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英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-16-1)



出典:『皇威輝く中支之展望:上海・蘇州・南京・蕪湖・漢口・杭州』最新改訂版、1938(昭和十三)年(注1)

 小説家・石川達三が以下のように考えて、希望して南京陥落直後に南京に行って見聞したことを小説『生きている兵隊』(1938)に書いたことは見てきた通り(6-7-4-15)です。

新聞報道は嘘だ。大本営発表は嘘八百だ。日本の戦争は聖戦で、日本の兵隊は神兵で、占領地は和気藹々わきあいあいたるものであるというが、そんなお芽出度めでたいものではない。痛烈な、悲惨な、無茶苦茶なものだ。

萩原朔太郎の反応

 ここで詩人・萩原朔太郎(1886-1942)が日中戦争についてどう反応したのかを、1937(昭和12)年12月13日の『東京朝日新聞』に掲載された「南京陥落の日」(注2)を通して見ます。ルビは掲載時のままですが、その他は現代仮名遣い、新字体に直します。なお、この当時のその他の文章を引用するときにも同様です

南京陥落の日に

としまさにれんとして
兵士の銃剣は白く光れり。
軍旅ぐんりょこよみ夏秋かしうをすぎ
ゆうべ上海シャンハイいて百千キロ。
わが行軍の日はいこわず
人馬じんば先に争い走りて
輜重しちょう泥濘でいねいの道に続けり。
ああこの曠野こうやに戦うもの
ちかってみな生帰せいきさず
鉄兜てつかぶときてけたり。

天寒く日は凍り
歳まさに暮れんとして
南京ここに陥落す。
あげよ我等の日章旗
ひとみな愁眉しゅうびをひらくのとき
わが戦勝を決定して
よろしく万歳を祝うべし。
よろしく万歳を祝うべし。

 日本国内で日章旗を振って提灯行列のお祭り騒ぎをする群衆の戦勝気分とは違い、詩人の思いは前線の兵士の運命に馳せられ、最後に「あげよ日章旗」「祝うべし」と強制されなければ祝う気などないと言っているかのようです。朔太郎はこの詩を書いた経緯を友人の詩人・丸山薫(1899-1974)宛の同年12月11日付封書(注3)で以下のように述べています。

 朝日新聞の津村氏[秀雄:1907-1985]に電話で強制的にたのまれ、気が弱くて断り切れず、とうとう大へんな物を引き受けてしまった。南京陥落の詩というわけです。一夜寝床で考、翌朝速達で送ったが、予想以上に早く陥落したので、新聞に間に合わなかったかもわからない。とにかくこんな無良心の仕事をしたのは、僕としては生まれて始めての事。西條八十[1892-1970]の仲間になったようで懺悔の至りに耐えない。(もっとも神保君[光太郎:1905-1990]なども、文藝に戦争の詩をたのまれて書いてるが、あまり褒められた話ではない。)

 「西條八十の仲間になったようで懺悔の至りに耐えない」と書いているのですが、八十が「若い血潮の『予科練』の/ 七つ釦(ぼたん)は桜に錨」で始まる有名な「若鷲の歌」(1943)などの軍歌を盛んに書き出したのは太平洋戦争突入後ですし((注4), pp.278-9)、八十の最初の従軍は朔太郎の上記の手紙が書かれた12月11日出発なので、この日付前の八十の戦争協力詩があるのか調べてみました。日中戦争を日本が始めた1937年7月以降、女性雑誌『主婦之友』が「日中戦争へと大衆を動員していく役割を、積極的に果たし」、1937年9月号は「北支事変大特輯」で、八十の詩「通州の虐殺 忘るな七月二十九日」、「銃後の女性軍詩画行進」を掲載しました((注5), p.172)。

文部省が強制した愛国精神

朔太郎の「南京陥落の日」が単純な戦争協力詩でないことは、この詩が『東京朝日新聞』に掲載される3カ月前に刊行された朔太郎のエッセイ集『無からの抗争』(1937年9月)所収の「歴史教育への一抗議」が全文削除という形で出版されたことでも明らかです。朔太郎が当時の歴史改竄主義に抗議した件は、第一次安倍政権が2006(平成18)年に強行採決した教育基本法改正法案に関連して、当時拙論で考察したので、それをもとに朔太郎の抗議を紹介します。

 1937(昭和12)年5月に文部省が刊行した『国体の本義』(注6)では日本が諸外国と違う特別な国であることが繰り返し強調されています。その特別な国の特色は「滅私」の「忠君愛国」だとして、「我を捨て我を去る」(p.34)「天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくして、(中略)国民としての真生命を発揚する」ことで、それが「我ら国民の唯一の生きる道」(p.35)と説き、「忠君なくして愛国はなく、愛国なくして忠君はない」(p.38)と断言していています。

そして、忠臣の鑑として楠木正成を賞揚し、足利尊氏を「大逆無道」(p.75)の逆賊としていました。朔太郎の「歴史教育への一抗議」はこの『国体の本義』の全面批判とも読めます。このエッセイは等持院見物の場面から始まっています。引用にあたっては、歴史的仮名遣いと旧字体を現代かなづかい、新字体に改めています。

 数年前の事である。京都の等持院へ見物に行き、女学生の修学旅行団と一所になった。教師に率いられた娘たちが、足利氏十三代の木造の前に来た時、口々に喧々諤々としゃべり始めた。
「これが尊氏よ。」
「こいつが義満だわ。」
「盗賊!」
「悪人!」
「こんな者。皆叩き壊してやると好いわ。」
「馬鹿ッ!」
「馬鹿ッ!」

 そして口々に唾を吐きかける真似をした。僕は女学生諸君の烈々たる忠君精神に驚いたが、一方ではまた、こんな教育をして好いものかと言うことに疑問を抱いた。引率の教師はおそらく後でこんな訓話を生徒たちにするのであろう。「皆さんもこの尊氏等のように、死して悪名を千古に残し、死後にも人から辱められるようなことをしてはなりません。」しかし僕は考えるのである。悪名を千古に残したのは尊氏でなく、今日の学校教育の方針が、無理にそれを残させたのであると。なぜなら尊氏その人は、決してしかく腹黒の悪人ではなく、また真の憎むべき大逆悪人でもなかったからだ。((注7), pp.344-345)

この後、尊氏が「朝敵となる運命を悲しんで居た」ことを述べ、以下が続きます。

 楠木正成が忠臣であることはまちがいない。しかしその善玉を立てるために、足利尊氏を中傷して、無理に悪玉にする必要はない。(中略)歴史を教育されない国民に、真の愛国心や民族自覚のある筈がない。しかも日本の教育者は、(中略)真実を隠して嘘を教えようとさえするのである。(中略)真実の歴史を隠して、一体何を国民に教えようとするのであるか。今日我が国の教養ある青年や学生やが、概して皆愛国心に欠乏し、民族自覚に無関心であるばかりでなく、ややもすれば非国民的危険思想に感染される恐れがあるのは、全く学校に於ける歴史教育の罪である。歴史が正しい民族の歴史を語り、自国文化への正しい批判を教えないのに、如何にして青年の愛国心を呼び得ようか。(中略)本質に哲学的批判を持たない所の教育から、強制的に歴史を教え、盲目的に祖国への殉愛を強いる如きは、今の青年に対して無意味であろう。(pp.347-349)

国家権力への挑戦としての足利尊氏論

 「歴史教育への一抗議」が全文削除の処分を受ける2年前と3年半前にも朔太郎は足利尊氏に関する文章を発表しています。執拗とも言える朔太郎の足利尊氏論は、実は詩人としてデビューした25歳の頃から続き、亡くなる2年前の1940(昭和15)年まで続いています。それは歴史的興味からというより、国家権力と歴史改竄主義を批判するためのメタファーとして、そして何よりも戦争の時代に反戦の想いを訴えるための足利尊氏論という側面が強いようです。21世紀現在の歴史教科書問題とも通じる上に、最近になって楠木正成を「滅私奉公」のシンボルとして賞賛する動きが高まってきたので、今、朔太郎の足利尊氏論を辿る重要性があると思います。

1 「南京陥落を偲ぶ(其の二)・南京・」『皇威輝く中支之展望:上海・蘇州・南京・蕪湖・漢口・杭州』最新改訂版(昭和十三)、大正写真工芸所、第四版、昭和14、p.38、国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1024207
2 『萩原朔太郎全集』第三巻、筑摩書房、昭和52(1977)年、pp137-138.
3 『萩原朔太郎全集』第十三巻、筑摩書房、昭和52年、p.411.
4 筒井清忠『西條八十』、中公叢書、2005.
5 徐青「メディアとしての女性—吉屋信子『戦禍の北支上海を行く』におけるシャンハイ・イメージ—」『愛知大学国際問題研究所紀要』133号、2009-03-02
https://aichiu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2723&item_no=1&page_id=13&block_id=17
6 文部省(編)『國體の本義』、昭和12(1937)年5月、国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1219377
7 『萩原朔太郎全集』第十巻、筑摩書房、昭和50(1975)年