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ラングの一貫性

ラングを評する時に使われる”versatile”という語の意味は「多才、多方面」だというのは、見てきた通りです。ところが、もう一つの意味に「変わりやすい、きまぐれ」があることに着目して、「ラングはversatileではない」と主張した同時代人の評論家がいました。

ラングは若い時から死ぬまで一貫した見解の持ち主だった

 ラングを評する時に使われる”versatile”という語の意味は「多才、多方面」だというのは、見てきた通りです。ところが、もう一つの意味に「変わりやすい、きまぐれ」があることに着目して、「ラングはversatileではない」と主張した同時代人の評論家がいました。

学評論家のエドモンド・ゴッセ(Edmund Gosse: 1849〜1928)がラングの死の翌年に出したエッセイ集『ポートレートとスケッチ』(Portraits and Sketches, 1913, (注1))にラングについて以下のように述べています。
尚、翻訳にあたって、[ ]でくくった部分は、訳者として私が参考になると思う内容を付け加えたことをお断りしておきます。

 ラングの功績の巨大さと大量なことには言葉を失う。どこから始め、どこで終わればいいのかわからない。彼の著作物はあまりに多く、その中に分け入って、著書目録を作るのは手に負えない作業になる。どの本も卓越していて、彼の人となりも、知性も品性も同じで、あまりに多くの矛盾に満ちており、早まって断定してしまうと、多くの落とし穴に落ち入ってしまう。衝動的な奇妙な気まぐれが多過ぎて、全体を分析するのは長い作業になるだろうし、すべてに公平な評価を下すことはほとんど出来ない。それでも、あえて書き留めることにする。彼の死に際して、ラングについて書いた人々は多くは好意的に書いていたが、中には不正確な記述や、見逃されていると思えたものもあった。それらを思い出すままに書こうと思う。この前提として、私が彼に頻繁に会っていた1877年から1890年にかけてのラングについて述べる。

 彼が亡くなった時、すべての新聞が彼の「多才さ/多方面」(versatility)を声高に書いていた。だが、彼は多才/多方面の正反対だったのではないだろうか。私は、”versatility”を、変わりやすく、移り気で、風見鶏の方向に絶えず転換しやすいことだと理解している。文学分野でそのいい例はラスキン[John Ruskin: 1819〜1900]だ。彼は同じテーマについて、人生の各段階で全く異なる見解を示し、それを同じ情熱で主張した。”versatile”ということは、不安定で変わりやすいということだ。

 しかし、ラングは彼の長いキャリアの間、全く変わらず、見解を決して変えなかった。青年時代に好きだったもの、賛美したものを、年とってからも好きだったし、賛美していた。彼の関心と知識は驚くべき多くの道に活発に向かっていったが、豊富ではあっても、変わりやすい(versatility)とは私には思えなかった。(中略)ラングは並外れて多形でありながら、彼のバラエティはオックスフォード大学時代から墓場まで全く一貫していた。[pp.199-200]

 この後、ゴッセはラングの大学時代と文学分野での彼の関心について述べていますが、文学以外の分野については全く触れていません。私が注目したのは、見解が変わらなかったというゴッセの見方がラングの最初の論文(1877年)と死の前年刊の『トーテミズム研究の方法論』(Method in the Study of Totemism , 1911)に共通していることです。終生一貫したテーマを追ったことが窺えます。研究者としての最初の論文は『アリストテレスの政治学』(W.E. Bolland (tr.), Aristotle’s Politics Books I. III. IV. (VII.). The Text of Bekker, 1877, (注2))に付けられたラングの解説(Introductory Notes)ですが、驚いたことに、解説文は105ページ(pp.1—105)、W.E. Bollandによる対訳本体は198ページ(pp.107—305)です。解説の最後の章「社会の起源」(The Origin of Society, pp.90—105)で、古代ギリシャ社会とオーストラリア先住民族アボリジニの家族制度との比較をした上で、以下のように締めくくっています。

 家族の起源は不愉快な側面を持つ問題である。私たちが人種の誇りという愚かさを投げ捨てることを家族の研究が教えてくれるなら、この研究の苦しさは報われるかもしれない。人種の誇りという愚かさは、いわゆるアーリア人が「下等人種」をばかにする時に、半科学的言い訳をさせるのである。「下等人種」という理由は、彼らの習慣がアーリア人の制度に影響を与えたことである。

 ラング独特の皮肉を込めたひねりで見解を伝えているように読めます。「アーリア人」という語で、私たちはナチスのアーリア人優越論を思い出しますが、ラングのこの発言はその半世紀も前のことです。ナチスのアーリア人優越論とユダヤ人迫害の犠牲者が戦後50年以上たってから語り始めたというニュースがありました。ナチスに家族を殺された当時、幼い子どもだったその人に、「アーリア人(ユダヤ人以外の白人)」に見えるから、ユダヤ人であることを隠して生き延びろと、逮捕した巡査が忠告して逃がしたというのです。この記事(「家族を殺害したナチスのマスコットになった少年、50年後に真実を語る」2007年9月24日、AFP (注3))を読み、ラングの1877年の発言を読むと、アーリア人優越論が19世紀から顕著だったことが窺えます。

19世紀の「アーリア人仮説」

 1877年のラングのこの見解の背景には、どんな動きがあったのでしょうか。最近第4版が出た『人類学理論の歴史』(A History of anthropological Theory, Fourth Edition, トロント大学出版局、2013)の著者ポール・エリックソン(Paul A. Erickson)が「19世紀自然人類学におけるインド・ヨーロッパ仮説」(”The Indo-European Hypothesis in Nineteenth Century Physical Anthropology” (注4))という1973年発表の論文で説明していることを紹介します。

  • 「アーリア人種」はペルシャ語・古代ギリシャ語・ラテン語・ドイツ語の構造的類似性に気付いた18世紀の言語学者によって作られた。[古代ペルシャ語でariya-はペルシャ人が自分たちについて使う名前で、イランIranはここから来た。サンスクリット語のarya-は同胞を意味し、その後は貴族という意味で使われた。(注5)]
  • 現代の人類学者は「インド・ヨーロッパ仮説」を冷笑しているが、19世紀に魅力的な仮説になった理由は、(1)言語と人種を同一視する理論に成り立っていたこと、(2)「白人」のアーリア人は西洋文明の源と捉えられたこと、(3)アーリア種族からは多くの人種が除外されたため、人種分離主義(doctrine of racial separateness)として魅力的な仮説だった。
  • 19世紀中期に人類学学会が設立され(1859年パリ人類学会、1863年ロンドン人類学会、1870ドイツ人類学・民族学会)、インド・ヨーロッパ仮説[アーリア仮説は比較言語学分野でインド・ヨーロッパという名称に代わる]の見直し議論が求められた。
  • インド・ヨーロッパ人がヨーロッパの初期の入植者だというイメージが、彼らは[実は]最近の入植者で、ヨーロッパ土着の野蛮人に文明をもたらしたというイメージに取って代わった。農業・畜産・冶金術などがアーリア人によってもたらされたと考えられた。
  • アンデーシュ・レチウス[スウェーデンの解剖学者、Anders Retzius: 1796-1860]は1840年代に「頭蓋長幅指数」によって、長頭、短頭という概念を紹介し、アーリア人の移民は長頭、土着のヨーロッパ人は短頭と主張した。この解釈は北欧の人類学者に受け入れられたが、それは長頭型が主で、アーリア人の先祖を持つことを名誉と感じる人々だったからだ。フランスから中央ヨーロッパは短頭型だが、この地域の人類学者は、レチウス理論を拒否するか、この地域の多くの人が長頭型だと主張して、アーリア人の仲間入りをしようと闘った。
  • こうして、人類学のナショナリズムは、最初に来たのは短頭型か長頭型かという問題に対する答えに悪影響を与えた。1860年代から、アジアがヨーロッパの植民地だったと主張する者、人種の起源と言語の起源が一致する必要はないから、ヨーロッパ言語はアジアで発達したが、ヨーロッパ人種は土着だと主張する者が現れた。
  • フランスの研究者クレマンス・ロワイエ[C. Royer: 1830〜1902 (注6)]は1873年に、ヨーロッパ起源説を強く主張して、「アーリア人はヨーロッパで生まれ、ヨーロッパで原始アーリア語を話し、ブロンドかブルネットという白人の特徴を持ち、アーリア人の移動はヨーロッパからアジアに向かった」と述べた。
  • これら異なる主張の混乱は、ナチズムがアーリア主義を教義にするまで続いた。
  • インド・ヨーロッパ仮説議論はダーウィンの進化論[『種の起原』1859年]受容に影響を与えた。進化論を受け入れた人類学者はヨーロッパ人のアジア起源説を拒否する傾向があった。インド・ヨーロッパ仮説を支持する伝統派人類学者は、進化論について懐疑的という点で伝統派の傾向があった。
  • 下等な形態から発達するという概念が理解され、十分に受け入れられるまでは、「高等」なヨーロッパ人種は更に高等なアーリア人から生まれたことにされなければならなかった。進化論の理解が遅れた一つの理由はインド・ヨーロッパ仮説にある。

21世紀のDNA研究はヨーロッパ人の起源を明らかにするか

 19世紀の議論に対する解決の一歩として、21世紀のDNA研究の進歩があげられます。ハーバード大学とコペンハーゲン大学チームが、先史時代の人骨のDNAを検査した結果、ヨーロッパには3波の流入の形跡があることがわかったそうです。以下にハーバード大学の研究結果を伝えるニューヨーク・タイムズの記事を紹介します(注7)

 第1波は45,000年前に狩猟採集の人々、次に8,000年前に近東から農業を携えた人々、最後に4,500年前に西ロシアから放牧の民ヤムナヤ(Yamnaya)がヨーロッパに入ってきたことが判明した。第2波の農耕民族のヨーロッパへの移入で狩猟採集民族が消えたわけではなく、ヨーロッパ各地に点在し続け、7,000年から5,000年前になると、狩猟採集の人々のDNAがヨーロッパの農民の遺伝子に見られるようになった。この事実は、2種類の人々がしばらく隣り合わせで暮らし、次に混ざり合い、文化的障壁が取り除かれた過程を示す。

 一方、コペンハーゲン大学チームが4,700年前のアファナシェヴォ文化(Afanasievo)と呼ばれるシベリア文化の人骨を調べた結果、ヤムナヤのDNAを受け継いでいることがわかった。この2つの研究は、言語がヨーロッパとアジアにどう広がっていったのかの議論を再燃させるという。ヨーロッパ言語のほとんどはインド・ヨーロッパ語族で、南アジアと中央アジアも含んでいる。長年、言語学者は議論を闘わせ、1グループの言語学者はもともとの農耕民族がインド・ヨーロッパ語を、トルコを経由してヨーロッパに持ち込んだと主張してきた。もう1グループは数千年後にロシアのステップ地帯から渡ってきたと主張してきた。コペンハーゲン大学チームの進化生物学者は、この研究結果は議論に決着をもたらさないが、ヤムナヤの人々がステップ地帯を経て、ヨーロッパに持ってきたという考え方と一致するという。

 1,200年前の古文書からわかっているのは、トカラ(Tocharian)と呼ばれる中国西部の地域でインド・ヨーロッパ語が使われていたことだが、これは言語学者たちを長年悩ませてきた。トカラがヤムナヤの東方進出の痕跡だという可能性がある。

 マックス・プランク進化人類学研究所(Max Planck Institute of Evolutionary Anthropology)の言語学者ポール・へガティ(Paul Hegarty)は、この研究結果はインド・ヨーロッパ語の起源を解決するには足りないと言う。ヤムナヤがインド・ヨーロッパ語の原点だとしたら、中央ヨーロッパに移動してすぐに南ヨーロッパにも来ていなければ、辻褄が合わないという。彼の推測は、移民の第2波である農耕の民が近東からインド・ヨーロッパ語をもたらし、1,000年後にヤムナヤが再び中央ヨーロッパにこの言語をもたらしたというものだ。もし4,500年前のギリシャ人が突然ヤムナヤのDNAを持っているという発見があれば、インド・ヨーロッパ語がステップ地帯から来たという強い証拠になるという。

1 Edmund Gosse, Portraits and Sketches, William Heinemann, 1913, pp.197—212.
https://archive.org/details/portraitssketche00goss
2 W.E. Bolland (tr.), Aristotle’s Politics Books I. III. IV. (VII.). The Text of Bekker., Longmans, Green And Co., London, 1877, https://archive.org/details/cu31924071172914
3 「家族を殺害したナチスのマスコットになった少年、50年後に真実を語る」AFPBB NEWS, 2007年9月24日、発信地オーストラリア・メルボルン
http://www.afpbb.com/articles/-/2287997?pid=2174008
4 Paul A. Erickson, ’The Indo-European Hypothesis in Nineteenth Century Physical Anthropology, Kroeber Anthropological Society papers 47-48, 1973, pp.165-179.
http://digitalassets.lib.berkeley.edu/anthpubs/ucb/text/kas047_048-009.pdf
5 ’Aryan’, Online Etymology Dictionary,
http://www.etymonline.com/index.php?term=Aryan
6 ロワイエは『種の起源』を仏訳しましたが、自分の考えや価値観を入れ込んだため、大問題になりました。その経緯を以下の論文が解説しています。
北垣徹「ダーウィンを消した女—クレマンス・ロワイエと仏訳『種の起原』」阪上孝他『変異するダーウィニズム:進化論と社会』京都大学学術出版会、2003
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/192331/24/darwinism_46.pdf
7 Carl Zimmer, “DNA deciphers Roots of Modern Europeans”(DNAが読み解く現代ヨーロッパ人のルーツ), The New York Times, June 10, 2015
http://www.nytimes.com/2015/06/16/science/dna-deciphers-roots-of-modern-europeans.html