toggle
2020-09-26

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-15)

南京事件直後に南京に行き、取材をもとに事件前後の日本部隊の動きを描いた石川達三の『生きている兵隊』の記述と、当時の警視庁検閲課が問題にした点を見ます。

『生きている兵隊』の伏字復元版

 1935(昭和10)年に芥川賞第一号を受賞した石川達三(1905-1985)は、南京事件直後に南京に行き、取材をもとに事件前後の日本部隊の動きを「生きている兵隊」で描きました。それが1938(昭和13)年2月19日発売予定の『中央公論』3月号に掲載されましたが、前日に発売頒布禁止とされ、ようやく日の目を見たのは1945(昭和20)年11月でした。

 『中央公論』に掲載された時は、出版社が検閲を考慮した箇所を伏字にしていましたが、その伏字部分がわかるように傍線を施した伏字復元版(注1)が1999年に出ましたから、私たちは当時何が問題視されると出版社が考えていたかがわかります。その伏字復元版をもとに、石川達三が南京事件直後に何を見聞きして、何を読者に伝えようとしたかを見ます。

 「前記」に「日支事変については軍略その他未だ発表を許されないものが多くある。従って(中略)部隊名、将兵の姓名などもすべて仮想のものと承知されたい」とあります。北京陥落の直後から部隊が南京に到着するまでの動きが記されています。最初の光景は、河北省寧晋で次の命令を待つ部隊が、自分の家に放火したという村の青年を惨殺する場面です。

意味不明の戦争

 部隊は直前まで次にどこに行くか知らされず、未明になって河北省石家荘まで15里(約59km)を真夜中まで行軍させられます。石家荘では「明朗北支建設のために、正義日本を住民に認識させるために、彼らに安住の天地を与えるために」(p.18)と、軍属が宣撫班の腕章をつけて街を歩き回っていました。ここはもちろん伏字ではありませんから、当時日本軍が日中戦争の理由としていることと、実際の日本兵の動きの違いが鮮明にされています。

 この部隊は石家荘から貨車に乗せられ、2日後に北京に着きますが、貨車は北京を通り過ぎて南下し続け、兵士たちは天津に向かうのかと思って、部隊長の倉田少尉に「天津へ行ってどうするんですか」と尋ねます。彼は「僕にも解らないね」と「静かに答えて諦めたように微笑し」たと描かれます(p.20)。

 ここで、日中戦争が何のために行われているのか、前線の兵士たちにも意味不明な戦争だとわかります。これは当時の人々が疑問に思っていたことのようです。1949年『日本評論』11月号に掲載された評論家・中島健蔵と石川達三との鼎談で、中島が「戦争中に感ずるのは戦争目的がどうしても分からんのだな。それで、ひどい弾圧がなければ戦争目的は何んだという質問を出せるが、不明という事すら一つも大っぴらに言えなかった」((注2), p.148)と述べていますから、『生きている兵隊』で描かれる兵士たちも分からないまま召集され、前線に連れて行かれたことが読み取れます。

 後半で、南京に入った部隊の小隊長が言ったことが、この戦争の無意味さを示しています。「自分はもう南京は復興できんと思いますな。まあ三分の二は焼けて居ります。あの焼け跡はどうにもなりませんわ」((注1), p.146)と指摘させています。

南京に向かう行軍中の略奪

 3日後に貨車は大連に着き、そこから船で揚子江に出ますが、複数の部隊が「百隻を超えるほどの小船」や二隻の駆逐艦などが集まっている情景が描かれ、その中に「英国輸船武昌号」と書かれ、英国旗が掲げられた船が「この小船の密集した間をすり抜ける様にして上流へ遡って行った」((注1), p.30)と述べられています。この小説ではアロー号・レディバード号事件については触れられていないので、前線の日本軍内では知られていなかったのでしょうか。

 上陸した倉田少尉の部隊は、馬が足を折ったので、部落の老婆から牛を取り上げますが、その時の老婆の抵抗や兵士が老婆を倒して奪った箇所は伏字です。以下はその後の記述です。

無限の富がこの大陸にある、そしてそれは取るがままだ。このあたりの住民たちの所有権と私有財産とは、野生の果物の様に兵隊の欲するがままに解放されはじめたのである。(pp.36-37)

 略奪という言葉は用いられず、「徴発」という言葉で、兵士たちが次々と略奪する理由を以下のように述べています。

進軍の早いしかも奥地に向っている軍に対しては兵糧は到底輸送し切れなかったしその費用も大変なものであったから、前線部隊は多くは現地徴発主義で兵士をやしなっていた。北支では戦後の宣撫工作のためにどんな小さな徴発でも一々金を払うことになっていたが、南方の戦線では自由な徴発によるより他に仕方がなかった。(p.44)

戦争は非戦闘員の虐殺をも正当化する?

 『生きている兵隊』の中では強姦という言葉は使われませんが、明らかにそれとわかる表現で、頻発していたことが随所に出てきます。

 やがて徴発は彼等の外出の口実になった。その次には隠語のようにも用いられた。殊に生肉の徴発という言葉は姑娘クーニャを探しに行くという意味に用いられた。(中略)彼女たちは度々の内乱に馴れて、戦場になった部落では若い女は滅茶々々にされるものであることをよく知っていた。(p.45)

 部落の家に侵入した兵士たちに不発の拳銃を撃った若い女性の服と下着をはいで、スパイという容疑でその場で短剣で惨殺する場面を描いた後、それが「医科大学を卒業して研究室につとめていた」近藤一等兵だったこと、彼の内面が以下のように描かれます。

彼にとって女の屍体を切り刻むことは珍しくない経験であった。しかし生きている女を殺ったのは始めてである。(中略)彼が思うのは、生から死への転換がこうも易々と行われるということであった。(中略)

 元来医学というものはあらゆる生命現象を人体について研究するものである。彼等医科の学徒は実に懸命になってまた一生をそれに捧げるつもりで研究をやっている。そしてその研究目標たる人間の生命現象というやつはかくも脆く、かくも易々と、かくも小さな努力で以て消滅する。生命というものが戦場にあっては如何に軽蔑され無視されているか。

 これは一体なんであろうかと近藤医学士は考えた。たとい敵であろうと味方であろうと、生命が軽蔑されているということは即ち医学という学問それ自身が軽蔑されていることだ。自分は医学者でありながらその医学を侮辱したわけだ。(pp.50-51)

宗教に国境がある?

 医学生研究者だけでなく、従軍僧侶も惨殺行為に血眼になる様が描かれています。

次々と叩き殺していく彼の手首では数珠がからからと乾いた音をたてていた。彼は額から顎髭まで流れている汗を軍服の袖で横にぬぐい、血のしたたるショベルをステッキのように杖につきながらのそのそと露地を出て行くのであった。(中略)

 いま、夜の焚火にあたって飯を炊きながらさっきの殺戮のことを思い出しても玄澄の良心は少しも痛まない、むしろ爽快な気持でさえもあった。(pp.60-61)

 石川達三はここで宗教とは何かを連隊長と玄澄の会話と、連隊長の思いから問いかけています。殺した敵を弔ってやるのか連隊長が尋ねると、玄澄が「戦友の仇だと思うと憎い」と言ったので、連隊長は「国境を越えた宗教というものは無いか」と憮然として言います。彼は「宗教というものまたは宗教家というものに失望を感じ」(p.62)、内面の思いが続きます。

彼は幾千の捕虜をみなごろしにするだけの決断をもっていたが、それと共にある一点のかなしい心の空虚をも感じていた。この空虚を慰め得るものが宗教であろうと思った。彼はいま指揮官として敵の戦死者を弔う余裕と自由をもたないが、それは従軍僧が代ってやってくれるであろうと思っていた。しかしこの従軍僧が友軍の弔いはしても敵の戦死者の為に手を合わせてはやらぬと聞いたとき、暗い失望を感じた。それは本能的に平和を愛する人間がその平和を失っているこの戦場にあることの侘しさの中で、ただひとつ抱いていた平和な夢が崩れて行く場合であった。(p.63)

感性の鈍痲・無道徳感・残虐性の目覚め

 戦争が人類の文化も伝統も、文明そのものを一瞬にして消し去り、人間性を奪うものだという思いが強く伝わってきます。召集前は学校の先生だった優しい繊細な倉田少尉をも変えていった様が以下のように描かれます。

中隊長の戦死を眼の前に見たときからその恐怖はにもはやひひとつ桁(ゝ)のはずれたものとなった。(中略)自己の崩壊を本能的に避けるところの一種の適応としての感性の鈍痲であったかもしれない。すると彼は心の軽さを感じこの生活の中に明るさを感じはじめた。(中略)それは一種の自由感であり無道徳感でもあった。とりも直さずそれは無反省な惨虐性の眼覚めであった。彼はもはやどの様な惨憺たる殺戮にも参加し得る性格を育てはじめたのである。それは即ち笠原伍長に近づくことであった。(pp.76-77)

この笠原伍長は以下のように描かれています。

彼には西沢部隊長[大佐]のように高邁な軍人精神はなかったが、平尾一等兵のように錯乱しがちなロマンティシズムもなく近藤医学士のように途惑いしたインテリゼンスもなく、更に倉田少尉のような繊細な感情に自分の行動を邪魔されることもなかった。彼はどれほどの激戦にもどれくらいの殺戮にも堂々としてゆるがない心の安定をもっていた。要するに彼は戦場で役に立たない鋭敏な感受性も自己批判の知的教養も持ちあわせてはいなかったのである。そうしてこの様に勇敢でこの様に忠実な兵士こそ軍の要求している人物であった。(pp.67-68)

 この後、壕で一服している部隊の兵士たちに近くの民家から娘の泣き声が聞こえ、平尾一等兵と笠原伍長が見に行き、だいぶ経ってから戻ってきて、17,8の娘が撃たれて死んだ母親にすがって泣いていたと言います。その夜も娘の泣き声がして、平尾は「あいつを殺す」と言って、他の兵士たちと民家を襲います。

 まるで気が狂ったような甲高い叫びをあげながら平尾は銃剣をもって女の胸のあたりを三たび突き貫いた。他の兵も各々短剣をもって頭といわず腹といわず突きまくった。ほとんど十秒と女は生きては居なかった。(p.85)

日本軍による放火

 ラーベが1937年12月21日の日記で、日本軍が略奪の証拠を残さないために「街を焼きはらっている」(6-7-4-13-1)と記していましたが、石川達三も、部隊が出発するとき、「兵士たちは自分等が宿営した民家に火をはなった。というよりも焚火を消さないであとから燃え上ることを期待して出発したものが多かった。(中略)更に、この市街を焼きはらうことによって占領が最も確実にされるような気もしたのである」(p.100)と記しています。

 日本軍が捕虜を惨殺する理由を「自分たちがこれから必死な戦闘にかかるというのに警備をしながら捕虜を連れて歩くわけには行かない。最も簡単に処置をつける方法は殺すことである。(中略)『捕虜は捕えたらその場で殺せ』それは特に命令というわけではなかったが、大体そういう方針が上部から示された」(p.114)と述べています。

南京に慰安所が作られた

 『生きている兵隊』のもう一つの指摘は、南京に慰安所が作られたことです。「日本軍人のために南京市内二箇所に慰安所が開かれた。彼等壮健なしかも無聊に苦しむ肉体の欲情を慰めるのである」(p.154)という解説の後、以下の描写が記されています。

 彼等は窓口で切符を買い長い列の間に入って待った。一人が鉄格子の間から出て来ると次の一人を入れる。出て来た男はバンドを締め直しながら行列に向ってにやりと笑い、肩を振りふり帰って行く。それが慰安された表情であった。(中略)女は支那姑娘だった。(中略)言葉も分らない素性も知れない敵国の軍人と対して三十分間のお相手をするのだ。彼女等の身の安全を守るために、鉄格子の入口には憲兵が銃剣をつけて立っていた。(p.157)

 「慰安所」という語は検閲対象ではなかったようで、伏字にされていません。部隊はその後上海に移動し、料理屋が将校の慰安所になっていることを知ります。そのほか、避難している中国人の家を日本からやって来た商人たちが占領して店を開き、その家の持ち主が抗議すると、日本人が占領地区だから「建築物一切日本軍の管理下にあるのだ、帰れ」と追い返します。外国に宣戦布告なしに戦闘をしかけ、住民の所有物を略奪し、殺し、その上、日本から金儲け目的で続々とやって来る日本人の強盗行為が、日本軍と日本人市民共同で行われている事実です。

 この中には日本から日本人の女たちを連れて来た男についても述べられています。

突然の命令で僅に三日の間に大阪神戸附近から八十六人の商売女を駆り集め、前借を肩替りして長崎から上海へわたった。それを三つに分けて一班は蘇州、一班は鎮江、他の一班は南京まで連れて行った。契約は三年間であるけれども事情によっては一年で帰国するか二年になるかも分らない。厳重な健康診断をして好い条件で連れて来たので、女たちも喜んでいる、という話であった。(p.174)

『生きている兵隊』を書いた理由

 石川達三が、なぜ『生きている兵隊』を書いたのか、この小説がどんな扱いを受けたのかを、2015年に出版された河原理子著『戦争と検閲—石川達三を読み直す』をもとに概略します。石川達三は盧溝橋事件(1937年7月7日)から始まる日中戦争について、以下のように考えていました。

新聞報道は嘘だ。大本営発表は嘘八百だ。日本の戦争は聖戦で、日本の兵隊は神兵で、占領地は和気藹々わきあいあいたるものであるというが、そんなお芽出度めでたいものではない。痛烈な、悲惨な、無茶苦茶なものだ。戦争とは何か。それを究明したい欲望に私は駆り立てられた。((注2), p.22:1956(昭和31)年刊の『ろまんの残党』より)

 石川達三は現地を見たいと中央公論社に伝え、1937年12月25日に派遣が決定し、29日に神戸を出発して、上海経由で1938年1月8日に南京着、15日に南京から上海に行き、20日に上海を発って、1月23日に東京に戻りました。南京と上海で見聞し、取材したことを1938年2月19日発売予定の『中央公論』3月号に間に合わせるために1ヶ月で書き上げます。

 笠原十九司著『南京事件論争史』(2018, (注3))によると、「南京の警備で駐屯していた第一六師団佐々木支隊の将兵たちから精力的に聞き取りをおこなった」(p.49)そうです。

発売禁止の理由

 石川達三は1938年3月16日に警視庁検閲課の取り調べを受け、「朝の九時から夜の八時半までびっしりと続けられ、分厚い調書が出来あがった。その最後に拇印を捺して私はようやく解放された」と『結婚の生態』(1938)で述べています(p.70)。その調書に警察官と達三の問答が記されていると引用されているので、警察が何を問題視したのか概略します。下線部分は引用者私の強調部分です。

  • 小説の中で、日本軍が戦場で略奪、放火、強姦、殺戮等の場面を描いているが、これは日本軍の軍規が弛緩していることを暴露することではないか。
  • 非戦闘員を殺戮することを描いているが、日本軍が国際法を無視していることを裏書きすることになる。(pp.72-73)

 警察担当者が意見書をまとめ、「全く虚構ノ事実ヲ恰モ事実ナル如ク本人ノ空想的想像ヲ加ヘテ記述」したとして、厳罰の処すべきと述べました(p.75)。『中央公論』の編集長の雨宮庸蔵(1903-1999)と担当編集者が休職処分になりましたが、社長か雨宮がやめなければ会社が潰されるという外部の声が強くなり、雨宮は辞職したそうです。社長の小林一三(1873-1957: 阪急電鉄と宝塚歌劇の創始者)は辞める必要ないと擁護していたそうです(p.90)。一方、東京地方検事局は達三らを起訴し、1938年9月5日に東京区裁判所で達三と雨宮に禁錮4ヶ月執行猶予3年が求刑されました。判決理由の中に以下の描写(p.109)が問題としてあげられました。

  1. 瀕死の母を抱いて泣き続ける中国娘を銃剣で殺害する場面
  2. 砂糖を盗んだ中国青年を銃剣で殺害する場面
  3. 前線は現地徴発主義でやっているという話と、兵士たちが「生肉の徴発」に出かける話
  4. 姑娘が「拳銃の弾丸と交換にくれた」という銀の指輪を笠原伍長らが見せる場面

『生きている兵隊』をめぐり、石川達三を軽蔑すると言った石原都知事

 2012年3月の石原慎太郎都知事の定例記者会見(2012年3月9日、(注4))で、記者から河村たかし名古屋市長の南京事件/虐殺否定発言について聞かれました。「日中問題で、名古屋の河村市長の話が、民間外交にも水を差すようなところまで来ておりますが、今年は日中国交回復40周年ということで(中略)、知事は南京問題をどういうふうにとらえて・・・・・・」と尋ねられました。石原知事は「全く事実無根だと思います。何故、そんな事件があったというなら、(中略)毛沢東が、この問題について一言もコメントしないんですから。あんなもの、ありえませんよ」と答えます。

 毛沢東がコメントしないというのは歴史的事実ではないようです。日中国交正常化交渉で中国首脳は「日本の中国侵略の反省を迫る厳しい態度を示し」たそうです。その結果を『南京事件論争史』は以下のように解説しています。

日本政府は一九七二年九月二十九日に出された共同声明の前文に「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」という文を入れた。この日本側の反省を前提にして中国側は「中華人民共和国政府は、中日両国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄する」(第五項)と譲歩を示したのである。((注3), p.114)

 都知事の定例記者会見に戻ると、南京事件について追求した記者がどの新聞の記者かは議事録に示されていませんが、続けて以下のように食い下がります。

記者
知事は、南京の大虐殺がなかったという根拠として、3人の方の名前・・・・・・。

知事
そのほかにいっぱい事実があるの、事実が。

記者
(前略)先週の会見の時に、私どもの記者が来て、大宅壮一さんもあったということを言っているということを申し上げましたけれども、もう1人、石川達三(小説家)さんについて、知事はこの人も大虐殺はなかったというふうに言っていると、そういう話を聞いたというふうに••••••。

知事
いや、僕は直に聞きました。

記者
ところが、石川達三さんが従軍した後、日本に帰って来て、『生きている兵隊』という小説を書いています。(中略)それを中央公論社に載せたら、途端に発禁になりました。何故かというと、その中に、南京のことも書いてあったからです、その状況が。

知事
『生きている兵隊』が発禁になった理由は、それじゃないですよ。当の軍部が圧力かけたんで。

記者
(前略)石川達三も、南京大虐殺があったと言っている。(中略)知事が根拠にしている石川達三は言っていないということは違うということ。

知事
私は直に聞いたんだから。

記者
だったら、こんなことを石川達三が書くはずないです。

知事
分からないね。文士というのはぐるぐる変わるやつもいるし。そうだとしたら、私は石川さんを軽蔑するね。

印刷ページを開く

   [ + ]

1. 石川達三『生きている兵隊』(伏字復元版)、中公文庫、1999.
2. 河原理子『戦争と検閲—石川達三を読み直す』、岩波新書、2015.
3. 笠原十九司『南京事件論争史』、平凡社ライブラリー、2018.
4. 「石原知事定例記者会見 平成24(2012)年3月9日(金曜)」東京都
https://www.metro.tokyo.lg.jp/GOVERNOR/ARC/20121031/KAIKEN/TEXT/2012/120309.htm