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英米に伝えられた攘夷の日本(7-2-1-2)

薩英戦争の責任問題を追及するイギリス議会の議論の続きです。 1342 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(7-2-1-1)

「シャーロック・ホームズ」の作者コナン・ドイルが日清戦争直前に、生麦事件当時(1862年)の横浜居留地のイギリス人を描いた短編小説を発表しています。「攘夷の時代」の日本を英米ではどう報じ、論じたかみます。 1329 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(7-1)

コロナウィルス のパンデミックの中で増加するアジア系の人々に対するヘイトクライムが19世紀から欧米で起こっていたという指摘で、19世紀の英米メディアに登場する蔑称”Jap”を追います。日清戦争前にアメリカで13年間”Jap”と呼ばれながら苦学した片山潜が究極の反戦・厭戦表明をアメリカ・メディアに投稿し、掲載された文章を紹介します。 1318 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-16-7-2)

日本人を救おうとした在上海のアメリカ総領事の努力を無にした国務長官の命令に異議申し立てをした『ハーパーズ・ウィークリー』の記事(1894年12月1日号)を支持し、NYタイムズが激しく政府批判をします。国務長官も真摯にメディアの疑問と批判に答え、アメリカ議会でも取り上げられます。 1307 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-16-7-1)

日清戦争の初期に上海にいた日本人の若者2人にスパイ容疑がかけられ、2人はアメリカ領事館に保護を求めました。領事館は人道的見地から保護しようと努めましたが、国務長官が中国側に引き渡せと命令し、引き渡された2人は拷問・斬首されます。この事件について『ハーパーズ・ウィークリー』特派員が国務長官を鋭く批判しました。2021年の日本をめぐる問題と比較します。 1298 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-16-6-2)

日清戦争中の「旅順虐殺」事件は日本軍の軍夫が行なったと『ニューヨーク・タイムズ』で報道されたので、軍夫とはどんな人たちだったのか探ります。日清戦争時のイギリス人記者がイギリス軍もアジアで虐殺をしたと「マルヴァニー・ストーリー」を挙げたので、ラドヤード・キプリングの「マルヴァニー・ストーリー」とアンドリュー・ラングのキプリング論を紹介します。 1265 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-16-6-1)

日清戦争時に旅順で日本軍による虐殺があったというニュースを『ニューヨーク・タイムズ』がどう伝えているか紹介します。 1239 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-16-5-2)

1895(明治28)年7月の『ニューヨーク・タイムズ』で日本のコレラ検疫対策が称賛されました。125年後の日本で注目された後藤新平の一大検疫事業です。一方、2020年の日本の新型コロナウイルス対策については、安倍政権の科学無視の対応をNYタイムズは批判しました。 彦島[下関]弟子待検疫所、田之首火葬場(注1)

「日本の衛生の進歩」(Sanitary Progress in Japan)

 1895年7月20日のNYタイムズに掲載された記事 「日本の衛生の進歩」は、6月1日に開始された23万人の日清戦争帰還兵の検疫事業について端的には述べていませんが、時期的には重なっているので、最初にこの記事を抄訳し、その後、日本がこの検疫事業をいかに行ったかをその報告書『臨時陸軍検疫部報告摘要』をもとに見ていきます。
 最近の記事でブラジルとアルゼンチン当局がアジア・コレラ(Asiatic cholera)の初期流行の抑え込みに成功したことを紹介した。(中略)これは過去12年ほどの南米における衛生行政の大きな進歩を示している。しかし、最近の日本の経験は、この分野での更に驚くべき進歩を示している。 日本は長年、中国から来るコレラ感染に晒されてきた。この島国は何度もこの感染のエピデミックに苦しんできた。1877年にようやく検疫所が設置され、衛生法ができたが、この仕事は当時のヨーロッパ人居留者の医師によって提案された。1877年から1890年の間に幾度かコレラの流行があったが、衛生行政は貧弱で効果がなかった。1890年から今年の春まで、日本はコレラに見舞われなかった。澎湖諸島(Pescadores Islands,台湾海峡にある諸島)と満州にいた軍隊の間でコレラが発生し、検疫規則があるにもかかわらず—現在は非常にいい—日本兵の帰還で港から内陸部にまで広まった。 戦争中に帰港地で最良の検疫規則をうまく実施するのは難しい。しかし、本州の39県のうち24以上の県でこの病気がすでに広がっている時に、この病気の抑え込みができたことは、日本の衛生行政がいかに素晴らしいかをはっきり示している。復員兵や軍隊と関連のある人々によってコレラが地方の100程度の村々に広がっていた時に、衛生当局は抑え込みを開始し、非常に厳しく、非常にうまく遂行したので、コレラが持ち込まれた軍港以外では、1,2の症例か多くても6例しか発生しなかった段階で、全ての感染地域で瞬く間に抑え込まれた。 汚染された港ではコレラは完全に抑え込まれたわけではないし、中国から日本兵の帰還が続く限り完全に抑え込まれることはないだろうが、軍港でのコレラは制限され、非常にうまく対処された。[1895年]6月中旬までの日本におけるコレラ症例は、本州の大部分にすでに広がっており、多数の地域が汚染されていたにもかかわらず、全部で1,400例以下だったので、2,3の港を除いてはコレラは抑え込まれたと我々は理解した。 日本にいる有能な観察者によると、日本政府が衛生行政を設立し、完成させるにあたって、また、最近のコレラ・エピデミックをコントロールし抑え込む仕事をするにあたって、他国の専門家からの助言や援助を受けなかったという。しかし、日本政府には数年前から衛生局の役人として日本生まれの著名な衛生と細菌学の専門家を複数抱えている事実を見逃してはならない。これらの人々の先頭にいるのは北里博士だ。彼はベルリンのコッホのもとで研究し、ベーリング(Emil von Behring:1854-1917)がジフテリア抗毒素の発見に結びついた実験をしている時にベーリングの同僚だった。実は北里博士はこの発見の名誉の一部を授けられるべき人物である。彼はドイツを離れる前に、動物の免疫と、現在、血清療法と呼ばれているものの使用に関する有益で貴重な調査を行った。母国の保健局の役人になった後、彼は「疫病」と呼ばれる古代の病気の特徴的なバシラス属[真正細菌]を中国で発見した。 日本はこの数年間、文明国の最も有用な特徴と発見と慣行を必死にこの島国に持ち込み、実現しようとしてきた。この事業の中に近代衛生が含まれていた。政府の代表が海外に送られ、教育に最適な人々から学んだ。これらの日本人はヨーロッパの知識を獲得して日本に戻ってその知識を使い、また他の日本人にその知識を授けた。世界はその知識が戦争でどう使われたか知っている。そして今後はそれがどう平和的技術に使われるか世界は見ていく。以下のいずれがより素晴らしいかを言うのは簡単ではない。この非常に興味深い国の人々によって欧米文明の多くの有用な特徴が即座に採用されることか、日本が採用した進歩のために海外に目を向わせた新たな衝動とその源か(注2)

1895年の検疫・隔離事業

 上の記事で称賛されている明治日本の衛生行政は、125年後の新型コロナ・ウィルス対策において令和の日本政府が学ぶべきお手本です。ところが、安倍・菅政権は真逆の対応をし、1年間で7,501人(2021年2月20日現在、(注3))の死者を出しています。約23万人の検疫・隔離をどう達成すべきかという問題に対応した内務省衛生局長・後藤新平(1857-1929)の大事業については、2020-21年のコロナ・ウィルス感染対策に右往左往する安倍・菅政権下の日本で注目を浴びました。この事業の詳細が1896(明治29)年に陸軍省から『臨時陸軍検疫部報告摘要』(注1)として公刊されました。これを読むと、細心の心配りがされた計画、実施内容であったことが伝わってきます。 その「緒言」で後藤は臨時陸軍検疫部設置の必要性、経緯、内容などについて10ページにわたって概略しています。戦争に疫病はつきもので、日清戦争後に帰還兵23万人が持ち込むコレラその他の感染症を水際対策で防がなければ、国中にコレラが広がり、「凱旋はたちまち悲鳴と化し哀慟となり」、多数の命が失われ「生産を害し戦闘以外更に一層大なる国力の疲弊を来せる」という心配を野戦衛生長官・石黒[忠悳ただのり:1845-1941]軍医総監に伝えました(p.1)。 同時に、彼が設立した「臨時陸軍検疫部」の精神が「仁慈に出でたるものなるに拘らず」(p.2)、1日も早く故郷に凱旋したい23万人を検査・消毒・隔離することがいかに難しいかも予想されていました。そこで周到な工程表を作成し、実施に当たって①検疫官の職権は独立強固であること、②検疫場の設備は伝染病学の学理に従うこと、③検疫作業は「分科判明、序次整然」(p.2)であることの3要件を徹底します。検疫作業を滞りなく進めるために、検疫の主旨と順序を説明した消毒場の案内図を数十万枚印刷配布して周知した結果、23万人が「整然乱れず我職員をして敏活の運動を為さしめたる」ものだった、「感嘆の至に堪えざるなり」(p.9)と述べています。この「臨時陸軍検疫所消毒場案内」は兵卒にも読めるように全漢字に和語の読み方のルビがふられています。そして、人夫たちにわかるようにコレラの感染の仕方、防ぎ方を解説した文書を配布しています。最後に、検疫した船舶数687艘、人員23万2346人、消毒した被服携帯品93万2779点と記されています。この後の詳細で、23万2346人のうち、検疫所を通過して凱旋した人数が16万9000人余、その帰途にコレラを発症したのはわずか37人だったと記載されています(p.66)。 この内容を要約して紹介します。付記するページ数は『臨時陸軍検疫部報告摘要』の該当ページです。なお、カタカナ書はひらがなに、できるだけ現代日本語に変えて引用します。

検疫事業の決断

    事業の重要性を理解し、潤沢な予算を即断:石黒が陸軍大臣に検疫設備を上申する一方、中央衛生会委員長谷川泰(1842-1912)も日清戦争後の防疫を内務大臣に建議して、1895年3月上旬に中央衛生会は後藤を広島大本営に送りました。内務大臣は参事官・久米金彌(1865-1932)を同行させ、広島で陸軍次官兼陸軍大臣代理の児玉源太郎(1852-1906)と石黒軍医総監と会議すると、児玉はこの設備の必要性をすぐに理解し、後藤に事務官長として全権を任せました。 後藤は検疫・消毒・隔離・病院・火葬場などの施設の建設・運営の費用として100万円と高めの見積もりを出しましたが、児玉は150万円を即決しました。後藤が当初提示した100万円は現在の100億円相当で、「当時の衛生局全体の予算を超える金額」((注4), p.49)だったそうです。 1895年3月30日勅令「臨時陸軍検疫部管制」発布;4月1日:児玉源太郎が部長、後藤新平が事務局長;10月31日「臨時陸軍検疫部」廃止

検疫所の選定(p.12)

    開港場を避け、広島・宇品、下関、大阪、北海道・小樽に検疫所を、100万円の経費で3ヶ月で設置する。広島の似島[にのしま]検疫所予定地は2万3000坪、建家8617坪;彦島検疫所[下関]1万9300坪、建家5926坪;桜島検疫所[大阪 ]2万40坪、建家6019坪。 似島検疫所では1日5,000〜6,000人、彦島桜島小樽の三検疫所では一日各2,500〜3,000人の検疫消毒を行うことが目的とされた。7月1日に検疫事業開始日と予定された。 日清戦争講和交渉の結果、復員兵の帰還が早まることになり、事業開始を1ヵ月繰り上げないと、事業の目的が達せられないことになった。そのため、小樽の検疫所を廃止し、3カ所の建設を大工職工役夫を増員し、昼夜兼行で建設を急がせ、6月1日開始に間に合わせた。

土木工事・建築工事(pp.66-9)

    3月下旬に土地借入に着手、4月4日以来土工を起こし、土地の削平、海面の埋め立てに日夜数千人の工夫が携わった。 彦島の工事中、5月17日に工夫がコレラを発症し、恐怖に感じた工夫の過半数が逃げてしまい工事中止になってしまったが、6月5日までには主要部分が完成した。 建物の種類と棟数:消毒部(似島14棟、彦島12棟、桜島10棟)、停留舎(似島24棟、彦島24棟、桜島15棟)、避[伝染病]病院(似島16棟、彦島13棟、桜島12棟)、其他事務所、兵舎、倉庫、炊事場、厠等、総棟数は似島139棟、彦島153棟、桜島109棟、外に火葬場各1箇所、汚物焼却場各2箇所

消毒装置の設計・製作(pp.14-6)

    消毒機関の設計は内務省の消毒所に設置された消毒汽鑵の設計を担当し、その技術に経験ある元内務省技手の下村当吉が主任となり、後藤新平が学術上改正を要すべき点を明示した。 4月3日に後藤は、中央衛生会委員・長谷川泰、医科大学教授医学博士緒方正規(まさのり:1853-1919;1886年に帝国大学医科大学の衛生学初代教授)、医科大学助教授坪井次郎(1863-1903)、内務省技師医学博士中浜東一郎(1857-1937;ジョン万次郎の息子)、伝染病研究所長医学博士北里柴三郎、陸軍省医務局長心得陸軍軍医監・足立寛(1842-1917)、同医務局御用取扱陸軍二等軍医正・吉田迂一、機関技術主任嘱託下村当吉を参列させて、陸軍検疫案を提出して審議に付した。 4カ所の検疫所に設置予定の蒸気消毒鑵は13組必要で、その製造据付を事業開始予定の7月1日前までとして、短期間での製造を神戸川崎造船所、大阪鐵工所、東京石川島造船所、東京三好工場等の四所に命じた。 消毒装置は汽鑵[ボイラー]と消毒罐とより成り、似島は5組、彦島桜島に各3組、小樽に設置すべきもの2組の計13組を製造し、その6組は神戸川崎造船所に、7組は大阪川口鉄工所が製造した。4月上旬に製造を命じ、工場側はその後の期限短縮を受け入れ、工費を増額せずに努めてくれて、似島桜島彦島の三所に運送してその据付を完了するまで、僅か2ヶ月だった。 消毒鑵の効果:北里博士が陸軍大臣の嘱託で各検疫所に出張し、消毒鑵の試験をし、消毒鑵装置が完全で30分で確実な効力があることを証明し、制作した技師職工の技術を賞賛。実務に服した下士卒が早く作業に練熟し、秩序を守って敏活に運動し、渋滞なく進めた。将校の指揮が良かったとはいえ、至誠をもってその職に当たった(pp.7-8)。似島の消毒は一昼夜に6,000人で、「世界唯一」(p.5)。

検疫従事者の教育・訓練・実習(pp.25-6)

    検疫業務は戦闘よりも危険で、自身が感染し、死に至ることがあるため、伝染病の性質を知り、検疫の手順を間違えないように訓練する必要がある。 「検疫は国家の安寧各人の健康を保護する仁恵的事業たるに拘らず大に人の嫌忌する所となり執行上諸多の困難なる事情の存する」。 事業開始前に大阪・大里、神戸・和田岬の二カ所に分遣兵を集めて、伝染病の性質、検疫の順序を教育し、自衛方法については、後藤新平「事務官長自ら教養の方法を講じ各軍医正以下の事務官をして実地に臨み丁寧に訓練せしめ船舶の構造消毒掃除に就ては特に日本郵船会社予備船長に嘱託し」、和田岬と下関の内務省検疫所で実習した。全⽂ルビ付き「傳染病豫防⼼得」:「傳染病でんせんびやうとはひと⾁眼にてることあたはざる(パテルス)とづくるむしが飲⾷物のみくひもの不潔物きたなきもの媒介なかだちによりてひとよりひと傳染でんせんするやまひにしてこのむしは腐敗くさやす飲⾷物のみくいもの
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-16-5-1)

アメリカの週刊誌『ハーパーズ・ウィークリー』(1894/11/10)の特派員が日清戦争について最初に取り上げたのが、戦争とは死者・負傷・疾病者の多さであり、日本政府はそれを国民に知らせまいとしているという指摘です。一方、NYタイムズは、日本軍がコレラが蔓延している中国で中国軍と疫病と同時に戦わなければならないが、日本の衛生局は進んでおり、感染症対策で著名な北里博士がいるから大丈夫だろうと報道しています。 釜山の病院内部 負傷者の移送日本帰還を待つ快復期の兵士たち

日本国民は戦争について事実を知らされていない

清戦争について、週刊誌『ハーパーズ・ウィークリー』が詳細な報道と評価をしているので、紹介します。強調しているのは、この戦争に関して日本国民は日本側に都合のいいことしか知らされていないと述べていることです。『ハーパーズ・ウィークリー』1894年11月10日号には釜山の野戦病院風景、負傷兵の移送、快復期にある傷病兵が日本への帰還を待つ姿の挿絵が付けられ、戦争とは勇壮だと謳歌するものではなく、病気になり、負傷し、死ぬことだという記者のメッセージが読み取れます。記者は疾病者の多さには触れていませんが、この戦争では病気になった兵士の数の方が負傷者より遥かに多かったことが挿絵から示唆されています。 これらの挿絵に挟まれて、「日本と中国の戦争について」((注1), p.1076)という特派員の記事が掲載されていますので、抄訳します。
 日本で会った欧米人全員が、もし日清戦争について関心のない国にいるとしたら、その国よりも日本にいる方が中国との戦争について知らされないと言った。最も信頼できる情報豊富なニュースはニューヨークとサンフランシスコの新聞だと言う。いくつかの理由から、日本政府は日本側に有利な情報しか報道させない。その自然な帰結として、短い報道を信用する者は誰もいない。ここ上海でも状況は似たようなものだ。ここの新聞は中国当局が認めたものしか受け取れないが、中国は敵よりももっと自由、と言うか不注意だから、新聞報道の行間を読むと、中国軍にとって惨事だというニュースを報道する。 私は両国の欧米系新聞だけについて述べる。ところで、横浜プレスは中国の主張を強く支持しているように見える。一方、上海の新聞は日本支持で、ここ上海の欧米人は状況をよく知っており、戦争に負けることで中国が100年間平和に貿易していた時より、中国の開国には貢献するだろうと理解している。そして、この認識は英語新聞に表明されている。両国とも、戦地からのニュースは読み手によって解釈されること以外は、何の価値もないと考えられている。(中略)日本政府がすべての戦争報道を抑圧している理由の一つは、国民に人命損失について知らせたくないからだ。これは日本の初めての戦争である。日本の戦士たちはこれまで白兵戦をしてきた。近代の戦争がもたらす膨大な数の人命損失を日本国民は理解できないだろう。日本中で民衆は戦地の情景を描いた凄絶なクロム・プリントを見せられている。(中略) 神戸では鉄道が政府に取り押さえられ、部隊を港まで運ぶためにだけ使われている。兵隊は港からコリア(Korea)に向かうのだ。15万人の男たちのほとんどがすでに渡ったので、政府は鉄道貨車を兵隊の冬の制服を運ぶために使っている。5万人の予備軍が常備軍に合併した巨大な軍隊が、北京へ進軍するのに必要な軍隊だと日本は考えている。 外見も規律も日本の兵隊はどのヨーロッパの国の軍隊と比べて見劣りしない。制服はすべてヨーロッパ式で武器も武装具も最新式だ。兵隊の服はまるでお抱えのテイラーに誂えてもらったかのようにピッタリだ。将校たちの多くは全くのダンディだ。その上、行軍と規律に関してほぼ完璧で、日本の1旅団や大隊が行軍する姿は壮観だ。非常に印象的なのは、彼らが新たに作曲された軍歌を歌いながら行軍するのを聞くことである。時には連隊が静かな田園を行進しながら、新しい軍歌の歌詞を練習するのを聞くことがある。軍曹が小さな本を持って、大声で読み上げると、兵士たちがその歌詞を歌い、それがあまりにも規律正しいので、連隊全体が一緒に歌うことになる。 中国の軍隊は残念ながら、称賛も尊敬も得ているとは言い難い。役人たちの腐敗が酷く、サラリー兵のリストが紙の上だけの兵士で、実際の兵士は少なく、役人たちは何年もペーパー兵士のサラリーを自分たちの懐に入れてきた。大隊を編成しろと命令されて、役人たちは多数のクーリーに制服を着せ、戦場に行かせた。(中略)彼らが訓練の行き届いた武器の揃った兵隊と戦うことを想像するのは、太陽がカボチャになることを想像するようなものだ。

日清戦争時の言論統制

 上記の記事の筆者ジュリアン・ラルフ(Julian Ralph: 1853-1903)はアメリカの著名なジャーナリストで、上記の記事が掲載される7ヶ月前の『ハーパーズ・ウィークリー』(1894年2月24日)に彼の署名入りポートレートと「ジュリアン・ラルフ」と題した人物評の長い記事が掲載されています。ニューヨーク生まれの彼がジャーナリストとして「裏町、病院、埠頭、暴動現場」などに送られ、新聞コラムにスラム街の悲惨な様子から花柳界の華やかな世界まで書き、視野を広げたことと、価値観の多様性を身につけたとのことです。ですから、彼はインディアン[ネイティブ・アメリカン]に同情し、「アメリカ西部を嘲笑せずに、南部について説教口調でなく書いた最初のニューヨーカー」(注2)と評されています。 ラルフが上記の記事で「日本政府は日本側に有利な情報しか報道させない」と書いたのは正確な観察です。明治政府は日清戦争前から「強力な言論統制の手段を持っていた」上、朝鮮出兵が決定すると「さらに言論統制を強化する措置を講じ」「一八九四年中に全国で治安妨害のかどで発行停止を受けた新聞社は一四〇社を超えた」((注3), p.159)そうです。一方で、「陸海軍で公表差し支えなしと判断した戦地の情報を広島県警察部[広島は日清戦争時の大本営地]に掲示し、事前に登録した新聞社に謄写させて新聞に掲載することを許可した。つまり大本営に、のちの記者クラブにあたる組織を設置した」のです。ところが、「戦況が日本有利になると、政府は戦争情報を積極的に開示するようになった」(p.161)そうです。 ラルフがかなり正確な情報を提供していることは、日本軍の兵力を20万人としていることにも表れています。実際の兵力は24万616名でした(p.239)。

日清戦争による日本軍の死傷者数

 ラルフほどの著名なジャーナリストが従軍記者として日清戦争をアメリカ読者に伝えるにあたって最初に選んだ挿絵は日清戦争の日本軍の特徴を示唆しています。というのは、日本陸軍側の総死者数が1万3488名とされていますが、軍夫の死者を含めると死者は2万人を越え、戦死・戦傷死が10%に対して、病死(脚気・赤痢・マラリア・コレラの順)が88%だったからです。また、挿絵「日本帰還を待つ快復期の兵士たち」に見られるように、負傷・疾病によって兵役を免除された者が3,794名で、凍傷の患者も多かったそうです(p. 240)。

進軍する日本兵は疫病とも戦わなければならなかった

 日清戦争の前から世界中でコレラが蔓延しているニュースがNYタイムズで度々報道されています。1894年から日本兵が帰還した1895年6月〜8月まで、NYタイムズの報道を通して、コレラが世界的にどう広がっていったのかを見ます。

1894年6月13日:

香港では1500人が既に死んでいて、香港に残っている人口の半分は避難した。ヨーロッパ人居住地では死者はまだ1人。現地人は毎日100人死んでおり、商業は麻痺状態(注4)

1894年7月28日:

プロイセンのエメリック(現ドイツ)からオランダに向けて出発しようとしていたオランダ船の乗船者にコレラ患者が出たため隔離された。

1894年11月28日:

ブラジルのリオデジャネイロとサンパウロの2州でコレラが蔓延し、8人が死亡。感染地域は隔離された。

1894年12月6日:「中国のコレラ」

 北京で9月にコレラが発現し、このアジア・コレラが北京で蔓延していることについて、海洋病院局(Marine Hospital Bureau)が報告書を出版した。10月11日時点で、コレラの惨害は「異常に激しい」。中国では「家屋、衣服、患者の消毒」について知られていない。 9月に国中から1万人から2万人の学生が科挙のために北京にやってきて、彼らには2万人から3万人の友人や付き添いがついて来た。この人々が首都にコレラを持ち込んだと推測される。その上、彼らは衛生管理が全くされていないため、コレラは彼らと共に出身地に運ばれただろう。冬の到来はこの伝染病が続くことを抑えるかもしれないが、一方、進軍する日本軍は中国軍と戦うとともに、疫病とも戦わなければならないだろう(訳者強調)。 しかし、日本はコレラやその他の感染症から身を守る方法を知っている。この帝国の衛生局は進んだ組織で、ここにコッホ教授の著名な弟子だった北里博士がいる。数ヶ月前に中国の疫病の原因と性質に関する注目すべき調査をし、この病気の病原菌を発見したのが北里博士だ。(p.4)

1895年1月9日:「ブラジルのコレラ」

 12月28日にアルゼンチンの複数の港でコレラの存在が報道されたが、ブラジルでは少なくともこの1ヶ月前に現れた。11月24日にサンパウロ鉄道沿線でコレラの蔓延が見られた。リオデジャネイロの海兵病院、衛生局監督のクリアリー医師によると、「最初に中国人(新規渡航者かどうかわからない)が発症し、瞬く間に鉄道の全駅と沿線の町々に広がり、サンパウロとリオデジャネイロ州にも広がった。死亡率は20%という報告と、全死者は8人という別の報告がある」。 政府は鉄道の運行を停止し、感染地域を隔離し、「エピデミックを止めるためにあらゆることをする」と言った。政府の12月1日の報告は「全交通が止められ、隔離と消毒が厳しく行われ、警察と軍隊が配置されて人の行き来が止められている。これによって病気の根絶が望まれている」と述べている。12月8日時点で、6箇所の感染駅で53発症例、10日に63発症例、6人死亡である。 8年前に南米でコレラが猛威をふるって以来、ブラジル政府の衛生局は大きく改善された。最近の蔓延がどこから始まったか不明である。最初の症例が港で見られたのではないことは注目すべきだ。症例が見られた内陸部は12月11日までに隔離されたが、これらの地域はパラグアイとアルゼンチンの大河の支流が通っている地域である。(p.4)

1895年4月10日:

中国の港でコレラが蔓延。

1895年5月6日:

インド・ペルシャ・ジャワを通って[中継地の]紅海のヒジャーズ(Hejaz)へ向かう巡礼者の間でコレラが蔓延し、巡礼者は10日以上隔離されることになっている。

1895年5月7日:「アラビア・コレラのルート」

 ボンベイからメッカに向かう巡礼を乗せた蒸気船が2隻、3月16日に紅海の最南端カマラン(Kamaran)に到着し、3月24日に最初の症例が見られた。4月12日までに49例、39人死亡し、死亡率は非常に高い。しかし、ボンベイではコレラは非常に少ない。これらの巡礼者が出発するまでの月にボンベイで死んだのは1人だけだ。 カマランで発症したのは隔離施設が感染地である可能性がある。この施設は数年前から酷い状況だと悪名高い。感染の危険性が巡礼者の出発点であるインドではなく、この隔離施設の方が大きい。1881年にIazaretto が設立されて以降、メッカでコレラが発症し、アラビアの聖地中で7回も蔓延したが、この隔離施設が設立される前の10年間で発症したのは2回だけだ。メッカでコレラが現れたことは極めて重要だ。なぜならこの病気はGaliciaで消滅したし、ロシアではほとんど見られないからだ。アラビアで適切な衛生規則を強要しなかった[欧米]列強の失敗の責任が今やヨーロッパが東洋からの新たな感染の危機にさらされることになる。

1895年6月1日:「極東のコレラ—日本当局はこの病気のコントロールに成功」

 横浜の海兵病院衛生局監督のスチュアート・エルドリッジ(Stuart Eldridge)がワイマン大将(General Wyman)に5月10日に以下のことを報告した。[日本]南部の陸海軍兵站部のある地域におけるコレラ発症は1,2例だけである。兵庫と大阪でも単独の発症例があるが、今のところ、この病気はエピデミックというような状況ではない。日本当局はコレラを見事にうまい方法でコントロールしている。「疫病」と呼べる事象が香港とマカオで起こっており、当局はこの事実を隠蔽しようとしている。

1895年7月4日:

「南米でコレラと善戦」

1895年7月5日:

ペンシルベニア州ピットン(Pittston)でコレラ—ポーランド人の下宿で2人死亡」

1895年7月12日:「日本でコレラ死」

6月15日の週に大阪と兵庫で6人が発症し、5人が死亡と報告された。同時期に横浜と長崎では発症例がなかった。

1895年7月20日:「日本の衛生管理の進歩」

[次節で抄訳します]

1895年7月23日:「小アジアのコレラ—ロシアとオーストリアが協調して感染をコントロール」

1895年7月29日:「コレラ死5000人」

日本でコレラが発生してから、9000人が発症し、5000人が死亡。コリアと遼東半島で猛威をふるっている。

1895年8月4日:「今シーズンのコレラ記録」

 コレラに関してヨーロッパは今のところ幸運だ。昨年夏にロシアの感染地からドイツ・フランス・ベルギー・オーストリアに広がり、死亡率はGalicia以外では高くなかったが、感染は数ヶ月続いた。ロシアではコレラが冬中、存在し、死亡率が最近2,3地域で増加したが、ヨーロッパの他の地域では影響がなかった。ロシアで第二波が起こったら、ロシアとオーストリア政府は貿易交流を停止することに同意した。 ロシアはこの病気が日本とコリアからウラジオストック港を経由してシベリアに侵入してくることを恐れて、医師と衛生管理担当者をウラジオストックに送った。いまだに日本・コリア・満州で猛威をふるっているコレラは、コリア・満州から日本に入った。

1895年8月10日:

ロシアのPodoliaで猛威をふるっているコレラの患者用に臨時病院が建てられることになったが、住民が反対して暴動を起こし、鎮圧に軍隊の導入が必要な事態だ。

1895年8月11日:

オーストリア=ポーランドと南ロシアでコレラの拡大

1895年8月17日:

中国・コリア・フォーモサ[台湾]のコレラ—これらの国のコレラ拡大が深刻

1895年8月30日:

北京のコレラ死が今月4万人と公表された。

北里柴三郎の訴え

 NYタイムズで紹介された北里柴三郎(1853-1931)は、コレラ菌を1885年に発見したコッホ(Heinrich 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-16-4)

日清戦争当時、日本中が熱狂し、内村鑑三が「義戦」と熱烈に支持した戦争が、ソウル・北京・東京のアメリカ公使が国務省に報告した外交文書からは、日本が不当に仕掛けた戦争だったことが見えて来ます。

日清戦争を野蛮対文明の戦い、義戦と支持した知識人

 日清戦争(1894-95)当時のメディアも世論も戦争を熱狂的に支持しました。福澤諭吉や内村鑑三などの知識人までもが日清戦争を支持していたのは驚きです。福澤諭吉(1835-1901)は1875(明治8)年初版の『文明論之概略』の中で、ペリーの開国要求を「我と商売せざる者は之を殺すと云うに過ぎず」((注1), p.22)、欧米文明の中での「国と国との交際に至ては唯二箇條あるのみ云く平時はものを売買して互に利を争い事あれば武器を以て相殺すなり言葉を替えて云えば今の世界は商売と戦争の世の中と名くるも可なり」(pp.12-13)と述べていました。その約20年後に日清戦争を「『文明と野蛮の戦い』と捉え、この『文明の戦争』のために国民は一心協力すべきだ、たとえば軍費を醵出きょしゅつしようではないか、とその主宰する『時事新報』の社説(明治二十七年七月二十九日=豊島沖の海戦の捷報しょうほうが伝えられた日)で説いた」と指摘されています((注2), p.303)。 一方、内村鑑三(1861-1930)は日本から世界に発信する英字新聞The Japan Weekly Mailの1894(明治27)年8月11日号に”Justification for the Korean war”(コリア戦争の正当性)を、その日本語訳「日清戦争の義」を『国民之友』(9月3日号)に掲載しました。なぜ欧米読者宛には「コリア戦争」と言っているのかは、アメリカ外交文書を読むとわかります。 「吾人は信ず日清戦争は吾人に取りては実に義戦なりと、其義たる法律的にのみ義たるに非らず、倫理的に亦た然り」((注3), p.105)と宣言して、その理由を述べています。しかし、終戦の頃には「義戦」ではなかったことを知り、世間に「義戦」と訴えたことを恥じ、日露戦争(1904-05)時には、戦争に「義戦」などはないとして「非戦論」を訴えます(注4)

アメリカ外交文書から見る日清戦争

 1894年のアメリカ外交文書補遺に「中国-日本戦争」(Chinese-Japanese war、(注5))という題名で、日清戦争が始まるまでの経緯を詳細に報じたものがあります。1893年の東学党反乱の鎮圧を名目として日本がソウルに派兵した時から1895年3月の下関条約交渉までのアメリカ国務省と北京、ソウルのアメリカ公使とのやり取りが掲載されています。総ページ数100ページ、電信文書数110以上の詳細な内容です。日本で「義戦」、「文明の戦争」と熱狂的に支持された戦争が中国、朝鮮、アメリカではどう理解されていたのか見ます。なお、アメリカ外交文書でも英米メディアでも国名はChina, Koreaとなっているので、「中国」「コリア」と訳します。「コリア」の綴りはこの時期のメディアではCoreaとKoreaが混用されていますが、外交文書は一貫してKoreaです。

東学信者の請願

 「中国-日本戦争」の文書No.1はソウルのアメリカ総領事オーガスティン・ハード(Augustine Heard: 1827-1905)から国務長官ウォルター・グレシャム(W.Q. Gresham: 1832-1895)宛の3ページ半にわたる報告です。これ以降「ソウル発」と表記する文書は在ソウル・アメリカ公使館から国務長官宛に出された文書です。重要と思われる文書を抄訳します。

No.1、ソウル発、1893年4月4日(pp.5-8):

 2,3日前から、40人ほどの男たちが宮殿の門の前に跪き、宮廷の役人が出てきて、彼らの請願書を受け取って、国王に渡してくれることを要求している。この男たちは1859年に起こった新興宗教の代表者たちで、創始者・崔済愚(チェ・ジェウ、さいせいぐ Che Cheng: 1824-1864)は1864年に全羅道(チョルラド)の知事によって、異端者・魔術師として処刑された。この宗派を根絶するために、あらゆることが行われてきたが、迫害されたからか、逆に信者が急増し、主に南部で現在数千人の信者がいる。 請願書の内容はわからないが、第一の目的は創始者の処刑の罪状を取り消して、彼らの信仰を認めてほしいというものだと言われている。また、外国人とキリスト教への抗議と、コリア国王が介入するよう求めているらしい。今、門前にいるのは40人だけだが、ソウル市内に数百人から数千人いると見られており、40人が疲れた頃、新たなメンバーに代わる。東学の現在のリーダーによると、東学は1859年に儒教・仏教・道教をもとにした[西欧に対する東の]教えを立ち上げた。 東学による欧米牧師の襲撃が続いており、コリア政府はジレンマに陥っている。もし請願書を受け取ったら、外国に敵対することになる。無視したら革命が起こると。3月31日に国王は決断を下し、門前の信者を追放した。請願書を受け取らなかった理由は適切な手続きを経なかったからだった。翌日、国王は詔勅を出し、東学信徒に対して、間違った教義を捨て、正しい儒教の教えを学ぶよう父親のように諭した。

東学から日本公使館への警告

No.4、ソウル発、1893年4月20日(pp.10-11):

 学者や役人の団体が東学信者を厳しく罰してほしいと国王に嘆願書を出した。[アメリカ総領事の感想]コリアンは平和的な性格で、暴動は長いことなかったため、外国人(欧米人)には危機感は全くない。 4月13日に日本領事が日本人住民に警告を発した。女子どもは仁川(インチョン、Chemulpo)に移動できるよう準備をすること;コリア当局は全力で守ろうとするだろうが頼りにならないから、頑強な男たちは警察か公使館に知らせよ。この警告を入手したアメリカ総領事は日本領事に、どんな情報に基づいての警告か尋ねたら、噂だという。日本公使館の警告に反応して東学が日本公使館にプラカードを貼った。アメリカ公使館による英訳(p.14)の一部 あなた方は強欲におせっかいに他国にやってきて介入し、衝突するのを主な仕事とし、自分たちの起源を殺害する。一体これはどんな精神なのか、なぜこんなことをするのか? 以前、1592年[豊臣秀吉の朝鮮出兵]に日本が国中の軍力を集めてコリアを侵略し、完全に全滅してから戻ったことについて、コリアはどんな許されない罪を犯したというのか? 私たちは本当に悲しく悲惨だった! これをどうして忘れられようか! 私たちには忘れることのできない敵意が本当にあなた方に対してある。しかし、あなた方が私たちに敵対する忘れられない思いとは何なのか? なぜあなた方は東方の国(コリア)の賢者にもう一度耳を傾けないのか?(中略)できるだけ早くあなた方の国に帰れ。
訳者注:「自分たちの起源を殺害する」の英訳は”murder the origin [of your coming]”となっていて、[ ]内は英訳者の補足です。これは、日本が朝鮮半島から渡来人が技術・文化をもたらして成り立った国を意味した”origin”(由来、素性、原点)と理解できます。 昭仁上皇も2001年に「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」と認めています(注6)。また勝海舟は上記の東学の主張の書かれたちょうど1年後の1894(明治27)年4月に「朝鮮は昔お師匠様」という趣旨の談話をしています。東学の主張と重なる貴重な内容なので引用します。
朝鮮を馬鹿にするのも、たゞ近来の事だヨ。昔は日本文明の種子は、みな朝鮮から輸入したのだからノー。特に土木事業などは、ことごとく朝鮮人に教わったのだ。いつか山梨県のあるところから、石橋の記を作ってくれ、と頼まれたことがあったが、その由来記の中に「白衣びゃくえの神人来りて云々」という句があった。白衣で、そしてひげがあるなら、疑いもなく朝鮮人だろうヨ。この橋の出来たのが、既に数百年前というから、数百年も前には、朝鮮人も日本人のお師匠様だったのサ。((注7), p.248)

中国軍と日本軍の朝鮮出兵

No.5, ソウル発、1893年5月1日(pp.14-16):

 騒動があるという南部へ調査に言っていたコリアンと、南部から来たカトリック神父の話では東学の集会も騒動もない。

No.6, ソウル発、1893年5月16日(p.15):

 東学信者数千人が忠清道(チュンチョンド)の東部に集結し、その数は日毎に増えているという報告。彼らは武器はないが、毎日訓練し、野営地に塀を築き、真ん中に「日本人と外国人をぶっ潰せ! 正義が栄えますよう!」と書かれた大きな旗を立てて、周囲には小さな旗にそれぞれの出身地を書いている。役人が解散するよう言ったが、彼らは聞く耳を持たず、軍隊を求めた。 5月15日に西洋式訓練を受けた800人の部隊が道を封鎖するために出動した。東学の旗には暴力的なことが書かれており、外国人は恐怖を感じているが、私[アメリカ総領事]は実際に暴力があるか疑問視している。彼らがソウルに到着しても、恐れなければいけないのは都市の暴徒の方だ。東学自身は危険ではないと信じている。彼らは静かで平和的で、創始者の名誉回復と自分たちの宗教を認めてほしいだけだ。彼らは極貧の人々を集め、政党の支配下にあるのかもしれないが、その党が何かわからない。

金玉均の暗殺報告

No.7, ソウル発、アメリカ公使館書記官・アレン(H.N. Allen: 1858-1932)から国務長官宛、1894年4月6日(pp.16-7):

 3月30日早朝に国王の役人がやってきて、1884年の革命の首謀者で日本に亡命していた金玉均(キム・オッキュンKim 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-16-3)

「玄武門攻撃随—軍功者原田重吉氏登奮戦図」(出典:国立国会図書館、(注1) 出典:国立公文書館アジア歴史資料センター・大英博物館共同インターネット特別展(注2) 上に掲載した錦絵は日清戦争で軍功を挙げたとして、一躍有名になった一等卒・原田重吉(1868-1938)が平壌総攻撃の1894(明治27)年9月15日に要塞となっていた平壌の玄武門によじ登り、内側から門の扉を開けて部隊を入れ、日本軍を勝利に導いた時の様子を描いたものです。この41年後に萩原朔太郎がノンフィクション「日清戦争異聞—原田重吉の夢」を発表しました。初出は朔太郎の個人雑誌『生理』の1935(昭和10)年2月号です。朔太郎がなぜ実在の軍功者の名前を使って、大幅な脚色を日中戦争の2年ほど前に発表したのか探りたいと思いますが、その前に、実在の原田重吉のその後が1932(昭和7)年1月18日の報知新聞に掲載されたので、紹介します。 重吉は報道時点では65歳でした。郷里は現在の愛知県豊田市で、日露戦争にも出征しました。日清戦争から凱旋すると、お祝いに来る人が絶えず、「飲み倒され、当時の金で千何百円という借金が出来てしまった。とやかく言われながら、仕方なく舞台に立ったのも、此の借金が返したいからであった」とのことです。舞台に立ったというのは、朔太郎も採用した、実物が演じる田舎芝居です。本物の原田重吉は借金を返した後、農業にもどり、麦の増産に精進し、報道によると、「大正十二年、十三年に亘って、郡農会や知事から表彰された程である。したがって玄武門の勇士は、今では東加茂郡きっての篤農家として、村の尊敬を一身に集めている」((注3), pp.134-35)そうです。 この出典は太平洋戦争の最中、1943(昭和18)年に出版された『大国史美談』と題された本です。「序」に出版の意図が書かれていますが、英米を相手に戦っている時代に、子どもたちに「皇国の道に則って」「国民精神の涵養上特に尊重すべき国民的美談を豊富に提供し」、「青少年の教育にあたるべき教職員各位及び一般人士の読物となり、又青少年の課外読物にもなるよう心掛けつゝ書上げた」(pp.2-3)と述べられています。この前には、『大国史美談』を必要とする戦局が以下のように述べられています。
多年我が国勢の発展を嫉視し、常に毒牙を磨いて抑圧を加え来った英米両国は、赫々たる我が国戦果に驚き、遂に重慶政権と連衡[れんこう:連合]して戦を挑んで憚らざるようになった。我が国は奮然起ってこれに応じ、東西到る所で彼らに大鉄槌を加え、以て彼らをして顔色なからしめて居る。しかも彼等は物資の豊富を恃みとして長期持久の策を執り、小癪にも最後の勝利を夢みて居る。 もとより邪は正に勝ち難し。連衡の邪敵は敢て恐れるに及ばないが、油断は禁物、決して彼等を侮ることは出来ない。堅忍持久高度国防施設の強化を図ると共に、益々国民精神を発揮して、有始有終の勝利獲得に勇往邁進しなければならない。(p.2)

戦争美談のアンチテーゼとしての『日清戦争異聞』

 朔太郎の「日清戦争異聞」は報知新聞の報道に刺激されたのかもしれません。この作品は青空文庫で読むことができます(注4)。朔太郎の原田重吉は「軍隊生活の土産として、酒と女の味を知った」ため、「次第に放蕩に身を持ちくづし、とうとう壮士芝居の一座に入った」と、軍隊生活が人生を狂わせる構図にしています。そして見物客が喜ぶのは「重吉の経験した戦争ではなく、その頃錦絵に描いて売り出して居た『原田重吉玄武門破りの図』で、彼が「ただ一人で三十もの支那兵を斬り殺」すと、「見物は熱狂し、割れるように喝采した」と、戦争=大量殺戮に熱狂する多くの国民の姿を描いています。 もう一つの特色は、「支那兵」の描き方です。それは「日清戦争異聞」の始まり方に示されています。
 日清戦争が始まった。「支那も昔は聖賢の教ありつる国」で、孔孟の生れた中華であったが、今は暴逆無道の野蛮国であるから、よろしく膺懲[ようちょう]すべしという歌が流行った。月琴の師匠の家へ石が投げられた、明笛を吹く青年等は非国民として殴られた。(中略)[支那人]の辮髪は、支那人の背中の影で、いつも嘆息(ためいき)深く、閑雅に、憂鬱に沈思しながら、戦争の最中でさえも、阿片の夢のように逍遥って居た。彼等の姿は、真に幻想的な詩題であった。だが日本の兵士たちは、もっと勇敢で規律正しく、現実的な戦意に燃えていた。彼らは銃剣で敵を突き刺し、その辮髪をつかんで樹に巻きつけ、高梁[コーリャン]畑の薄暮の空に、捕虜になった支那人の幻想を野晒しにした。殺される支那人たちは、笛のような悲鳴をあげて、いつも北風の中で泣き叫んで居た。チャンチャン坊主は、無限の哀傷の表象だった。((注5), p. 404)
 「日清戦争異聞」はこれらの錦絵を描いているようですが、誇らしげに西洋の軍服姿で西洋式の軍隊で清国に戦争をしかける日本を描いた錦絵に対し、朔太郎の描写には自国で外国軍の捕虜になり、命乞いする清国軍の兵士将校たちへの哀傷の想いが窺われます。 朔太郎の原田重吉は戦争によって人生を破壊され、「しまいにはルンペンにまで零落し」、浅草公園の隅のベンチで「遠い昔の夢を思い出した」と描かれ、その夢の中で支那人と「黙って、何も言わず、無言に地べたに座りこんで」賭博をしていたと語られています。目が覚めると重吉は過去の記憶を思い出そうとしますが、思い出せず「そんな昔のことなんか、どうだって好いや!」と呟き、「また眠りに落ち、公園のベンチの上でそのまま永久に死んでしまった。丁度昔、彼が玄武門で戦争したり、夢の中で賭博をしたりした、憐れな、見すぼらしい日傭人の支那傭兵と同じように、そっくりの様子をして」(pp.407-409)と締めくくられています。 「日清戦争異聞」で原田重吉に「そんな昔のことなんか、どうだって好いや!」と言わせたことに朔太郎の重要なメッセージが込められているように感じます。この作品が発表される4年前に満州事変(1931)を起こした日本軍が、この2年後に日中戦争を始めたことが、日清戦争の続きのような流れになっていて、「そんな昔のこと」が繰り返されていることへの警鐘とも読めます。同時に満州事変から37年前に侵略して殺した中国兵と夢の中で仲間のように賭博ゲームをし、自分が死んだ時はその中国兵と「同じように、そっくりの様子をして」いたと描かれる点にも重要なメッセージが読み取れます。 「日清戦争異聞」が描いた原田重吉が自分を主人公とした壮士芝居に金儲けのために出演したこと以外は本人の人生と全く違うことは、1932年の新聞報道でも知られていたし、1943年刊の『大国史美談』で紹介されたことは見てきた通りですが、朔太郎が描いた原田重吉が事実だと現在の研究者は信じているようです。『日清戦争異聞 萩原朔太郎が描いた戦争』(2008, (注6))では、「原田重吉本人においては日露戦争は全くの空白であり、日清戦争でその生涯は終わっている」(p.65)と書かれ、『報知新聞』で報道された日露戦争にも出征したことが看過されています。『日清戦争—「国民」の誕生』(2009, (注7))でも原田重吉について「その後は酒色にふけり、ついに旅芝居の役者にまで身を落としている。美談の主になったことが、原田の人生を狂わせたのである」(pp.107-8)と解説されています。朔太郎が「異聞」と題したのですから、この内容が原田重吉の事実とは異なると想像するのが合理的でしょうが、「日清戦争異聞」が原田重吉その人の真実を語っていると信じる人が現在多いとしたら、それこそが朔太郎のフィクションの凄さを物語っていると喜ばしいです。

朔太郎の従兄・萩原栄次の日清戦争批判

 前節で萩原朔太郎が6歳の頃から大きな感化を受けた従兄の萩原栄次を紹介しましたが、栄次は24歳の年、日露戦争前の1902(明治35)年に父親に宛てた手紙の中で日清戦争批判を吐露しています。
考えれば考える程、兵役ほど馬鹿げた者はない。国民の義務だと云えばナルホド圧政な義務たるに相違ないが、是が人間の義務でない事はたしかだ。其がいつでも正義の敵、人道の蹂躙者を斃すのなら立派な役目であるが、時とすると無辜の民を屠る様な事がある。否、其の様な場合の方が却って多いのだ。日清戦争なども義戦だとか称してエバッテ居るが、真面目に考えると、あれは寧ろ正義にママいた戦争であった様だ。上の役人が正邪曲直を明察する立派な正しい人であるならば、ソノ様な非道な事をやらしはせまいが、今の日本ではソノ希望はだめだ。自分で是は人間のすまじき事だと考えて居ても、国益だ、国民の義務だなどとやたらに国家を笠にきせられてはシカタがない。人の道にママいても、国の法律を守らねばならぬ、コンナ馬鹿な事はあるまい。僕は人間を離れて国家があるまいと考える。人道にママいた忠義は、ホントウの忠義ではあるまいと考える。((注8), p.22)
 栄次は1900年に大阪医学校を卒業して、1903年10月まで前橋で朔太郎の父親の代診を務めていたので、16歳だった朔太郎と日清戦争について話し合っていた可能性は高いです。

日清戦争に反対した勝海舟

 日清戦争の最中に反対表明した数少ない人の中に勝海舟(1828-99)がいます。江戸城の無血開城の立役者だった海舟は西郷隆盛に談判に行き、その時の様子を語った談話が『氷川清話』に掲載されています。西郷が海舟の話を信用し、「『私が一身にかけて御引受けします』西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財産を保つことが出来、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ」((注9), p.73)と述べています。 この海舟が日本初の侵略戦争に反対したのも頷けますが、この事実を私たちが知ったのは、80年ほど後の1973年です。その理由は後ほど紹介しますが、勝海舟の談話を現代仮名遣いに直して引用します。
 日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も喰わないじゃないか。たとえ日本が勝ってもドーなる。支那はやはりスフィンクスとして外国の奴らが分らぬに限る。支那の実力が分ったら最後、欧米からドシドシ押し掛けて来る。ツマリ欧米人が分らないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。 一体支那五億の民衆は日本にとっては最大の顧客サ。また支那は昔時から日本の師ではないか。それで東洋の事は東洋だけでやるに限るよ。(p.269)
 勝海舟が日清戦争開戦時に「大反対」したという事実が1973年まで知られていなかった理由を2000年初版の講談社学術文庫版の編者の一人、松浦玲氏が「学術文庫版刊行に当って」と「解題」で述べています。1897(明治30)年刊の吉本襄(撰)『海舟先生 氷川清話』(注10)が現在に至るまで流布しているのですが、松浦氏は「勝海舟があんなことを喋る筈が無いという疑いを長く持っていた」((注9), p.3)ので、徹底的に洗いなおしたところ、「吉本が、海舟の談話を勝手に書き変え、海舟の真意をひどく歪曲していた」(p.381)ことが判明したそうです。例として、「海舟の痛烈な時局批判、明治政府批判はあらかた削りとられ、首相や閣僚を名指しで攻撃している談話が(中略)抽象的道徳論にすりかえられる。大臣の名前を差し替えて、別の内閣について論じているようにみせかけたものもある」(p.383)、「日清戦争を戦争中に批判した時局談は、削除するか、(中略)抽象論に書き変える」(p.384)等々が挙げられています。 そして松浦氏は「学術文庫版刊行に当って」(2000年10月)を以下のように締めくくっています。
海舟は、激動の十九世紀を鷲掴みにした上で二十世紀のアジアと世界を憂え、百年後の知己を待った。いま我々は二十世紀について結果を知っている。海舟において既知の十九世紀と、未知の二十世紀がどういう位相を呈していたか。それを正確に知ることは我々が未知の二十一世紀に対処するための何よりの勉強材料ではなかろうか。(pp.6-7)
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-16-2)

出典:『小國民』第五年第五号、1893(明治26)年3月15日刊(注1)

萩原朔太郎と従兄・萩原栄次と『小国民』

 萩原朔太郎が最初に接したと推測される足利尊氏像は児童雑誌『小国民』に掲載された高橋太華(1863-1947)著「足利尊氏」です。推測の根拠は、朔太郎が25歳の時に従兄の萩原栄次(1878-1936)に宛てて書いた手紙に、「小国民を読んで聴かせて下さった兄は私の一番なつかしい人でした」((注2), p.157)とあることです。『小国民』に対する思い入れがいかに大きいかも、この1ヶ月ほど前に同じく栄次宛の書簡で以下のように述べています。
 私は今でも時々、家の蔵の隅からあの古い小国民ヽヽヽ(朔太郎による強調)という雑誌を出して読み耽って居る事があります、先日家で多くの古雑誌や書物を売り払った時でも、あの雑誌だけは一冊も私が売らせませんでした。楽しい少年時代の夢、なつかしい人の思い出、そういう古い恋しい臭があの雑誌の一ページ毎にたゞようて居るように思われます、(pp.152-153)
 『小国民』が従兄・栄次への敬慕の思いと深く結びついていることがわかります。朔太郎は一世を風靡した第一詩集『月に吠える』(1917:大正6)を「従兄 萩原栄次氏に捧ぐ」と献辞で始めています。朔太郎の8歳年上の栄次は、1892(明治25)年7月から1896(明治29)年3月まで前橋で開業医をしていた朔太郎の生家に寄宿して前橋中学校に通いました。卒業後、「大阪大学医学部の前身である大阪医学校に入学」し、1900(明治33)年11月に卒業後、再び前橋に戻って、朔太郎の父の代診を2年間務め、その後、1903(明治36)年10月に「母校の大阪高等医学校付属病院(現在の大阪大学病院)、第二内科に入局」しました。1904(明治37)年8月に栄次は軍医として日露戦争に出征しますが、希望していた海外従軍が「叶えられず、内地勤務を命ぜられ、日赤富山支部第63班上席医員として、「日赤金沢病院で内科病室、将校病室、露国俘虜病室の責任者として勤務」しました。日露戦争後は生家のある大阪に帰って、大阪高等医学校付属病院に戻り、1906(明治39)年に生家の医業を継ぎ開業医をして、1936(昭和11)年に結核で亡くなりました((注3), pp.9-273)。 最初に栄次が朔太郎の生家で暮らした時、朔太郎は5歳〜10歳ですから、1893(明治26)年3月15日刊の『小国民』掲載の「足利尊氏」を栄次に読み聴かせてもらった可能性があります。『小国民』は現在の福島県郡山市出身の石井研堂(1865-1943)が1889(明治22)年に小学校低学年向きの雑誌の編集依頼を受けて、『小国民』の主筆となります。この雑誌が「予想を上回る売れ行きで即再販となり、当初月刊だったものが14号から月2回刊行と」なります(注4)

1893(明治26)年の『小国民』掲載「足利尊氏」

 1893年3月刊の『小国民』を栄次に読んでもらっていたとしたら、朔太郎は6歳です。その「足利尊氏」は「本朝五将軍傳」シリーズの2番目に挙げられています。時系列的に、源頼朝から始まり、尊氏の次は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と続きます。「足利尊氏」の作者である高橋太華は二本松藩の剣術指南役の次男として生まれ、藩校敬学館、郡山小学校を経て、福島県下で教員生活を送ったのち、東京帝国大学文学部古典講習科に入学しますが、病気のため退学したそうです。石井研堂が『小国民』を創刊する1年前に少年雑誌『少年園』を友人の山県悌三郎(1859-1940)と共に創刊します。執筆者には井上哲次郎、森鴎外、坪内逍遥、幸田露伴、落合直文、若松賎子など錚々たる人々がいました。太華はその後、石井研堂に誘われて『小国民』の創刊を手伝ったので、『小国民』の執筆陣にも太華の人脈が繋がっているそうです(注5)。 高橋太華著「足利尊氏」((注1), pp.49-56)は本節の最初にあげた表紙の号に掲載されていますが、そのオリジナルが石井研堂の故郷の郡山市立図書館デジタルアーカイブの「石井研堂資料」に収められています。どんな足利尊氏像を明治中期の子どもたちに伝えようとしているでしょうか。 まず、尊氏の出自から始めて、始めの名が高氏だったこと、後醍醐天皇が兵を起こした時に北条高時が高氏と弟の直義に攻めるよう命じますが、ちょうどその時高氏の父親が亡くなり、喪中だったのに戦に行くことを命じられ、イヤイヤ戦に行く様子が示唆されています。 その翌年、また北条高時が攻撃を命じますが、この時高氏は病身で、怒りを覚えて、北条高時が北条四郎時政の末孫なのに対し、自分は源氏の一族である、「然るに彼少しも憚る所なし、重ねて猶上洛の催促を加うる程ならば、一家を盡して上洛し、先帝の御方に参りて六波羅を攻め落とし、家の安否を定むべし」と思ったと憤りが、全6ページ弱のうちの2ページを費やして描かれています。この後の1ページ半ほどで六波羅を破るまでの経緯が述べられ、その結果、朝廷の覚えめでたく、「天皇は固より高氏を愛し給いければ、程なく従三位に進め参議に任し、御諱の尊の字をさえ賜りて名を尊氏と改めしめ」と天皇との関係がいいことが述べられます。

君に向かい弓を引き矢を放つことに煩悶する尊氏像

 ところが、「朝廷にては政権始めて王室に返りけれども、賞罰甚だ濫りにして、功ありて賞を得ざるの武人頗る多く、何れも王政のよからざるを慨し、一将種を戴きて天下の権を執らしめんと望み、心を尊氏に帰せざるはなし」と説明されます。この動きを後醍醐天皇の「皇子護良」が知り、尊氏を除こうとしたために、尊氏は天皇に護良が「声色に耽り」(音楽と女色に耽り)、「驕暴の士を近づけ」、「兵を募る」ことを天皇に訴えて、護良を鎌倉に流し、その後尊氏の弟直義が殺害したと述べられます。 北条時行が鎌倉で兵を起こすと、尊氏が討ち、征夷大将軍の座を求めますが、許されなかったために、鎌倉で自ら征夷将軍関東管領と称して、新田義貞を討とうとします。義貞が天皇に尊氏の罪状を訴えたので、「朝廷尊氏の官爵を削り、義貞をして討たしむ」と述べられ、それを聞いた尊氏の言葉が以下のように記され、2ページにまたがる挿絵も付けられています。 尚、今までの引用ではルビは省略していますが、当時の新聞同様、漢字には全てルビが施されています。以下の引用中、読みにくい漢字にだけルビを現代仮名遣いにして付します。
「我が官位顕逹けんたつ今日に至りしは、微功びこうるといえども、あに君の鴻恩こうおんあらずや、恩を戴きて恩にそむくは臣たるものゝせざる所なり、そもそも今君の逆鱗あるは親王を失い奉りたると、軍勢催促の両條なり、是一も尊氏が所爲にあらず、此仔細を陳ぜば逆鱗などが静まらざらん、方々は兎もかくも、尊氏に於ては君に向い弓を引き矢を放つことあるべからず、さてものがる所なくば剃髪染衣の形にもなり、君に不忠ならざることを子孫に残すべし」と曰(い)う。
 尊氏が建長寺に入って出家しようと、もとどりを切ったところに、伊豆まで攻め下りてきた新田義貞を迎え討って破れた直義が戻ってきて、尊氏の姿を見て驚きます。直義が説得した結果、尊氏は志を決して、「自ら大将となりて箱根を越え、官軍と戦いて大に打ち破り」と、その後の経緯が半ページで概略されています。この尊氏像の特徴は、朝廷に弓を引くぐらいなら出家すると、決して最初から朝廷に対して「不忠」だったわけではないという点です。そして「北朝の帝を立てゝ賊軍の名をのがれ、正二位征夷大将軍に任じ、南朝を国の一隅に縮めて、また振う能わざらしめ、再び武家の世として政権を握ること二十年、北朝の延文三年四月[1358]」に亡くなったと述べています。そして、尊氏の評価を「尊氏器宇弘裕きうこうゆうにして規略過大なり」として、尊氏が常に頼朝の治績を慕い、弟に「刑を用うること苛刻にして、そねみ疑うこと多かりしかば、骨肉の者すら横死を免れざりしは惜しかりき事なり。我は然らず、降参するものならば深髄大敵なりとも其領地を奪う如きことをせず、して功ある臣をや、必ず重禄厚賞を酬いんとするなり」と語ったと「足利尊氏」は締めくくられています。

1893年の尊氏像は正確だった

 2017(平成29)年刊の森茂暁著『足利尊氏』(注6)によって、124年前に朔太郎が読んだと推測される『小国民』掲載の「足利尊氏」に描かれた尊氏像が史実として正しいと判明しました。もちろん、森氏が『小国民』掲載の「足利尊氏」に言及しているわけではありませんが、様々な一次資料(各種古文書)にあたって、尊氏の後醍醐天皇への思いが朔太郎に刻み込まれたであろう尊氏像と同じであると証明されました。 それが日清戦争(1894-95)の頃から小学校の教科書で逆賊の側面が強められていき、高橋太華著「足利尊氏」では触れられていない楠木正成が忠臣として強調されるようになり、前節で紹介した朔太郎の「歴史教育への一抗議」が全文削除された年(1937)には、同様の尊氏論を発表した商工大臣が国会で追及されて辞任に追い込まれます。その結果、尊氏を研究することが困難になり、戦後半世紀後まで研究されなかったそうです((注6), p.9)。 続きを読む
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