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英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-16-5-2)

1895(明治28)年7月の『ニューヨーク・タイムズ』で日本のコレラ検疫対策が称賛されました。125年後の日本で注目された後藤新平の一大検疫事業です。一方、2020年の日本の新型コロナウイルス対策については、安倍政権の科学無視の対応をNYタイムズは批判しました。 彦島[下関]弟子待検疫所、田之首火葬場(注1)

「日本の衛生の進歩」(Sanitary Progress in Japan)

 1895年7月20日のNYタイムズに掲載された記事 「日本の衛生の進歩」は、6月1日に開始された23万人の日清戦争帰還兵の検疫事業について端的には述べていませんが、時期的には重なっているので、最初にこの記事を抄訳し、その後、日本がこの検疫事業をいかに行ったかをその報告書『臨時陸軍検疫部報告摘要』をもとに見ていきます。
 最近の記事でブラジルとアルゼンチン当局がアジア・コレラ(Asiatic cholera)の初期流行の抑え込みに成功したことを紹介した。(中略)これは過去12年ほどの南米における衛生行政の大きな進歩を示している。しかし、最近の日本の経験は、この分野での更に驚くべき進歩を示している。 日本は長年、中国から来るコレラ感染に晒されてきた。この島国は何度もこの感染のエピデミックに苦しんできた。1877年にようやく検疫所が設置され、衛生法ができたが、この仕事は当時のヨーロッパ人居留者の医師によって提案された。1877年から1890年の間に幾度かコレラの流行があったが、衛生行政は貧弱で効果がなかった。1890年から今年の春まで、日本はコレラに見舞われなかった。澎湖諸島(Pescadores Islands,台湾海峡にある諸島)と満州にいた軍隊の間でコレラが発生し、検疫規則があるにもかかわらず—現在は非常にいい—日本兵の帰還で港から内陸部にまで広まった。 戦争中に帰港地で最良の検疫規則をうまく実施するのは難しい。しかし、本州の39県のうち24以上の県でこの病気がすでに広がっている時に、この病気の抑え込みができたことは、日本の衛生行政がいかに素晴らしいかをはっきり示している。復員兵や軍隊と関連のある人々によってコレラが地方の100程度の村々に広がっていた時に、衛生当局は抑え込みを開始し、非常に厳しく、非常にうまく遂行したので、コレラが持ち込まれた軍港以外では、1,2の症例か多くても6例しか発生しなかった段階で、全ての感染地域で瞬く間に抑え込まれた。 汚染された港ではコレラは完全に抑え込まれたわけではないし、中国から日本兵の帰還が続く限り完全に抑え込まれることはないだろうが、軍港でのコレラは制限され、非常にうまく対処された。[1895年]6月中旬までの日本におけるコレラ症例は、本州の大部分にすでに広がっており、多数の地域が汚染されていたにもかかわらず、全部で1,400例以下だったので、2,3の港を除いてはコレラは抑え込まれたと我々は理解した。 日本にいる有能な観察者によると、日本政府が衛生行政を設立し、完成させるにあたって、また、最近のコレラ・エピデミックをコントロールし抑え込む仕事をするにあたって、他国の専門家からの助言や援助を受けなかったという。しかし、日本政府には数年前から衛生局の役人として日本生まれの著名な衛生と細菌学の専門家を複数抱えている事実を見逃してはならない。これらの人々の先頭にいるのは北里博士だ。彼はベルリンのコッホのもとで研究し、ベーリング(Emil von Behring:1854-1917)がジフテリア抗毒素の発見に結びついた実験をしている時にベーリングの同僚だった。実は北里博士はこの発見の名誉の一部を授けられるべき人物である。彼はドイツを離れる前に、動物の免疫と、現在、血清療法と呼ばれているものの使用に関する有益で貴重な調査を行った。母国の保健局の役人になった後、彼は「疫病」と呼ばれる古代の病気の特徴的なバシラス属[真正細菌]を中国で発見した。 日本はこの数年間、文明国の最も有用な特徴と発見と慣行を必死にこの島国に持ち込み、実現しようとしてきた。この事業の中に近代衛生が含まれていた。政府の代表が海外に送られ、教育に最適な人々から学んだ。これらの日本人はヨーロッパの知識を獲得して日本に戻ってその知識を使い、また他の日本人にその知識を授けた。世界はその知識が戦争でどう使われたか知っている。そして今後はそれがどう平和的技術に使われるか世界は見ていく。以下のいずれがより素晴らしいかを言うのは簡単ではない。この非常に興味深い国の人々によって欧米文明の多くの有用な特徴が即座に採用されることか、日本が採用した進歩のために海外に目を向わせた新たな衝動とその源か(注2)

1895年の検疫・隔離事業

 上の記事で称賛されている明治日本の衛生行政は、125年後の新型コロナ・ウィルス対策において令和の日本政府が学ぶべきお手本です。ところが、安倍・菅政権は真逆の対応をし、1年間で7,501人(2021年2月20日現在、(注3))の死者を出しています。約23万人の検疫・隔離をどう達成すべきかという問題に対応した内務省衛生局長・後藤新平(1857-1929)の大事業については、2020-21年のコロナ・ウィルス感染対策に右往左往する安倍・菅政権下の日本で注目を浴びました。この事業の詳細が1896(明治29)年に陸軍省から『臨時陸軍検疫部報告摘要』(注1)として公刊されました。これを読むと、細心の心配りがされた計画、実施内容であったことが伝わってきます。 その「緒言」で後藤は臨時陸軍検疫部設置の必要性、経緯、内容などについて10ページにわたって概略しています。戦争に疫病はつきもので、日清戦争後に帰還兵23万人が持ち込むコレラその他の感染症を水際対策で防がなければ、国中にコレラが広がり、「凱旋はたちまち悲鳴と化し哀慟となり」、多数の命が失われ「生産を害し戦闘以外更に一層大なる国力の疲弊を来せる」という心配を野戦衛生長官・石黒[忠悳ただのり:1845-1941]軍医総監に伝えました(p.1)。 同時に、彼が設立した「臨時陸軍検疫部」の精神が「仁慈に出でたるものなるに拘らず」(p.2)、1日も早く故郷に凱旋したい23万人を検査・消毒・隔離することがいかに難しいかも予想されていました。そこで周到な工程表を作成し、実施に当たって①検疫官の職権は独立強固であること、②検疫場の設備は伝染病学の学理に従うこと、③検疫作業は「分科判明、序次整然」(p.2)であることの3要件を徹底します。検疫作業を滞りなく進めるために、検疫の主旨と順序を説明した消毒場の案内図を数十万枚印刷配布して周知した結果、23万人が「整然乱れず我職員をして敏活の運動を為さしめたる」ものだった、「感嘆の至に堪えざるなり」(p.9)と述べています。この「臨時陸軍検疫所消毒場案内」は兵卒にも読めるように全漢字に和語の読み方のルビがふられています。そして、人夫たちにわかるようにコレラの感染の仕方、防ぎ方を解説した文書を配布しています。最後に、検疫した船舶数687艘、人員23万2346人、消毒した被服携帯品93万2779点と記されています。この後の詳細で、23万2346人のうち、検疫所を通過して凱旋した人数が16万9000人余、その帰途にコレラを発症したのはわずか37人だったと記載されています(p.66)。 この内容を要約して紹介します。付記するページ数は『臨時陸軍検疫部報告摘要』の該当ページです。なお、カタカナ書はひらがなに、できるだけ現代日本語に変えて引用します。

検疫事業の決断

    事業の重要性を理解し、潤沢な予算を即断:石黒が陸軍大臣に検疫設備を上申する一方、中央衛生会委員長谷川泰(1842-1912)も日清戦争後の防疫を内務大臣に建議して、1895年3月上旬に中央衛生会は後藤を広島大本営に送りました。内務大臣は参事官・久米金彌(1865-1932)を同行させ、広島で陸軍次官兼陸軍大臣代理の児玉源太郎(1852-1906)と石黒軍医総監と会議すると、児玉はこの設備の必要性をすぐに理解し、後藤に事務官長として全権を任せました。 後藤は検疫・消毒・隔離・病院・火葬場などの施設の建設・運営の費用として100万円と高めの見積もりを出しましたが、児玉は150万円を即決しました。後藤が当初提示した100万円は現在の100億円相当で、「当時の衛生局全体の予算を超える金額」((注4), p.49)だったそうです。 1895年3月30日勅令「臨時陸軍検疫部管制」発布;4月1日:児玉源太郎が部長、後藤新平が事務局長;10月31日「臨時陸軍検疫部」廃止

検疫所の選定(p.12)

    開港場を避け、広島・宇品、下関、大阪、北海道・小樽に検疫所を、100万円の経費で3ヶ月で設置する。広島の似島[にのしま]検疫所予定地は2万3000坪、建家8617坪;彦島検疫所[下関]1万9300坪、建家5926坪;桜島検疫所[大阪 ]2万40坪、建家6019坪。 似島検疫所では1日5,000〜6,000人、彦島桜島小樽の三検疫所では一日各2,500〜3,000人の検疫消毒を行うことが目的とされた。7月1日に検疫事業開始日と予定された。 日清戦争講和交渉の結果、復員兵の帰還が早まることになり、事業開始を1ヵ月繰り上げないと、事業の目的が達せられないことになった。そのため、小樽の検疫所を廃止し、3カ所の建設を大工職工役夫を増員し、昼夜兼行で建設を急がせ、6月1日開始に間に合わせた。

土木工事・建築工事(pp.66-9)

    3月下旬に土地借入に着手、4月4日以来土工を起こし、土地の削平、海面の埋め立てに日夜数千人の工夫が携わった。 彦島の工事中、5月17日に工夫がコレラを発症し、恐怖に感じた工夫の過半数が逃げてしまい工事中止になってしまったが、6月5日までには主要部分が完成した。 建物の種類と棟数:消毒部(似島14棟、彦島12棟、桜島10棟)、停留舎(似島24棟、彦島24棟、桜島15棟)、避[伝染病]病院(似島16棟、彦島13棟、桜島12棟)、其他事務所、兵舎、倉庫、炊事場、厠等、総棟数は似島139棟、彦島153棟、桜島109棟、外に火葬場各1箇所、汚物焼却場各2箇所

消毒装置の設計・製作(pp.14-6)

    消毒機関の設計は内務省の消毒所に設置された消毒汽鑵の設計を担当し、その技術に経験ある元内務省技手の下村当吉が主任となり、後藤新平が学術上改正を要すべき点を明示した。 4月3日に後藤は、中央衛生会委員・長谷川泰、医科大学教授医学博士緒方正規(まさのり:1853-1919;1886年に帝国大学医科大学の衛生学初代教授)、医科大学助教授坪井次郎(1863-1903)、内務省技師医学博士中浜東一郎(1857-1937;ジョン万次郎の息子)、伝染病研究所長医学博士北里柴三郎、陸軍省医務局長心得陸軍軍医監・足立寛(1842-1917)、同医務局御用取扱陸軍二等軍医正・吉田迂一、機関技術主任嘱託下村当吉を参列させて、陸軍検疫案を提出して審議に付した。 4カ所の検疫所に設置予定の蒸気消毒鑵は13組必要で、その製造据付を事業開始予定の7月1日前までとして、短期間での製造を神戸川崎造船所、大阪鐵工所、東京石川島造船所、東京三好工場等の四所に命じた。 消毒装置は汽鑵[ボイラー]と消毒罐とより成り、似島は5組、彦島桜島に各3組、小樽に設置すべきもの2組の計13組を製造し、その6組は神戸川崎造船所に、7組は大阪川口鉄工所が製造した。4月上旬に製造を命じ、工場側はその後の期限短縮を受け入れ、工費を増額せずに努めてくれて、似島桜島彦島の三所に運送してその据付を完了するまで、僅か2ヶ月だった。 消毒鑵の効果:北里博士が陸軍大臣の嘱託で各検疫所に出張し、消毒鑵の試験をし、消毒鑵装置が完全で30分で確実な効力があることを証明し、制作した技師職工の技術を賞賛。実務に服した下士卒が早く作業に練熟し、秩序を守って敏活に運動し、渋滞なく進めた。将校の指揮が良かったとはいえ、至誠をもってその職に当たった(pp.7-8)。似島の消毒は一昼夜に6,000人で、「世界唯一」(p.5)。

検疫従事者の教育・訓練・実習(pp.25-6)

    検疫業務は戦闘よりも危険で、自身が感染し、死に至ることがあるため、伝染病の性質を知り、検疫の手順を間違えないように訓練する必要がある。 「検疫は国家の安寧各人の健康を保護する仁恵的事業たるに拘らず大に人の嫌忌する所となり執行上諸多の困難なる事情の存する」。 事業開始前に大阪・大里、神戸・和田岬の二カ所に分遣兵を集めて、伝染病の性質、検疫の順序を教育し、自衛方法については、後藤新平「事務官長自ら教養の方法を講じ各軍医正以下の事務官をして実地に臨み丁寧に訓練せしめ船舶の構造消毒掃除に就ては特に日本郵船会社予備船長に嘱託し」、和田岬と下関の内務省検疫所で実習した。全⽂ルビ付き「傳染病豫防⼼得」:「傳染病でんせんびやうとはひと⾁眼にてることあたはざる(パテルス)とづくるむしが飲⾷物のみくひもの不潔物きたなきもの媒介なかだちによりてひとよりひと傳染でんせんするやまひにしてこのむしは腐敗くさやす飲⾷物のみくいもの
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-16-5-1)

アメリカの週刊誌『ハーパーズ・ウィークリー』(1894/11/10)の特派員が日清戦争について最初に取り上げたのが、戦争とは死者・負傷・疾病者の多さであり、日本政府はそれを国民に知らせまいとしているという指摘です。一方、NYタイムズは、日本軍がコレラが蔓延している中国で中国軍と疫病と同時に戦わなければならないが、日本の衛生局は進んでおり、感染症対策で著名な北里博士がいるから大丈夫だろうと報道しています。 釜山の病院内部 負傷者の移送日本帰還を待つ快復期の兵士たち

日本国民は戦争について事実を知らされていない

清戦争について、週刊誌『ハーパーズ・ウィークリー』が詳細な報道と評価をしているので、紹介します。強調しているのは、この戦争に関して日本国民は日本側に都合のいいことしか知らされていないと述べていることです。『ハーパーズ・ウィークリー』1894年11月10日号には釜山の野戦病院風景、負傷兵の移送、快復期にある傷病兵が日本への帰還を待つ姿の挿絵が付けられ、戦争とは勇壮だと謳歌するものではなく、病気になり、負傷し、死ぬことだという記者のメッセージが読み取れます。記者は疾病者の多さには触れていませんが、この戦争では病気になった兵士の数の方が負傷者より遥かに多かったことが挿絵から示唆されています。 これらの挿絵に挟まれて、「日本と中国の戦争について」((注1), p.1076)という特派員の記事が掲載されていますので、抄訳します。
 日本で会った欧米人全員が、もし日清戦争について関心のない国にいるとしたら、その国よりも日本にいる方が中国との戦争について知らされないと言った。最も信頼できる情報豊富なニュースはニューヨークとサンフランシスコの新聞だと言う。いくつかの理由から、日本政府は日本側に有利な情報しか報道させない。その自然な帰結として、短い報道を信用する者は誰もいない。ここ上海でも状況は似たようなものだ。ここの新聞は中国当局が認めたものしか受け取れないが、中国は敵よりももっと自由、と言うか不注意だから、新聞報道の行間を読むと、中国軍にとって惨事だというニュースを報道する。 私は両国の欧米系新聞だけについて述べる。ところで、横浜プレスは中国の主張を強く支持しているように見える。一方、上海の新聞は日本支持で、ここ上海の欧米人は状況をよく知っており、戦争に負けることで中国が100年間平和に貿易していた時より、中国の開国には貢献するだろうと理解している。そして、この認識は英語新聞に表明されている。両国とも、戦地からのニュースは読み手によって解釈されること以外は、何の価値もないと考えられている。(中略)日本政府がすべての戦争報道を抑圧している理由の一つは、国民に人命損失について知らせたくないからだ。これは日本の初めての戦争である。日本の戦士たちはこれまで白兵戦をしてきた。近代の戦争がもたらす膨大な数の人命損失を日本国民は理解できないだろう。日本中で民衆は戦地の情景を描いた凄絶なクロム・プリントを見せられている。(中略) 神戸では鉄道が政府に取り押さえられ、部隊を港まで運ぶためにだけ使われている。兵隊は港からコリア(Korea)に向かうのだ。15万人の男たちのほとんどがすでに渡ったので、政府は鉄道貨車を兵隊の冬の制服を運ぶために使っている。5万人の予備軍が常備軍に合併した巨大な軍隊が、北京へ進軍するのに必要な軍隊だと日本は考えている。 外見も規律も日本の兵隊はどのヨーロッパの国の軍隊と比べて見劣りしない。制服はすべてヨーロッパ式で武器も武装具も最新式だ。兵隊の服はまるでお抱えのテイラーに誂えてもらったかのようにピッタリだ。将校たちの多くは全くのダンディだ。その上、行軍と規律に関してほぼ完璧で、日本の1旅団や大隊が行軍する姿は壮観だ。非常に印象的なのは、彼らが新たに作曲された軍歌を歌いながら行軍するのを聞くことである。時には連隊が静かな田園を行進しながら、新しい軍歌の歌詞を練習するのを聞くことがある。軍曹が小さな本を持って、大声で読み上げると、兵士たちがその歌詞を歌い、それがあまりにも規律正しいので、連隊全体が一緒に歌うことになる。 中国の軍隊は残念ながら、称賛も尊敬も得ているとは言い難い。役人たちの腐敗が酷く、サラリー兵のリストが紙の上だけの兵士で、実際の兵士は少なく、役人たちは何年もペーパー兵士のサラリーを自分たちの懐に入れてきた。大隊を編成しろと命令されて、役人たちは多数のクーリーに制服を着せ、戦場に行かせた。(中略)彼らが訓練の行き届いた武器の揃った兵隊と戦うことを想像するのは、太陽がカボチャになることを想像するようなものだ。

日清戦争時の言論統制

 上記の記事の筆者ジュリアン・ラルフ(Julian Ralph: 1853-1903)はアメリカの著名なジャーナリストで、上記の記事が掲載される7ヶ月前の『ハーパーズ・ウィークリー』(1894年2月24日)に彼の署名入りポートレートと「ジュリアン・ラルフ」と題した人物評の長い記事が掲載されています。ニューヨーク生まれの彼がジャーナリストとして「裏町、病院、埠頭、暴動現場」などに送られ、新聞コラムにスラム街の悲惨な様子から花柳界の華やかな世界まで書き、視野を広げたことと、価値観の多様性を身につけたとのことです。ですから、彼はインディアン[ネイティブ・アメリカン]に同情し、「アメリカ西部を嘲笑せずに、南部について説教口調でなく書いた最初のニューヨーカー」(注2)と評されています。 ラルフが上記の記事で「日本政府は日本側に有利な情報しか報道させない」と書いたのは正確な観察です。明治政府は日清戦争前から「強力な言論統制の手段を持っていた」上、朝鮮出兵が決定すると「さらに言論統制を強化する措置を講じ」「一八九四年中に全国で治安妨害のかどで発行停止を受けた新聞社は一四〇社を超えた」((注3), p.159)そうです。一方で、「陸海軍で公表差し支えなしと判断した戦地の情報を広島県警察部[広島は日清戦争時の大本営地]に掲示し、事前に登録した新聞社に謄写させて新聞に掲載することを許可した。つまり大本営に、のちの記者クラブにあたる組織を設置した」のです。ところが、「戦況が日本有利になると、政府は戦争情報を積極的に開示するようになった」(p.161)そうです。 ラルフがかなり正確な情報を提供していることは、日本軍の兵力を20万人としていることにも表れています。実際の兵力は24万616名でした(p.239)。

日清戦争による日本軍の死傷者数

 ラルフほどの著名なジャーナリストが従軍記者として日清戦争をアメリカ読者に伝えるにあたって最初に選んだ挿絵は日清戦争の日本軍の特徴を示唆しています。というのは、日本陸軍側の総死者数が1万3488名とされていますが、軍夫の死者を含めると死者は2万人を越え、戦死・戦傷死が10%に対して、病死(脚気・赤痢・マラリア・コレラの順)が88%だったからです。また、挿絵「日本帰還を待つ快復期の兵士たち」に見られるように、負傷・疾病によって兵役を免除された者が3,794名で、凍傷の患者も多かったそうです(p. 240)。

進軍する日本兵は疫病とも戦わなければならなかった

 日清戦争の前から世界中でコレラが蔓延しているニュースがNYタイムズで度々報道されています。1894年から日本兵が帰還した1895年6月〜8月まで、NYタイムズの報道を通して、コレラが世界的にどう広がっていったのかを見ます。

1894年6月13日:

香港では1500人が既に死んでいて、香港に残っている人口の半分は避難した。ヨーロッパ人居住地では死者はまだ1人。現地人は毎日100人死んでおり、商業は麻痺状態(注4)

1894年7月28日:

プロイセンのエメリック(現ドイツ)からオランダに向けて出発しようとしていたオランダ船の乗船者にコレラ患者が出たため隔離された。

1894年11月28日:

ブラジルのリオデジャネイロとサンパウロの2州でコレラが蔓延し、8人が死亡。感染地域は隔離された。

1894年12月6日:「中国のコレラ」

 北京で9月にコレラが発現し、このアジア・コレラが北京で蔓延していることについて、海洋病院局(Marine Hospital Bureau)が報告書を出版した。10月11日時点で、コレラの惨害は「異常に激しい」。中国では「家屋、衣服、患者の消毒」について知られていない。 9月に国中から1万人から2万人の学生が科挙のために北京にやってきて、彼らには2万人から3万人の友人や付き添いがついて来た。この人々が首都にコレラを持ち込んだと推測される。その上、彼らは衛生管理が全くされていないため、コレラは彼らと共に出身地に運ばれただろう。冬の到来はこの伝染病が続くことを抑えるかもしれないが、一方、進軍する日本軍は中国軍と戦うとともに、疫病とも戦わなければならないだろう(訳者強調)。 しかし、日本はコレラやその他の感染症から身を守る方法を知っている。この帝国の衛生局は進んだ組織で、ここにコッホ教授の著名な弟子だった北里博士がいる。数ヶ月前に中国の疫病の原因と性質に関する注目すべき調査をし、この病気の病原菌を発見したのが北里博士だ。(p.4)

1895年1月9日:「ブラジルのコレラ」

 12月28日にアルゼンチンの複数の港でコレラの存在が報道されたが、ブラジルでは少なくともこの1ヶ月前に現れた。11月24日にサンパウロ鉄道沿線でコレラの蔓延が見られた。リオデジャネイロの海兵病院、衛生局監督のクリアリー医師によると、「最初に中国人(新規渡航者かどうかわからない)が発症し、瞬く間に鉄道の全駅と沿線の町々に広がり、サンパウロとリオデジャネイロ州にも広がった。死亡率は20%という報告と、全死者は8人という別の報告がある」。 政府は鉄道の運行を停止し、感染地域を隔離し、「エピデミックを止めるためにあらゆることをする」と言った。政府の12月1日の報告は「全交通が止められ、隔離と消毒が厳しく行われ、警察と軍隊が配置されて人の行き来が止められている。これによって病気の根絶が望まれている」と述べている。12月8日時点で、6箇所の感染駅で53発症例、10日に63発症例、6人死亡である。 8年前に南米でコレラが猛威をふるって以来、ブラジル政府の衛生局は大きく改善された。最近の蔓延がどこから始まったか不明である。最初の症例が港で見られたのではないことは注目すべきだ。症例が見られた内陸部は12月11日までに隔離されたが、これらの地域はパラグアイとアルゼンチンの大河の支流が通っている地域である。(p.4)

1895年4月10日:

中国の港でコレラが蔓延。

1895年5月6日:

インド・ペルシャ・ジャワを通って[中継地の]紅海のヒジャーズ(Hejaz)へ向かう巡礼者の間でコレラが蔓延し、巡礼者は10日以上隔離されることになっている。

1895年5月7日:「アラビア・コレラのルート」

 ボンベイからメッカに向かう巡礼を乗せた蒸気船が2隻、3月16日に紅海の最南端カマラン(Kamaran)に到着し、3月24日に最初の症例が見られた。4月12日までに49例、39人死亡し、死亡率は非常に高い。しかし、ボンベイではコレラは非常に少ない。これらの巡礼者が出発するまでの月にボンベイで死んだのは1人だけだ。 カマランで発症したのは隔離施設が感染地である可能性がある。この施設は数年前から酷い状況だと悪名高い。感染の危険性が巡礼者の出発点であるインドではなく、この隔離施設の方が大きい。1881年にIazaretto が設立されて以降、メッカでコレラが発症し、アラビアの聖地中で7回も蔓延したが、この隔離施設が設立される前の10年間で発症したのは2回だけだ。メッカでコレラが現れたことは極めて重要だ。なぜならこの病気はGaliciaで消滅したし、ロシアではほとんど見られないからだ。アラビアで適切な衛生規則を強要しなかった[欧米]列強の失敗の責任が今やヨーロッパが東洋からの新たな感染の危機にさらされることになる。

1895年6月1日:「極東のコレラ—日本当局はこの病気のコントロールに成功」

 横浜の海兵病院衛生局監督のスチュアート・エルドリッジ(Stuart Eldridge)がワイマン大将(General Wyman)に5月10日に以下のことを報告した。[日本]南部の陸海軍兵站部のある地域におけるコレラ発症は1,2例だけである。兵庫と大阪でも単独の発症例があるが、今のところ、この病気はエピデミックというような状況ではない。日本当局はコレラを見事にうまい方法でコントロールしている。「疫病」と呼べる事象が香港とマカオで起こっており、当局はこの事実を隠蔽しようとしている。

1895年7月4日:

「南米でコレラと善戦」

1895年7月5日:

ペンシルベニア州ピットン(Pittston)でコレラ—ポーランド人の下宿で2人死亡」

1895年7月12日:「日本でコレラ死」

6月15日の週に大阪と兵庫で6人が発症し、5人が死亡と報告された。同時期に横浜と長崎では発症例がなかった。

1895年7月20日:「日本の衛生管理の進歩」

[次節で抄訳します]

1895年7月23日:「小アジアのコレラ—ロシアとオーストリアが協調して感染をコントロール」

1895年7月29日:「コレラ死5000人」

日本でコレラが発生してから、9000人が発症し、5000人が死亡。コリアと遼東半島で猛威をふるっている。

1895年8月4日:「今シーズンのコレラ記録」

 コレラに関してヨーロッパは今のところ幸運だ。昨年夏にロシアの感染地からドイツ・フランス・ベルギー・オーストリアに広がり、死亡率はGalicia以外では高くなかったが、感染は数ヶ月続いた。ロシアではコレラが冬中、存在し、死亡率が最近2,3地域で増加したが、ヨーロッパの他の地域では影響がなかった。ロシアで第二波が起こったら、ロシアとオーストリア政府は貿易交流を停止することに同意した。 ロシアはこの病気が日本とコリアからウラジオストック港を経由してシベリアに侵入してくることを恐れて、医師と衛生管理担当者をウラジオストックに送った。いまだに日本・コリア・満州で猛威をふるっているコレラは、コリア・満州から日本に入った。

1895年8月10日:

ロシアのPodoliaで猛威をふるっているコレラの患者用に臨時病院が建てられることになったが、住民が反対して暴動を起こし、鎮圧に軍隊の導入が必要な事態だ。

1895年8月11日:

オーストリア=ポーランドと南ロシアでコレラの拡大

1895年8月17日:

中国・コリア・フォーモサ[台湾]のコレラ—これらの国のコレラ拡大が深刻

1895年8月30日:

北京のコレラ死が今月4万人と公表された。

北里柴三郎の訴え

 NYタイムズで紹介された北里柴三郎(1853-1931)は、コレラ菌を1885年に発見したコッホ(Heinrich 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-16-4)

日清戦争当時、日本中が熱狂し、内村鑑三が「義戦」と熱烈に支持した戦争が、ソウル・北京・東京のアメリカ公使が国務省に報告した外交文書からは、日本が不当に仕掛けた戦争だったことが見えて来ます。

日清戦争を野蛮対文明の戦い、義戦と支持した知識人

 日清戦争(1894-95)当時のメディアも世論も戦争を熱狂的に支持しました。福澤諭吉や内村鑑三などの知識人までもが日清戦争を支持していたのは驚きです。福澤諭吉(1835-1901)は1875(明治8)年初版の『文明論之概略』の中で、ペリーの開国要求を「我と商売せざる者は之を殺すと云うに過ぎず」((注1), p.22)、欧米文明の中での「国と国との交際に至ては唯二箇條あるのみ云く平時はものを売買して互に利を争い事あれば武器を以て相殺すなり言葉を替えて云えば今の世界は商売と戦争の世の中と名くるも可なり」(pp.12-13)と述べていました。その約20年後に日清戦争を「『文明と野蛮の戦い』と捉え、この『文明の戦争』のために国民は一心協力すべきだ、たとえば軍費を醵出きょしゅつしようではないか、とその主宰する『時事新報』の社説(明治二十七年七月二十九日=豊島沖の海戦の捷報しょうほうが伝えられた日)で説いた」と指摘されています((注2), p.303)。 一方、内村鑑三(1861-1930)は日本から世界に発信する英字新聞The Japan Weekly Mailの1894(明治27)年8月11日号に”Justification for the Korean war”(コリア戦争の正当性)を、その日本語訳「日清戦争の義」を『国民之友』(9月3日号)に掲載しました。なぜ欧米読者宛には「コリア戦争」と言っているのかは、アメリカ外交文書を読むとわかります。 「吾人は信ず日清戦争は吾人に取りては実に義戦なりと、其義たる法律的にのみ義たるに非らず、倫理的に亦た然り」((注3), p.105)と宣言して、その理由を述べています。しかし、終戦の頃には「義戦」ではなかったことを知り、世間に「義戦」と訴えたことを恥じ、日露戦争(1904-05)時には、戦争に「義戦」などはないとして「非戦論」を訴えます(注4)

アメリカ外交文書から見る日清戦争

 1894年のアメリカ外交文書補遺に「中国-日本戦争」(Chinese-Japanese war、(注5))という題名で、日清戦争が始まるまでの経緯を詳細に報じたものがあります。1893年の東学党反乱の鎮圧を名目として日本がソウルに派兵した時から1895年3月の下関条約交渉までのアメリカ国務省と北京、ソウルのアメリカ公使とのやり取りが掲載されています。総ページ数100ページ、電信文書数110以上の詳細な内容です。日本で「義戦」、「文明の戦争」と熱狂的に支持された戦争が中国、朝鮮、アメリカではどう理解されていたのか見ます。なお、アメリカ外交文書でも英米メディアでも国名はChina, Koreaとなっているので、「中国」「コリア」と訳します。「コリア」の綴りはこの時期のメディアではCoreaとKoreaが混用されていますが、外交文書は一貫してKoreaです。

東学信者の請願

 「中国-日本戦争」の文書No.1はソウルのアメリカ総領事オーガスティン・ハード(Augustine Heard: 1827-1905)から国務長官ウォルター・グレシャム(W.Q. Gresham: 1832-1895)宛の3ページ半にわたる報告です。これ以降「ソウル発」と表記する文書は在ソウル・アメリカ公使館から国務長官宛に出された文書です。重要と思われる文書を抄訳します。

No.1、ソウル発、1893年4月4日(pp.5-8):

 2,3日前から、40人ほどの男たちが宮殿の門の前に跪き、宮廷の役人が出てきて、彼らの請願書を受け取って、国王に渡してくれることを要求している。この男たちは1859年に起こった新興宗教の代表者たちで、創始者・崔済愚(チェ・ジェウ、さいせいぐ Che Cheng: 1824-1864)は1864年に全羅道(チョルラド)の知事によって、異端者・魔術師として処刑された。この宗派を根絶するために、あらゆることが行われてきたが、迫害されたからか、逆に信者が急増し、主に南部で現在数千人の信者がいる。 請願書の内容はわからないが、第一の目的は創始者の処刑の罪状を取り消して、彼らの信仰を認めてほしいというものだと言われている。また、外国人とキリスト教への抗議と、コリア国王が介入するよう求めているらしい。今、門前にいるのは40人だけだが、ソウル市内に数百人から数千人いると見られており、40人が疲れた頃、新たなメンバーに代わる。東学の現在のリーダーによると、東学は1859年に儒教・仏教・道教をもとにした[西欧に対する東の]教えを立ち上げた。 東学による欧米牧師の襲撃が続いており、コリア政府はジレンマに陥っている。もし請願書を受け取ったら、外国に敵対することになる。無視したら革命が起こると。3月31日に国王は決断を下し、門前の信者を追放した。請願書を受け取らなかった理由は適切な手続きを経なかったからだった。翌日、国王は詔勅を出し、東学信徒に対して、間違った教義を捨て、正しい儒教の教えを学ぶよう父親のように諭した。

東学から日本公使館への警告

No.4、ソウル発、1893年4月20日(pp.10-11):

 学者や役人の団体が東学信者を厳しく罰してほしいと国王に嘆願書を出した。[アメリカ総領事の感想]コリアンは平和的な性格で、暴動は長いことなかったため、外国人(欧米人)には危機感は全くない。 4月13日に日本領事が日本人住民に警告を発した。女子どもは仁川(インチョン、Chemulpo)に移動できるよう準備をすること;コリア当局は全力で守ろうとするだろうが頼りにならないから、頑強な男たちは警察か公使館に知らせよ。この警告を入手したアメリカ総領事は日本領事に、どんな情報に基づいての警告か尋ねたら、噂だという。日本公使館の警告に反応して東学が日本公使館にプラカードを貼った。アメリカ公使館による英訳(p.14)の一部 あなた方は強欲におせっかいに他国にやってきて介入し、衝突するのを主な仕事とし、自分たちの起源を殺害する。一体これはどんな精神なのか、なぜこんなことをするのか? 以前、1592年[豊臣秀吉の朝鮮出兵]に日本が国中の軍力を集めてコリアを侵略し、完全に全滅してから戻ったことについて、コリアはどんな許されない罪を犯したというのか? 私たちは本当に悲しく悲惨だった! これをどうして忘れられようか! 私たちには忘れることのできない敵意が本当にあなた方に対してある。しかし、あなた方が私たちに敵対する忘れられない思いとは何なのか? なぜあなた方は東方の国(コリア)の賢者にもう一度耳を傾けないのか?(中略)できるだけ早くあなた方の国に帰れ。
訳者注:「自分たちの起源を殺害する」の英訳は”murder the origin [of your coming]”となっていて、[ ]内は英訳者の補足です。これは、日本が朝鮮半島から渡来人が技術・文化をもたらして成り立った国を意味した”origin”(由来、素性、原点)と理解できます。 昭仁上皇も2001年に「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」と認めています(注6)。また勝海舟は上記の東学の主張の書かれたちょうど1年後の1894(明治27)年4月に「朝鮮は昔お師匠様」という趣旨の談話をしています。東学の主張と重なる貴重な内容なので引用します。
朝鮮を馬鹿にするのも、たゞ近来の事だヨ。昔は日本文明の種子は、みな朝鮮から輸入したのだからノー。特に土木事業などは、ことごとく朝鮮人に教わったのだ。いつか山梨県のあるところから、石橋の記を作ってくれ、と頼まれたことがあったが、その由来記の中に「白衣びゃくえの神人来りて云々」という句があった。白衣で、そしてひげがあるなら、疑いもなく朝鮮人だろうヨ。この橋の出来たのが、既に数百年前というから、数百年も前には、朝鮮人も日本人のお師匠様だったのサ。((注7), p.248)

中国軍と日本軍の朝鮮出兵

No.5, ソウル発、1893年5月1日(pp.14-16):

 騒動があるという南部へ調査に言っていたコリアンと、南部から来たカトリック神父の話では東学の集会も騒動もない。

No.6, ソウル発、1893年5月16日(p.15):

 東学信者数千人が忠清道(チュンチョンド)の東部に集結し、その数は日毎に増えているという報告。彼らは武器はないが、毎日訓練し、野営地に塀を築き、真ん中に「日本人と外国人をぶっ潰せ! 正義が栄えますよう!」と書かれた大きな旗を立てて、周囲には小さな旗にそれぞれの出身地を書いている。役人が解散するよう言ったが、彼らは聞く耳を持たず、軍隊を求めた。 5月15日に西洋式訓練を受けた800人の部隊が道を封鎖するために出動した。東学の旗には暴力的なことが書かれており、外国人は恐怖を感じているが、私[アメリカ総領事]は実際に暴力があるか疑問視している。彼らがソウルに到着しても、恐れなければいけないのは都市の暴徒の方だ。東学自身は危険ではないと信じている。彼らは静かで平和的で、創始者の名誉回復と自分たちの宗教を認めてほしいだけだ。彼らは極貧の人々を集め、政党の支配下にあるのかもしれないが、その党が何かわからない。

金玉均の暗殺報告

No.7, ソウル発、アメリカ公使館書記官・アレン(H.N. Allen: 1858-1932)から国務長官宛、1894年4月6日(pp.16-7):

 3月30日早朝に国王の役人がやってきて、1884年の革命の首謀者で日本に亡命していた金玉均(キム・オッキュンKim 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-16-3)

「玄武門攻撃随—軍功者原田重吉氏登奮戦図」(出典:国立国会図書館、(注1) 出典:国立公文書館アジア歴史資料センター・大英博物館共同インターネット特別展(注2) 上に掲載した錦絵は日清戦争で軍功を挙げたとして、一躍有名になった一等卒・原田重吉(1868-1938)が平壌総攻撃の1894(明治27)年9月15日に要塞となっていた平壌の玄武門によじ登り、内側から門の扉を開けて部隊を入れ、日本軍を勝利に導いた時の様子を描いたものです。この41年後に萩原朔太郎がノンフィクション「日清戦争異聞—原田重吉の夢」を発表しました。初出は朔太郎の個人雑誌『生理』の1935(昭和10)年2月号です。朔太郎がなぜ実在の軍功者の名前を使って、大幅な脚色を日中戦争の2年ほど前に発表したのか探りたいと思いますが、その前に、実在の原田重吉のその後が1932(昭和7)年1月18日の報知新聞に掲載されたので、紹介します。 重吉は報道時点では65歳でした。郷里は現在の愛知県豊田市で、日露戦争にも出征しました。日清戦争から凱旋すると、お祝いに来る人が絶えず、「飲み倒され、当時の金で千何百円という借金が出来てしまった。とやかく言われながら、仕方なく舞台に立ったのも、此の借金が返したいからであった」とのことです。舞台に立ったというのは、朔太郎も採用した、実物が演じる田舎芝居です。本物の原田重吉は借金を返した後、農業にもどり、麦の増産に精進し、報道によると、「大正十二年、十三年に亘って、郡農会や知事から表彰された程である。したがって玄武門の勇士は、今では東加茂郡きっての篤農家として、村の尊敬を一身に集めている」((注3), pp.134-35)そうです。 この出典は太平洋戦争の最中、1943(昭和18)年に出版された『大国史美談』と題された本です。「序」に出版の意図が書かれていますが、英米を相手に戦っている時代に、子どもたちに「皇国の道に則って」「国民精神の涵養上特に尊重すべき国民的美談を豊富に提供し」、「青少年の教育にあたるべき教職員各位及び一般人士の読物となり、又青少年の課外読物にもなるよう心掛けつゝ書上げた」(pp.2-3)と述べられています。この前には、『大国史美談』を必要とする戦局が以下のように述べられています。
多年我が国勢の発展を嫉視し、常に毒牙を磨いて抑圧を加え来った英米両国は、赫々たる我が国戦果に驚き、遂に重慶政権と連衡[れんこう:連合]して戦を挑んで憚らざるようになった。我が国は奮然起ってこれに応じ、東西到る所で彼らに大鉄槌を加え、以て彼らをして顔色なからしめて居る。しかも彼等は物資の豊富を恃みとして長期持久の策を執り、小癪にも最後の勝利を夢みて居る。 もとより邪は正に勝ち難し。連衡の邪敵は敢て恐れるに及ばないが、油断は禁物、決して彼等を侮ることは出来ない。堅忍持久高度国防施設の強化を図ると共に、益々国民精神を発揮して、有始有終の勝利獲得に勇往邁進しなければならない。(p.2)

戦争美談のアンチテーゼとしての『日清戦争異聞』

 朔太郎の「日清戦争異聞」は報知新聞の報道に刺激されたのかもしれません。この作品は青空文庫で読むことができます(注4)。朔太郎の原田重吉は「軍隊生活の土産として、酒と女の味を知った」ため、「次第に放蕩に身を持ちくづし、とうとう壮士芝居の一座に入った」と、軍隊生活が人生を狂わせる構図にしています。そして見物客が喜ぶのは「重吉の経験した戦争ではなく、その頃錦絵に描いて売り出して居た『原田重吉玄武門破りの図』で、彼が「ただ一人で三十もの支那兵を斬り殺」すと、「見物は熱狂し、割れるように喝采した」と、戦争=大量殺戮に熱狂する多くの国民の姿を描いています。 もう一つの特色は、「支那兵」の描き方です。それは「日清戦争異聞」の始まり方に示されています。
 日清戦争が始まった。「支那も昔は聖賢の教ありつる国」で、孔孟の生れた中華であったが、今は暴逆無道の野蛮国であるから、よろしく膺懲[ようちょう]すべしという歌が流行った。月琴の師匠の家へ石が投げられた、明笛を吹く青年等は非国民として殴られた。(中略)[支那人]の辮髪は、支那人の背中の影で、いつも嘆息(ためいき)深く、閑雅に、憂鬱に沈思しながら、戦争の最中でさえも、阿片の夢のように逍遥って居た。彼等の姿は、真に幻想的な詩題であった。だが日本の兵士たちは、もっと勇敢で規律正しく、現実的な戦意に燃えていた。彼らは銃剣で敵を突き刺し、その辮髪をつかんで樹に巻きつけ、高梁[コーリャン]畑の薄暮の空に、捕虜になった支那人の幻想を野晒しにした。殺される支那人たちは、笛のような悲鳴をあげて、いつも北風の中で泣き叫んで居た。チャンチャン坊主は、無限の哀傷の表象だった。((注5), p. 404)
 「日清戦争異聞」はこれらの錦絵を描いているようですが、誇らしげに西洋の軍服姿で西洋式の軍隊で清国に戦争をしかける日本を描いた錦絵に対し、朔太郎の描写には自国で外国軍の捕虜になり、命乞いする清国軍の兵士将校たちへの哀傷の想いが窺われます。 朔太郎の原田重吉は戦争によって人生を破壊され、「しまいにはルンペンにまで零落し」、浅草公園の隅のベンチで「遠い昔の夢を思い出した」と描かれ、その夢の中で支那人と「黙って、何も言わず、無言に地べたに座りこんで」賭博をしていたと語られています。目が覚めると重吉は過去の記憶を思い出そうとしますが、思い出せず「そんな昔のことなんか、どうだって好いや!」と呟き、「また眠りに落ち、公園のベンチの上でそのまま永久に死んでしまった。丁度昔、彼が玄武門で戦争したり、夢の中で賭博をしたりした、憐れな、見すぼらしい日傭人の支那傭兵と同じように、そっくりの様子をして」(pp.407-409)と締めくくられています。 「日清戦争異聞」で原田重吉に「そんな昔のことなんか、どうだって好いや!」と言わせたことに朔太郎の重要なメッセージが込められているように感じます。この作品が発表される4年前に満州事変(1931)を起こした日本軍が、この2年後に日中戦争を始めたことが、日清戦争の続きのような流れになっていて、「そんな昔のこと」が繰り返されていることへの警鐘とも読めます。同時に満州事変から37年前に侵略して殺した中国兵と夢の中で仲間のように賭博ゲームをし、自分が死んだ時はその中国兵と「同じように、そっくりの様子をして」いたと描かれる点にも重要なメッセージが読み取れます。 「日清戦争異聞」が描いた原田重吉が自分を主人公とした壮士芝居に金儲けのために出演したこと以外は本人の人生と全く違うことは、1932年の新聞報道でも知られていたし、1943年刊の『大国史美談』で紹介されたことは見てきた通りですが、朔太郎が描いた原田重吉が事実だと現在の研究者は信じているようです。『日清戦争異聞 萩原朔太郎が描いた戦争』(2008, (注6))では、「原田重吉本人においては日露戦争は全くの空白であり、日清戦争でその生涯は終わっている」(p.65)と書かれ、『報知新聞』で報道された日露戦争にも出征したことが看過されています。『日清戦争—「国民」の誕生』(2009, (注7))でも原田重吉について「その後は酒色にふけり、ついに旅芝居の役者にまで身を落としている。美談の主になったことが、原田の人生を狂わせたのである」(pp.107-8)と解説されています。朔太郎が「異聞」と題したのですから、この内容が原田重吉の事実とは異なると想像するのが合理的でしょうが、「日清戦争異聞」が原田重吉その人の真実を語っていると信じる人が現在多いとしたら、それこそが朔太郎のフィクションの凄さを物語っていると喜ばしいです。

朔太郎の従兄・萩原栄次の日清戦争批判

 前節で萩原朔太郎が6歳の頃から大きな感化を受けた従兄の萩原栄次を紹介しましたが、栄次は24歳の年、日露戦争前の1902(明治35)年に父親に宛てた手紙の中で日清戦争批判を吐露しています。
考えれば考える程、兵役ほど馬鹿げた者はない。国民の義務だと云えばナルホド圧政な義務たるに相違ないが、是が人間の義務でない事はたしかだ。其がいつでも正義の敵、人道の蹂躙者を斃すのなら立派な役目であるが、時とすると無辜の民を屠る様な事がある。否、其の様な場合の方が却って多いのだ。日清戦争なども義戦だとか称してエバッテ居るが、真面目に考えると、あれは寧ろ正義にママいた戦争であった様だ。上の役人が正邪曲直を明察する立派な正しい人であるならば、ソノ様な非道な事をやらしはせまいが、今の日本ではソノ希望はだめだ。自分で是は人間のすまじき事だと考えて居ても、国益だ、国民の義務だなどとやたらに国家を笠にきせられてはシカタがない。人の道にママいても、国の法律を守らねばならぬ、コンナ馬鹿な事はあるまい。僕は人間を離れて国家があるまいと考える。人道にママいた忠義は、ホントウの忠義ではあるまいと考える。((注8), p.22)
 栄次は1900年に大阪医学校を卒業して、1903年10月まで前橋で朔太郎の父親の代診を務めていたので、16歳だった朔太郎と日清戦争について話し合っていた可能性は高いです。

日清戦争に反対した勝海舟

 日清戦争の最中に反対表明した数少ない人の中に勝海舟(1828-99)がいます。江戸城の無血開城の立役者だった海舟は西郷隆盛に談判に行き、その時の様子を語った談話が『氷川清話』に掲載されています。西郷が海舟の話を信用し、「『私が一身にかけて御引受けします』西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財産を保つことが出来、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ」((注9), p.73)と述べています。 この海舟が日本初の侵略戦争に反対したのも頷けますが、この事実を私たちが知ったのは、80年ほど後の1973年です。その理由は後ほど紹介しますが、勝海舟の談話を現代仮名遣いに直して引用します。
 日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も喰わないじゃないか。たとえ日本が勝ってもドーなる。支那はやはりスフィンクスとして外国の奴らが分らぬに限る。支那の実力が分ったら最後、欧米からドシドシ押し掛けて来る。ツマリ欧米人が分らないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。 一体支那五億の民衆は日本にとっては最大の顧客サ。また支那は昔時から日本の師ではないか。それで東洋の事は東洋だけでやるに限るよ。(p.269)
 勝海舟が日清戦争開戦時に「大反対」したという事実が1973年まで知られていなかった理由を2000年初版の講談社学術文庫版の編者の一人、松浦玲氏が「学術文庫版刊行に当って」と「解題」で述べています。1897(明治30)年刊の吉本襄(撰)『海舟先生 氷川清話』(注10)が現在に至るまで流布しているのですが、松浦氏は「勝海舟があんなことを喋る筈が無いという疑いを長く持っていた」((注9), p.3)ので、徹底的に洗いなおしたところ、「吉本が、海舟の談話を勝手に書き変え、海舟の真意をひどく歪曲していた」(p.381)ことが判明したそうです。例として、「海舟の痛烈な時局批判、明治政府批判はあらかた削りとられ、首相や閣僚を名指しで攻撃している談話が(中略)抽象的道徳論にすりかえられる。大臣の名前を差し替えて、別の内閣について論じているようにみせかけたものもある」(p.383)、「日清戦争を戦争中に批判した時局談は、削除するか、(中略)抽象論に書き変える」(p.384)等々が挙げられています。 そして松浦氏は「学術文庫版刊行に当って」(2000年10月)を以下のように締めくくっています。
海舟は、激動の十九世紀を鷲掴みにした上で二十世紀のアジアと世界を憂え、百年後の知己を待った。いま我々は二十世紀について結果を知っている。海舟において既知の十九世紀と、未知の二十世紀がどういう位相を呈していたか。それを正確に知ることは我々が未知の二十一世紀に対処するための何よりの勉強材料ではなかろうか。(pp.6-7)
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-16-2)

出典:『小國民』第五年第五号、1893(明治26)年3月15日刊(注1)

萩原朔太郎と従兄・萩原栄次と『小国民』

 萩原朔太郎が最初に接したと推測される足利尊氏像は児童雑誌『小国民』に掲載された高橋太華(1863-1947)著「足利尊氏」です。推測の根拠は、朔太郎が25歳の時に従兄の萩原栄次(1878-1936)に宛てて書いた手紙に、「小国民を読んで聴かせて下さった兄は私の一番なつかしい人でした」((注2), p.157)とあることです。『小国民』に対する思い入れがいかに大きいかも、この1ヶ月ほど前に同じく栄次宛の書簡で以下のように述べています。
 私は今でも時々、家の蔵の隅からあの古い小国民ヽヽヽ(朔太郎による強調)という雑誌を出して読み耽って居る事があります、先日家で多くの古雑誌や書物を売り払った時でも、あの雑誌だけは一冊も私が売らせませんでした。楽しい少年時代の夢、なつかしい人の思い出、そういう古い恋しい臭があの雑誌の一ページ毎にたゞようて居るように思われます、(pp.152-153)
 『小国民』が従兄・栄次への敬慕の思いと深く結びついていることがわかります。朔太郎は一世を風靡した第一詩集『月に吠える』(1917:大正6)を「従兄 萩原栄次氏に捧ぐ」と献辞で始めています。朔太郎の8歳年上の栄次は、1892(明治25)年7月から1896(明治29)年3月まで前橋で開業医をしていた朔太郎の生家に寄宿して前橋中学校に通いました。卒業後、「大阪大学医学部の前身である大阪医学校に入学」し、1900(明治33)年11月に卒業後、再び前橋に戻って、朔太郎の父の代診を2年間務め、その後、1903(明治36)年10月に「母校の大阪高等医学校付属病院(現在の大阪大学病院)、第二内科に入局」しました。1904(明治37)年8月に栄次は軍医として日露戦争に出征しますが、希望していた海外従軍が「叶えられず、内地勤務を命ぜられ、日赤富山支部第63班上席医員として、「日赤金沢病院で内科病室、将校病室、露国俘虜病室の責任者として勤務」しました。日露戦争後は生家のある大阪に帰って、大阪高等医学校付属病院に戻り、1906(明治39)年に生家の医業を継ぎ開業医をして、1936(昭和11)年に結核で亡くなりました((注3), pp.9-273)。 最初に栄次が朔太郎の生家で暮らした時、朔太郎は5歳〜10歳ですから、1893(明治26)年3月15日刊の『小国民』掲載の「足利尊氏」を栄次に読み聴かせてもらった可能性があります。『小国民』は現在の福島県郡山市出身の石井研堂(1865-1943)が1889(明治22)年に小学校低学年向きの雑誌の編集依頼を受けて、『小国民』の主筆となります。この雑誌が「予想を上回る売れ行きで即再販となり、当初月刊だったものが14号から月2回刊行と」なります(注4)

1893(明治26)年の『小国民』掲載「足利尊氏」

 1893年3月刊の『小国民』を栄次に読んでもらっていたとしたら、朔太郎は6歳です。その「足利尊氏」は「本朝五将軍傳」シリーズの2番目に挙げられています。時系列的に、源頼朝から始まり、尊氏の次は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と続きます。「足利尊氏」の作者である高橋太華は二本松藩の剣術指南役の次男として生まれ、藩校敬学館、郡山小学校を経て、福島県下で教員生活を送ったのち、東京帝国大学文学部古典講習科に入学しますが、病気のため退学したそうです。石井研堂が『小国民』を創刊する1年前に少年雑誌『少年園』を友人の山県悌三郎(1859-1940)と共に創刊します。執筆者には井上哲次郎、森鴎外、坪内逍遥、幸田露伴、落合直文、若松賎子など錚々たる人々がいました。太華はその後、石井研堂に誘われて『小国民』の創刊を手伝ったので、『小国民』の執筆陣にも太華の人脈が繋がっているそうです(注5)。 高橋太華著「足利尊氏」((注1), pp.49-56)は本節の最初にあげた表紙の号に掲載されていますが、そのオリジナルが石井研堂の故郷の郡山市立図書館デジタルアーカイブの「石井研堂資料」に収められています。どんな足利尊氏像を明治中期の子どもたちに伝えようとしているでしょうか。 まず、尊氏の出自から始めて、始めの名が高氏だったこと、後醍醐天皇が兵を起こした時に北条高時が高氏と弟の直義に攻めるよう命じますが、ちょうどその時高氏の父親が亡くなり、喪中だったのに戦に行くことを命じられ、イヤイヤ戦に行く様子が示唆されています。 その翌年、また北条高時が攻撃を命じますが、この時高氏は病身で、怒りを覚えて、北条高時が北条四郎時政の末孫なのに対し、自分は源氏の一族である、「然るに彼少しも憚る所なし、重ねて猶上洛の催促を加うる程ならば、一家を盡して上洛し、先帝の御方に参りて六波羅を攻め落とし、家の安否を定むべし」と思ったと憤りが、全6ページ弱のうちの2ページを費やして描かれています。この後の1ページ半ほどで六波羅を破るまでの経緯が述べられ、その結果、朝廷の覚えめでたく、「天皇は固より高氏を愛し給いければ、程なく従三位に進め参議に任し、御諱の尊の字をさえ賜りて名を尊氏と改めしめ」と天皇との関係がいいことが述べられます。

君に向かい弓を引き矢を放つことに煩悶する尊氏像

 ところが、「朝廷にては政権始めて王室に返りけれども、賞罰甚だ濫りにして、功ありて賞を得ざるの武人頗る多く、何れも王政のよからざるを慨し、一将種を戴きて天下の権を執らしめんと望み、心を尊氏に帰せざるはなし」と説明されます。この動きを後醍醐天皇の「皇子護良」が知り、尊氏を除こうとしたために、尊氏は天皇に護良が「声色に耽り」(音楽と女色に耽り)、「驕暴の士を近づけ」、「兵を募る」ことを天皇に訴えて、護良を鎌倉に流し、その後尊氏の弟直義が殺害したと述べられます。 北条時行が鎌倉で兵を起こすと、尊氏が討ち、征夷大将軍の座を求めますが、許されなかったために、鎌倉で自ら征夷将軍関東管領と称して、新田義貞を討とうとします。義貞が天皇に尊氏の罪状を訴えたので、「朝廷尊氏の官爵を削り、義貞をして討たしむ」と述べられ、それを聞いた尊氏の言葉が以下のように記され、2ページにまたがる挿絵も付けられています。 尚、今までの引用ではルビは省略していますが、当時の新聞同様、漢字には全てルビが施されています。以下の引用中、読みにくい漢字にだけルビを現代仮名遣いにして付します。
「我が官位顕逹けんたつ今日に至りしは、微功びこうるといえども、あに君の鴻恩こうおんあらずや、恩を戴きて恩にそむくは臣たるものゝせざる所なり、そもそも今君の逆鱗あるは親王を失い奉りたると、軍勢催促の両條なり、是一も尊氏が所爲にあらず、此仔細を陳ぜば逆鱗などが静まらざらん、方々は兎もかくも、尊氏に於ては君に向い弓を引き矢を放つことあるべからず、さてものがる所なくば剃髪染衣の形にもなり、君に不忠ならざることを子孫に残すべし」と曰(い)う。
 尊氏が建長寺に入って出家しようと、もとどりを切ったところに、伊豆まで攻め下りてきた新田義貞を迎え討って破れた直義が戻ってきて、尊氏の姿を見て驚きます。直義が説得した結果、尊氏は志を決して、「自ら大将となりて箱根を越え、官軍と戦いて大に打ち破り」と、その後の経緯が半ページで概略されています。この尊氏像の特徴は、朝廷に弓を引くぐらいなら出家すると、決して最初から朝廷に対して「不忠」だったわけではないという点です。そして「北朝の帝を立てゝ賊軍の名をのがれ、正二位征夷大将軍に任じ、南朝を国の一隅に縮めて、また振う能わざらしめ、再び武家の世として政権を握ること二十年、北朝の延文三年四月[1358]」に亡くなったと述べています。そして、尊氏の評価を「尊氏器宇弘裕きうこうゆうにして規略過大なり」として、尊氏が常に頼朝の治績を慕い、弟に「刑を用うること苛刻にして、そねみ疑うこと多かりしかば、骨肉の者すら横死を免れざりしは惜しかりき事なり。我は然らず、降参するものならば深髄大敵なりとも其領地を奪う如きことをせず、して功ある臣をや、必ず重禄厚賞を酬いんとするなり」と語ったと「足利尊氏」は締めくくられています。

1893年の尊氏像は正確だった

 2017(平成29)年刊の森茂暁著『足利尊氏』(注6)によって、124年前に朔太郎が読んだと推測される『小国民』掲載の「足利尊氏」に描かれた尊氏像が史実として正しいと判明しました。もちろん、森氏が『小国民』掲載の「足利尊氏」に言及しているわけではありませんが、様々な一次資料(各種古文書)にあたって、尊氏の後醍醐天皇への思いが朔太郎に刻み込まれたであろう尊氏像と同じであると証明されました。 それが日清戦争(1894-95)の頃から小学校の教科書で逆賊の側面が強められていき、高橋太華著「足利尊氏」では触れられていない楠木正成が忠臣として強調されるようになり、前節で紹介した朔太郎の「歴史教育への一抗議」が全文削除された年(1937)には、同様の尊氏論を発表した商工大臣が国会で追及されて辞任に追い込まれます。その結果、尊氏を研究することが困難になり、戦後半世紀後まで研究されなかったそうです((注6), p.9)。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-16-1)

出典:『皇威輝く中支之展望:上海・蘇州・南京・蕪湖・漢口・杭州』最新改訂版、1938(昭和十三)年(注1) 小説家・石川達三が以下のように考えて、希望して南京陥落直後に南京に行って見聞したことを小説『生きている兵隊』(1938)に書いたことは見てきた通り(6-7-4-15)です。
新聞報道は嘘だ。大本営発表は嘘八百だ。日本の戦争は聖戦で、日本の兵隊は神兵で、占領地は和気藹々わきあいあいたるものであるというが、そんなお芽出度めでたいものではない。痛烈な、悲惨な、無茶苦茶なものだ。

萩原朔太郎の反応

 ここで詩人・萩原朔太郎(1886-1942)が日中戦争についてどう反応したのかを、1937(昭和12)年12月13日の『東京朝日新聞』に掲載された「南京陥落の日」(注2)を通して見ます。ルビは掲載時のままですが、その他は現代仮名遣い、新字体に直します。なお、この当時のその他の文章を引用するときにも同様です
南京陥落の日にとしまさにれんとして兵士の銃剣は白く光れり。軍旅ぐんりょこよみ夏秋かしうをすぎゆうべ上海シャンハイいて百千キロ。わが行軍の日はいこわず人馬じんば先に争い走りて輜重しちょう泥濘でいねいの道に続けり。ああこの曠野こうやに戦うものちかってみな生帰せいきさず鉄兜てつかぶときてけたり。天寒く日は凍り歳まさに暮れんとして南京ここに陥落す。あげよ我等の日章旗ひとみな愁眉しゅうびをひらくのときわが戦勝を決定してよろしく万歳を祝うべし。よろしく万歳を祝うべし。
 日本国内で日章旗を振って提灯行列のお祭り騒ぎをする群衆の戦勝気分とは違い、詩人の思いは前線の兵士の運命に馳せられ、最後に「あげよ日章旗」「祝うべし」と強制されなければ祝う気などないと言っているかのようです。朔太郎はこの詩を書いた経緯を友人の詩人・丸山薫(1899-1974)宛の同年12月11日付封書(注3)で以下のように述べています。
 朝日新聞の津村氏[秀雄:1907-1985]に電話で強制的にたのまれ、気が弱くて断り切れず、とうとう大へんな物を引き受けてしまった。南京陥落の詩というわけです。一夜寝床で考、翌朝速達で送ったが、予想以上に早く陥落したので、新聞に間に合わなかったかもわからない。とにかくこんな無良心の仕事をしたのは、僕としては生まれて始めての事。西條八十[1892-1970]の仲間になったようで懺悔の至りに耐えない。(もっとも神保君[光太郎:1905-1990]なども、文藝に戦争の詩をたのまれて書いてるが、あまり褒められた話ではない。)
 「西條八十の仲間になったようで懺悔の至りに耐えない」と書いているのですが、八十が「若い血潮の『予科練』の/ 七つ釦(ぼたん)は桜に錨」で始まる有名な「若鷲の歌」(1943)などの軍歌を盛んに書き出したのは太平洋戦争突入後ですし((注4), pp.278-9)、八十の最初の従軍は朔太郎の上記の手紙が書かれた12月11日出発なので、この日付前の八十の戦争協力詩があるのか調べてみました。日中戦争を日本が始めた1937年7月以降、女性雑誌『主婦之友』が「日中戦争へと大衆を動員していく役割を、積極的に果たし」、1937年9月号は「北支事変大特輯」で、八十の詩「通州の虐殺 忘るな七月二十九日」、「銃後の女性軍詩画行進」を掲載しました((注5), p.172)。

文部省が強制した愛国精神

朔太郎の「南京陥落の日」が単純な戦争協力詩でないことは、この詩が『東京朝日新聞』に掲載される3カ月前に刊行された朔太郎のエッセイ集『無からの抗争』(1937年9月)所収の「歴史教育への一抗議」が全文削除という形で出版されたことでも明らかです。朔太郎が当時の歴史改竄主義に抗議した件は、第一次安倍政権が2006(平成18)年に強行採決した教育基本法改正法案に関連して、当時拙論で考察したので、それをもとに朔太郎の抗議を紹介します。 1937(昭和12)年5月に文部省が刊行した『国体の本義』(注6)では日本が諸外国と違う特別な国であることが繰り返し強調されています。その特別な国の特色は「滅私」の「忠君愛国」だとして、「我を捨て我を去る」(p.34)「天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくして、(中略)国民としての真生命を発揚する」ことで、それが「我ら国民の唯一の生きる道」(p.35)と説き、「忠君なくして愛国はなく、愛国なくして忠君はない」(p.38)と断言していています。 そして、忠臣の鑑として楠木正成を賞揚し、足利尊氏を「大逆無道」(p.75)の逆賊としていました。朔太郎の「歴史教育への一抗議」はこの『国体の本義』の全面批判とも読めます。このエッセイは等持院見物の場面から始まっています。引用にあたっては、歴史的仮名遣いと旧字体を現代かなづかい、新字体に改めています。
 数年前の事である。京都の等持院へ見物に行き、女学生の修学旅行団と一所になった。教師に率いられた娘たちが、足利氏十三代の木造の前に来た時、口々に喧々諤々としゃべり始めた。「これが尊氏よ。」「こいつが義満だわ。」「盗賊!」「悪人!」「こんな者。皆叩き壊してやると好いわ。」「馬鹿ッ!」「馬鹿ッ!」 そして口々に唾を吐きかける真似をした。僕は女学生諸君の烈々たる忠君精神に驚いたが、一方ではまた、こんな教育をして好いものかと言うことに疑問を抱いた。引率の教師はおそらく後でこんな訓話を生徒たちにするのであろう。「皆さんもこの尊氏等のように、死して悪名を千古に残し、死後にも人から辱められるようなことをしてはなりません。」しかし僕は考えるのである。悪名を千古に残したのは尊氏でなく、今日の学校教育の方針が、無理にそれを残させたのであると。なぜなら尊氏その人は、決してしかく腹黒の悪人ではなく、また真の憎むべき大逆悪人でもなかったからだ。((注7), pp.344-345)
この後、尊氏が「朝敵となる運命を悲しんで居た」ことを述べ、以下が続きます。
 楠木正成が忠臣であることはまちがいない。しかしその善玉を立てるために、足利尊氏を中傷して、無理に悪玉にする必要はない。(中略)歴史を教育されない国民に、真の愛国心や民族自覚のある筈がない。しかも日本の教育者は、(中略)真実を隠して嘘を教えようとさえするのである。(中略)真実の歴史を隠して、一体何を国民に教えようとするのであるか。今日我が国の教養ある青年や学生やが、概して皆愛国心に欠乏し、民族自覚に無関心であるばかりでなく、ややもすれば非国民的危険思想に感染される恐れがあるのは、全く学校に於ける歴史教育の罪である。歴史が正しい民族の歴史を語り、自国文化への正しい批判を教えないのに、如何にして青年の愛国心を呼び得ようか。(中略)本質に哲学的批判を持たない所の教育から、強制的に歴史を教え、盲目的に祖国への殉愛を強いる如きは、今の青年に対して無意味であろう。(pp.347-349)

国家権力への挑戦としての足利尊氏論

 「歴史教育への一抗議」が全文削除の処分を受ける2年前と3年半前にも朔太郎は足利尊氏に関する文章を発表しています。執拗とも言える朔太郎の足利尊氏論は、実は詩人としてデビューした25歳の頃から続き、亡くなる2年前の1940(昭和15)年まで続いています。それは歴史的興味からというより、国家権力と歴史改竄主義を批判するためのメタファーとして、そして何よりも戦争の時代に反戦の想いを訴えるための足利尊氏論という側面が強いようです。21世紀現在の歴史教科書問題とも通じる上に、最近になって楠木正成を「滅私奉公」のシンボルとして賞賛する動きが高まってきたので、今、朔太郎の足利尊氏論を辿る重要性があると思います。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-15)

南京事件直後に南京に行き、取材をもとに事件前後の日本部隊の動きを描いた石川達三の『生きている兵隊』の記述と、当時の警視庁検閲課が問題にした点を見ます。

『生きている兵隊』の伏字復元版

 1935(昭和10)年に芥川賞第一号を受賞した石川達三(1905-1985)は、南京事件直後に南京に行き、取材をもとに事件前後の日本部隊の動きを「生きている兵隊」で描きました。それが1938(昭和13)年2月19日発売予定の『中央公論』3月号に掲載されましたが、前日に発売頒布禁止とされ、ようやく日の目を見たのは1945(昭和20)年11月でした。 『中央公論』に掲載された時は、出版社が検閲を考慮した箇所を伏字にしていましたが、その伏字部分がわかるように傍線を施した伏字復元版(注1)が1999年に出ましたから、私たちは当時何が問題視されると出版社が考えていたかがわかります。その伏字復元版をもとに、石川達三が南京事件直後に何を見聞きして、何を読者に伝えようとしたかを見ます。 「前記」に「日支事変については軍略その他未だ発表を許されないものが多くある。従って(中略)部隊名、将兵の姓名などもすべて仮想のものと承知されたい」とあります。北京陥落の直後から部隊が南京に到着するまでの動きが記されています。最初の光景は、河北省寧晋で次の命令を待つ部隊が、自分の家に放火したという村の青年を惨殺する場面です。

意味不明の戦争

 部隊は直前まで次にどこに行くか知らされず、未明になって河北省石家荘まで15里(約59km)を真夜中まで行軍させられます。石家荘では「明朗北支建設のために、正義日本を住民に認識させるために、彼らに安住の天地を与えるために」(p.18)と、軍属が宣撫班の腕章をつけて街を歩き回っていました。ここはもちろん伏字ではありませんから、当時日本軍が日中戦争の理由としていることと、実際の日本兵の動きの違いが鮮明にされています。 この部隊は石家荘から貨車に乗せられ、2日後に北京に着きますが、貨車は北京を通り過ぎて南下し続け、兵士たちは天津に向かうのかと思って、部隊長の倉田少尉に「天津へ行ってどうするんですか」と尋ねます。彼は「僕にも解らないね」と「静かに答えて諦めたように微笑し」たと描かれます(p.20)。 ここで、日中戦争が何のために行われているのか、前線の兵士たちにも意味不明な戦争だとわかります。これは当時の人々が疑問に思っていたことのようです。1949年『日本評論』11月号に掲載された評論家・中島健蔵と石川達三との鼎談で、中島が「戦争中に感ずるのは戦争目的がどうしても分からんのだな。それで、ひどい弾圧がなければ戦争目的は何んだという質問を出せるが、不明という事すら一つも大っぴらに言えなかった」((注2), p.148)と述べていますから、『生きている兵隊』で描かれる兵士たちも分からないまま召集され、前線に連れて行かれたことが読み取れます。 後半で、南京に入った部隊の小隊長が言ったことが、この戦争の無意味さを示しています。「自分はもう南京は復興できんと思いますな。まあ三分の二は焼けて居ります。あの焼け跡はどうにもなりませんわ」((注1), p.146)と指摘させています。

南京に向かう行軍中の略奪

 3日後に貨車は大連に着き、そこから船で揚子江に出ますが、複数の部隊が「百隻を超えるほどの小船」や二隻の駆逐艦などが集まっている情景が描かれ、その中に「英国輸船武昌号」と書かれ、英国旗が掲げられた船が「この小船の密集した間をすり抜ける様にして上流へ遡って行った」((注1), p.30)と述べられています。この小説ではアロー号・レディバード号事件については触れられていないので、前線の日本軍内では知られていなかったのでしょうか。 上陸した倉田少尉の部隊は、馬が足を折ったので、部落の老婆から牛を取り上げますが、その時の老婆の抵抗や兵士が老婆を倒して奪った箇所は伏字です。以下はその後の記述です。
無限の富がこの大陸にある、そしてそれは取るがままだ。このあたりの住民たちの所有権と私有財産とは、野生の果物の様に兵隊の欲するがままに解放されはじめたのである。(pp.36-37)
 略奪という言葉は用いられず、「徴発」という言葉で、兵士たちが次々と略奪する理由を以下のように述べています。
進軍の早いしかも奥地に向っている軍に対しては兵糧は到底輸送し切れなかったしその費用も大変なものであったから、前線部隊は多くは現地徴発主義で兵士をやしなっていた。北支では戦後の宣撫工作のためにどんな小さな徴発でも一々金を払うことになっていたが、南方の戦線では自由な徴発によるより他に仕方がなかった。(p.44)

戦争は非戦闘員の虐殺をも正当化する?

 『生きている兵隊』の中では強姦という言葉は使われませんが、明らかにそれとわかる表現で、頻発していたことが随所に出てきます。
 やがて徴発は彼等の外出の口実になった。その次には隠語のようにも用いられた。殊に生肉の徴発という言葉は姑娘クーニャを探しに行くという意味に用いられた。(中略)彼女たちは度々の内乱に馴れて、戦場になった部落では若い女は滅茶々々にされるものであることをよく知っていた。(p.45)
 部落の家に侵入した兵士たちに不発の拳銃を撃った若い女性の服と下着をはいで、スパイという容疑でその場で短剣で惨殺する場面を描いた後、それが「医科大学を卒業して研究室につとめていた」近藤一等兵だったこと、彼の内面が以下のように描かれます。
彼にとって女の屍体を切り刻むことは珍しくない経験であった。しかし生きている女を殺ったのは始めてである。(中略)彼が思うのは、生から死への転換がこうも易々と行われるということであった。(中略) 元来医学というものはあらゆる生命現象を人体について研究するものである。彼等医科の学徒は実に懸命になってまた一生をそれに捧げるつもりで研究をやっている。そしてその研究目標たる人間の生命現象というやつはかくも脆く、かくも易々と、かくも小さな努力で以て消滅する。生命というものが戦場にあっては如何に軽蔑され無視されているか。 これは一体なんであろうかと近藤医学士は考えた。たとい敵であろうと味方であろうと、生命が軽蔑されているということは即ち医学という学問それ自身が軽蔑されていることだ。自分は医学者でありながらその医学を侮辱したわけだ。(pp.50-51)

宗教に国境がある?

 医学生研究者だけでなく、従軍僧侶も惨殺行為に血眼になる様が描かれています。
次々と叩き殺していく彼の手首では数珠がからからと乾いた音をたてていた。彼は額から顎髭まで流れている汗を軍服の袖で横にぬぐい、血のしたたるショベルをステッキのように杖につきながらのそのそと露地を出て行くのであった。(中略) いま、夜の焚火にあたって飯を炊きながらさっきの殺戮のことを思い出しても玄澄の良心は少しも痛まない、むしろ爽快な気持でさえもあった。(pp.60-61)
 石川達三はここで宗教とは何かを連隊長と玄澄の会話と、連隊長の思いから問いかけています。殺した敵を弔ってやるのか連隊長が尋ねると、玄澄が「戦友の仇だと思うと憎い」と言ったので、連隊長は「国境を越えた宗教というものは無いか」と憮然として言います。彼は「宗教というものまたは宗教家というものに失望を感じ」(p.62)、内面の思いが続きます。
彼は幾千の捕虜をみなごろしにするだけの決断をもっていたが、それと共にある一点のかなしい心の空虚をも感じていた。この空虚を慰め得るものが宗教であろうと思った。彼はいま指揮官として敵の戦死者を弔う余裕と自由をもたないが、それは従軍僧が代ってやってくれるであろうと思っていた。しかしこの従軍僧が友軍の弔いはしても敵の戦死者の為に手を合わせてはやらぬと聞いたとき、暗い失望を感じた。それは本能的に平和を愛する人間がその平和を失っているこの戦場にあることの侘しさの中で、ただひとつ抱いていた平和な夢が崩れて行く場合であった。(p.63)

感性の鈍痲・無道徳感・残虐性の目覚め

 戦争が人類の文化も伝統も、文明そのものを一瞬にして消し去り、人間性を奪うものだという思いが強く伝わってきます。召集前は学校の先生だった優しい繊細な倉田少尉をも変えていった様が以下のように描かれます。
中隊長の戦死を眼の前に見たときからその恐怖はにもはやひひとつ桁(ゝ)のはずれたものとなった。(中略)自己の崩壊を本能的に避けるところの一種の適応としての感性の鈍痲であったかもしれない。すると彼は心の軽さを感じこの生活の中に明るさを感じはじめた。(中略)それは一種の自由感であり無道徳感でもあった。とりも直さずそれは無反省な惨虐性の眼覚めであった。彼はもはやどの様な惨憺たる殺戮にも参加し得る性格を育てはじめたのである。それは即ち笠原伍長に近づくことであった。(pp.76-77)
この笠原伍長は以下のように描かれています。
彼には西沢部隊長[大佐]のように高邁な軍人精神はなかったが、平尾一等兵のように錯乱しがちなロマンティシズムもなく近藤医学士のように途惑いしたインテリゼンスもなく、更に倉田少尉のような繊細な感情に自分の行動を邪魔されることもなかった。彼はどれほどの激戦にもどれくらいの殺戮にも堂々としてゆるがない心の安定をもっていた。要するに彼は戦場で役に立たない鋭敏な感受性も自己批判の知的教養も持ちあわせてはいなかったのである。そうしてこの様に勇敢でこの様に忠実な兵士こそ軍の要求している人物であった。(pp.67-68)
 この後、壕で一服している部隊の兵士たちに近くの民家から娘の泣き声が聞こえ、平尾一等兵と笠原伍長が見に行き、だいぶ経ってから戻ってきて、17,8の娘が撃たれて死んだ母親にすがって泣いていたと言います。その夜も娘の泣き声がして、平尾は「あいつを殺す」と言って、他の兵士たちと民家を襲います。
 まるで気が狂ったような甲高い叫びをあげながら平尾は銃剣をもって女の胸のあたりを三たび突き貫いた。他の兵も各々短剣をもって頭といわず腹といわず突きまくった。ほとんど十秒と女は生きては居なかった。(p.85)

日本軍による放火

 ラーベが1937年12月21日の日記で、日本軍が略奪の証拠を残さないために「街を焼きはらっている」(6-7-4-13-1)と記していましたが、石川達三も、部隊が出発するとき、「兵士たちは自分等が宿営した民家に火をはなった。というよりも焚火を消さないであとから燃え上ることを期待して出発したものが多かった。(中略)更に、この市街を焼きはらうことによって占領が最も確実にされるような気もしたのである」(p.100)と記しています。 日本軍が捕虜を惨殺する理由を「自分たちがこれから必死な戦闘にかかるというのに警備をしながら捕虜を連れて歩くわけには行かない。最も簡単に処置をつける方法は殺すことである。(中略)『捕虜は捕えたらその場で殺せ』それは特に命令というわけではなかったが、大体そういう方針が上部から示された」(p.114)と述べています。

南京に慰安所が作られた

 『生きている兵隊』のもう一つの指摘は、南京に慰安所が作られたことです。「日本軍人のために南京市内二箇所に慰安所が開かれた。彼等壮健なしかも無聊に苦しむ肉体の欲情を慰めるのである」(p.154)という解説の後、以下の描写が記されています。
 彼等は窓口で切符を買い長い列の間に入って待った。一人が鉄格子の間から出て来ると次の一人を入れる。出て来た男はバンドを締め直しながら行列に向ってにやりと笑い、肩を振りふり帰って行く。それが慰安された表情であった。(中略)女は支那姑娘だった。(中略)言葉も分らない素性も知れない敵国の軍人と対して三十分間のお相手をするのだ。彼女等の身の安全を守るために、鉄格子の入口には憲兵が銃剣をつけて立っていた。(p.157)
 「慰安所」という語は検閲対象ではなかったようで、伏字にされていません。部隊はその後上海に移動し、料理屋が将校の慰安所になっていることを知ります。そのほか、避難している中国人の家を日本からやって来た商人たちが占領して店を開き、その家の持ち主が抗議すると、日本人が占領地区だから「建築物一切日本軍の管理下にあるのだ、帰れ」と追い返します。外国に宣戦布告なしに戦闘をしかけ、住民の所有物を略奪し、殺し、その上、日本から金儲け目的で続々とやって来る日本人の強盗行為が、日本軍と日本人市民共同で行われている事実です。 この中には日本から日本人の女たちを連れて来た男についても述べられています。
突然の命令で僅に三日の間に大阪神戸附近から八十六人の商売女を駆り集め、前借を肩替りして長崎から上海へわたった。それを三つに分けて一班は蘇州、一班は鎮江、他の一班は南京まで連れて行った。契約は三年間であるけれども事情によっては一年で帰国するか二年になるかも分らない。厳重な健康診断をして好い条件で連れて来たので、女たちも喜んでいる、という話であった。(p.174)

『生きている兵隊』を書いた理由

 石川達三が、なぜ『生きている兵隊』を書いたのか、この小説がどんな扱いを受けたのかを、2015年に出版された河原理子著『戦争と検閲—石川達三を読み直す』をもとに概略します。石川達三は盧溝橋事件(1937年7月7日)から始まる日中戦争について、以下のように考えていました。
新聞報道は嘘だ。大本営発表は嘘八百だ。日本の戦争は聖戦で、日本の兵隊は神兵で、占領地は和気藹々わきあいあいたるものであるというが、そんなお芽出度めでたいものではない。痛烈な、悲惨な、無茶苦茶なものだ。戦争とは何か。それを究明したい欲望に私は駆り立てられた。((注2)
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-14-2)

南京事件/虐殺はなかったという主張がなぜ日本でまかり通るのかの背景と、国内で戦争被害にあった自国民/市民へのドイツ政府と日本政府の対応の違いを見ます。

南京事件/虐殺はなかったという主張がまかり通る原因

 笠原十九司著『南京事件論争史』(2018, (注1))によると、南京事件/虐殺はなかったという否定派が1955年の自由民主党結成の頃に台頭し、南京事件/虐殺はあった・なかった論争が続いてきましたが、1990年代には南京で従軍した兵士の陣中日記などの新資料の発掘その他で、学問的には南京事件/虐殺はあったという「結着」をみたそうです(p.214)。ところが、安倍政権以降現在に至るまで、南京事件/虐殺否定派の声が強くなってきています。なぜ南京事件はなかったと主張する人々と、社会の無関心が根強いのかの理由を笠原氏が挙げているので紹介します。
    当時の軍部・日本政府・外務省などが事実を把握していたにもかかわらず、徹底した報道規制と検閲をして、日本社会に知らせなかったこと。 終戦から占領軍が入ってくるまでの2週間の空白期間にあらゆる資料を焼却してしまったために、当時の報告書などが残っていないこと。 東京裁判で唯一裁かれた人道に対する罪が南京事件だったが、ドイツにおけるニュルンベルク裁判の報道と違い、日本の新聞、たとえば『朝日新聞』は「圧倒的であった検察側の証言内容については、まったくといってよいほど報道せず、逆に弁護側の反証段階の証言が比較的丁寧に報道されている」、『毎日新聞』も多少は検察側証人の報道もあるが大きな変わりはないと指摘。このような報道から、「読者は被害実態の凄惨さにショックを受けることもなく、したがって被害者の立場を想像して、同情することもなかったといえよう」(pp.103-104)と分析しています。 占領軍の対応がドイツと日本では異なったこと。ドイツでは1945年の夏から収容所のおびただしい数の犠牲者の遺体の写真に「これは君たちの罪だ」と書いたポスターを全都市と農村に掲示した;ニュルンベルク裁判の「進捗状況が逐一新聞・ラジオなど統制下のメディアを使って報道された」;「アメリカ軍は、ナチの残虐行為を実写したフィルムを編集した宣伝教育用の短編映画『死の挽き臼』を制作し、戦犯抑留施設、公民館、学校、映画館などでその上映を義務付けた」(石田勇治『過去の克服—ヒトラー後のドイツ』白水社、二〇〇二年) GHQは「日本国民を軍国主義から引き離すための『日本人再教育プラン』を考え、NHKラジオやGHQが統制下においている全国紙を利用して進めようとした」1945年12月8日には「GHQ提供の連載記事『太平洋戦争史—真実なき軍国日本の崩壊』がすべての全国紙に掲載された(一二月一七日まで)」。南京事件については「『南京における悪魔』の小見出しで、日本軍は南京占領後、四週間にわたり近代史最初の残虐事件を引き起こし、男女を問わず子どもまで二万人が殺害されたと書かれ」「『日本の欺瞞宣伝』の小見出しで、日本のニュースや放送は南京市民は日本軍を歓迎している、南京での殺害、略奪は中国兵の仕業であると宣伝している、と書かれ、最後の日本軍による残虐行為こそ、中国を徹底抗戦に導く結果になったのである、と結んでいる(『朝日新聞』一九四五年一二月八日)」(pp.101-102) 1946年からGHQはNHKに「真相箱」というラジオ番組を日曜のゴールデンタイムに放送させ、南京事件についても「わが軍は」という主語で、残虐行為を非難したので、「アメリカ占領軍のプロパガンダであるように思わせる結果になった」(pp.102-103)。 「南京攻略戦に参加した多くの将兵が、東京裁判に関連して自分も追及されるのを恐れ、この時期に自分の陣中日記を密かに焼却してしまった」(p.106)。 南京事件に関する東京裁判の資料の全面公開が進んでいないこと(p.107)。 1955年から教科書検定が強化され、教科書から南京事件の記述が削除されたこと;1955年前の中高の社会教科書には「南京暴行事件」は記述されていたが、1955年に民主党が社会科教科書の「偏向」攻撃を行い、民主党と自由党が合体して自由民主党が成立した「五十五年体制」の下、1960年代を通じて南京虐殺の記述は消された(p.108)。 南京事件を否定する論を受容する別の理由:ドイツの場合、ユダヤ人収容所がドイツ国内にあり、被害者のユダヤ人が同じドイツ国民であったのに対し、南京事件は外国で起こり、外国人が被害者だったこと;沖縄を除いて、「軍隊が民間人を犠牲にするという戦場の修羅場の体験がなかったこと;映像記録も文書記録も国民に提示されなかったため、加害の現実を事実として実感することが困難だった。(p.106)

国民を補償するドイツ政府と国民を切り捨てる日本政府

 戦争の犠牲となった自国民に対する補償に関しても、日本政府とドイツ・イタリア政府との差が歴然としています。ドイツは元軍人とその遺族だけでなく、民間人も外国籍の人も、ドイツ国内で戦争の被害を受けた場合は、障害年金・医療保障・遺族年金などが支給される法律が1950年に成立しているし、イタリアでは1978年に成立したそうです(注2)。日本政府の対応は元軍人とその遺族に対しては60兆円の手厚い補償をしたのに対し、民間人の空襲被害者には補償をしていません(注3)。空襲などで障害者になり、生涯苦しんだ/でいる民間人は一貫して非人間的に切り捨ててきました。 ところが、無差別爆撃を指揮した米航空部隊の指揮官のカーチス・ルメイ(Curtis LeMay: 1906-90)には、東京五輪が開かれた1964(昭和39)年に安倍晋三首相の大叔父、佐藤栄作首相(当時)が勲一等旭日大綬章を贈っています(注4)。この勲章は天皇が手渡す「親授」が慣例でしたが、昭和天皇は「親授」しませんでした(注5)。 米軍による日本各地での無差別爆撃では50万人が亡くなっていると推測されていますが、日本政府が調査もしないため、正確な死者数はわからないそうです。「1945年3月10日の東京大空襲では、東京・下町を中心に約10万人が亡くなったとされ」、その他の空襲の犠牲者を含め、ほとんどの遺体は「公園や学校、寺、空き地などに急きょ仮埋葬」(注6)されました。東京都は戦後、仮埋葬された遺体8万248体を掘り起こして収容しました。仮埋葬された場所は150カ所あったようですが、記載されているのは66カ所だけなので、今でも「遺体や遺骨の多くは都内各地で埋まっている可能性が高い」とされています。 2011年に民主党政権の下で、「空襲被害を対象とした援護法立法を目指す議員連盟を設立し、軍人軍属への年金と違い一度きりの給付金とし、補償総額6800億円を算出しました。「在日米軍に経費を支援する『思いやり予算』の3年分程度」ですが、それ以前の自民党政権時代に「戦争被害者切り捨てのレールを敷く」結論を出していました。民主党政権が2012年12月に敗北して、この議員連盟は活動を停止したそうです(注7)

戦争被害者の切り捨てと戦争責任の否定は再軍備/核兵器への欲望と並行してる?

 佐藤内閣(1964/11-1972/7)時代に核武装の道を検討し、秘密裏にドイツに協力を求めて、核なき世界を求めていたドイツを驚かせたという事実を2010年10月3日放映のNHKスペシャルが明らかにしました。「NHKスペシャル」取材班著『“核”を求めた日本—被爆国の知られざる真実』(2012、(注8))を基に要点を拾います。「1970年に日本がNPT[核拡散防止条約]に署名する前、第2次世界大戦の敗戦国である日本と西ドイツが秘密裏に協議し」(p.24)たことを、当時の担当者をインタビューしてまとめた内容です。 ドイツの資料によると、1969年2月3日〜6日に日本の外務省政策企画部門の6人、西ドイツ外務省の5人で東京と箱根で日独協議が行われ、日本側が「もしいつか日本が必要だと思う日が訪れたら、核兵器をつくることができるだろう」と述べたので、ドイツ側は驚愕し、「それ以降、私は日本とアジアの情勢を非常に注意深く見守るようになりました」(p.33)と、当時西ドイツ外務省政策部長だったエゴン・バール(Egon Bahr: 1922-2015)氏が2010年に述べています。そして当時の資料に彼が日本側の発言をメモしていました。「たとえ国際的な監視が注意深く行われても、日本は核弾頭を製造するための基礎となる核物質の抽出を行うことができる」(pp.36-7)。 当時の日本側の出席者でインタビューに応じた村田良平(1929-2010)氏はこの日独協議の目的を「日本に核保有の選択肢を残す方策を検討するため」(p.44)の協議だったと述べました。協議で日本側は「日本の原子力の平和利用に関する研究とロケット技術の開発に誰も異議を唱えられない。その結果、いつか必要になれば原子力とロケットを結びつけられる。比較的早く核兵器をつくることができる」と述べ、バール氏は「その晩『大変なことだ』と激しく動揺したことを告白します。日本が核をもつことのないよう願いました」(p.55)とインタビューで述べています。 1年後に再会した時、バール氏は村田氏に「これからの我々の仕事は、核を持っていてもその意味がないというように国際政治の基本をつくり替えていくほかない」(pp.44-5)と諭したそうです。その真意を問われて、「『私たちは、能力はあるがつくらない。これは私たちが本当に平和的で協調的な、よい隣国でありたいことの証だ』と伝えるためでした」(p.57)と述べています。 また、ドイツに置かれたアメリカの核兵器に関して、ドイツ「国民を守るために私たちにできる最後の手段は、アメリカの核攻撃の命令に従うことを拒否し、報復攻撃を避けることしかない」とバール氏は思いました。「アメリカの同盟国としての役割を認識しながら、ドイツ国民を守るという根源的な責務をいかに全うしていくか葛藤を続けてきた」(p.59)結果、引退後は核廃絶に向けた活動を続けたそうです。日独外務省の戦争責任と自国民に対する認識の違いが如実に表れていますが、さらに驚くのは、村田氏が「最も記憶に残るバール氏の言葉」として「これからの我々の仕事は、核を持っていてもその意味がないというように国際政治の基本をつくり替えていくほかない」という「意味の深い言葉」(p.45)だったというのです。日本の外務省と政府は考えたこともないという意味でしょうか。

核兵器保有議論を続ける自民党

 佐藤内閣と外務省が「日本に核保有の選択肢を残す」という意思を明らかにした1969年以前から、自民党政権・外務省・防衛庁がアメリカの対中国用核ミサイルの日本配備を希望していたこと、その報道によって佐藤政権が国民に「核慣らし」を考えていたそうです(注9)。佐藤栄作氏(1901-1975)は非核三原則(核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」:1967年答弁)でノーベル平和賞を受賞(1974)しましたが、その直前に核兵器搭載の米軍艦が日本に寄港を認める日米政府間の密約があるという報道が米国でありました。非核三原則の密約に関する経緯は参議院・外交防衛委員会調査室作成の資料(2010年10月、(注10))から辿ります。 1981年にはライシャワー元駐日大使(Edwin Oldfather Reishauer: 1910-1990)が核兵器搭載の米艦船や航空機が日本領海・領空を通過することは日米両政府間の口頭了解が自分の大使就任前(1961/3/29前)にできているとインタビューで述べました。この核密約の口頭了解を示す米公文書が開示され、2009年6月には村田良平元外務事務次官が密約の存在を認める発言をしています。また、沖縄返還交渉時(1969)に、「緊急時に沖縄への核持込を容認する『佐藤・ニクソン密約』が存在するとの報道もあった」のですが、歴代自民党政権は否定しています。民主党政権誕生で、岡田克也氏(1953-)が外務大臣就任(2009年9月)時に4種類の密約の存在を外務事務次官に調査するよう命じ、北岡伸一東京大学教授(当時)を座長とする「有識者委員会」を設置しました。この委員会は2010年3月に報告書を提出・公表しましたが、佐藤元総理宅に保管されていた合意議事録からは、「朝鮮有事の際の対応を例外(核の持込を認める)とするものであるが、佐藤総理の考えや保管方法から合意議事録の内容が後の内閣を拘束しないこと(中略)、密約とは言えない、としてい」ました。これに対し、岡田外務大臣と東郷和彦元外務省条約局長などから異論が出され、東郷元局長は「合意議事録は要請があれば必ず核を認めるとある、総理が大統領に約束したものであり、それが国民に伏せられていたので、密約といえる」と述べています。岡田外務大臣は記者会見(2010/6/15)で、「当該密約は『少なくとも今や有効ではない』ことを3月の報告書公表前に米国政府と確認したと述べました。 核兵器を日本に持ち込ませるべきと自民党の石破茂(1957-)幹事長が2020年6月に発言しました(注11)。石破氏は同様の発言を2017年にもしていたので、長期間の持論ということでしょう。さらに驚く発言が福島第一原子力発電所の過酷事故の年2011年12月に、当時政調会長だった石破氏から出されています。「核兵器を造ろうと思えば一定期間に作れる『核の潜在的抑止力』の必要性を指摘した」「原発技術の維持による潜在的抑止力の重要性を認め」「核燃料生産につながる再処理工場と高速増殖炉原型炉『もんじゅ』による核燃料サイクルを推進する必要性も指摘した」(注12)とインタビュー記事で報道されています。原発維持の理由が核兵器製造のためと言いながら、「核武装には反対の立場を明確にした」と同時に言ったのは論理矛盾しています。 自民党及び自民党系の人々の核ミサイル保有の欲望が強いようで、小池百合子(1952-)氏も自民党議員だった2013年2月時点で「東京に核ミサイルを配備しよう」と公言しています(注13)。その半年後には環境大臣として入閣し、第一次安倍政権で防衛大臣に抜擢されましたし(2007)、コロナウィルス禍の最中に自民党が「敵基地攻撃能力」(注14)の検討を始めたことも、自民党が核兵器保有を熱望している証左のようです。だからこそ、安倍政権が核兵器禁止条約に参加しない態度を続けるのでしょう。2020年の広島・長崎原爆の日には新たに4か国が批准し、発効まで「あと6か国」(注15)とされていますが、日本政府は「厳しい安全保障環境を理由に条約には参加してい」ない理由と述べています。

アジアの隣国に無礼な人々

 友好的対話外交によって隣国との関係を修復したり、再構築したりして、核兵器の脅威に怯えずに、核攻撃能力を検討せずに、未来を考える時代は来ないのかと思います。民主党政権時代に起こった東日本大震災と福島第一原発事故時に内閣官房参与だった松本健一(1946-2014)氏が体験したことを語った内容(半藤一利・竹内修司・保阪正康・松本健一『戦後日本の独立』、2013,(注16))は驚きです。重要なので以下に引用します。

松本

 二〇一一年の三月二十九日に、日本と中国とのある会議があって私は中国の北京に行きました。その会議には中国政府だけでなく、中国共産党も人民解放軍もそれぞれトップクラスの連中が出てきました。彼らが、日本に対してカンカンに怒っているわけです。聞いてみると、三・一一のあと胡錦濤国家主席がわざわざ日本大使館に出向いて弔意を示し、さらに人民解放軍は病院船の派遣まで申し出ている。たまたまそのとき、全国人民代表大会が開かれておりまして、通常中国のマスメディアはそのニュースを中心に流すのに、日本の災害に気を遣って全人代関係の報道は五分間にして後の五十五分を東日本大震災のニュースを流した。そこまで配慮しているのに、菅首相、日本政府から何の反応もない。菅首相は中国にお礼の電話をしようとしたら、外務省が必要ない、と言った。後で公文書でするからいい、というわけです。病院船については、外務省から必要ないとそっけなく断られた。こんなひどい対応はないではないか、というわけです。中国とのすれ違いは、こんなところからも亀裂が大きくなっていったのではないかと思います。

保坂

 そんな話がありましたか。こういうときこそ対外的な関係を好転させる絶好の機会だから、各国とも友好ムードが高まる。そういうときこそ誠実にこたえないと、国家の品格を疑われることにもなりかねませんね。(pp.21-2)
 松本氏が参与の任期中、資料を求めても官僚側は出さず、原発事故に際して、「外務省、文部科学省、経産省などは、とにかく官邸に情報を上げない」「役所にとって不都合と思われる情報はことごとく出さない」のが現実で、その理由を、情報を上げたら政府が対応を公にする、公になれば責任を問われる、「なにも伝えないときは内容が埋もれているから責任が発生しない」(p.20)という慣行になっていると分析しています。 また、安倍政権でも常態化している公文書不作成、隠蔽、改ざんが原発事故の際も行われていたといいます。「政府の公式の会議で記録がない」ことが問題になり、「内閣府の役人の作為かどうかはわかりませんが、彼らに責任があります」(p.21)。
そのほか、首相や閣僚などの会議で記録がないのは、民主党の政権経験のなさや、菅(直人)総理が記録をつくっておくことに思い至らなかったという点で問題がありました。菅総理は、たとえば私と話すときにも記録をとらない。事務官などを立ち入らせないから記録が残らないのですが、それが問題でした。私との記録はともかく、私以外でもそのようでした。だから言った、言わない、の話になってマスコミの批判にさらされてしまった(p.21)。

中国と戦争になってもいいと公言した石原東京都知事

 2012年4月に石原慎太郎(1932-)東京都知事はアメリカで、尖閣諸島を都が購入すると発表し、「中国と戦争になってもいい」と言っていたと報道されています。そして、当時の民主党政権・野田佳彦首相は、都が購入したら中国との軍事的衝突の懸念があり、石原氏と会談し、その中でその「懸念が確信になった」ので、国有化に踏み切ったそうです(注17)。 尖閣諸島は1972年の田中角栄・周恩来首相(当時)の日中正常化交渉の際に、「双方で棚上げして、そのまま波静かにやっていく」ことで合意され、1978年にも福田赳夫首相・鄧小平副首相(当時)会談でも、鄧小平副首相が「次の世代への『棚上げ』」論を展開して、福田氏が黙認したとされています。野中広務氏が2013年6月3日に北京で、棚上げ合意について田中角栄氏から直接聞いたと語ったところ、それを安倍政権(岸田文雄外相・菅官房長官)が「外交記録にない」「伝聞の話で根拠もない」と否定し、野中氏を非難しました。外務省は2013年3月に「『棚上げ』に合意していない」という資料をまとめたそうです(注18)。公文書の隠蔽・削除・書き直し・不作成等々が横行している安倍政権に「根拠はない」という資格はないでしょう。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-14-1)

戦争犯罪への対応の仕方がドイツと日本で大きく異なる例を見ます。

戦争犯罪への向かい方:ドイツと日本(1)ドイツ

 5年半前の記事ですが、「歴史に関していえば、ドイツは日本とは違う。確かに日本の戦争犯罪はホロコーストとはまったく別物だが、だからといってその凄惨さが劣るわけではないし、薄らぐものでもない」と始まる記事が、日本とドイツの戦争犯罪への向かい方の違いを指摘しているので紹介します。「ドイツには、過ちを懺悔した指導者がいた—反省の心がドイツ人のアイデンティティに」(注1)と題する記事です。 2015年にこの記者リチャード・カッツがドイツ人から「戦後数十年間は、人々は思い出したくないと考えていた」が、態度の変化がブラント元首相(西独)によって強く推し進められたと聞いたという内容です。記事の一部を引用します。
ワルシャワのゲットーでナチに対し起きた蜂起の跡地を1970年にブラント氏(Willy Brandt: 1813-1992)が訪れ、ひざまずいて許しを請うたときだった。後に彼はこう書いている。「あの振る舞いはいったい何だったのかとよく聞かれる。最初からそうするつもりだったのか?いや、違う。ドイツが生み出した歴史的な地獄の縁に立ったとき、何百万人もの虐殺を犯した重責がのしかかってきたのだ。誰だって言葉を失った時にはそうする」。 ブラント氏はドイツ人に誇りをもたらした。彼の心からの振る舞いには、世界中のユダヤ民族、また伝えられるところでは当時まだ共産主義だったポーランドの知識層の一部すら心を打たれた。
 それでも、直後の世論調査でこの行為を肯定したのは41%だけ、また、古い国境線を維持しなかったため、1972年に不信任決議にあい、「わずか2票の差で生き残った」そうですが、「1971年にノーベル平和賞を受賞、国内の社会福祉再建に」取り組み、「1972年末には、所属のドイツ社会民主党に地滑り的勝利をもたらした」とのことです。そして現在のメルケル首相(Angela Merkel: 1954-)も「過去の罪の否定は国に誇りをもたらしはしないと理解している」と述べて、次の文で締めくくられています。「仮にこのドイツ首相が岸信介氏のドイツ版ともいえるアルベルト・シュペーア氏の孫だったなら、こうした一連のことは想像もつかない」。 安倍晋三首相の祖父「岸信介氏のドイツ版」とされるアルベルト・シュペーア(Albert Speer: 1905-1981)について、『エンサイクロペディア・ブリタニカ』(注2)は以下のように解説しているので抄訳します。
シュペーアは1927年に建築士の資格を取得した。1930年末にベルリンでヒトラーの演説を聞いて、1931年1月に熱狂的にナチ党に入党し、ヒトラーは彼の才能に感銘を受けて、首相になると、シュペーアを自分の専属建築家にした。1942年にシュペーアは兵器と軍需生産の大臣に任命され、大きな権限を与えられて、徴兵制と強制収容所から奴隷労働を得る制度を拡大した。1945-46年のニュルンベルク裁判でシュペーアはナチの犯罪に対する反省を表明したが、ユダヤ人絶滅計画の直接情報を得ていたことは否定した。戦争犯罪と人道に対する罪で20年の刑に服した。彼は死ぬまで、ナチの「最終的解決策」[ユダヤ人抹殺]を知らなかったと公には主張し続けたが、1971年に書かれた手紙で、ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler: 1900-1945)がユダヤ人全員が殺されると発表した1943年の会議に自分も出席していたと認めた。この手紙は2007年に公開された。
 ナチス時代にはユダヤ人大量殺戮の前に20万人の障害者が精神科病院で殺されていたことが明らかになっています。精神科医による「安楽死」計画にヒトラーが賛同し、医師と看護師たちが20万人を殺害したという事実です(注3)。 これらを含めて、ドイツは現在に至るまで戦争犯罪者の裁判を続けています。当時17歳、現在93歳の強制収容所元看守に「5232件の収容者の殺害を幇助した」として執行猶予付きの禁錮2年が2020年に言い渡されました。被告は最終弁論で「裁判は過去に対処する機会を与えてくれた。証言や専門家の意見を聞いて初めて、残酷さと苦しみに気づけた」(注4)と述べたと報道されています。 メルケル首相が「過去の罪の否定は国に誇りをもたらしはしないと理解している」ように、ドイツ首脳たちが戦争の加害責任を認め、謝罪し続ける姿勢は変わりません。2020年1月にはドイツのシュタインマイヤー大統領(Frank-Walter Steinmeier: 1956-)がエルサレムのホロコースト記念館でスピーチをしました。その一部を引用します。
 殺人をした人たち、殺人を計画したり、それに協力したりした人たち、そして黙って規則に従った多くの人たち。彼らはドイツ人でした。600万人のユダヤ人の産業的大量殺人、人類史上最悪の犯罪、それは私の同国人たちの手によって行われたのでした。5千万人をはるかに超える人々の命を奪った恐ろしい戦争は、私の国から生まれたのです。 アウシュビッツの解放から75年後、私はみなさんの前にドイツの大統領として立っています。私は歴史的な罪の重荷を背負ってここに立っています。(中略)ホロコースト記念館の永遠の炎が消えることはありません。ドイツの責任が消滅することもありません。私たちは責任を果たしたいと思います。これにより、私たちを評価してください。(引用者強調) 私はあなたの前にたち、この和解の奇跡に感謝します。そして、私たちの記憶によって、私たちは悪から免れたと言えることを願っています。(中略)答えは一つだけです。二度と繰り返すな!(注5)

戦争犯罪への向かい方:ドイツと日本(2)日本

 2020年終戦の日の安倍首相の式辞では、歴史の教訓にも加害責任にも触れず、逆に再び戦争のできる国にするという決意表明と受け取れる「積極的平和主義」という言葉で、新型コロナウィルス蔓延の中、自民党が着々と進めている「敵地攻撃能力」を示唆しています(注6)。 第一次安倍政権前から第二次安倍政権の現在まで、日本の政治家の歴史改竄主義的言動の気になった点をまとめます。日本の侵略戦争も南京事件や慰安婦問題などもなかったと主張する人々は「歴史修正主義者」という従来の語より、「歴史改竄主義者」という語で呼ぶ方がふさわしいようです。
    1994(平成6)年5月:永野茂門法務大臣 「うっかりでは済まされない 失言で失脚した閣僚」という題名の写真集(2019/4/23, (注7))の筆頭にあがっている永野茂門氏(1922-2010)は羽田内閣(1994/4/28-1994/6/30)で法務大臣に就任した直後(1994年5月5日)のインタビューで次の発言をしています。「日本の軍隊があちらこちらでやった虐殺、放火、破壊をしたり、慰安婦問題とかは……。私は南京事件というのは、あれ、でっち上げだと思う。私は、あの直後に南京に行っている」。この「直後」というのが1938年とすれば、永野氏は16歳ですから、14歳から志願できるという志願兵として日中戦争で戦ったということでしょうか。 永野氏はこの他、慰安婦問題などについても問題発言をして、翌日には記者会見で発言撤回をし(注8)、その翌日に辞任と、10日間の法務大臣でした。戦争責任を全面否定するような歴史観の人が陸上幕僚長であり、法務大臣に任命されたことは、現在の自衛隊・防衛省のトップも同じ価値観の人々なのだろうかと不安にさせられます。
    2001(平成13)年1月:安倍晋三衆院議員 NHKのETV2001「戦争をどう裁くか②問われる戦時性暴力」放送直前に安倍晋三議員が政治介入した結果、内容カットで「支離滅裂で異様な」番組を放送する結果になった(注9)
    2003-2007(平成15-19)年:稲田朋美弁護士 2005(平成17)年に自民党幹事長代理だった安倍晋三氏に口説かれて政界入りした稲田朋美氏(1959-)は、この頃、南京事件で「百人斬り」をしたとして処刑された旧日本軍少尉2人の遺族の弁護士として、百人斬りについて報道した朝日・毎日新聞、ジャーナリストの本多勝一氏を提訴しました。2006年に敗訴しましたが、「国の名誉を守りたい」と「百人斬り裁判」を2007年に本にしています(注10)。「過去の罪の否定は国に誇りをもたらしはしない」というドイツと真逆の発想です。稲田議員は第二次安倍内閣で安倍首相の「秘蔵っ子」と称され、安倍首相自身が「女性首相候補」と評価して防衛相に任命し、多くの問題を起こしています(注11)
    2006(平成18)年6月:河村たかし衆議院議員(当時) 質問主意書で「そもそも、南京大虐殺の源流となったのは、虚偽の新聞報道であ」ると述べました(注12)。そして、1999年5月14日の記者会見で外務報道官が「非戦闘員の殺害あるいは略奪行為があったことは否定できない事実」と述べた政府見解は「再考の余地が無いと考えるか否か」と小泉純一郎首相(当時)に質問しました。 小泉首相は「非戦闘員の殺害又は略奪行為等があったことは否定できないと考えている」と回答しています(注13)
    2007(平成19)年3月:安倍晋三首相 辻元清美衆院議員の「安倍首相の『慰安婦』問題への認識に関する質問」(注14)に対して、「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見あたらなかった」(注15)と答弁しました。  辻元議員はさらに、中曽根元首相の回顧録『終わりなき海軍—若い世代へ伝えたい残したい』(1978)に「私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある」と書いてある事実を知っていたかと質問しました。それに対して安倍首相は「御指摘の回顧録の中に御指摘の記述があることは承知している」と答弁しました。
    2012(平成24)年2月:河村たかし名古屋市長 名古屋市の姉妹都市・南京市から訪れた訪問団に対し「南京事件はなかった」「一般市民(へ)のいわゆる虐殺行為はなかった」と述べました(注16)
    2012年3月:長崎市議会 長崎原爆資料館の展示に「南京大虐殺」の記述があることを問題視した市議が訂正を求めたところ、「市側は『一定の市民の合意が得られている。今のままの展示でいこうと思う』と理解を求め、[長崎原爆資料館運営]審議会に持ち込むことは無かった」(注17)
    2012年3月:石原慎太郎・東京都知事 東京都知事の定例記者会見(2012年3月9日、(注18))で記者が「日中問題で、名古屋の河村市長の話が、民間外交にも水を差すようなところまで来ておりますが、今年は日中国交回復40周年ということで(中略)、知事は南京問題をどういうふうにとらえて・・・・・・」と尋ねました。石原知事は「全く事実無根だと思います」と答えます。
    2012年9月:安倍晋三衆院議員 2012年9月に自民党総裁選への出馬表明で「新たな談話を出す必要がある。子や孫の代に不名誉を背負わせるわけにはいかない」と明言した(注19)
    2013(平成25)年2月:大阪府(大阪維新の会) 「大阪国際平和センター」の展示内容から南京大虐殺など旧日本軍の加害行為に関する展示を撤去し、大阪空襲に特化することを明らかにした。3月には全職員を交代させた(注20)
    2013年3月12日:安倍首相
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-13-2)

日本兵の証言や被害者の証言、そしてNYタイムズの記事から、日本軍の残虐行為は南京以外でも広く行われ、太平洋戦争中にはインドネシアでもイギリス・オーストラリアの看護婦たちの虐殺もあったことが明らかにされつつあります。

南京以外の残虐行為

 日本軍の略奪・虐殺・強姦が南京だけではなく、広範囲に行われていたことが様々な情報源からわかります。まず、1938年1月6日のNYタイムズは杭州で調査したカナダの保険会社検査員の報告を報道しています。

「日本軍が杭州を3日間恐怖に陥れたとカナダ人が非難—酔っ払った兵士たちが女性を襲い、略奪したと言われている」:上海発、1938年1月6日((注1), p.6)

 1937年12月24日に、浙江州の首都、杭州の占領で「略奪、強姦、殺害の乱行」が続いたと、昨日上海に戻ってきたカナダの保険検査員が述べた。杭州を占領した後の日本軍の最初の動きは兵士たちに3日間の休暇を宣言したことだ。その結果は、中国の酒店の略奪、酔っ払った日本兵、そして彼らは通りで暴れまくり、家々、店舗、ホテル、公共施設に闖入し、中国人市民は郊外に逃げたり、地下室や屋根裏に隠れたとカナダ人は言った。数百人の女性と女の子が酔っ払った日本兵に強姦された後殺されたという。この運命をかろうじて逃れた他の数百人は、市中6箇所にある避難センターに逃げた。これはアメリカ・イギリス・フランスの宣教師たち30人が設立したものである。 カナダ人が言う。「これらの勇気ある外国人が中国の女子どもに英雄的援助を与えた。彼らは数百人の命を救った。この避難キャンプに避難を求めた女子ども全員が受け入れられたが、避難所はどこも超満員だった」。南京同様、日本兵は最初の略奪者ではなかった。中国部隊は外国の敷地は略奪しなかったが、中国所有の浙江大学と杭州の多くの米屋は逃走する中国部隊に略奪されたとカナダ人は非難した。

抗議が警備をもたらす

 外国のミッショナリーが「この恐怖の支配を止めさせなければ、人道的な法律を実施するよう」本国に電報すると大胆な脅しで強い抗議をしたため、12月27日に日本軍は6避難キャンプの入り口に衛兵の配置を指令した。これで「外国宣教師が女性と日本兵の間に立ちはだかって、命をかける必要性に終止符を打った」とカナダ人は言った。 メソジスト・ウェイランド・アカデミーのカーティス・E.クレイトン司教(Bishop Curtis E. Clayton)、Y.M.C.A.避難キャンプのDr. K. Vanevererとジーン・ターナー(Gene Turner)、そしてその他のアメリカ人全員は多くの場合、命をかけたとカナダ人は賞賛している。彼はまたチャイナ・インランド・ミッションのE.フェアクロフ(Fairclough)が「うろたえて通りを走り回る女子どもを避難センターに導いた」ことを賞賛した。また、日本兵が女性に乱暴を働こうとしたのをフランス人宣教師ダミエール神父が止めた時、日本兵は神父のあごひげを引っ張ったとカナダ人は言った。

アメリカ人の家が略奪された:杭州、1月1日、AP通信

 略奪と無秩序と恐怖の9日間の後、憲兵隊が今日平和と秩序を回復し、杭州の恐怖に震える市民を安心させた。アメリカン・スクールとアメリカその他の外国の建物には外国の旗と、日本軍による入場禁止の貼紙があったにもかかわらず、略奪された。日本兵と中国人が略奪にかかわった。本特派員はこの目で多くの現場を見たし、その他の現場を見た外国宣教師たちから聞いた。 日本軍の南京占領を特徴付けた大量処刑はここではなかった。略奪者2,3人が射殺された。このような場合、言葉の困難さが影響しているのだろう。外国人は誰も襲われなかったが、脅かされる事件はいくつかあった。その一つはフランス人司祭が日本兵に顔を叩かれたことだ。

将校が司祭を守った

 日本兵がカトリックの避難所に入ってきて、女性を要求した。司祭が阻止すると、兵士が司祭の顔を平手で殴った。幸い、その時、日本の将校2人が入ってきて、その兵士たちを殴って、他の兵士を呼んで、本部に連れて行けと命じた。 避難キャンプに逃げ込んだ多くの中国人の女の子たちは美しさを隠すために顔に泥を塗っていた。その他の数百人は教会や外国人の家に隠れている。最初の日本部隊が入市してすぐに、中国人が食料を求めて全市の店を略奪したが、日本兵は止めようとしなかった。 退却する中国兵は杭州発電所、飛行場、川のフェリー桟橋、電信電話施設を破壊した。食料事情は極端に厳しいが、日本軍が市を通って内陸に向かうので、改善すると期待されている。

元日本兵の告白と証言

 1950年代に中国内で行われた特別軍事裁判で起訴された元中尉を保阪正康氏が1991(平成3)年にインタビューし、起訴状と判決文を公開してもよいと渡され、その一部を紹介しています。この元中尉は、その裁判記録に書かれている「旧日本軍の蛮行は『氷山の一角にすぎない』」と言ったそうですが、その蛮行の数々は「目を覆いたくなるような内容」です((注2), pp.209-211)。 1956(昭和31)年6月に瀋陽の特別軍事法廷で旧日本軍の8人に判決が言い渡される前に一人(師団長の中将)が絞首刑にしてほしいと意思表示をしたそうですが、死刑が当然だと思われていたのに、判決は禁固13年から20年でした(p.207)。不満な傍聴人たちが審判長席に殺到しましたが、審判長が傍聴人たちに次のように言ったそうです。「この判決は中国人民代議員大会の決議よりもさらに上級の指示によっている。厳罰に処すべきだが、死刑にしてはいけない。なぜなら中日永遠の友好を考えて、あえてここは譲るべきだと上級は言っている」。そして「戦犯たちは監房に戻ってから、上級の指示というのは毛沢東主席と周恩来首相をさしていると聞かされた」(p.208)そうです。 起訴事実には師団長や連隊長が直接に蛮行を働いたわけではなくとも、その命令によって部下の兵士たちが繰り返した蛮行が克明に書かれていて、その一部を保坂氏が引用しているので要約します。
    1942(昭和17)年4月:被告人[1]の配下の部隊は河北省遵化(ジュンカ)県で「斬り殺す、焼き殺す、毒ガスを放つなどの残虐な手段で」平和的住民220余名を虐殺、民家1900余戸を焼き払った。18歳の娘はガス中毒で逃げ出たところを輪姦されてついに死亡した。[氏名略の]妻は強姦に抵抗したため腹を切りさかれて胎児をえぐりだされ、[氏名略の]妻は強姦されたあと焼き殺されている。 同年10月:被告人[1]は配下の第一連隊と騎兵隊に命じ、河北省灤(ラン)県で血なまぐさい集団虐殺をおこない、棍棒でなぐる、銃剣で突く、生き埋めにする、焼き殺すなどの野蛮な手段で平和的住民1280余名を惨殺し、民家1000余戸を焼き払った。63名の妊婦が惨殺され、多くの妊婦が胎児をえぐりだされ、19名の嬰児が母親のふところからもぎとられ、地面にたたきつけられて殺されている。 1939(昭和14)年1月から1945年6月までに、被告人[2]は連隊長、旅団長、師団長として、部下の将校にたいし、生きた人間を「標的」として兵士の「度胸だめし教育」を実施せよとつねに訓示を与えた。被告人のこの犯罪的な訓示のもとに、配下の部隊は1945年5月から6月までのあいだ、山東省で、わが捕虜と平和的住民前後100余名を殺害している。被告人は配下の部隊にたいし「捕虜は戦場で殺し、これを戦果に計上すべし」と命令した。 1945(昭和20)年3月、被告人[3]は師団長として配下の部隊を指揮命令し、湖北省で侵略作戦をおこなったさい、凶悪きわまりない手段でわが平和的住民90余名を殺害した。南漳県では婦人、子供、老人ら12名を残酷にも絞殺した。わが平和的住民18名を手のひらにはりがねをつき通して数珠つなぎにし、銃剣でその全部を突き殺した。襄陽市では、部下が婦人を強姦するのを放任し、甚だしきにいたっては輪姦のあげく死にいたらしめている。
 8人の被告の1人が1991年に保坂氏のインタビューに応じたのは、「われわれの世代はあの戦争で人間としてあるまじき行為を働いたという自責の念があるからだ。蛮行とか残虐行為というのはいまになっていえることで、あのころはこういう行為こそ、お国のためだと思っていた。その錯誤をあなたたちに知ってほしい」と体をふるわせて真意を繰り返したそうです(p.213)。日本軍がなぜ中国大陸でこのような蛮行を働いたかという問いには、士官学校出身者が牛耳っていた日本陸軍のヒエラルキー制度が問題で、階級が上がるには目立つことをしなければいけない;士官学校出身者は政治教育がされていないから、軍事と政治の関係が理解できなかった;新任の将校は兵士の前で臆病でないことを示すために残虐行為をしたなどです。 この元中尉は息子たちに全てを話し、息子たちは悩んでいるが、それによっていかなる戦争にも反対してくれると思うと述べています。その一方で、戦後になっても自責の念のないまま生き続けている元軍医(現在開業医)がいると、この元中尉が紹介しています。しゃれこうべを戦場の土産にするために、捕虜を斬殺し、首をはねて、天日で乾かし、顔面の肉を別の捕虜に剥ぎ取らせ、その捕虜は泣きながら仕事を続けて、何日後かに頭骨を捕虜に磨かせ、元軍医、現開業医は1991年時点でも診察室に飾っていると平然と言ったそうです(p.214)。 猟奇殺人者になってしまった上、その自覚がないまま医療活動を続ける人間になったのは、戦争に行かされたからだけなのか、差別意識が善悪の境を無くさせ、人間を悪魔にしてしまうのか、後世の私たちに突きつけられた課題です。

中国以外の強姦/虐殺事件

 日本軍による略奪/強姦/虐殺が中国に限らなかったことが判明しています。1985(昭和60)年に発見された旧日本軍第五師団参謀部作成の極秘書類に、1944(昭和19)年11月に現インドネシア領ババル島の住民400人(その三分の一は女性と子ども)を「虐殺」と記されていることが1986(昭和61)年に報道されました(注3)。戦争犯罪の追求を恐れて、「原住民の反乱」に書き換えられた過程が分かる内容だそうです。現場責任者だった元大尉は戦犯となることなく、戦後は陸上自衛隊に入って一佐で退役し、この事件についてインタビューに答え「今さら、こんなことを暴いても何もならない。しかし、すまないことをしたと思っている」と語ったと報道されています。この旧日本軍の体質について、秦郁彦(1932-)・拓殖大教授[1986年当時]は「南方戦線でこれだけの事件が、これまで明るみに出なかったことに驚く。(中略)多くの場合、住民をいきなり殴りつけるなどの、日本軍の側のごう慢な態度が原因になっている。アジアの解放と言いながら、アジアの人の心を全く理解していなかった旧日本軍の体質に改めて驚く思いだ」と述べています。 77年後に明らかにされたもう一つの事件は、インドネシア・バンカ島でオーストラリア人看護婦22人が日本兵に強姦された上で虐殺された事件です(BBC, 2019年4月22日,(注4))。虐殺は「バンカ島虐殺事件」として知られているそうですが、彼女たちが殺される前に1部隊に強姦され、別の部隊にも輪姦された可能性があると報道されています。虐殺は知られていても、強姦はひた隠しにされていたこと、その背景には「レイプが死よりもひどい運命と考えられ、ニュー・サウス・ウェールズ州では1955年まで(加害者が)絞首刑による極刑で処罰されていた」社会だったからだと示唆されています。22人のうち、銃弾を受けながらも死んだふりをして生き残った女性は、東京裁判で強姦について話すことをオーストラリア政府から禁じられたそうです。強姦がタブーだったことと、1942(昭和17)年の香港侵攻時にイギリス人看護婦が日本兵に強姦されたことを知りながら、シンガポールからオーストラリア人看護婦を避難させなかったことでオーストラリア政府に罪悪感があったからだろうと推察されています。21人の虐殺者は「今も特定されず、『罪について何も処罰されていない』」とのことです。彼女たちの記録文書から「重要な証言部分が抜き取られていることも発見」されたそうです。ニュー・サウス・ウェールズ大学の軍事史研究家は「この話が表に出るのをずっと待っていた。長年、うわさされていたし、(中略)第2次世界大戦中に香港やフィリピン、シンガポールで記録された、日本兵による性的暴行とも一貫性がある」と述べています。

残虐行為は軍だけではない、否定/沈黙は共犯という21世紀のメッセージ

 虐殺が軍の行為に限られないことは、関東大震災時(1923年9月1日〜)に市民がデマを流して朝鮮人虐殺に走った事件を思い出せば、差別意識に毒された一般市民が簡単に殺人者になることがわかります。虐殺された人々の中に沖縄出身者が3人いたこと、2016年4月の熊本地震で高校生がツイッターに「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」と関東大震災時のデマを流したことも報告され、安部政権下でデマと差別が拡大していることに警鐘が鳴らされています(注5)。私自身、留学生対象の授業で有吉佐和子の『恍惚の人』(1972)を教材にした時、関東大震災への言及がある箇所で朝鮮人虐殺事件を紹介したところ、学生が日本人の知り合いに「朝鮮人が井戸に毒を入れたのは本当だ」と言われたと述べたのが衝撃でした。

内閣府ホームページ掲載の報告書を「見当たらない」と国会答弁する安倍政権

 その上、歴代都知事が追悼文を送付していた「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式」に小池百合子都知事は2017年から追悼文を取りやめ、都議会では虐殺はなかったという否定論が展開されました。それを踏まえて2017(平成29)年11月に衆議院で安部政権に対して、政府として虐殺の事実を認めるかという質問主意書が提出されました(注6)。この質問に対し、国務大臣(当時)・麻生太郎氏が「事実関係を把握することのできる記録が見当たらないことから、お尋ねについてお答えすることは困難である」と回答しました(注7)。ところが、麻生内閣発足(2008年9月)の6ヶ月前、2008(平成20)年3月には「内閣府・防災情報のページ」に「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成20年3月 1923 関東大震災【第2編】」が掲載されていたのです。その第4章は朝鮮人虐殺に関する報告です(注8)。 この報告書は多くの調査研究を踏まえて、流言蜚語の原因について「警察による治安維持のための朝鮮人拘束が流言のきっかけとなり、それが多くの殺傷事件を引き起こした」「社会主義者及び民族解放闘争を昂揚させる朝鮮人への弾圧の機会を狙っていた日本の支配階級が、朝鮮人『暴動』の流言を捏造して宣伝し、それを根拠に戒厳令を敷き、軍隊、警察とその司令下の自警団によって社会主義者と大量の朝鮮人を虐殺した」、犠牲者は6,600余名((注9), p.219)とされています。さらに聞き取り調査によって、埼玉県では警察署が襲われ、「警察の保護下の朝鮮人を殺傷する事件が多かった」(p.220)ため、加害者の検挙も多かったとのことです。千葉県では「保護のため習志野の高津廠舎[しょうしゃ:軍隊演習用の小屋]に収容された朝鮮人の一部が、9月6日以降、周辺の村に引き渡されて、村民の手によって殺害され」(p.220)たことも記されています。 中国人犠牲者も多かったことをこの報告書で知りました。張学良や周恩来などの知己が多かった王希天(1896-1923)が大島の中国人労働者遭難の状況を調査するために9月9日に大島に渡ってから行方不明になり、外交上の問題になったそうです。外務省記録「大島町事件其他支那人殺傷事件」によると、野戦重砲兵第一連隊による殺害事件でした(p.220)。また浙江省温州から集団で大島に来ていた中国人労働者が「中国人労働者を敵視する人夫請負人や警察の扇動によって」殺害され、1990年の現地調査によって死者656名、行方不明11名と判明し、その8割以上が「大島やそれに隣接する江東地区」で起こったとのことです(p.221)。 この報告書の「おわりに—関東大震災の応急対応における教訓—」で、「火災による爆発や火災の延焼、飛び火、井戸水や池水の濁りなど震災の一部を、爆弾投擲[とうてき]、放火、投毒などのテロ行為によるものと誤認したことが流言の一原因」「過去の反省と民族差別の解消の努力が必要なのは改めて確認しておく(引用者強調)。その上で、流言の発生、そして自然災害とテロの混同が現在も生じ得る事態であることを認識する必要がある」((注10), p.224)と結論付けています。安倍政権はこの報告書を否定するために「記録は見当たらない」と国会答弁し、歴史的事実である朝鮮人・中国人虐殺を否定したことになります。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-13-1)

ドイツではナチの残虐性を追求した小説とその映画(2019)が評判になり、日本でも公開されたのに、南京虐殺の記録を基にした映画(2009)は公開されず、日本の自国の歴史に向き合う姿勢が問われます。

残虐行為に目をつむり、沈黙するのは共犯だ

2020年5月26日から始まり、7月に入っても続いている人種差別反対デモが、欧米を中心に”Black Lives Matter”を掲げて広がり、「人種差別に沈黙するのは『共犯だ』と多くの白人の抗議者が言う」(注1)と話題になっています。これだけの世界的デモになったのも、アフリカ系アメリカ人が白人警官に殺される現場(2020年5月25日、ミネアポリス)の映像が拡散したことから人種差別の残虐性に人々、特に人種を超えた若い世代が気づき、人種差別反対の輪が広がったようです。撮影したのは、殺害現場の証人となった17歳の女性で、逃げ出したいほどの残虐性に耐えて撮影し、それをSNSに載せたから、17世紀から続く黒人差別に人々を覚醒させ、「なかった」と否定できない証拠にしたのです(注2)。この人種差別反対デモはアメリカでは南北戦争と奴隷制度まで遡り、小説と映画『風とともに去りぬ』も批判され、イギリスでは帝国主義時代に遡って、奴隷制度で大富豪になった人物の銅像を破壊し、チャーチルも人種差別者だったと批判され始めています(注3)。不思議なのは日本でも帝国主義時代から続く人種差別問題があり、最近は「嫌韓、嫌中」という語ができるほど、韓国・中国・在日の人々に対する差別が広まっており、アイヌの人々や沖縄に対する差別も根強くある国なのに、黒人への差別に抗議する小規模なデモしかなかったようです(注4)

日本軍による残虐行為

 1937年クリスマス・イヴのNYタイムズに「南京虐殺」の詳細が報道されましたが(6-7-4-12参照)、日本国内では新聞報道はもちろん、これらの海外の新聞・雑誌も「内務省警保局が発禁処分にしたり削除などして、日本国民にはいっさい知らせないようにして」いました((注5), p.22)。1937年12月24日のNYタイムズに掲載されたのはアメリカ人ミッショナリーからの報告でしたが、同時期に「南京安全区国際委員会」委員長をしていたドイツ人のジョン・ラーベが1937年12月13日から南京を去る1938年2月23日までの出来事を克明に記録していました。この日記は第1級の資料だとされています((注6), p.371)。残虐な殺人が日本軍によって行われたことは、元日本兵の証言と中国内で行われた軍事裁判の記録とも重なります。80年以上経った現在でも、南京事件/虐殺はなかったと公言する政治家や著名人が後を絶たないので、まず当時の日本の同盟国の証言者が何を報告しているか知る必要があると思います。目を覆いたくなる内容ですが、目を覆ったら「なかった」という人々と共犯になります。

南京のシンドラー、ジョン・ラーベ

 ジョン・ラーベ(John Rabe: 1882-1950)は1908年から中国でビジネスマンとして暮らし、1931年からジーメンス社の南京支社長として1938年2月23日にベルリン本社に呼び戻されるまで日本軍が南京で何をしたかを克明に日記に記録しました。南京在住の外国人による「国際委員会」が1937年11月22日に市民のために中立区域設定を決め、ラーベは「南京安全区国際委員会」の委員長に選ばれ、南京を去るまで中国人難民を日本軍から守るために奔走します。ラーベはドイツに帰国後、この「日記を清書し、資料とあわせて八百ページからなる二巻本にまとめ、『南京爆撃』と名づけた」((注6), p.19)そうですが、日の目を見たのは1995年にラーベの孫が駐中国大使だった歴史学者のヴィッケルトに連絡したからといいます(pp.379-380)。 2009年には映画『ジョン・ラーベ〜南京のシンドラー』(独・仏・中国合作)ができましたが、日本では配給会社がつかず、市民による自主上映会以外は未公開で、現在の日本の恐ろしさを表しているようです。救いは日本側の出演者が「香川照之、井浦新(ARATA)、柄本明、杉本哲太」などの演技派の人気俳優であることです。その他アメリカ人俳優、ドイツ人俳優も人気演技派俳優たちだそうです。ドイツ人監督は海外で評判になったこの映画が肝心の日本で上映されないことについて、「日本とドイツでは歴史的責任や罪に対する姿勢に異なる部分があると考える」「日本の文化の中では、過ちや失敗に向き合い、前向きに議論することが難しいように感じる」と述べています(注7)。これでは、罪の意識も持たずに、同じ過ちを繰り返す国にならないでしょうか。

戦争犯罪をなかったことにする日本と追求し続けるドイツ

 この点で、ナチの残虐行為を追求したドイツ映画『コリーニ事件』(2019)は2020年6月〜7月に大手の映画館で上映されているのが対照的です。自国の残虐行為を追求した映画は上映させない(現実には配給会社の自粛)が、ドイツの映画は問題ないという日本の対応にも、過去の過ちを繰り返す国なのかと危機感を持ちます。『コリーニ事件』の原作について、『ガーディアン』紙が「ドイツの一流作家が新作で自分の祖父のナチの過去と対峙」(2011年9月7日、(注8))という記事で紹介しているので、抄訳します。
フェルディナンド・フォン・シーラッハ(Ferdinand von Shirach: 1964-)がその名高い苗字にもかかわらず、ドイツのトップの作家になったというのは公平な見方だろう。彼の祖父、バルドゥール・フォン・シーラッハ(Baldur von Shirach: 1907-1974)はヒトラーユーゲントを指揮したナチ党員で、後にニュールンベルグ裁判で人道に対する罪で禁固20年の判決を受けた。(中略)2年前にフォン・シーラッハ・ジュニアがドイツのベストセラー・リストを独占し始めて、弁護士から作家に転じた47歳の彼は最新作で自分の祖父を基にしたキャラクターを含めることによって、自分の祖先と対峙することにした。彼はインタビューの中でこう言っている。「私のような名前と共に育ったら、遅くとも15歳か16歳には、いくつかの基本的な疑問を自分に問いかけ、生き続けられるような非常に基本的な答えを見つけなければなりません。それは自分の責任です」。 フォン・シーラッハの最新作『コリーニ事件』は、ファブリツィオ・コリーニというイタリア人の殺人者を弁護することになった若い弁護士カスパー・ライネンがなぜコリーニがドイツ人ハンス・マイヤーを殺したのかを探るミステリーだ。[調査の中で]被害者のマイヤーがカスパーの子供時代の恩人で父親のような存在だったことがわかる。カスパーは葛藤するがこの訴訟事件を引き受け、調査の結果、マイヤーが第二次大戦中にイタリアのパルチザンを射殺したことを発見する。この小説はドイツが過去とどう向き合うかの過程を描く。同時にホロコーストの後に生まれた世代が感じる罪の意識にも向き合う。 フォン・シーラッハは『シュピーゲル』誌に今週寄稿し、自分の祖父が何者だったか知った日のことを書いている。「私が12歳の時、歴史教科書に祖父の写真が掲載されていて、『バルドゥール・フォン・シーラッハ、ヒトラーユーゲントの指導者』と書いてありました」。彼は教養もあり、博識の祖父がなぜヒトラーと会ったあと、18歳でナチ党に入党したか理解できなかった。その後、ホロコーストがいかに始まったのか理解しようとして、ニュールンベルグ裁判記録を読み、彼の祖父がいかにウィーン中央駅から数千人のユダヤ人の追放を組織したかについて読んだ。
 映画の中で、カスパーが黙秘を続ける殺人者コリーニの殺人動機を探るうちに、ドイツ刑法の共犯規定に行き当たります。上司が殺人命令を下し、部下が「個人的な動機なしに『命令だから』と実行した」場合、旧刑法では上司と同様部下にも終身刑が科されていましたが、1968年の法改正で共犯者は減刑になりました。これに伴い、「大量のナチ犯罪の公訴時効が『1960年に成立していた』ことになってしまった」のです。そして、「『親衛隊大隊指導者』という重要な役職にあったハンス・マイヤーが、裁判にすらかけられない」(注9)ということになりました。大戦中にマイヤーに父親を目の前で殺されたコリーニが、法が裁いてくれないなら自分の手でと、マイヤーを探し出して殺し、動機について沈黙する中で、カスパーが法律の欠陥に気づき暴きます。この小説が指摘したことが「ドイツ国家を揺るがし、2012年1月には、ドイツ連邦法務省が『過去再検討委員会』を設置する」ことになったそうです[ref]壬生智裕「『コリーニ事件』が突いたドイツ司法の問題点」『東洋経済ONLINE』2020/05/21. 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(6-7-4-12)

1937年クリスマス・イヴの『ニューヨーク・タイムズ』に南京事件/虐殺の詳細が掲載されました。

『ニューヨーク・タイムズ』のパナイ号爆撃報道11日目:1937年12月23日続き(注1)

    「斎藤[駐米大使]の娘たちがラジオで平和を訴えた」:ワシントン発、12月22日(p.12) 「ドイツとイタリアは最近の外国人に対する攻撃[パナイ号・レディーバード号事件]で日本を鼓舞したことを否定」:ベルリン発、12月22日(p.12) 「パナイ号司令官が報告書を送った—ルーズベルトに提出されたが、合衆国は海軍審査会の報告を基に決める」:ワシントン発、12月22日(p.12) 「侵略者[日本]は16マイル先」:上海発、12月23日(p.12)
 日本は南中国の広東を攻撃するために部隊を集結させており、現地の避難民が膨大な規模で増えている。数千人が西の内陸地と東の香港に向かって逃げた。英国のクルーザー、ケープタウン号が48人の英国民、ほとんどが女性と子ども、を乗せて揚子江を香港に向けて航行中。国際急行が今日漢口を出発する予定で、324人の避難民、多くがアメリカ人を乗せて香港に向かい、クリスマスに到着予定。  寒さが上海の避難民の死亡率を極端に増加させ、この2週間の死亡者は1日平均443人で、そのうちの371人が子どもだった。過去3カ月で上海では4万人の避難民が死んだ(訳者強調)と報告されている。
    「3隻の合衆国船が青島に」:青島発、12月23日(p.12)
 予想されている日本の攻撃から青島を守る準備を中国軍がしているので、3隻の合衆国戦艦がアメリカ人を避難させるために待機している。中国軍が日本の綿織工場を破壊した報復に日本がどんなことをするかまだ示されていないが、報復の恐怖は続いている。 アメリカ領事館は300人のアメリカ人居住者に避難を助言し、多くはアメリカ戦艦にすでに乗船している。中国市民の大量避難は続いている。
    「日本は補償を要求、虐殺の追悼碑」:東京発、12月23日(p.12)
 北平からの報道によると、通州(Tungchow)での虐殺に対し、日本は120万円の補償と公式謝罪、追悼碑の建設を要求するだろう。虐殺は7月29日に起こった。日本と日本陸軍が設立した東河北政府の部隊が反乱を起こし、220人の日本人とコリアンを虐殺した。理由は北中国の戦闘が始まった時に反乱を起こした部隊の幾つかが全滅させられたことに対する報復だ。

『ニューヨーク・タイムズ』のパナイ号爆撃報道12日目:1937年12月24日(注2)

    「海軍委員会の報告書が我々の日本からの補償の要求を強めた—パナイ号事件のすべてのデータが揃った—政府高官は映画がストーリーのようなら世間の怒りを買うと恐れている—東京の陸軍報告書—陸軍指導者たちは攻撃を川の偵察の小部隊の混乱のせいにする」(pp.1, 6)
 政府高官はパナイ号事件のニュース映画がワシントンに月曜[12月27日]に到着し次第、視聴する。この映画はそのすぐ後に劇場で公開されることになっている。政府高官はもしこの映画が証人たちが述べたことを映像で明らかにしていたら、民心が煽動させられるのではと心配している。 今日、「戦争心理」(原文強調)に対する警告がアイダホ州選出のウイリアム・E.ボーラ上院議員によって発せられた。声明の中で彼は合衆国は中国から撤退すべきではないが、中国にいることでこの国が日本との戦争に巻き込まれるとは信じていないと述べた。「ここ母国でも外国でも、ある人々が戦争感情、戦争心理を起こすために膨大な量の努力をしているが、それは非難されるべきだ。合衆国は守るべき独自の権益と名誉がある。しかし、もしアメリカが他国の権益に巻き込まれずにこの課題に専念することが許されるなら、私の意見は戦争をせずに両方とも守ることだ。 大統領は10月5日のシカゴのスピーチで、『平和政策を遂行し、戦争に巻き込まれないようあらゆる現実的な方法を採ることを決意している』と言った。大統領はまさにこれをしようとしていると私は疑わない。もし私がこう考えなければ、そう言うことを躊躇すべきではない。国民を戦争にぶち込むのに大した勇気も政治的手腕も必要としないが、戦争好きの猟犬(war hounds)が獣道を見つけた時に国民を戦争から守るためには時にはものすごい勇気と大きな政治的手腕を必要とする。 私は我々が中国から出ていくべきだとも、東洋を去るべきだとも思わないが、そうしないからといって、我々が日本と戦争をするとも思わない」と述べた。
    「ハルは厳しい態度を維持」:ワシントン発、12月23日(pp.1, 6) 「パナイ号に関する日本陸軍の報告書—陸軍と海軍将校が東京でグルーと彼の側近に揚子江上の出来事を話した—混乱が強調される—攻撃部隊は攻撃の最中に部隊の本部と連絡したと報告」:ヒュー・バイアス、東京発、12月23日(p.6)
 今夜アメリカ大使館における3時間の会議で、日本陸軍と海軍の代表者たちは12月12日の合衆国戦艦パナイ号攻撃に関与した陸上・航空部隊の動きを詳細に語った。合衆国を代表したのはジョセフ・C.グルー、参事官のユージン・H.ドゥーマン[訳者強調]、海軍と海軍航空武官のハロルド・M.ベムルズ大佐、陸軍武官補佐官のハリー・I.グレズウェル大佐だ。日本のスポークスマンは海軍副大臣の山本五十六[訳者強調]、中国の長谷川清司令官のスタッフである高田少佐と西義章中佐だ。西中佐は元ワシントン武官だった。彼は大本営から中国での事実調査を命じられ、昨夜中国から戻ったばかりだ。日本側は当日の上陸部隊の全行動を説明できると考え、全説明は出席したアメリカ側の専門家によって精査された。 日本の意図は、戦闘と混乱の日に計画していない予期せぬ一連の出来事が起こったと彼らには見えると説明することだった。西中佐が指摘したのは、日本軍の小部隊が本部と離れて蕪湖から南京に進み、その間中、逃走する中国軍を探していた時に起こったことだ。この部隊は歩兵中隊で、ランチで川を下り、ジャンクに負傷者を乗せていた。そして蒸気船の一群を見つけ、兵士たちは中国軍だと思った。彼らは攻撃を恐れていたので、日本の飛行機が現れて喜んだ。後に蒸気船がアメリカ船だとわかったら、援助を申し出た。

「陸軍は責任を免れたと感じている」

 陸軍のスピーカーは、一つの出来事が次の出来事を引き起こし、一連の事故によって惨事が起こったのであって、意図的な悪意で起こされたのではないと示して、詳細な絵を作り上げることによって、日本人兵士の責任が免除されたと感じた。海軍のスピーカーは単純に罪を認めた。海軍は三竝貞三少将の召喚が海軍の過ちを認めたことの十分な証だと信じているので、さらなる声明は発表しない。 西中佐はアメリカ大使館に行く前に外国人記者にほぼ同じ声明を発表した。[この後、西中佐が話したパナイ号事件の詳細が非常に長く伝えられています]
    「英国は日本の事件に関して合衆国を待ち続ける—ワシントンが共に行動するのでなければ、今東京に挑戦するためには何もしない」:ロンドン発、12月23日(p.6) 「タイラーは強い軍隊を要望」:AP通信,ワシントン発、12月23日(p.6)
 合衆国が戦争を「恐れていない」(原文強調)ことを外国に示すために、より強い海軍・陸軍への要求がコロラド州のエドワード・T.タイラー下院議員が今日発表した。彼は多くのアメリカ人、特に西部の人々はこの国が日本の「無礼な対応」(原文強調)に対し「無気力に」(原文強調)屈従すべきではないと信じている。タイラー氏は記者団に次のように述べた。 「世界中で8月以来状況が非常に変わったので、我が国が世界に対して、準備ができている、戦争を求めはしないが、恐れもしないと示しても正当化されると感じる」。
    「[我が国の]旗に対する侮辱が報告された」:AP通信,上海発、12月24日(p.6)
 上海で受け取った報告によると、南京から揚子江を60マイル上がった所の蕪湖でジェネラル・ホスピタルを運営しているアメリカのミッショナリーの船を日本兵が拿捕し、[アメリカ国]旗を引き摺り下ろして、川に投げ捨てたという。病院スタッフが旗を救い出し、蕪湖の日本司令官に知らせると、彼は遺憾の意を表明したと報告された。合衆国総領事クラレンス・E.ガウスは上海の日本当局に強く抗議した。 日本部隊が蕪湖市を占領した時に広範囲の無秩序が続いた(訳者強調)と報告されている。上海の日本当局は今日、蕪湖攻略のために実際に矢面に立って戦った部隊と交代する新たな陸軍部隊を蕪湖に送ったと言った。秩序は回復されたと自信を表明した。
    「日本の後継者は4歳」:AP通信, 東京発、12月23日(p.6)
 日本の皇位継承者、明仁皇太子は今日4回目の誕生日をパーティで姉たち、照宮成子内親王(Princess Shigeko Teru: 1925-1961)と孝宮和子内親王(Princess Takako Kazu: 1929-1989)と祝った。しかし、中国での戦争のため、通常の誕生晩餐会は省略された。 訳者注:英語名が”Takako Kazu”となっていますが、孝宮和子内親王だと推測しました。
    「中国が被った損失$750,000,000—他の傷害以外の物理的資産の損害の推定—河北省がひどい打撃—河北の破壊は上海に匹敵—北平はほぼ無傷」:AP, 上海発、12月23日(p.6) 「ドイツは東洋で中立を保つ—日本の行動に対する責任を否認し、紛争の早期終結を望む—ドイツ自身の権益に損害—しかしドイツを中国から追い出した列強には同情なし」:ベルリン発、12月23日(p.6) 「日本の大佐は懲戒されず—パナイ号が沈没した時の揚子江地域司令官、橋本はまだ戦場に—杭州進撃—2都市の外国人は脱出するよう警告—南京の恐怖詳細」:ハレット・アベンド、上海発、12月24日(p.7)

「恐怖が南京を支配する」

 南京占領後の日本兵の規律のほぼ完全な崩壊に関するさらなる確定的証言の詳細が今日上海に着いた手紙集で明らかにされた。中国の見捨てられた首都に残っているアメリカ人ミッショナリーからである。規律の崩壊がもたらしたのは、市民の大規模な虐殺、投降した中国兵の処刑、中国人女性への暴行と殺人、外国人のものを含めた財産の組織だった破壊と略奪などだ(訳者強調)。 手紙の何通かはアメリカ人の書き手が日本軍による傍受や報復を恐れているように、慎重に選んだ言葉や文章で南京を支配していた恐怖について用心深く書かれていた。その他の書き手は用心をかなぐり捨てて、「日本陸軍は南京の中国人と外国人の尊敬を勝ち取る絶好の機会を投げ捨てた」とはっきりと書いた。 ある著名なミッショナリーは次のように述べた。「この地域の中国当局の恥ずべき崩壊によって、膨大な数の人々は日本が自慢していた秩序と組織を受け入れる準備ができていた。この見通し全体が頻繁に行われる殺人、大量の略奪と個人の家を無制御に侵入すること、そして女性の安全に対するおぞましい犯罪などで台無しにされた」。

「市民が銃剣で突き殺された」

 この書き手は付け加えて、多数の市民の死体は射撃され、銃剣で突き殺された犠牲者で、多くの場合、外国人と著名中国人が証人として見ていた(訳者強調)と言う。武器と制服を投降した中国の分隊は一緒に縛られて処刑されたと、1人が報告している。その手紙はこう書く。「今までのところ、明らかに処刑に向かう分隊の中国兵以外、日本軍には中国人捕虜の形跡はない」。 略奪のために日本軍に徴用された中国人は後に射殺された(訳者強調)という。アメリカ人ミッショナリーが続ける。(中略:略奪の内容と手法)

「国旗が引きちぎられた」

同じアメリカ人が書いている。南京中の外国人の自動車やその他の資産は国旗を引きちぎった後、強奪された。日本人将校と兵卒による少女と女性の拉致は至る所であった。この報告者は以下のコメントで締めくくっている。「このような状況の中で、恐怖は筆舌に尽くしがたい。物腰の柔らかい日本人将校たちが自分たちの『唯一の目的は中国人民のために抑圧的な中国政府と戦争をすることだ』と訓示を垂れるのは吐き気がする。責任ある日本の政治家、軍人、市民で、国家の権益のために、ここ数日で中国における日本の地位を傷つけたことをすぐに、そして適切に挽回する人が現れなければならない。日本の将校と兵士の中には、彼らの職業と日本帝国の名に恥じない紳士らしい振る舞いの人もいるが、全体は悲しむべき打撃だ」。 続きを読む
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