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英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-16)

ペリーは琉球の占領を海軍省に提案し、大統領と海軍省長官はまた叱責の回答を送ります。

皇帝の死について日本からの要望

リーは第2回日本遠征に向かう途中で海軍省長官に宛てた絶望の訴えを書いた(6-6-15参照)同じ日に、通常の報告書(No.39, 那覇発、1854年1月25日)を書いています。主要点は、ロシアとオランダから将軍の死のニュースが伝えられたこと、小笠原諸島と琉球をアメリカ領にしたいから海軍省の指示を仰ぎたいということです。オランダ東インド総督からの手紙を英訳したものを同封しているので、その要点を抄訳します((注1), p.111)。

  • 1853年12月23日付オランダ東インド総督からの書簡:7月に日本に行ったオランダ船が12月15日にバタヴィアに帰還し、11月15日までの日本の情報を持って帰った。日本の皇帝はアメリカ大統領の手紙を受け取ってすぐに死んだ。日本政府はオランダを通してアメリカ政府に伝えて欲しいと依頼した。
  • 日本の法律と慣習では、喪に服す儀式と王位継承に関する行事が多く、この期間中は重要案件は行われない。喪が明けたら、大統領の手紙は日本の全藩主の意見を聞くため、各自が江戸に行かなければならず多くの時間がかかる。
  • 日本当局は繰り返しオランダ商館長に、ペリー提督が決めた日本再訪の日に来ないで欲しいというのが日本政府の願いだとアメリカ政府に伝えて欲しいと依頼した。皇帝の死によって数々の避けられない事情が生じているので、アメリカ艦隊[の再訪]が混乱を生む。

皇帝の死のニュースは疑わしい

 以下はペリーの見解です。

  • この前[オランダ東インド総督から聞く前]にロシア艦隊の将校たちからも日本の皇帝の死について聞いた。ロシア艦隊の提督が長崎から江戸に送った皇帝宛書簡に返事がないのはその理由だと提督も伝えられたという。
  • 昨年7月私が江戸湾に行ったとき元気だった皇帝がアメリカとロシアの艦隊が現れた途端に死んだというのは奇妙だ。長い服喪の期間と結果として公務が禁じられているという法律は、[日本]帝国の習慣について書かれているどの本も言及していないのは奇妙だ。中国の法律は最高位の階級の長男が7週間は娯楽や交際や仕事をすることを禁じているが、皇位はすぐに継承され、公務が中断することはない。
  • この情報で私が自分に課した計画を実行することを思い直すことはない。

 『アメリカ合衆国の条約』には、ペリーのこのコメントに注をつけて、「皇帝の死」について「徳川第12代将軍、家慶(Iyeyoshi)のことで、ペリー提督の最初の訪問の9日後、1853年7月26日に亡くなった」((注2), p.587の注3)と解説しています。

日本が開港を拒否したら、琉球を占領する

 この後、以下の部分が続くのですが、1855年1月31日にアメリカ議会上院に提出された文書のスキャン状態が悪く、判読不能な箇所があるので、1942年刊の『アメリカ合衆国の条約』に掲載されている同じ報告書No.39を手紙形式で訳します((注2), pp.587-589)。

 私のミッションのうち、日本の港1港以上をアメリカ船に開港させることと、アメリカと公平な条約の交渉をすることの達成は、武力の行使なしにできるか疑問です。武力行使については、日本側が始めたのでない場合、我々が悪いことになります。

 したがって、明確な指示がない状況では、私が自分の判断で状況に応じて行動する責任を引き受けることが必要になります。

 この目標を達成するために、もし日本政府が交渉を拒否したり、我が国の商人や捕鯨船のために港を開港することを拒否したら、アメリカ市民に対して犯された侮辱と危害という理由で(原文強調)、この大琉球を占領してアメリカ国旗の監視下(原文強調)に置くつもりです。我が国の政府が私の行為について知らされ、それを公認するかしないか決めるまでは、[日本]帝国の属国である大琉球を拘束(原文強調)し続けるつもりです。この責任は全て私にあり、この方法は政治的警戒だと私はみなしています。なぜなら、江戸に向かってこの港[那覇]を出発する前にこのような予備的措置を取らなければ、ロシアやフランスや多分イギリスもこの考えを先取りするでしょう。

 はっきりさせておくことは、この島の当局も人々も決していじめられたり、邪魔されたり、[ペリー側の]自衛以外では暴力や軍事力を振るわれたりしないということです。実のところ、我々はこの島の法律や慣習を妨げずに、親切な行動でこの島で必要な影響力をすでに獲得しています。

軍事力行使も辞さない

 日本を正すという要求は、どの文明国よりもアメリカの方に強い権利があります。海の向こうにまで領土を拡大するというのは我が国の機関の精神ではありませんが、世界の遠い地域で我が国の商業権益を守るべき明確な必要性があります。そのためには、我が国ほど慎重ではない列強の国々を妨害するために、どんな強い手段を取ってもすべきです。

 したがって、この特異な状況が私に課す責任の重さを感じずにはいられません。日本に関して政府と合衆国の国民が持つ期待感を知っているので、私は軍事力行使をひるむことはありません。軍事力行使を多くの人が最初は(原文強調)疑問視するかもしれませんが、行使しなければ全員(原文強調)が私に賢明さと強硬さが欠けている証拠だと非難するでしょう。

(中略)日本政府が我々の正当な要求に従わない場合、この島を占領するために私がさらなる手段を取るべきか、または、この島に対する権利を私が全て諦めて、当局と島民をこのままにしておくかの指示をくださるよう、海軍省に伏してお願いいたします。(中略)

 ボニン諸島(小笠原諸島)についても指示をお願いします。

訳者解説:ペリーの報告書中の「原文強調」箇所は『アメリカ合衆国の条約』でもアメリカ議会提出のヴァージョンでも斜体で強調されています。

大統領と海軍省長官の回答:ペリーの琉球占領の提案は恥ずかしい

 『アメリカ合衆国の条約』はこのペリーの報告書No.39を掲載した後に、ドビン海軍省長官からの回答を掲載していますが、この回答は4ヶ月間ワシントンで書かれず、ペリーが香港に戻り、アメリカに帰国する1854年8月までペリーに届かなかったと解説されています。そしてこの回答の内容が示しているのは、「ペリーが『大琉球』で偶発事件が起こった際に行うと提案していたことはピアス政権には認められなかっただろう」と述べています((注2), p.589)。

ドビン海軍省長官からペリー宛 1854年5月30日(pp.589-590)

閣下:那覇発、 1月25日付の貴官の報告No.39を受け取りました。ボニン島のPort Lloyd[二見湾]に石炭貯蔵庫を確保する政策と妥当性に関する貴官の提案は海軍省に承認されました。将来、そう遠くない日に、この地理的位置はサンフランシスコやサンドイッチ諸島[ハワイ]から中国の上海や香港に向かう蒸気船航路にとって都合が良い重要なものだと見なされることは疑いないと思います。(中略)

 「もし日本政府が交渉を拒否したり、我が国の商人や捕鯨船のために港を開港することを拒否したら、アメリカ市民に対して犯された侮辱と危害という理由で、この大琉球を占領」するという貴官の提案はもっと”embarrassing”(恥ずかしい、やっかい)です。この提案は大統領に伝えられ、大統領はこの提案がされた愛国的な動機は高く評価するが、あの遠い国の島を領有し維持すること、特に現在ある理由よりもより緊急性があり、説得力のある理由がない限り、議会の権限なしにはやる気はありません。もし、将来、抵抗があり、脅威が出てきて、一度獲得した島を放棄したら、もっと悔しいことになります。それに島を維持するために軍を駐留させるのは不都合だし、高額です。貴官が提案している最後の手段を必要とするような「不測の事態」[『アメリカ合衆国の条約』は強調、上院宛文書では強調なし]が起こらないと希望的観測に立って、貴官のスキルと賢慮(prudence)と良い判断によって日本の無知な強情を暴力なしに克服できると考えれば、貴官の報告で提案されているような[琉球]島を獲得しないほうがより安全な政策(sounder policy)だと考えられます。

 我が国の中国弁務官に蒸気軍艦を使わせる指令が貴官に困惑(embarrassment)または屈辱を起こしたのは非常に残念です。それは海軍省の意図では全くありません。中国の革命は弁務官の大きな考慮を必要とし、彼がアメリカのために利益となる交渉を達成させるためにあらゆる便宜を彼に与えることが重要と考えられています。貴官の艦隊が貴官の予想や希望ほど大きくないとしても、第1回遠征時よりも大きいのです。

 貴官の成功と名声が絶大なることを希望しつつ、

J.C. DOBBIN

訳者解説:ペリーの小笠原諸島に関する提案というのは、『アメリカ合衆国の条約』によると、ペリー報告書No.15, 那覇発、1853年6月25日付で提案されたものだとされています。この中で、「もし海軍省がこの島を私が合衆国の名の下に占領することをお望みなら、私は占領のためのベストの手段をとって占領します」((注1), p.32)と述べています。

 小笠原諸島に関するペリーの提案についてドビン長官のコメントは婉曲な否定のように感じますが、それが確認できるのは、琉球占領の提案は「もっと恥ずかしい」(more embarrassing)と述べていることです。「もっと」というのは小笠原諸島を占領するという提案も恥ずかしいと示唆しているようです。占領好きなペリーには、この含みは読み取れないのか、アメリカに帰国後にも、占領しないのは「世界史が禁じている」とまで述べています(6-6-12参照)。

1 [Documents relating to the foreign relations of the United States with other countries during the years from 1809 to 1898] , v.41 (1855), United States, Department of State, Washington, 1809-1898. Hathi Trust Digital Library
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=nyp.33433081796033
2 Hunter Miller (ed.), Treaties and Other International Acts of the United States of America, vol. 6, Documents 152-172: 1852-1855, Department of State, 1942. Hathi Trust Digital Library
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uiug.30112101711627