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2018-06-09

英米に伝えられた攘夷の日本(4-9)

ゴローニンの『日本幽囚記』の英訳改訂版(1852)に付された長い解説「英国と日本の通商記録」の内容を紹介します。

ゴローニンの『日本幽囚記』を1852年に再版する理由

 『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の記事「日本、そしてロシアの戦争」(1854年4月8日号)にゴローニンの『日本幽囚記』の英訳が何らかの影響を与えたかという視点で、1852年刊の改訂版に付された解説「英国と日本の通商記録」を見ていきます。1819年刊の『日本の思い出——宗教・言語・政府・法律・日本人の生活習慣・地理・気候・人口・生産物——及び英日通商関係の始まり・終焉・再生の年代記』の解説を編集したもののようです。1852年版の「編者の序」((注1), pp.iii-v)に、この解説を付す理由が述べられています。

 現在、日本に関するあらゆることに関心が集まっている。この国に関して我々が持つ情報は限られており、この状況下で本書を一般読者に提供する意義があると確信している。2世紀もの間、日本政府は国民が他国の人々と接することを禁じてきた。外国との交渉を禁じた厳しい法律は17世紀中葉に施行され、わずかにオランダに対してだけ緩和されていた。オランダの商人は一定の規則のもとに長崎港で貿易をすることを許されていた。その結果、日本に関するわずかな情報がヨーロッパに届くのは、オランダ語を通してであり、したがって、イギリスの一般大衆がアクセスできるのは一部だけだった。これが本書を再版することにした理由である。

 ゴローニン艦長と彼の仲間が幽閉された経緯についての驚くべき出来事は、この物語に奇妙でロマンチックな趣を与えている。一方、類い稀な冒険を詳細に語る中で、著者は日本人の風俗習慣に関する風変わりな事実を次々と明らかにしていく。(中略)本書の最初に付けられている解説が現時点で余分だとみなされないことを願う。昔、イギリスと日本の間に、非常に限られた形ではあったが、通商関係が存在しており、それが復活する見込みが現在あるからである。

 ゴローニン艦長の洞察力ある知性と偏見のない感性が、注意深い観察を可能にし、現在文明世界が注目している国の人々の国民的性格に現れる多くの奇妙な特徴を正確に偏見なく判断することを可能にしているのである。日本人の性格に関する著者の知識から度々導き出される推論は、日本人と人類の大家族のその他の分家との間に友好的な関係を構築する任務を委譲された交渉者に役立つヒントを提供するかもしれない。日本の鎖国の速やかな消滅[annihilation全滅の意味もある]に疑いがないのと同様、まもなくこのような関係が構築されるのも疑いない事実である。

「英国と日本の通商記録」の概要

 日本との通商関係が再開されそうな今(1852年)、知っておくべき英日関係の歴史を解説で述べると書いていますが、32ページもの長い解説です。1600年のウイリアム・アダムス(William Adams日本名「三浦按針」: 1564-1620)から始まり、アダムスの1611年の手紙で、日本との貿易の希望を持ったイギリスが[東インド会社の]ジョン・セーリス(John Saris: c.1580-1643)船長を日本に送ったと書かれています。セーリスが駿府の家康に会ってジェームズ国王の親書を渡し、家康から江戸の息子[秀忠]に会うように言われ、江戸で将軍に拝謁して、帰りに駿府に寄ると、家康から特別の朱印状を渡されます。その内容が全て記されているのですが、原文と英訳版との違いがありますので、後に検証します。

 その後、リチャード・コックス(Richard Cocks: 1566-1624)を館長にしたイギリス商館が平戸に開設され、イエズス会宣教師が国外追放になってもイギリス商館は1615-1616年に平戸を基地に日本だけでなく、シャム(タイ)や琉球との交易も行っていたと述べています。しかし、オランダの邪魔によって貿易がうまくいかなくなり、1623年に平戸のイギリス商館を閉鎖し、日英交易は終わりを告げます。

 それから、日本で内乱が起きた頃、イエズス会宣教師が日本に8隻の戦艦を送るようポルトガル王に依頼したという報告があり、それが信じられて、1641年にはポルトガル人が日本から追放されたと述べられています。このくだりは、オランダのでっち上げかもしれないという含みが読み取れますが、日本が占領に抵抗するなら皇帝を殺害して従わせる計画だったというので、4-7で紹介した『ブリタニカ百科事典』(1842)の記述と同様で、後節で検証します。

 こうしてオランダが日本貿易を独占することになり、その利益は巨大だったと、オランダが1671年まで巨額の富を日本から得ていたと報告したラッフルズの『ジャワの歴史』(1817)を引用しています。その後、1673年に長崎に来航したリターン号の顛末について8ページにわたって述べています。出典は示されていませんが、ケンペルの『日本の歴史』(The History of Japan, 1727)からの引用です。リターン号は日本との通商を達成できずにイギリスに戻り、東インド会社は1682年には日本との通商を諦めます。中国との貿易は諦めるには大きすぎ、1699年には中国貿易の基礎を固めて、中国を通じて日本との貿易を打診し始めますが、これも成功せず、日本との通商は考えることさえできない状況になります。1792年に東インド会社の特別委員会が設置され、日本との通商について報告します。出された結論は、イギリス製品を輸出したとしても、利益は銅だけで、銅はイギリス国内で産出されて、国内需要としても、輸出としても十分なので、日本への輸出に重要性はないというものでした。

 ところが、「奇妙なことは、イギリスの船がイギリス人(スチュアート船長)の指揮で1797年と1798年に実際に日本を訪れている」(p.28)と述べています。しかも「この船がアメリカの旗を掲げ、アメリカの通行証を携えて、バタビアのオランダ当局によって日本に送られたという」のです。この事実はラッフルズが『ジャワの歴史』の注で引用しているHogendorpの本に述べられていると出典を示しています。

 次に強調されているのは、日本政府は外国との自由な交流を阻止しているが、一般民衆はそうではないという実例をイギリス海軍の船プロヴィデンス号で1795〜97年に日本の調査に行ったブロートン船長の観察を1ページ半にわたって紹介しています。ブロートンの航海記録は『北太平洋への発見の航海:1795, 1796, 1797, 1798年』という題で、1804年に出版されていますから、この本から引用しているのでしょう。

 19世紀初頭から数多くの日本探検記が出版され、それらを参照しながら紹介しています。ロシア海軍のクルーゼンシュテルン(Adam Johann von Krusenstern: 1770-1846)の『世界周航記:1803, 1804, 1805, 1806年』(1810)の英訳が1813年に出ていますが、その中に、1803年にカルカッタのイギリス商社が長崎に船を送ったけれど、すぐに追い返されたこと、その2年前にアメリカも試みたが成功しなかったことを述べていると紹介しています。クルーゼンシュテルンに途中まで同行したラングスドルフ(Georg Heinrich von Langsdorff: 1774-1852)の英訳版『世界の様々な場所への航海と旅:1803-7年』(1814)の中で、1792-93年に大黒屋光太夫を連れて日本に通商を求めに行ったラックスマン(Adam Laxman: 1766-1806)が日本側から伝えられた対外交渉に関する規則に触れています。ラングスドルフの観察が日本との通商交渉に参考になると考えてか、2ページ半にわたって紹介しています。そして、以下の文章で締めくくっています。

迫りつつある出来事が示しているのは、日本では重要な変化がまさに起ころうとしているようだ。これまで日本の人々は厳しい法律と習慣のうちに満足する生き方をしてきた。しかし、外国人との自由な交流が彼らの知性を広げ、センスを進歩させずにおかない。ヨーロッパの発明と産業による製品は彼らの関心を刺激するだろう。そして、大衆の間で生活の単なる必需品を得ることにおいても、この世の望み全てに境界など無いことがわかるだろう。これらの変化が、これまでイギリスの営利事業に閉ざされてきた世界の一部における商取引きにとって、有利で新しい市場を開くだろう。

 
 この解説は「日本、そしてロシアの戦争」のような過激な扇情的な論調ではありませんが、「日本、そしてロシアの戦争」で論じられている要素が盛り込まれているように思います。

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1 Captain Golownin, Japan and the Japanese: Comprising the Narrative of a Captivity in Japan, and an Account of British Commercial Intercourse with that Country, Vol.I, London, Colburn and Co., Publishers, 1852.
https://archive.org/details/japanjapanesecom01golo