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2019-11-05

英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-12)

ペリーの第一回日本遠征から3ヶ月後に、その概要が『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』(1853年10月31日)に掲載されました。アメリカの一般読者が最初に接した日本遠征の報告です。

KANAKA VILLAGE BONIN ISLANDS
カナカ人の村 ボニン諸島((注1), p.205)

小笠原諸島の統治者・所有者はスコットランド人

  • 1853年10月4日(NYDT):「日本遠征からの非常に興味深い情報」(注2)

 合衆国の遠征隊は7月3日に日本に向けて琉球を出発した。提督の艦隊はサスケハナ号・プリンスタウン号・プリマス号・サラトガ号で、ポーハタン号とバンデーリア号が続く。

 7月9日の北中国『ヘラルド』が以下の記事を掲載した。

 「個人的な情報によると、合衆国艦隊は那覇港近海で、サスケハナ号とサラトガ号が東方面を巡航し、美しい数島に寄港し、そこで家畜を供給した。また、ボニン島(小笠原諸島)と呼ばれる島にも寄港した。驚いたことに、ヨーロッパ人の住民がいた。イギリス人・スコットランド人・アイルランド人・スペイン人で、捕鯨船を離れて、この島で暮らすようになったという。その中には女性が11人いた。この島の統治者はスコットランド人で、島が自分の所有だと主張した。20年ここに暮らしているという。子どもが数人いて、その1人はサスケハナ号が到着する2,3日前に溺れ死んだそうだ。

 提督は10エーカーほどの土地を$50で購入した。港の最高の位置にある土地で、[アメリカ]政府の石炭貯蔵庫にするという。この島は山が多く、港は素晴らしい。ロブスターやザリガニなどの魚介類が豊富で、陸地には野生のヤギがいたるところに見られる。プラム・バナナ・プランテン、その他フルーツのバラエティも多い島である。

 ロシア戦艦パラス号とブリッグ戦艦がアメリカ艦隊のすぐ後を追っている。

訳者解説:ペリー一行が会ったヨーロッパ人の住民というのは、『DAYS JAPAN』2016年12月号の記事によると、父島に1830年に「ハワイからやって来た欧米人5人とハワイ人20数人」というのと年代も人数もアメリカ捕鯨船の船員だったことと符合します。この子孫は今では「欧米系日本人」だそうです(注3)

小笠原諸島をめぐり、英米が領有権を主張

 ペリー自身が1856年3月6日に「アメリカ地理・統計協会」で行った講演によると、小笠原諸島の植民地化を考えていたようです。以下のようなことを述べています。

 この広大な海に散在している数多くの島が野蛮人の管理不行き届きで生産性のないままでいるとは考えられない。そんなことは世界史が禁じている。現時点では、どうやって原住民たちを片付けるか、正当な方法か不当な方法でかは現時点では知り得ないが、彼らは我が国の赤い同胞[アメリカ・インディアン]の悲しい運命のように、他人種に譲るか、混じり合うかが運命付けられている。

しかしボニン諸島の居留地では誰の権利も邪魔されずに、土地を手に入れたり、すでにここにいる居住者から買い取ることができる。((注4), pp.14-15)

 この後にキリスト教ミッショナリーの基地にして日本の布教を広げる希望も出しています。そして、1853年12月21日に香港のイギリス総督ボーナムと会って、ボニン諸島のアメリカ植民地化について話したようで、ボーナムその他のイギリス官僚たちのペリー宛の書簡を紹介しています。ボーナムの12月22日付書簡(p.19)によると、ペリーがアメリカ政府の石炭兵站地にするためにボニン島の住人から土地を買ったというが、ボニン諸島はイギリス領だと証拠を提示します。それに対しアメリカ側は、発見者に基づいてどの国に属するかという点では、16世紀中葉から多くの探検者がこの島を訪れているし、1675年に来た日本人は”Bune Sima”という名前を付けたと指摘し、したがって、大英帝国は発見という概念で島の所属を主張できないとクレームを付けています(p.22)。

 日本遠征の公式記録(1856)では「日本人がボニン諸島の最初の発見者であることはまったく明らかである」(原文(注1), p.200 ;訳文(注5), p.473)と述べ、ケンペルを引用して、”Buna Sima”[ペリーの講演では綴りが変わっています]の意味が「人のいない島[無人島ぶにん]」(原文, p.197 ;訳文, p.469)と記しています。さらに、注にはケンペルが「本来の名はオガサワラ・シマであるが、一般にはモン・ニン・シマ」「つまり人のいない島と呼ばれて」いることも明記しています(原文, p.198 ;訳文, p.499)。

アメリカの読者に伝えられたペリーの日本遠征第一報

 以下の記事の内容はペリーの公式記録と随行の通訳ウィリアムズの日誌(1910:1-2参照)より前に、実際の第一回日本遠征の3ヶ月後に伝えられた第一報です。ペリーの公式記録が広く読まれたとは考えにくいのに対し、新聞記事は幅広い読者層を対象にしたメディアである点から、1-1〜1-4の内容と重複する部分もありますが、比較する上でも興味深いのでほぼ全文翻訳します。

  • 1853年10月31日(NYDT):「日本遠征—その進展に関する興味ある情報—ペリー提督の上陸」(注6)

 遠征隊は江戸を8月17日に発った。提督は日本帝国の2人のプリンスと会うことができた。合衆国大統領の国書と彼自身の信任状を渡すことに成功した。この問題は皇帝と閣僚たちの検討が必要なので、その回答を来春受け取りに行くことになった。浦賀の奉行がサスケハナ号を訪問し、非常に好奇心旺盛だった。彼はアメリカについてよく知っているようで、地峡鉄道[パナマ鉄道]の進展についても質問した。

 ペリー提督が戻ったら、砦が築かれ、友好的なレセプションではなく攻撃的なレセプションが行われるだろうと、ロンドンの『タイムズ』特派員が推測している。

 中国在住のアメリカ人がペリー提督にカントンか黄埔(Whampoa)に戦艦を配置してほしいと要求した。ミシシッピー号は現在そこに停泊しており、サスケハナ号はマカオに、サラトガ号は上海に停泊している。

 以下は8月11日の『ノース・チャイナ・メール』紙掲載の興味深い遠征隊の動きである。

戦闘準備態勢のペリー艦隊

 ペリー提督の日本遠征の事実:フリゲート艦サスケハナ号とミシシッピー号、スループ戦艦プリマス号とサラトガ号から成る艦隊は琉球の那覇港を7月2日に発った。8日朝、江戸湾の南の入り口、伊豆岬に達し、湾に向かって真っ直ぐに進み、午後には浦賀沖に停泊した。モリソン号[1837年]とコロンバス号[1846年:1-2参照]が停泊した所から1マイル以上離れた場所である。

 この艦隊の登場は日本の海で初めてで、他の船を後ろに従え、帆を全部たたんで、毎時9-10ノットで動いている様は、日本人にかなりの衝撃を与えたようで、湾を賑わせていた交易船すべてが注意深くよけた。

 艦隊が投錨する時、ロケット砲弾が1マイル離れた砲台から2発空に向けて発射されたが、明らかに攻撃合図ではなく、信号として発射されたのだ。日本政府のボートが数隻すぐにやってきて、外国人に対して出発せよといういつもの通達を船に載せようとした。しかし、役人たちは乗船させられず、浦賀の副奉行という役人だけが乗船を許され、もし日本当局がいつものボートによる非常線で艦隊を取り囲もうとするなら、それは非常に深刻な結果をもたらすと伝えられた。それでもボート2,3隻がサスケハナ号の周りを囲んだが、戦闘準備の様子[訳者強調]を見ると、ペリー提督が本気だと悟り、急いで戻って行った。

香山栄左衛門の登場

 艦隊が湾に停泊中、ボートは決して近付かず、交渉を進める役人たちを乗せたボートだけがやって来た。翌朝[7月9日]、浦賀奉行の栄左衛門(Yezaimon)と3番目のランクの貴人(nobleman)がやって来て、訪問の目的を確認すると、江戸に使いを送るので時間が欲しいと言った。この情報を伝え、どうすべきか指示を仰ぐためだ。

 回答が届くまでの3日間、ミシシッピー号は湾の10マイル奥まで航行し、いたるところが深い水深だとわかった。浦賀の岬の向こうは今まで外国船が通ったことがなかったところで、大きく美しい湾が見つかった。そこは完全に陸地に囲まれ、停泊には最も安全で十分な広さだった。

 ミシシッピー号には距離をもって日本政府のボート数隻がついて来たが、邪魔しようとはしなかった。(中略)艦隊の存在は内陸の商業活動の邪魔にはならないようで、湾は絶えず大型ジャンクが点在し、数百の小型船が行き来していた。

キャプション:江戸湾にて(In the Bay of Yedo)((注1), p.242)

5000人の日本の軍隊が湾の先端まで並び、真紅の槍旗がたなびき美しいショー

 12日火曜日に江戸から回答が届き、皇帝が最高位の役人を任命して、浦賀に向かわせ、合衆国大統領の国書を受け取るとのことだった。この被任命者が帝国政府から直接派遣され、14日朝に接見が行われるという確かな証拠をペリー提督は与えられた。提督は到着当初、日本政府との交渉は長崎で行われると知らされたが、長崎に向かえという要求は合衆国政府に対する侮辱だと提督は返答したという。日本は接見の場に浦賀の南3マイルの小さな町、久里浜を選んだ。14日の朝、サスケハナ号とミシシッピー号は町の先に陣を敷く態勢で、舷側を岸に向けた[訳者強調]。

 浦賀の奉行と副奉行が軍隊の司令官と共に、上陸地点まで提督を伴うためにやって来た。3軒の家が日本側によって建てられ、1軒は接見のため、残りの2軒は明らかに江戸から国書を受け取りに来たプリンスたちを迎えるためだった。ペリー提督に従う将校と水兵たちは400人に上ったが、日本側の軍隊は様々な見積もりがされ、5,000から7,000人だった。その列は1マイルに渡って最前列は湾の先端にまで延び、彼らの真紅の槍旗(pennon)と様々な意匠の旗は斬新で美しいショーだった。

訳者注:以下の挿絵は1-2でも紹介した第二回遠征隊の久里浜上陸の箇所に挿入されていますが、第一回目遠征隊に関する上記の記事に重なるので再掲します。日本側の兵士達の「列は1マイルに渡って最前列は湾の先端にまで延び、彼らの真紅の槍旗(pennon)と様々な意匠の旗は斬新で美しいショーだった」と述べている光景が挿絵右上部分に該当するようです。

アメリカ人の浦賀上陸 LANDING OF AMERICANS AT URAGA((注1), p.334)

 提督はアメリカの国旗をなびかせ、国歌ヘイル・コロンビア(the national “Hail Columbia”[コロンビア万歳])を演奏させながら応接所まで進んだ。ここで皇帝の第一大臣(First Councillor of the Emperor)である伊豆守(Prince of Idzu)と彼に従う石見守(Prince of Iwami)に迎えられた。大統領の国書とペリーの信任書が正式に渡され、2人のプリンスから正式の受領書が返された。2人は交渉に入る権限がないため、ここで接見が終わった。しかし、提督は次のように述べた:日本政府に十分な時間を与えるために、3,4日後に出発し、2,3ヶ月後に返答を受け取りに戻ってくる。

アメリカ艦隊の蒸気エンジンを見学した幕府役人

 ペリー提督が日本人の役人に直接会ったのはこれが唯一の機会だったことを述べなければならない。浦賀奉行は彼と同等のランクではなかったので会わなかったし、それ以前の日本人とのやりとりは全て提督のスタッフやサスケハナ号のブキャナン司令官を通して行われた。応接後、浦賀奉行と副奉行、通訳と従者はサスケハナ号内の見学でもてなされ、そこで彼らは蒸気船のエンジンがどう動くかを初めて見た。

 浦賀を出ると、艦隊は東の海岸に向かって湾内に止まり、それから浦賀から10マイルのところにいるミシシッピー号の方に進んだ。翌日、ミシシッピー号のペリー提督はこれよりさらに10マイル進んで、先の探検地点からは合計20マイルのところまで行った。フリゲート艦のデッキから、北へ7,8マイルの方に船の群が見えた。ジャンクが絶えず行き交う数からすると、ここが首都の前の停泊地であることは明らかだ。サスケハナ号とミシシッピー号の将校たちは海岸線の美しさと、いたるところに見える豊かな耕作地と素晴らしい植物を賛嘆し合っていた。彼らが接した現地人はその物腰からフレンドリーであり、浦賀奉行が上品さと礼儀作法の模範だと賞賛された。

幕府役人からの贈り物

 艦隊の出発前に奉行は多くの贈り物を持って、サスケハナ号に乗船して来た。それは漆の器やその他の日本製品だった。お返しにふさわしい贈り物の品々が用意された。[受け取るのは]日本の法律に触れるからと彼は言ったが、自分の贈り物を拒否されないために、受け取らざるを得なかった。後で彼は船用にと多量の鶏肉を持って来て、お返しにアメリカの家庭栽培用種子の大きな箱を受け取った。その前の訪問時に彼が受け取った贈り物は、上司に許可されたと彼は非常に喜んでいた(原文強調)。ペリー提督の数々の要求に日本側は繰り返し譲歩したにもかかわらず、彼らの応じ方は非常に友好的で、最後の別れの時は非常に残念な様子を見せたと言われている。

 艦隊は江戸湾を17日に出て、21日と22日にひどい強風に遭遇し、7月26日に琉球に到着し、フリゲート艦2隻は8月7日の夕方に香港に戻って来た。

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1 Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan, Performed in the Years 1852, 1853, and 1854, Under the command of commodore M.C. Perry, United States Navy, by Order of the Government of the United States. Compiled from the original notes and journals of commodore Perry and his offices, at his request and under his supervision, by Frances Hawks with numerous illustrations. New York, D. Appleton and Company, 1856. Hathi Trust Digital Library.
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=nyp.33433082441993
2 ”Highly Interesting from the Japan Expedition”, The New York Daily Times, October 4, 1853, p.2. https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1853/10/04/issue.html
3 ステファノ・デ・ルイージ、デコート・豊橋・アリサ「混じり合う『小笠原原人』のルーツ 入植と戦争の歴史」DAYS JAPAN, 2016年11月19日
https://daysjapan.net/2016/11/19/混じり合う「小笠原人」のルーツ-入植と戦争の歴/
4 ”A Paper by Commodore M.C. Perry, U.S.N., Read Before the American Geographical and Statistical Society at a Meeting Held March 6th, 1856”, New York, D. Appleton and Company, 1856, Hathi Trust Digital Library.
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=hvd.hntahl
5 M・C・ペリー F・L・ホークス=編纂 宮崎壽子=監訳『ペリー提督日本遠征記(上)』(2009)、角川ソフィア文庫、2018.
6 ”The Japan Expedition—Interesting Account of Its Progress—Landing of Commodore Perry”, The New York Daily Times, October 31, 1853, p.2.
https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1853/10/31/issue.html