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2020年2月

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-3-3)

ユージン・ドゥーマンは上院の公聴会(1951)で、ドゥーマンが後にポツダム宣言となる草案を作成したこと、1945年5月末に国防省の会議にかけられたが、降伏を促すのは時期尚早とされたことを語ります。反対された背景には原爆投下計画がありました。(写真:1945年8月14日、日本のポツダム宣言受諾を発表するトルーマン)「太平洋問題調査会に関する公聴会」(1951年9月14日、(注1))でのユージン・ドゥーマンの証言の続きです。Dはドゥーマン、Mは委員会の弁護人モリスの略です。原文にはない小見出しをつけています。

天皇の問題について

D:私の証言を通して、私が天皇の問題に絶えず触れてきたことにお気づきだと思います。1945年3月か4月に、ハワイにおける心理戦争(Psychological Warfare)のチーフだったダナ・ジョンソン大佐がワシントンに来て、グルー氏と私と会いました。日本の高官の捕虜を尋問して得た結論は、日本人は降伏する用意があるが、君主制問題に関する様々な陳述や世論の傾向は、天皇個人が戦争犯罪者として裁判にかけられ処罰され、君主制が廃止されるという印象を国民が持ったら、そしてこれらの考えが世論だとされて、日本の降伏後のアメリカ政策として実施されるという印象を持ったら、日本は降伏しないだろうというものでした。 それから間もなく、4月17日だったと思いますが、[日本]政府に変化がありました。大将が首相を辞任し、政府が再編成され、鈴木大将[鈴木貫太郎:1868-1958]が首相になりました。彼はこの時、天皇の侍従で、彼のキャリアを通して穏健派でした。彼は日本が降伏する用意があり、降伏に関して話し合いする用意があるという非常に明確なシグナルを送りました。 さらに、我々は日本政府とモスクワの日本大使との間のメッセージを読むという利点がありました。この通信とその他の兆候から、この意見がアメリカの政策ではないとはっきりすれば降伏する用意があるということは明確でした。アメリカの左派メディアが展開してきた、天皇が戦犯として裁判にかけられ、君主制が廃止されるという意見です。 そこで、私たちは文書を準備し始めました。5月中旬にヘンリー・ルース氏(Henry Luce: 1898-1967,雑誌『タイム』創始者)が太平洋を訪問し、戻ってきて非常に興奮していました。彼が言うには、日本に降伏を説得できないアメリカ政府がサイパンとタワラで戦ったアメリカ軍の士気の低下を起こし続け、彼らは日本の攻撃を予想し、アメリカ軍の損失を恐れていると言いました。 ヘンリー・ルースに会ったグルー氏は私たちがその方向で計画し、努力していることを説明しました。私の記憶が正確なら、5月24日のことだったと思います。 M:1945年?D:1945年です。グルー氏は土曜に私を呼んで、月曜朝までに大統領に提出する文書を用意するよう指示しました。もし日本が降伏したら、合衆国が取る政策を説明したものです。そこで、私はその文書を準備し、月曜朝にグルー氏のところに持って行きました。 天皇に関する箇所について、私のオリジナルは次のようなものです。[D氏が読み上げる]
 連合国の占領軍は以下の目的が達成されたら、すぐに日本から撤退する。日本国民を代表する人物が責任を持つ平和的な傾向の政府が確立し、もしその政府が日本における攻撃的軍国主義の将来の発展を不可能にする平和政策に従うという決意が本物だと、平和を愛する国民が納得し、現在の天皇家のもとに立憲君主制の政府を達成したら占領軍は撤退する。(pp.727-8)
グルー氏はこのドラフトを承認し、国務省の政策委員会を招集しました。この頃の国務省政策委員会は国務省の次官補たちと顧問弁護士で構成されていました。グルー氏はこの文書を読み上げ、私が今引用したパラグラフまでは反対はありませんでした。この箇所に来ると、アチソン氏とマックリーシュ氏(MacLeish)氏が激しく反応しました。 M:この二人は当時どんな立場だったのですか?D:私はこの会議に出席してませんでしたが、君主制を残させるという考えそのものが不快だったのです。 M:アチソン-マックリーシュ氏にとって?D:そうです。 サワーワイン議員:ドゥーマンさん、あなたが会議に出席していなかったのなら、そこで起こったことをどうして知ったのか説明すべきです。D:この会議の後すぐにグルー氏が語ってくれました。 サワーワイン議員:それでは、あなたが言っていることは、その会議で何が起こったかをグルー氏が描写したことなんですね?D:その通りです。グルー氏はこの委員会は彼の助言機関で、最終責任は自分にあるのだから、大統領にこの文書と提言を提出する責任を取ると言いました。適当な時にスピーチをし、この文書の提言を含めると言いました。 彼は 5月28日にローゼンマン判事と一緒に大統領に会いに行きました。大統領はそれを読んで、軍が同意するなら、この文書を承認して、受け入れると言いました。 5月29日にグルー氏、ローゼンマン判事と私はスティムソン氏(Henry Stimson: 1867-1950)のオフィスに行きました。 議長:誰のオフィスだって?D:スティムソン氏です。この時、陸軍省長官でした。これはペンタゴン(国防省)で行われました。出席者は国防長官のフォレスタル氏(James Forrestal: 1892-1949)、マックロイ氏、戦争情報局長のエルマー・デイヴィス氏(Elmer Davis: 1890-1958)、グルー氏、私とマーシャル元帥(George Marshall Jr.: 1880-1959)でした。付け加えるべきは、10-12人の陸海軍の最高士官も出席していましたが、今は誰だか覚えていません。 私たちはこの文書をコピーして、全員に配布する準備をしていました。スティムソン氏がこの会議の議長でしたが、この文書をすぐに承認し、賛同しました。実のところ、スティムソン氏は私たちが日本は過去に進歩的な男たち、幣原男爵(幣原喜重郎:1872-1951)、濱口(雄幸おさち:1870-1931)、若槻(禮次郎:1866-1949)、その他の人々を生んだ国だという点への十分な配慮が足りないと思ったのです。これらは日本の過去の首相です。 フォレスタル氏は文書を全部読んで賛同しました。マックロイ氏も賛同しました。 議長:賛同したのか、承認したのか?(Agreed, or approved?)D:承認しました。エルマー・デイヴィス氏は非常に激しく反応して、文書のどれも認めませんでした。 M:このとき、彼はどんな立ち位置でしたか?(p.729)D:彼は申し上げたように戦争情報局長でした。その他、色々な士官たちが承認しましたが、この文書の出版については——— M: 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-3-2)

1951年のアメリカ上院「太平洋問題調査会に関する公聴会」でのユージン・ドゥーマンの証言から、グルーとドゥーマンが国務省から追放された経緯が明らかになります。(写真:1945年8月14日、日本のポツダム宣言受諾を発表するトルーマン) アメリカ上院の「太平洋問題調査会に関する連邦議会上院司法委員会国内治安小委員会公聴会」に証人喚問され、1951年9月14日に証言したユージン・ドゥーマン(D)と委員会の弁護人モリス(M)や上院議員とのやりとり、6-7-3-1に続く部分を抄訳します(注1)。適宜、原文にない小見出しをつけています。
D:これらの事件が実際に起こっている間に、『ネイション』の1945年2月3日号に「危険な専門家」という題名の記事、パシフィカス(Pacificus, 太平洋問題調査会の略称?)のメンバーの記事ですが、発表されました。お許しいただけるなら、読み上げたいのですが。「危険な専門家」と言われる人の中に私のことがありますので。
ドゥーマン氏は天皇崇拝の軍国的な形以外は、天皇制を維持すべきだと信じているだけでなく、日本で我々が頼りにできるのは、ビジネス・リーダーたち、皇族の人びと、そして官僚たちだけだと思っている。
 この記事が出版される2,3日前に極東地域委員会が開かれ、教育問題を話し合っていました。私が指摘したのはビッグ・ビジネス・リーダーたち、貴族階級のメンバー、高レベルの専門家たちの大多数はイェール・ハーヴァード・ケンブリッジ・オックスフォード、その他イギリスと合衆国の大学で教育を受けたということです。我々の路線で再教育することに価値があるとしたら、これらの人々が我々の教育機関の恩恵を受けたのですから、進める要素として最適だということで、そうでなければ再教育には何の価値もないということです。両方はあり得ません。 このようなことを言ったのですが、この記事はそれを捻じ曲げています。しかし、重要なことはこの内容が2,3日後に『ネイション』に発表されたことです。このような場合には排除法を取るのですが、委員会の常任委員で毎回出席し、完全に信頼できる人以外にフリードマンが常に要素としていました。 そこで、フリードマンのところに行って、このような記事の情報源は彼だと非難しました。彼は否定し、この情報を権限のない人に提供したことはないと言いました。(p.714)彼は当時の上司、ヴィンセント氏に話しただけだと言いました。(中略)

敗戦後の日本に関するラティモアの予想

M:ドゥーマンさん、オーウェン・ラティモアがその頃に日本に関してどんな立ち位置だったか、話せる範囲で話してください。1945年のことです。D:(中略)最もよく知られ、引用されているのは『アジアの解決』(Solution in Asia)という本で、1945年2月頃に出版されたと思います。その春と初夏にかけて、日本の降伏まで広く読まれました。 彼のスタンスは、日本人は戦争に負けたら君主制に反対して反乱を起こす;国務省の中には、日本の上流階級の人から得たこと以外日本について何も知らない、いわゆる反動的なファシスト要素の人々がいて、この要素が日本人の意思に反して天皇を維持するために合衆国の影響力と威信を使うつもりだというものです。 もう1点彼が主張したのは、戦争指導者は東條大将やその他の主要軍人ではなく、産業界の指導者たちだということです。陸海軍は大実業家の単なる傀儡だということです。ですから、彼は日本人が反乱を起こし、天皇制を廃止することを認め、これらの実業家たちを戦犯として排除し、二度と影響力を持つ地位にならなければいいのだというのです。 3番目の点は、日本の制度、経済制度を完全に解体し、高度に発達した競争経済制度を確立するということです。(中略) 最近、メディアがラティモア氏を引用して、彼の主張は一貫して日本人が君主制を廃止したいと思う場合は、干渉しないと強調するものだと言ったというのです。これは一面的です。『アジアの解決』の中で、こんなことを言ってます。字句通りには引用できませんが、だいたいこんな内容です。「政治的予言をあえてすれば、日本人は自ら反乱を起こして君主制を廃止する」。 同時にこの頃、降伏の前ですが、グルー氏と私のような人々が天皇に権力を持たせたままにしようとしていると示唆し、それは、アメリカの影響力と地位を行使して、日本人が自らの意思を実行しようとすることを妨げようと私たちが提案したという含みです。(p.715) 1つ言っておきたいことは、天皇に関するこれらの議論が左翼メディアによって続けられたことは全くの気違い沙汰です。もし日本人が天皇を追い払いたいと思ったら、我々が彼を維持するためにできることは何もないのは明らかです。一方、もし日本人が天皇を維持したいと思ったら、我々が君主制を廃止するのは愚かなことです。(p.716)(中略:ヴィンセントも同じ考え方だったかという質問に、彼がこの件で意見表明するのを聞いたことがないと答えます)

追放されたグルーとドゥーマン

イーストランド議員:グルー氏が辞職した時、国務省内でヴィンセント氏はどんな地位でしたか?D:グルー氏は8月14日頃に引退というか、辞表を出したと思います。私は2,3日知りませんでしたが、彼が引退した日、辞表を提出した日ですが、ディーン・アチソン氏(Dean Acheson: 1893-1971)が国務省次官に任命されたという通知がありました。ディーン・アチソン氏は以前に弁護士業に戻ると言って、国務省の次官補の職を辞めたのです。こうしてアチソン氏は1945年8月25日頃に国務省に戻ってきました。その翌日に、彼は極東小委員会の議長はヴィンセント氏に変えると宣言したのです。(p.717)

アチソン-ヴィンセントのポスト降伏初期政策

イーストランド議員:ジョン・カーター・ヴィンセントが日本について提案したことと、共産主義の東欧に対する政策に違いがあるか知りたいのですが。D:共産主義者が東欧で何をしたのか話す資格はありませんが、日本で何が行われたかはお話できます。(中略) イーストランド議員:ヴィンセント氏が日本に対して行おうとした政策と、ロシアが衛星国に対して指令した政策と同じだというのがあなたの判断じゃありませんか?D:えーと、正確を期したいと思うのですが…。 イーストランド議員:あなたの判断はどうなんですか?D:私の判断は同じです。(中略)1945年9月22日にホワイトハウスが「日本に対する合衆国のポスト降伏初期政策」(The United States Initial Post-Surrender Policy for Japan)を発表しました。この文書は私たちの極東小委員会が7,8ヶ月かけて作成したものですが、いくつか重要な変更があります。(中略) M:記録を正確にしてよろしいですか。必要ないかもしれませんが、ドゥーマン氏が証言しているのは、これがアメリカ政策の発布ということで、ドゥーマン氏が国務省に公式に所属している間に取り組んだ文書だということです。そして、このプログラムが最終的に発布された時に変更があったと気づいたことです。それがドゥーマン氏とグルー氏が採用したプログラムを引き継いだ人々によってされたということです。D:その通りです。 イーストランド議員:それはアチソン-ヴィンセント・プログラムだということですか?D:そうです。 イーストランド議員:彼らはこのプログラムで何をしようとしているのですか?D:第一にしたことは、1946年ですが、$1,000以上のすべての財産に60%から90%の資本税を課したことです。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-3-1)

ポツダム宣言の作成と占領政策について大きく関わりながら、強硬派に追放された外交官ユージン・ドゥーマンが1951年のアメリカ上院「太平洋問題調査会に関する公聴会」に証人喚問されましたので、その証言を紹介します。

ユージン・ドゥーマンの経歴

タンフォード大学フーバー研究所文書館の「ユージン・ドゥーマン文書」のサイトはユージン・ドゥーマンの外交官キャリアを以下のように記しています(注1)。参考のためにカッコ内に年齢を加えます。
    1912年(22歳):日本での通訳生として採用される。 1915年(25歳):副領事、神戸。 1921年(31歳):書記官、東京。 1924年(34歳):外交官。 1926年(36歳):書記官、二等書記官、東京 1931年(41歳):一等書記官、ロンドン。 1936年(46歳):総領事、ロンドン。 1937-1941年(47-51歳):大使館参事官、東京。 1942年(52歳):国務省に帰省、ワシントンD.C.。アメリカ大使、代理大使、モスクワ。 1943年(53歳):連合国救済復興機関(UNRRA)を組織するために、合衆国に帰国。 1944年(54歳):元大使ジョセフ・グルー(Joseph Grew: 1880-1965)の特別補佐官。国務・陸軍・海軍調整委員会の極東小委員会の委員長。 1945年(55歳):ポツダム会議の極東問題アドバイザー。 1944-45年:戦略諜報局に対する日本関係アドバイザー、ワシントンD.C.。

太平洋問題調査会に関する公聴会

 上記の経歴からわかるのは、ドゥーマンが1931年の満州事変から日中戦争、真珠湾攻撃、太平洋戦争、終戦と日本占領まで、日本の動向をアメリカ政府に報告し、日本政府との折衝を担ってきた歴史の証人だということです。アメリカの外交文書には1934年からドゥーマンの名前が登場しますが、アクセスできる範囲内の一次資料で興味を持ったのは、1945年11月から46年5月まで続いた「真珠湾攻撃に関する米議会アメリカ議会合同調査委員会」(以後「真珠湾攻撃に関する調査委員会」(Joint Committee on the Investigation of the Pearl Harbor Attack)と、1951年の「太平洋問題調査会に関する連邦議会上院司法委員会国内治安小委員会公聴会(以後「太平洋問題調査会に関する公聴会」(Hearings before the Subcommittee to Investigate the Administration of the Internal Security Act and Other Internal Security Laws of the Committee on the Judiciary United States Senate, Eighty-Second Congress, First Session on the Institute of Pacific Relations)です。 時系列的には後になりますが、「太平洋問題調査会に関する公聴会」でドゥーマンが証言していますので、その証言を翻訳紹介します。「太平洋問題調査会に関する公聴会」が始まった原因は、赤狩りとかマッカーシズムと呼ばれる共和党上院議員ジョセフ・マッカーシー(Joseph McCarthy: 1908-1957)が始めた反共運動です。攻撃対象にされた中国研究者オーウェン・ラティモア(Owen Lattimore: 1900-1989)が関わっていた「太平洋問題調査会」の関係者を調査するために上院で調査委員会が設立されました。その公聴会が1951年7月25日から1952年6月20日まで続き、66人が証人喚問され、ドゥーマンもその1人でした。実はこの委員会は2つ目の調査委員会で、最初の委員会の結論がマッカーシーの糾弾を「詐欺、でっち上げ」と判断したため、マッカーシーと同じ反共主義者の上院議員マッカラン(Pat McCarran: 1876-1954)を議長として調査委員会が再度編成され、ラティモアが再び攻撃されました。最終報告書によると、この委員会の目的は以下のように記されています。
    「太平洋問題調査会」が共産主義者の世界陰謀のスパイに支配されていたのか、影響を受けていたのか、あるいは潜入されていたか、いたとしたら、どの程度か。 これらのスパイとその手先が調査会を通してアメリカ合衆国政府に働きかけ、アメリカの極東政策に影響を与えたのか、そうなら、どの程度か、今でも影響力を持っているか。 これらのスパイとその手先が極東政策に関して、アメリカ世論を誘導したか。([ref]”Institute of Pacific Relations—Report of the Committee on the Judiciary Eighty-Second Congress, Second Session, Pursuant to S. Res. 366 (81st Congress), A Resolution Relating to
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