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キリシタン

英米に伝えられた攘夷の日本(3-3)

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“Jesús López-Gay, S.J. , “Father Francesco Pasio (1554-1612) and His Ideias About the Sacerdotal Training of the”

日本におけるキリシタン迫害の元凶とされる1596年のサン・フェリペ号事件がどう伝えられているか、同時代人の証言と、明治時代に日本で伝えられた解説を見ます。サン・フェリペ号事件の真相は? 「サン・フェリペ号事件」について信頼出来る記述があるか調べてみました。1951年刊の『日本におけるキリシタンの世紀 1549-1650』(The Christian Century in Japan 1549-1650, [ref]C.R. Boxer, The Christian Century in Japan 1549-1650, University of California Press, (1951)1967. https://archive.org/details/THECHRISTIANCENTURYINJAPAN15491650CRBOXER[/ref])という歴史書が信頼できる証拠を示していることがわかりました。日本には信頼できる一次資料がほとんど残されておらず、著者のチャールズ・ボクサー(Charles Boxer: 1904-2000)は大英博物館やポルトガルの古文書館の第一次資料と日本を含めた先行研究を丹念に調べて、根拠をもとに経緯を述べています。 チャールズ・ボクサー(Charles Boxer: 1904-2000)は、ヨーロッパの初期海外進出の歴史、特にアジアやブラジルにおける帝国建設の歴史の専門家として、イギリス屈指の歴史家だと『ガーディアン』紙の訃報記事(2000年5月16日「チャールズ・ボクサー:ポルトガルの行政とその暗い帝国主義の過去の歴史家」[ref]Antonio de Figueiredo, “Charles Boxer: Magisterial historiian of Portugal and its dark imperial past”, The Guardian, 16 May 2000.https://www.theguardian.com/news/2000/may/16/guardianobituaries1[/ref])が伝えています。ボクサーは本国イギリスよりも外国でよく知られ、高く評価されていると述べられています。訃報が伝えられると、ポルトガルの文化外交によって進められた黄金時代のイメージの陰にある汚職と搾取の広大なパノラマを昔の行政文書から明らかにした学者として、ボクサーはポルトガルで賞賛されたそうです。『ニューヨーク・タイムズ』も長い訃報記事(2000年5月7日「チャールズ・ボクサー、愛と戦争のレジェンド、96歳で死す」[ref]Douglas Martin, “Charles Boxer, a Legend in Love and War, Dies at 96”, The New York Times, May 7, 2000.http://www.nytimes.com/2000/05/07/world/charles-boxer-a-legend-in-love-and-war-dies-at-96.html[/ref])を出し、彼の最も有名な著作の一つに『日本におけるキリシタンの世紀 1549-1650』をあげています。 ボクサーが「サン・フェリペ号事件」についてどう記述しているか、どんな一次資料に基づいているか、第4章「イエズス会士と托鉢修道士」(Jesuits and Friars)から該当箇所を訳します。
[サン・フェリペ号]は150万シルバー・ペソ以上の価値のある積荷を載せて、7月にアカプルコに向けてマニラを出帆した。台風で航路を変更せざるを得ず、1596年10月19日に土佐の海岸沖に接近した。サン・フェリペ号事件に関するペドロ・マーティンス(Pedro Martins)司教の宣誓証言が信用できるとしたら、航海長(pilot)は船の壊滅的損傷状態にもかかわらず、長崎に向かうのがいいと提言した。しかし、司令官(スペインでは「将軍」と呼ぶ)はフアン・ポブレ修道士(Fray Juan Pobre)の説得で、この提言を退けた。ポブレは前年に日本に来ていて、秀吉が京都のフランシスコ会士たちの父のような存在だと請け負ったのである。その2日後に船は難破し、積荷と乗船者たちは困難な中、船を離れるしかなかった。その地域の大名はフレンドリーとはほど遠く、四国のさむらいは積荷のほとんどを着服した。この点ではヨーロッパのどの国でも海岸沿いの住民は同じことをしただろう。スペイン側は京都に代表団を送って、秀吉に彼らのために善処してくれるよう懇願した。 日本在住のフランシスコ司教代理、ペドロ・バウティスタ(Pedro Bautista)は必ず成功すると希望的観測を述べただけでなく、(もしマーティンス司教が信頼できればだが)、仲介をしようというイエズス会の申し出を素っ気なく拒絶するよう、スペイン人たちをそそのかした。なぜなら、彼はすべてをうまく握っていたからだ。同じ情報源が述べるには、フランシスコ会修道士たちはあまりに不器用で、関白にとりなしてもらうためにフレンドリーな京都所司代の前田玄以法印宗久(Maeda Genni Hoin Munehisa)を使う案を同様に拒否した。彼らはその代わりに奉行で秀吉の特別調査官だった増田長盛(Masuda Nagamori)を選んだ。増田は彼らを「裏切った」。小西行長が増田にいい通訳を同行させるよう提言すると、増田は「合意に達するのが目的なら、いい舌が必要だろうが、私の目的は盗品を回収することだから、必要なのは手だけだ」とぞんざいに言い返した。これだけでもいい前兆ではなかったが、この後にやってきたのは更に悪かった。((注1), p.164)
 ボクサーが「サン・フェリペ号事件」の根拠として注で挙げているのは、大英博物館所蔵(文書番号付き)のペドロ・マーティンス司教、1596年日本航海のカピタン・モール(戦隊司令官)だったルイ・メンデス・デ・フィゲイレド(Ruy Mendes de Figueiredo)とその他の目撃者の宣誓証言書です。ペドロ・マーティンス司教はサン・フェリペ号事件の2ヶ月前の1596年8月に日本に到着したポルトガル人の最初の司祭です[ref]Jesús López-Gay, S.J. , “Father Francesco Pasio (1554-1612) and His Ideias About the Sacerdotal Training of the 続きを読む