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英米に伝えられた攘夷の日本(5-2-4)

柳亭種彦『浮世形六枚屏風』の主人公みさをと佐吉が偶然再会する場面の原文(1821)と『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載された要約(1857)です。

R.T. (原文)

これより又五年ほど立ちての物がたりと見給ふべし

 梅の難波は梅田橋、梅に実のいる皐月雨、晴れて水無月一日は勝鬘(しょうまん)参りの戻り船、岸に繋いで立ち出づるは、情の恋の二ッ櫛小松と云うて名取の芸子、夕風さっと吹き返すちらし模様を花と見て、蝶もあと追う堤づたい、「まうし其処へ行かしやんすは、花咲屋のお花さんではござんせぬか」と呼びかけられてふり返り、「さう云はしやんすは小松さん、おまへ何処へござんした」「あいちっとした願掛けに、勝鬘の愛染様へお詣り申した戻り道、今お前のうち方へ行く所でござんす」と云うにお花が打笑い、「ひくてあまたといふ心で、小松と名を付けたらうと人さんに云はるゝお前、愛染様へ参るとは、あまり欲でござんすぞえ、それはさうと今わたしも、曽根崎へお客を送って返る所、まちっとの行き違へで逢はれぬ所でござんした、お前も又お舟なら、なぜこちの戸平殿にさう云うては下さんせぬ」「サア皆さんは駕籠なれど、あまり今日のむし暑さ、廻り道でも舟で行かうと、ほんの俄の思ひ付き、頼みにおこす間も無し」と話しながらに花咲の家へ這入れば愛らしく、二階で娘が稽古のじょうるり、「たえてひさしき親のかほうちまもりまもり」と語れば小松が吐息をつき、「あゝ云ふ事が有ったなら、悦しい事であらうぞ」と思わず知らず一人言、お花とふっと顔見合わせ、「あのじゃうるりはお前の娘御およしさんでござんすか」「アイ、鶴澤の御師匠さんがとなりに有るを幸ひと、稽古させては見るものの、未だほんのねゝさんで、何だか埒はござんせぬ」と云いつゝ向うを打見やり「あれあの舟は戸平殿、お客も大勢有るさうな、おまへこちへ」と打連れて二階へ上る程も無く、又岸につく屋根舟よりざゝめき連れて来る三人、此の頃名代の三ッ紋佐吉、匙より舌のよくまはる座敷の配剤加減よき、幇間医者の藪原竹斎常の如くにせんじの羽織、鸚鵡はだしの物真似師深善両人左右に従へ、

I.L.N. (『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』)

 物語の第二部はこの出来事の5年後に、Wofanaと呼ばれるようになったFanayoと美しいKomatsuが家に帰る途中の会話で始まる。家では小さいKoyosiが音楽の稽古をしていて、小唄を歌っていた。二人は一緒に二階に上がると同時に、3人の男たちを乗せた舟が岸に現れた。男たちはお互いに喋っていた。一人は名前を変えたMitzumon Sakitsi、同伴者はおしゃべりホールのティー・スプーンに住んでいる快活で愛想のいい呪い師の医者、Jabuwara Tsikusai、その後に続くのは、サルのように裸足で、普段着のようにシルクのマントを着たTokaxenである。

R.T.

「サア是れからは貴様の所で一杯飲んで帰らうか」「ハイあつ苦しい狭い所も、お気が替っておなぐさみ」と、両人が悪口云わぬ内、先へくゞりの裏口を、開けて亭主の戸平が案内、「おっと卑下を宣ふな、此の花咲屋は船宿中で普請の物数寄第一番、しのぶも釣さず黒石に、さつきつゝじの山も無く、板塀かくしの建仁寺、垣根ばかりで植物の、無い所がきぜつきぜつ」といつも変わらず竹斎が、喧しき声

I.L.N.

「おい、途中お前の所で一杯やっていけるかい?」「ええ、狭い所ですが、何なりと」
他の二人が反対しなかったので、亭主のTofeiはヴェランダに続く前庭の戸を開けて、客たちを招き入れた。
おお、これを粗末で低俗と言うなかれ。この「花咲き家」は船着場にある娯楽場である。質素な所で、オレンジの庭もなく、黒木のヴェランダと、木の杭が載せられた頑丈な基礎壁以外見るべきものがないので、家の前にちょっとしたアトラクションが施されている。

R.T.

[竹斎が、喧しき声]聞き付けて、お花も二階を下り来り、「めづらしい佐吉様、すっきりお足の引かぬのは南の方に面白い」「いやいや此方も知って居る通り、何処へ行っても相方を定めぬが己(おれ)が持ちまへ、然し余り遊び過ぎて、何ぼ気のよい母者人も、すこし呆れもされた様子、あの佐吉と云ふ奴はうたゝ寝にも算盤を枕にして帳合の寝言を云った程で有った、若い者には珍しい商売好きの遊び嫌ひ、よい事には二ツ無く、医者も手をおくぶらぶら病、命にはかへられぬと、おれがすゝめて遊ばせたが癖になって、近年は家のことには構ひ居らぬ、あゝ云ふ事では身代を、くづし始めの紋所二ツ紋とやら名を取るを、常々家へ来て居ながら、竹斎や深善が、意見をせぬがうらめしいと、おっしゃったと手代のはなし、それ故丁度百日ばかり戸口へも出なんだ」と云う内

I.L.N.

 Tsikusaiは周囲を身回さずに、大声で話しながら入って来た。Wofanaが二階から叫んだ。「南部地区でSakitsi様を見られるとは珍しい。ここには一度も足をお運びになったことがありませんね」「ああ、そうだね。でもいい仲間がいれば閉じこもることはしない。家の近くでは十分楽しんでいる。このSakitsiはテーブルを枕に、楽しい話をしてくれて知ったのだが、若い時代の楽しみとも、優しい母親とも別れたそうだ。儲け商売の仕事を嫌っているが、その仕事から離れられない運命で、医者が手を差し伸べ、霜月の始めに私に店に行けと助言した。近年は店の商売に関わっていない。ため息ばかりつき、体調を壊している。TsikusaiとTokazenが毎日のように家に来ているのに、彼がクモの糸という意味の新しい名前、Mitzumonを使わせてくれないので、彼[佐吉]は二人に怒っている。彼はといえば、二人のうんざりする道化に苦しめられたことはない」。

 このわけのわからないスピーチはワインの症状を示していた。

訳者コメント:「わけのわからないスピーチ」と『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の記者が感想を挿入するほど、佐吉の話は理解不能だったようです。この背景には、日本語特有の主語の省略や、「〜が言った」という発話の主体を示す文言が少ないことに加え、句読点や引用符がほとんどない当時の日本文の特色が大きく影響しているのでしょう。ここで引用しているR.T.の種本は1929年刊の『浮世形六枚屏風』ですから、西洋式に句読点と引用符が施されていますが、プフィッツマイヤーの種本は1821年刊ですから、判読が難しいでしょう。プフィッツマイヤーの苦労が偲ばれます。

 そんな中で、『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の訳が一番原作に近いので、スネッセン訳(1851)、I.L.N訳(1857)、マラン訳(1871, (注1))を比較してみます。マランについては後に紹介しますが、スネッセン訳から20年後の翻訳ということになります。

  1. 原作:竹斎の声を聞きつけて、お花が二階から下りて来て、佐吉に話しかける。
    スネッセン訳:お花は二階の自分の部屋に戻り、小松に話す。
    I.L.N.訳:お花は二階から叫ぶ。
    マラン訳:お花は二階に行き、小松と話す声が聞こえる。

    訳者コメント:「お花も二階を下り来り」の理解だけでも、I.L.Nが一番近いことがわかります。とすると、I.L.N.の記者はスネッセン訳の要約というより、意訳、前後のストーリーの論理に合うような理解の仕方をしたのかもしれません。

  2. お花の「めづらしい佐吉様」という呼びかけに、佐吉が「いやいや此方(こなた)も知って居る通り」と答える。
    スネッセン:お花が小松に「佐吉が来るのは珍しい」と言う。小松が「私はこの佐吉という人を知っている」と答える。
    I.L.N.:”Worthy Mr. Sakitsi”と始めて、佐吉に話しかけ、答えは誰が言ったとは書いていない(わからないながらも、佐吉と読めるようにしている)が、読者は佐吉の答えと理解して読み進める。
    マラン:”that precious Mr. Sakitsi, he is a rare thing”とお花が言うので、「あの大事な佐吉様がめずらしい」と小松に話しかけ、小松が「いえいえ、私は彼をよく知っています」と話し始める。
  3. 佐吉が遊びすぎて、母に呆れられ、母のセリフでは、うたた寝でも算盤を枕にし、仕事の取引を寝言で言うぐらい仕事熱心、遊び嫌いだったため、医者も匙を投げるほどのうつ病になり、命に変えられぬと母が遊びを勧めた結果、近頃は家のことを構わず、財産を崩し始める。竹斎や深善がいつも家に来ているのに注意してくれないのが恨めしいと言ったと手代から聞いた。だから100日ぐらい遊びに出なかったのだ。

    スネッセン:小松の話「小松が仲間を避けて来たが、佐吉は小松と一緒がいいといつも現れ、テーブルを枕に、母と別れ、子供の遊びも絶たれていたか話してくれた。若い時は遊びを嫌い、自分の幸運を楽しんだことはない。医者の手にかかると、熱のうわごとで自分[小松]が去るようなことは二度としてくれるなと言う。去年は家の仕事は全くせず、ふさぎこんで人生に悩んでいた。いつも一緒にいる竹斎と深善が彼[佐吉]がMitzumon、つまり3本の糸という名前を使うのに同意しないことで、彼は怒っているとか。この点で、彼らとのつまらない付き合いを嫌がっているらしいけど、当面は諦めているそう」。

    マラン:小松の話「彼は私に付き合うよう説得できなかったけれど、私と楽しく多くの時間を過ごしたの。あの佐吉という人、サイドボード(食器棚)を枕がわりに、私のそばで無駄口をたたき、馬鹿げた事ばかり言い、それから、貧しい善良な母親の元を去った経緯を話したわ。若いときは繁盛する商売が嫌いで、働かなかったこと、医者が彼を捕まえ、彼は私[小松]が彼との同棲に同意しなければ、病気が治らないと説得しました。ここ数年、彼は家業を疎かにし、その結果、色々と悪化したので、彼は竹斎と深善に怒っていました。この2人はいつも彼の家にいたのに、彼の服にまつわる三ツ紋という名前にするようにと助言しなかった。それで、彼は2人の長々しいおふざけに注意を払わないのです。

 スネッセン訳、I.L.N.要約、マラン訳と見てみると、I.L.N.の記者がなんとか論理的に理解しようと苦心している様子が窺えますが、それでも「わけがわからない」と悲鳴をあげているような感じです。スネッセンの翻訳が掲載された『ホウィットのジャーナル』(1851)も、マラン訳掲載誌『フェニックス』(1871)も購読者数は少なかったでしょうが、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の購読者数は(4-1)で紹介したように、1863年時点で31万部だったということですから、一家で読む人数を加えれば、その倍以上でしょう。こんなに影響力のある新聞に、「わけのわからない」日本のストーリーを掲載する意図は何だろう思いながら、この号(1857年1月3日)の他の記事を見ると、第二次アヘン戦争の始まりとなったアロー号事件についての記事が掲載され、2ヶ月後に本国の英国議会で、中国に対する侵略戦争だ、人道的に許されないと大議論になり、アロー号事件の首謀者の一人とされたハリー・パークス領事の責任が追求されたこと、そのパークスが後に日本に公使としてやってきたことなどを知ると、複雑な思いを禁じ得ません。『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』では、すでに1850年には、「弱くて無気力な中国人と日本人を考えたら、喧嘩の方がずっと現実的で、ありえる結論だろう」(4-1参照)と、「喧嘩」=侵略戦争をするのが早いという趣旨を記事で表明しているのですから。

 とにかく、最後まで『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』が紹介する『浮世形六枚屏風』の要約と記者の最後の感想を拙訳します。

R.T.

二人の末社ども、「そりゃこそをかしな日よりに成った、南無三くはばらくはばら」と、耳を塞げばお花はうちえみ、「此の雲行きでは、ほんたうに今夜はなるかも知れぬのに、縁起の悪い」と云いながら、さす杯を竹斎が手に取上げて、あたりを見回し、「床の間に三社の託がかゝって有るのは聞こえたが、其のまへの犬張子に七色菓子が上げて有る、なで牛が古いからなで犬とは新しい」と云われて戸平は目配せし、「それは内の山の神が、七ツ目だからと言ひまして、なァお花」「アイそれで大事に今まで致します」と云い紛らせば指折りかぞえ、「お神さんのほんの年は見現はした、此の小道具におよし坊といふ子が有れば、成程さうでも有らうかえ、三十には余程とくだ」と笑えばお花は竹斎を、たゝく真似して立って行く。

I.L.N.

この後、Tsikusaiは間の悪い質問をした。犬の人形にかかっている七色の絹糸についてだったが、Tofeiは説明を避けた。

R.T.

深善がまかりいで、「益も無い口を聞いて、お神さんを取逃した。イヤ逃すと云へば此の屏風は、男と女が連立って駈落をする所、向うに橋がいかい事書いてあるのは何処であらう」と引出せば亭主の戸平、「もし暑くるしい、畳んでお置きなされまし、夫れは矢張ここの景色梅田橋に桜橋、その次が曽根崎橋、いつぞやお初徳兵衛のじゃうるりの出来た時、人形芝居の看板をとなりの三絲に貰ひましたを、屏風にして置きました」と話せば竹斎又さし出で、「其のじゃうるりで思ひ出したは、近年ここで名代の芸子、二ツ櫛の小松とは道行に出さうな名、貴方は三ツ紋二ツ櫛とならべて云ふと、角とやら割外題とやらの様で、狂言名題に打って付け、何と是れから一およぎ」と乗地に成るを佐吉が打消し、「成程おれも名は聞いたが未だ遇ひはせぬ小松とやら、道行の屏風から思ひ付いては悪い対句、末の世までも此の様に、浮名を残すお初天神、情死(しんぢう)をして死ぬ阿房(あはう)にたとへられては迷惑な、遂ぞ今まで相方を定めぬおれはほんの遊び、はてたかが芸子は売物買物、金さへ出せば自由になる、夫れを誠のある様に思うて居るは大たはけ」と人事云わば目白置け、二階を下りる二ツ櫛小松とふっと顔見合わせ、お花が送る後影見とれて佐吉が手に持ちし、酒がこぼれて我が膝も、ぬれのはしとはなるとも知らず、「今の芸子はありゃ誰ぢゃ」「あれが今竹斎様の噂を云った、二ツ櫛の小松さんで御座ります」と聞いて佐吉は呆然と、杯なげ捨て帯しめ直し、「さァ今からあれを上げて遊んで見よう」と心も空もかわりて降り来る夕立雨、「すゞしくなってしっぽりと、おしけりなさるに最屈強、ものどもぬかるな、ヤレ来いえゝ」とそゝり立ったる両人を打連れ、戸平を供に小松をしたひ、島の内にぞ至りける。

I.L.N.

Tokazenが屏風の人物について、神特有の粗雑さを示しているが、Wofano、またはFanayoがTofeiと一緒に家を出奔した逃避行を思わせると言うと、[Tofeiは]話を止めて、会話は最近来た女性ミュージシャン、Futatsugusi Komatsuに向かった。Mitzumonという名前へのもう一つの下品な暗示である。Sakitsiは失望している恋人を呼び出した。「実のところ、この屏風で小松のことをお前が思い出したというが、最近よく耳にする小松に会ったことがない。最近の記憶に残るつまらない名前を表現する歌には重荷しか生み出さない。もしWofatsenが心に天の神々を秘めているとしたら、そして、もし致命的な愚かさが彼らをこの問題に引き摺り込んだとしたら、悲しいことだ。私の確たる決意はそのような関係に引き込まれないというものだ。ああ! こんな浮気なリュート弾きの女たちは売買対象の商品に過ぎない! 私たちの金が尽きたら、彼らは去っていく。これが真実だとよく知っている。これが重要なことだ」。

 ちょうどこの時、Wofanaがそっと振り向いた。Sakitsiは持っていたカップを倒し、中の液体が自分の膝にかかったことを気づかなかった。「リュート弾きの女がいるぞ、こいつは誰だ?」「竹斎様がご存知のFutatsugasi Komatsuです」。Sakitsiはそう聞いて驚愕し、カップを投げ出すと、無意識に帯を緩めたり、締めたりした。「また嬉しいことになった」。彼はTofeiの招きで家に入り、そこで、たった今侮辱したばかりの無垢で高貴な女性に会った。

マランの翻訳について

“MISAWO, THE JAPANESE GIRL. Translated from the Japanese By the Rev. S.C. MALAN, M.A. Vicar of Broadwindsor & Prebendary of Sarum.”(「日本女性、みさお」、日本語からの翻訳はブロードウィンザーとセイラムのプレベンダリーの教区牧師、S.C.マラン牧師による)と題された翻訳はTHE PEOENIX. No.10, APRIL, 1871と日付があります。

 マラン(Solomon Caesar Malan :1812-1894)の略歴は南アフリカ共和国のステレンボッシュ大学博物館のサイト”Solomon Caesar Malan”(注2)によると、スイス生まれのイギリス人とされ、オックスフォード大学を卒業後、1837年にカルカッタの大学で古典学の教授になり、アマチュア画家としての才能も評価されているようです。また、ローヤル・アルバート・メモリアル博物館のサイト(注3)には、オックスフォード時代に勉強しすぎて病気になり、片目を失明したが、医者の忠告に逆らって読書をやめなかったそうです。子ども時代を振り返って、「知るべきこと全てを知ろうと決意していた」と述べています。18歳までにフランス語・ドイツ語・スペイン語・イタリア語に精通し、ラテン語やヘブライ語・サンスクリット語・アラビア語も上達し、英語は少し話せたそうですから、その後オックスフォードへ進学するまでに上達したということでしょう。後年、ヒンズー語や北京語を含む東洋言語の専門家にもなったと述べられています。1845年にドーセット州のブロードウィンザーの教区牧師になります。クリスマスには教区の全高齢者に夕食を振る舞うなど、教区に仕えた牧師でもあり、その間も学問と水彩画を亡くなるまで続けたそうです。

 これらの略歴からは、マランが日本語に精通していたかわかりません。息子が書いた『ソロモン・シーザー・マラン—生涯と著述—』(1897,(注4))の著作リストには「日本女性、みさお」(1871)とあり、蔵書にも日本語の書籍があることが記されていますが、訪日経験も日本語の知識もあったとは記されていません。

 一方、この翻訳を掲載した『フェニックス』は「中国・日本・東アジアの月刊誌」という副題の月刊誌で、編者ジェームズ・サマーズ(James Summers: 1828-1891)は1873(明治6)年に御雇外国人として来日して、東京開成学校を始め、札幌農学校等で英語・英文学・論理学を教え、日本で亡くなった人物です。来日前にすでに『フェニックス』を創刊していたわけですが、ロンドン大学キングス・カレッジで中国語を教えていた中国研究家でした。サマーズは『フェニックス』創刊前に、『中国と日本のレポジトリ(宝庫)—東アジアの科学・歴史・芸術における事実と出来事—』(The Chinese and Japanese Repository of Facts and Events in Science, History and Art, Relating to Eastern Asia)という雑誌を1863年から65年まで編集し、ロンドンとパリで出版しています。創刊号(Vol.1,(注5))の序に編集出版の理由を述べていますので、抄訳します。

1世紀ほど前、中国はお茶や、数寄者の興味をひくような珍しい品物を産する遥か遠くの国としてしか知られていなかった。しかし時があまりに速く過ぎ、100年前のヒンドスタンは今や我々に近い国になった。その都市は我らの都市であり、人々は急速に英国化した。我々はこの国を電信のおかげで、ホワイトホール[英国政府]から統治できるのだ。そして、この古代の地、ヨーロッパ人種の揺かごだった地に関する全てのことは我々にとって単なる好奇心と興味の対象ではなく、我々が知らなければならないことになったのである。インドがより近い国になったのなら、中国も日本もそうだ。半野蛮、あるいは、控えめに言えば、くたびれきった文明と文明との闘争は、東洋世界の端のこれらの地で感じられている。インドで100年前に起こった同じプロセス、あるいはそれに近いものが極東で起こっていて、まだ進行中だ。中国は屈服した。日本は明け渡さねばならない。もちろん、状況は違う。中国は長い間、政治的腐敗の状態にあった。一方、日本の心は比較的健康だ。彼の国[日本]の行政の強さと警察行政の権力と、そして、制限的王制が存在する一方で、強い男爵たち[藩主]が自分たちの意見や判断を主張することができることが、日本ではこの健全さを生んできたと言えよう。

 しかし、実のところ、これら東洋の王政はヨーロッパの国々との争いの衝撃に生き残れない。彼らが自己の方法で進む限り、ある程度は国家の平和と繁栄を保持することができるが、西洋文明との衝突は彼らの低能な[imbecile]体制に同じ効果をもたらすようである。立憲政府の開明的見方が、自己指導の実践に慣れていない劣った[petty]国々に影響を及ぼしたように。我々は1世紀前にインドと英国の事情を比較する努力をし、現在中国で行っている。現在の我々の政策は中国を吸収合併する傾向があるが、日本について言うのは時期尚早だ。この見通しの前で、英国人が現在中国と日本が我々にとってどんな地位にあるかを知る必要がある。心から願うのは、ヨーロッパ文明とキリスト教が西洋に広がったように、東洋にも広がるべきだということである。しかし、モハメットが偽りの信仰を剣で広めたように、剣を使うことは警戒すべきだ。国家は一挙に文明化されないし、この方法では真の宗教に改宗できない。もし中国全土を洗礼させられたら、または1ヶ月とか1年で文明の1形態を与えられたら、どんな果実を期待できると言うのだろうか! ある場合は、ただ権力のない宗教になるだろうし、他の場合は、無い方がましなぐらいの異教徒の文明になるだろう。(pp.3-4)

1 S. C. Malan, ”Misawo, the Japanese Girl”, James Summers (ed.) The Phoenix, a Monthly Magazine for China, Japan & Eastern Asia, vol.1, pp. 157-163, 195-199, 208-213.
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uc1.l0079314464
2 ”Solomon Caesar Malan”、南アフリカ共和国のステレンボッシュ大学博物館サイト
http://www0.sun.ac.za/museum/html/malan.php
3 ”Solomon Caesar Malan (1812-1894)”、ローヤル・アルバート・メモリアル博物館
https://www.rammuseum.org.uk/collections/collectors/solomon-caesar-malan/
4 Arthur Noel Malan, Solomon Caesar Malan, D.D.: memorials of his life and writings, John Murray, London, 1897.
https://catalog.hathitrust.org/Record/007701278
5 The Rev. James Summers (ed), The Chinese and Japanese Repository of Facts and Events in Science, History and Art, Relating to Eastern Asia, vol.1 (from July 1863-June 1864), W.H. Allen, London, Benj. Duprat, Paris
https://catalog.hathitrust.org/Record/000528115