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英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-13)

ペリーは第一回日本遠征の帰路、報告をアメリカ海軍省長官に送りますが、長官の回答は「貴官に宣戦布告の権限はない」という趣旨の叱責に近いものでした。

ペリー艦隊は攻撃態勢だった

 『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』(1853年10月31日、6-6-12参照)によるペリーの第一回日本遠征報道には、ペリー艦隊が攻撃態勢にあったことが読み取れます。ペリーの日本遠征の正式記録にもはっきりと攻撃態勢に入っていたことが書かれていますが、ペリー自身が海軍省に宛てた報告書(1853年8月3日サスケハナ号海上にて、報告書番号No.17)から抄訳します。内容は公刊された報告書とほぼ同じですが、個人の報告書はペリーの一人称であり、彼の性格が表れています。

[到着時7月8日] 
 私は、沿岸に到着する前に、私に課せられたデリケートで責任ある任務を遂行するにあたり、私が不屈の精神で推し進めるべき道について十分に考え、決意していました。(中略)武力で上陸するかはその後の出来事の進展次第で決めることにしました。この意図を遂行するために、私は乗組員に十分演習させ、船を実戦の時と同じように完璧な準備態勢にしておきました。このように、私はどんな不測の事態にも備えていました。((注1), p.45)

ペリー艦隊の攻撃準備を確認した佐久間象山

 日本側でこの攻撃準備態勢を確認していたのは佐久間象山でした。幕府に伝わった黒船来航の第一報(1853年7月8日:嘉永6年6月3日午後10時過ぎ)を幕閣の川路聖謨(としあきら)は、すぐに友人で海防策の第一人者だった佐久間象山に伝えました。意見を聞きたかったようです。象山はその真夜中、自分の藩・松代藩邸に駆けつけ、家老から「浦賀へ急行せよ」という藩命を出してもらい、7月9日早朝に浦賀に発ち、夜到着、翌10日(嘉永6年6月5日)早朝、丘の上から勝海舟から譲り受けた望遠鏡で艦隊を観察します。「蒸気船の構造と原理を事前に了解していた」((注2), p.345)象山は、大砲の数と戦闘準備を終えていることを確認しました。乗員の数が4隻合わせて2,000人、砲窓を開いて発射準備が整っていること、西洋の大砲の射程距離が3.5kmに達していること、日本の砲弾は2kmにしかならないことも知っていた象山は、戦争にならないと瞬時に悟ったのです。

ペリーの挑発行為を叱責した海軍省長官

 ペリーの海軍省長官宛報告書は、アメリカ議会で1854年12月6日に日本遠征に関する全ての通信文書を開示せよと決議された結果、ピアス大統領(Franklin Pierce: 1804-1869, 大統領在任:1853-1857)が1855年1月31日付の文書と共に議会に提出し、明らかにされたものです。「大統領のメッセージ」という題名の文書で大統領が議会の要望に言及し、関係文書を議会に提出すると述べています。議会の目的はこの遠征が国益と相容れない点があるか検証するためと書かれています(注1, p.1)。1月31日の上院の開会中にこの文書が届いたと『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』が伝えています(注3)。これらの文書がハーティトラスト・デジタル・ライブラリーに掲載されています。

 ペリーから第一回遠征の報告を受け取った海軍省長官は叱責に近い注意をペリーに書いています。ペリーが自分の挑発行為を自慢気に語った報告書に怒りを覚えているような海軍省長官の受け止め方が現れているように感じます。1853年11月14日付、海軍省長官からペリー提督宛の書簡から抄訳します((注1), pp.57-59)。適宜、本文にない小見出しを付けます。

貴官のミッションが平和的な交渉であることを思い出せ

 貴官からの1853年8月3日付の数通の報告を受け取りました。全て大統領に提出され、大統領は貴官の興味深いミッションが成功したことを喜び、法律で許される限りの援助はするとのことです。偉大な結果を手に入れなければならないが、それは合衆国にとって益するだけでなく、日本にとって悪いものであってはならないというのが大統領の信念です。

 貴官のミッションが平和的交渉であること;日本の特異な性格を考慮し、我が国の偉大さと軍事力を印象付ける示し方をする重要性はあるとしても、自衛以外の暴力は決して使ってはならないことを再度確認する必要はないでしょう。

宣戦布告の権限は議会にある

 我が海軍を貿易と商業の拡張と護衛のための政府の効率的な一支部機関にすることは非常に望ましいことですが、宣戦布告をする権限を持つのは議会だけですから、たとえ、貴官が従事している偉大な仕事においても、過度な賢慮を行使することはできません(訳者強調)。

 これらの提言は貴官の賞賛すべき熱意をそぐためでも、貴官のミッションの規模を縮小するためでもありません。貴官の判断と愛国心にはあらゆる信頼が置かれています。しかし、貴官の興味深い報告の一部がこの提言をする理由です。その中で貴官は日本人の恐怖心を利用して春に成功をもたらすと期待していると表明しています。しかし、同時に[日本の]岸には「アメリカを追い出す」ために多くの砲台が建設され、春までには更なる砲台が建てられる可能性があり、日本が貴官を好戦的に迎える準備をしているという意見もほのめかしています。

 以下が私が引用した貴官の報告の一部です。(中略:ペリーが描写する浦賀の様子)
「しかし、私が持てる軍事力、特にヴァーモント号の助けがあれば、江戸から3,4マイル、多分、射程距離内まで湾の奥に侵入するのを阻止されることはないでしょう」。
「日本人には恐怖心の影響を通してしか道理をわからせることができないのは確かです。海岸線が完全に強大な海軍力の手中にあると悟ったら、我々の要求全てに譲歩すると私は自信を持っています。たとえ、彼らに条約締結させられなくても、今後日本の海岸に打ち上げられた外国人が親切に扱われることは確かです」。(原文の注:この抜粋は議会に送られなかった機密書類からコピーした)

挑発もしていない遠くの国にアメリカ軍を上陸させることを議会は承認しないだろう

 もし海軍省が私の前任者のように、貴官の艦隊にヴァーモント号を加えたいと思っても、これはできません。船員を獲得することができないからです。乗組員のいる船を送ることもできません。他のところで緊急に必要とされているからです。(中略)

 大統領はこの艦隊[蒸気軍艦2隻、スループ軍艦3隻、補給船]があらゆる自衛目的にも、日本人にいい印象を与えるためにと企てられている軍事力の誇示にも十分な艦隊だという意見です。また、貴官のミッションを達成するためにも、海軍の軍事力が達成できる限りにおいても十分です。大人数の兵士を上陸させて侵略を考えているのでない限り、そもそも、賢明な議会はこれほど遠くの国で、大きな挑発もないのに兵隊を上陸させ侵略することを認めることはないと私は推測します。(中略)

 大統領は貴官がここまで進めたのだし、貴官が来春戻ると発表してしまったから、貴官が日本に行って日本の冷遇的、非社交的な制度を捨てるよう説得し、友好通商条約を達成するために名誉ある妥当な努力をすることを望んでいます。

訳者解説

 「過度な賢慮を行使することはできません」と訳した部分の原文は”too much prudence cannot be exercised” (p.57)です。”prudence”を「慎重さ」と訳すのが現代的かもしれませんが、”prudence”の訳語をアリストテレスの「賢慮」(注4)か、トマス・アクィナス(Thomas Aquinas: 1225?-74)の「思慮」(注5)と考え、アリストテレスの日本語訳で使われている「賢慮」を採用します。”prudence”という語と概念は国際関係論でも軍事論でも使われているようですが、この時の海軍省長官の文章が具体的に何を指していたのか後ほど検証します。

 第二回遠征に軍艦を増やして欲しいというペリーの要望に対し、自分の前任者は認めただろうが、自分は艦隊の軍艦を増やすことを認めないと明言したこの海軍省長官、ジェイムズ・ドビン(James Cochrane Dobbin: 1814-1857)はペリーより20歳も若く、就任時の1853年、ペリーに叱責の文書を出した年に35歳という若さです。1835年から10年間弁護士として活躍した後、アメリカ議会議員に選出され、ピアス大統領に抜擢されて海軍省長官になったそうです。アメリカ海軍省によると、ドビンは「海軍を強めることは戦争の手段としてでなく、平和の手段としてだ」(原文強調)という固い信念を持っており、数々の海軍改革を法制化したそうですが、それらは海軍所属の将校・水兵たちの待遇改善が中心で、見習い制度の確立、現場任務がこなせなくなった将校たちに年金が支給されるための退役者リストの制定、水兵の給料増加、善行除隊制度などです。長く困難な航海では水兵たちを賞賛・激励する手紙を送り、それが航海中に上官によって読み上げられていたそうです(注6)。アメリカ海軍史上、唯一人「海軍大元帥」(Admiral)の称号を与えられたジョージ・デューイ元帥(George Dewey: 1837-1917, (注7))がドビン長官の在任中(1853-57)「世界で第1級の船を18隻建造した。私の意見では、ドビン氏はアメリカがかつて得た最も有能な海軍省長官の一人だ」(注6)と述べたと記録されています。

公刊『ペリー提督日本遠征記』に挿入された自己弁護

 1853年8月3日付海軍省長官宛の報告書と『ペリー提督日本遠征記』の記述を比べると、個人の報告書にはない「言い訳」が『遠征記』に挿入されているので、長官からの叱責を意識したのかと思わされます。ドビン長官の「過度な賢慮」をペリーが自分のどの言動を指しているか考えた上での言い訳かと考えられる部分を、海軍省長官宛報告書の中から訳します。

[到着時7月8日]
私はまた、この帝国の最高位の役人としか交渉しないと決めていました。したがって、浦賀の副奉行にも奉行にも会うことを拒否し、ブキャナン中佐とアダムス中佐(Commanders Buchanan and Adams)、コンティ大尉(Lieutenant Contee)に彼らと交渉させ、問い合わせや口頭のコミュニケーションは私の指示の元に行わせました。私は自分を近寄り難くすればするほど、私が厳しいと見せることができ、この形式と儀式の国では私に対する尊敬の念が増すことを知っていました。この私の目的とその後の成り行きがこの決断の正しさを示しています。((注1), p.45)

この対応について、『遠征記』には自己弁護的解説が挿入されています。

提督は、多くの人々に共通する生得の人間愛から生じる同胞との交わりを、おのれの身分の高さゆえにこばむような人ではなかった。しかし、日本では、祖国の代表者として、また頭上に翻る国旗の名誉を守るように任じられた者として、日本人に、いちばん分かりやすいやり方で教えてやる事は良いことであると感じたのである。すなわち威厳をもって重々しくふるまい、かつ言動のすべてを公明正大にすることによって、自分を派遣した国に対して敬意を払うよう、また外国人に対する常習的な傲岸不遜な態度をしばらくやめるようにということである。日本人は提督の態度を十分に理解し、すぐさまこの教訓を学んだ。提督が浦賀の副奉行との対面を拒絶し、自分の副官に協議を委ねたのは、このような気持ちからであり、他意はなかった。さまざまな事柄が、友好と平等の関係に基づいて、両政府間で取り決められてからは、提督は副奉行と何度も会見している。このことを特記したのは、ペリー提督を知るわが国の人々に知らせるためではなく、この遠征記を読むかもしれない未知の読者に教えるためであり、このように説明の言葉がなければ、提督の人格が誤解されるからである。彼ほど同胞から親しまれている者はなく、彼が祖国に尽くすのは地位や名誉のためではないのである。((注8), pp.554-555)。

1 [Documents relating to the foreign relations of the United States with other countries during the years from 1809 to 1898] , v.41 (1855), United States, Department of State, Washington, 1809-1898, Hathi Trust Digital Library
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=nyp.33433081796033
2 松本健一『佐久間象山(上)』(2000)、中公文庫、2015.
3 ”Thirty-third Congress—Second Session. Senate…Jan.31—During the debate a communication was received from the President, enclosing the correspondence relative to the negotiations of Commodore Perry with the Japanese government.”, The New York Daily Times, Feb. 1, 1855, p.1.
https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1855/02/01/issue.html
4 C・ロード、佐々木潤(訳)「アリストテレス」『政治哲学』第23巻、2017.
https://www.jstage.jst.go.jp/browse/jpp/23/0/_contents/-char/ja
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpp/23/0/23_3/_pdf
5 松根伸治「枢要徳はなぜ四つか—トマス・アクィナスによる理論化—」『南山神学』38号(2015年3月)
http://www.ic.nanzan-u.ac.jp/JINBUN/Christ/NJTS/038-Matsune.pdf
6 ”James Cochrane Dobbin”, from Navy Department Library, 29 August 1918, Naval History and Heritage Command, Aug. 25, 2017.
https://www.history.navy.mil/research/library/research-guides/z-files/zb-files/zb-files-d/dobbin-james-cochrane.html
7 “George Dewey”, Naval History and Heritage Command, Dec. 06, 2018.
https://www.history.navy.mil/research/library/research-guides/z-files/zb-files/zb-files-d/dewey-george.html

8 M.C.ペリー、F.L.ホークス(編)、宮崎壽子(監訳)『ペリー提督日本遠征記(上)』(2009)、角川ソフィア文庫、2018.