べていますが、省略します。アディソンについても、7ページ以上費やしていますが、特徴的な箇所を翻訳します。

 アディソンが今でも読まれ、賞賛されている分野はエッセイストとしてである。今でも彼のエッセイから、彼が優しく美しく微笑みながら話す声が聞こえる。彼は本当に博学で、情報の与え方も、長たらしくて退屈ということがない。キーツと話すコールリッジのように、アディソンは幽霊譚も扱う。「理性の時代」のこの子どもは幽霊を探したりしない。ローマ時代の唯物論者ルクレティウス(Lucretius)は、魂が肉体を離れて存在できるということを信じないと、アディソンは賢明に述べたが、「霊の現実については疑いがなく、人間は死後に現れることが度々あることも疑いがなく、この事実に迫られて、否定する自信が持てなかった」と述べた。ルクレティウスのこの理論は最近復活している。

 アディソンはなんと豊富なテーマを魅力的に解説していることだろう。アディソンはスティールと共に、賞賛すべきエッセイスト学派を創設した。アディソンは彼の時代の人々を喜ばせただけでなく、後世をさらに良い世界にしたのである。それは激しい説教によるのでも、時代の悪を攻撃することによってでもなく、不道徳であれと主張する流行の暴走を上手に減じることによって成し遂げた。

1 萩原延壽『遠い崖—アーネスト・サトウ日記抄14』朝日新聞社、2001、p.258.
2 ”The Mythology and Religious Worship of the Ancient Japanese”, The Westminster Review, July 1878,
https://archive.org/details/westminsterrevi00hillgoog
3 ”Herbert Spencer”, Stanford Encyclopedia of Philosophy, Sept. 17, 2012
http://plato.stanford.edu/entries/spencer/
4 安西敏三「福沢諭吉の学問観:ミル、バックル、スペンサーの諸著作へのノートを中心に」、『三田学会雑誌』Vol.75, No.3 (1982.6), pp.457—470.
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00234610-19820601-0229.pdf?file_id=77321
5 山下重一「スペンサーと明治日本」『英学史研究』Vol.1999 (1998), No.31, pp.43—54.
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeigakushi1969/1999/31/1999_31_43/_article/-char/ja/
6 Antonia Taddei “London Clubs in the Late Nineteenth Century”, Discussion Papers in Economic and Social History, (University of Oxford), No.38, April 1999
http://www.nuff.ox.ac.uk/economics/history/paper28/28taddeiweb1.pdf
7 Atheneaeum Clubの歴史はhttp://www.athenaeumclub.co.uk から、
内装は http://www.athenaeumclub.co.uk/clubhouse/ から見られます。
Savile Clubのホームページから内装の様子がわかります。 http://www.savileclub.co.uk
歴史については、http://www.savileclub.co.uk/history-of-the-club を参照してください。
8 Brian Holmes, “Herbert Spencer (1820—1903), originally published in PROSPECTS, vol.24, no.3/4, 1994. Pp.533-54.
http://www.ibe.unesco.org/publications/ThinkersPdf/spencere.pdf
9 ”Stevenson, the Savile Club and its Social Network”, The blog for Cardiff University’s Centre for Editorial & Intertextual Research
https://cardiffbookhistory.wordpress.com/2016/07/06/stevenson-and-the-savile-club/
10 Jake Wallis Simons “Clubland: we’re all members now”, The Telegraph, 21 Oct. 2013
http://www.telegraph.co.uk/men/thinking-man/10377728/Clubland-were-all-members-now.html
11 Ian Ruxton (ed.), Sir Ernest Satow’s Private Letters to W.G. Aston and F.V. Dickins: the Correspondence of a Pioneer Japanologist from 1870 to 1918, Lulu Press, 2008, p.291.
12 Chambers’s Cyclopaedia of English Literature, originally edited by Robert Chambers, third edition, revised by Robert Carruthers, Vol.1, W. & R. Chambers, London, 1876
https://archive.org/details/cyclopaediaofill01chamuoft
Vol.2, New Edition by David Patrick, 1906
https://archive.org/details/chamberscyclop02cham
13 The Cambridge History of English and American Literature, Vol.IX: English From Steele and Addison to Pope and Swift, Chap.II: Steele and Addison, 1907-1921
http://www.bartleby.com/219/
14 Andrew Lang, History of English Literature from “Beowulf” to Swinburne, Second Editions-Revised, Longmans, Green and Co., 1912
https://archive.org/details/historyofenglish00languoft