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英米に伝えられた攘夷の日本(4-11-2)

1673年のリターン号来航時の日英交渉記録が「英国と日本の通商記録」(1852)で紹介され、日本との通商を希望していた1850年代の人々がリターン号の交渉記録のどこに関心を示していたのかがわかります。

「日本日記」の解説

 まず、前節の「日本日記」に記されていることについて、解説します。

「聖ジョージ十字」

 聖ジョージ(St George)はイギリスの守護聖人とされ、4月23日が「聖ジョージの日」とされていて、2018年4月23日にBBCが解説を掲載しているので紹介します(注1)。ゲオルギオスという名前の実在のクリスチャンのローマ兵で、西暦270年頃にトルコのカッパドキアに生まれ、303年にローマ皇帝ディオクレティアヌスのキリスト教弾圧によって、パレスチナのローマ州で殉教したと伝えられています。イギリスの守護聖人にされた理由は、聖ジョージにまつわる伝説の中から、拷問の末に殺されたために勇気、栄誉を象徴し、軍所属ということなどで、イギリスの価値観を代表すると考えられたのだろうといいます。15世紀初頭に彼が殉教したとされる4月23日が「聖ジョージの日」とされるようになったそうです。

 BBCの記事にアクセスすると、白地に赤の十字の旗がみられます。ただ、2012年の記事「聖ジョージの旗は人種差別のシンボルだとイギリス人の4分の1が言う」(注2)によると、「聖ジョージの十字」の旗にイギリス人としての誇りと愛国心を感じるという人は61%で、24%は「この旗は人種差別の旗」だと考えるという世論調査結果が出たそうです。それは極右グループ「イギリス防衛同盟」(English Defence League)がこの旗を使ってデモをするからだと分析しています。

第三次英蘭戦争

 「日本日記」の1673年7月7日に、デルボーが英蘭戦争が始まったことを知らなかったと言っていますが、イギリスとオランダの間で1652年から1783年まで4回戦争が起こって、そのうちの第三次英蘭戦争(1672)を指しています。英蘭戦争の理由は商業的権益をめぐる争いで、最初の3回の戦争が起こった頃、アジアの植民地における貿易大国だったポルトガルに代わってオランダが絶頂期にありました。オランダ東インド会社はその富と権力において抜きん出ていて、イギリスがその権益を狙い、やがて、オランダに代わってイギリスが商船事業の中心を占めます。第三次英蘭戦争では、チャールズ国王がフランスと秘密の取引をして、イギリスの東海岸、ソールベイでフランスとイギリスがオランダと戦った「ソールベイ海戦」(1672)では、イギリス、オランダ双方が勝利宣言をしていますが、いずれも損害がひどかったそうです(注3)

踏絵について

 「日本日記」には踏絵をさせられたとは書かれていませんが、日本側の資料では「イギリス人はオランダ人と同じ宗旨であると言っているが、その事実を試すために踏絵をさせるので、オランダ人に同行してほしい」((注4), p.7)と奉行所役人がオランダ商館に求めたそうです。同行したオランダ商館の助手によると、踏絵を求める時の「通詞の話し方は非常に特異だった」から、「イギリス人がこれをよく理解しなかったと考えている。(中略)すでに暗かったので船長は何を踏んでいるのかわからなかったと思う」と書いています。

長崎奉行所の情報網

 最初の日(1673年6月29日)に役人たちが質問した内容で、この当時の幕府の情報通は明らかです。オランダ人に世界の動向について情報提供を義務付けることが1641年から始まり、「オランダ風説書」として1659年には慣例化していたからだそうです((注5), p.63)。デルボーの答え(内乱が20年ほど続き)についても、幕府側はすでに1662年のオランダ風説書で知っていたし、チャールズ1世が処刑されたこともオランダから伝えられています((注4), p.3)。

 奉行所の役人たちがデルボーにオランダ商館側が言ったことの真偽を聞いたり、オランダ商館長宛の手紙の内容を確かめたりしたことは、幕府側が「外国人から得た情報を比較検討」((注5), p.62)するためだったというは、リターン号でのやり取りが表しています。

1852年のイギリスの関心

 「英国と日本の通商記録」(4-9参照)の筆者はリターン号の日本派遣について、「イギリスの王政復古の後すぐに商業事業精神が復活し、1673年の遠征をチャールズ2世が即座に承認し、王の後援のもとに実行された」((注6), p.19)と解説して、ケンペルの記述をほぼ忠実に要約しています。解説者の関心が特にどこにあったのかは、直接引用を長くしている箇所、解説者の感想などに見られると思うので、以下に挙げてみます。

 今から345年も前の交渉記録を読んで感心するのは、双方が礼儀をもって忍耐強く対応していることです。特にイギリス側が貿易交渉を達成するためとはいえ、2ヶ月も上陸させてもらえず、その間、幕府役人が入れ替わり立ち代わりやってきて、同じ質問に答えさせられるのは苦痛以外の何物でもなかったでしょうが、怒りや苛立ちを抑えて対応したことと、日本側が2ヶ国語以上で同じ質問と答えを求めることで、理解が確かなものになると洞察していることです。幕府側も礼儀を示しながらも譲らなかったことが、3世紀半後の安倍政権の対米隷属と対照的です。そして何よりも、公文書偽造・改ざん・隠蔽・破棄などが常態化している安倍政権下で生きている私たちにとって、この交渉記録を読むと、記録の大切さが身にしみます。「経済産業省幹部が省内外の打ち合わせ記録を残さないように指示」したというニュース(注7)を読むと、安倍政権は自分の時代を歴史的空白の時代にしようとしているのだと感じます。

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』が将軍に送られた

 幕府の情報収集という観点から非常に興味深い記事が『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(1854年2月11日号 (注8))に掲載されています。

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』が日本に
(THE “ILLUSTRATED LONDON NEWS” IN JAPAN.)
 最近我々の知るところとなったのは、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』が定期的に長崎を通して江戸に送られ、日本の皇帝の図書室に収められているということである。これは興味深い事実だ。文明史においては小さなことだと思われるかもしれないが、注目に値する出来事である。この国は今まで他国といかなる交流も拒否し続けてきた独裁者の国だが、ようやくそのねぼけ眼を開けて広い世界を見渡し始め、自分たち以外の人類との関係の思いに目覚め始めたのだ。多分、皇帝自身も、彼の領土の人間の誰も英語はわからないだろう。だから普通の新聞は彼にとっては死文だ。しかし、絵の言語——現代の美しい象形文字——は野蛮人にも赤子にも読める普遍的言語だ。これなら彼も理解できる[原文強調]。したがって、我々の新聞のページを通して、地球上の異なる国々のパノラマがこの隠者王(hermit-King)の目の前に展開し、彼がより賢く、そして結果的により良い君主になる手助けをするのだ。

 記者の誇らしげな気持ちが伝わってきますが、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』が将軍の元に定期的に送られているというのは本当なのでしょうか? スターリング提督率いるイギリス艦隊が1854年9月7日に長崎に入港し、6週間の滞在中に日英協約にこぎつけますが、その時、長崎奉行所の通詞、役人たちが『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の束を持ってきて、ウェリントン号の写真を教えてくれと頼んだという内容の記事が1855年4月28日号に掲載されます(2-4参照)。ですから、1854年9月~10月の間には長崎奉行所にあったと推測できます。

 誰が長崎奉行所にこの新聞を提供したのかについて、スターリング提督の可能性があります。『オランダ風説書と近世日本』(p.290)によると、1854年に長崎に来航したオランダ船スンビン号の艦長ファビウスが「イギリス提督は九月七日付け書簡で長崎奉行にイラストレーテッド・タイムズ紙を提供した。日本人はすでにこの新聞にすっかり目を奪われている。彼らは挿絵、ことに船の挿絵が入っている新聞や雑誌にまったく目がない」と述べているそうです。「イラストレーテッド・タイムズ紙」というのがひっかかりますが、時期的にはぴったりです。「『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』が日本に」という記事の日付も、スターリング提督がイギリスを出発する前に、日本に渡す予定で積み込んだのだとすれば、つじつまが合います。

 スターリング提督が長崎奉行に提供したのは『イラストレイテッド・タイムズ』だったのか、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』だったのかの答えは、それぞれの創刊時期にあります。『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』は1842年創刊で、『イラストレイテッド・タイムズ』は1855年6月9日に創刊号が出ました((注9), p.337)。ラングやスティーブンソンが寄稿していたThe Magazine of Artに「イギリスにおける絵入りジャーナリズム:その始まりI, II」(1889)「イギリスにおける絵入りジャーナリズム:その発展I, II, III」(1890,(注10))というシリーズ記事に明記されています。ですから、1854年に長崎奉行が手にしたのは『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の方で間違いなさそうです。オランダ船のファビウス艦長が「イラストレーテッド・タイムズ紙」と言ったという出典は、『オランダ風説書と近世日本』によると、フォス美弥子編訳『海国日本の夜明け——オランダ海軍ファビウス駐留日誌——』(思文閣出版、2000年、p.58)だそうですが、ファビウス艦長の間違いでしょうか。

1 ”St George’s Day: Why is he England’s patron saint?”, BBC, 23 April 2018
https://www.bbc.com/news/uk-england-43864595
“If St George’s Day becomes a public holiday, how should we celebrate it?”, The Guardian, 23 Apr 2018
https://www.theguardian.com/politics/shortcuts/2018/apr/23/if-st-georges-day-becomes-a-public-holiday-how-should-we-celebrate-it
2 Jasper Copping, “St Geroge’s flag is a racist symbol says a quarter of the English”, The Telegraph, 22 Apr 2012
https://www.telegraph.co.uk/news/uknews/9217620/St-Georges-flag-is-a-racist-symbol-says-a-quarter-of-the-English.html
3 ”Anglo-Dutch Wars: 1652 to 1783″, Heritage History
https://www.heritage-history.com/index.php?c=resources&s=war-dir&f=wars_anglodutch
4 永積洋子「十七世紀後半の情報と通詞」『史学』第60巻 第4号、1991, pp.2-3.
慶応義塾大学学術情報リポジトリの以下のページからアクセス可。
http://cse.google.com/cse?cx=005798991499190633543:w1id8ex54_u&q=特集対外交渉史&oq=特集対外交渉史&gs_l=partner-generic.12…20916.45526.0.47574.64.52.12.0.0.1.180.3962.44j8.52.0.gsnos%2Cn%3D13…0.25087j24568959j68j18..1ac.1j4.25.partner-generic..64.0.0.xua84Ssys9M#gsc.tab=0&gsc.q=特集対外交渉史&gsc.page=1
5 松方冬子『オランダ風説書と近世日本』、東京大学出版会、2007.
6 Captain Golownin, Japan and the Japanese: Comprising the Narrative of a Captivity in Japan, and an Account of British Commercial Intercourse with that Country, Vol.I, London, Colburn and Co., Publishers, 1852. https://archive.org/details/japanjapanesecom01golo
7 望月衣塑子「『メールも破棄指示』公文書管理で経産省幹部」『東京新聞』2018年9月1日 
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201809/CK2018090102000154.html
8 The Illustrated London News, vol.24, Jan.-June, 1854.
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015049891974
9 C.N. Williamson, “Illustrated Journalism in England: Its Rise.—I” (pp.104-108), “Illustrated Journalism in England: Its Rise.—II” (pp.141-144), The Magazine of Art, vol.12, 1889.
https://archive.org/details/magazineofart12unse
10 C.N. Williamson, “Illustrated Journalism in England: Its Development.—I” (pp.297-301), “Illustrated Journalism in England: Its Development.—II” (pp.334-340), “Illustrated Journalism in England: Its Development.—III” (391-396), The Magazine of Art, vol.13, 1890.
https://archive.org/details/magazineofart13unse