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ダンビア

ラングの「未開人」論(1)

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“Myth, Ritual and Religion, Vol. II, Longmans, Green and Co., 1913. 初版は1887年ですが、インターネット・アーカイブ掲載のものは1913年版です。初版から10年近く絶版だったものが1899年に再販され、1901年、1906年、1913年と4刷目です。序の中…”

ングが最初の論文で、オーストラリア先住民族の文化を研究することによって、イギリス人が「人種の誇りという愚かさを投げ捨てること」を目指したと紹介しましたが、それが彼の一貫性の表れだという視点から、ラングの未開人論を辿ってみたいと思います。「未開人」と訳した語は”savage“で、「野蛮人」という意味もあります。日本語の「未開人」は今では差別用語とされていますが、19世紀の植民地時代には植民地の先住民族をこの語で呼んでいましたので、そのまま翻訳します。ラング自身がグリムのメルヒェン集の英訳『グリムの家庭のお話』(Grimm’s Household Tales, 1884 [ref]Margaret Hunt (tr.), GRIMM’S HOUSEHOLD TALES. WITH THE AUTHOR’S NOTES, translated from the German and edited by Margaret Hung, with an Introduction by Andrew Lang, In two volumes—Vol.1, London: George Bell and Sons, 1884https://archive.org/details/grimmshouseholdt01grimVol.2, https://archive.org/details/grimmshouseholdt2grim[/ref])の解説の中で定義を述べているので、紹介します。
”savage”という語を、オーストラリア人、ブッシュマン、アルゴンキン族のようなアメリカの部族やマオリのような人種という意味で使う。この膨大な数の種族には微妙に異なる初期文明と「文化」の多くの段階が見られる。しかし、我々が参照する人種はみな今のところ未開であり、彼らは未開の知性の特徴的な性質を示している。(p.xlix)
 これに対し、ラングがヨーロッパの先史時代の人々を指す場合は”barbarian”(野蛮人)という語を使う場合が多いように思いましたので、日本語でも使い分けようと思います。帝国主義時代における”barbarian”という言葉の使い方について、一つの例をご紹介します。1858年にイギリス統治によるインド帝国とされたインドには、10世紀にイランから逃げてきたパルシー(ゾロアスター)教徒が住んでいましたが、19世紀にイギリスが来てくれたおかげで、インド人でない自分たちが「野蛮(barbaric)とみなされていたインドで上位に立てた」と人種的優位性を感じたそうです[ref]Carolyn Dinshaw, How Soon Is Now?: Medieval Texts, Amateur Readers, and the Queerness of Time, Duke University Press, 2012, p.102.で引用されている出典元は、Luhrmann, T. M. The Good Parsi: The Fate of a Colonial Elite in a Postcolonial Society, Harvard University Press, 1996, pp.85-86, 97.[/ref]。

植民地・帝国主義時代のアボリジニの人権

 ラングの未開人論を見る前に、19〜20世紀にかけてのアボリジニの人々に対する政策を概観します。ラングが上記引用の文章で、オーストラリアのアボリジニを「オーストラリア人」と呼んでいることは、当時まだ白人入植者を「オーストラリア人」とは認識していないことの表れでしょうが、その後のアボリジニの人々が受けた仕打ちを知ると、19世紀に「オーストラリア人」と呼んだことが印象的です。 1786年にイギリスはオーストラリアをイギリス国内の囚人の流刑地としました。オーストラリアをイギリス領とできたのは、先住民アボリジニの存在を無視して、「無主」(terra nullius)の地とみなしたことから始まります。200年後の1982年にエディ・マーボ(Eddie Mabo)氏ら5人のアボリジニが原告となってオーストラリア政府に対する訴訟を起こし、10年後の1992年に高裁判決が6対1で、オーストラリアは植民地化が始まった時に「無主」の地ではなかったという判決を下しました[ref]オーストラリア政府統計局「マーボ裁判と先住権原法」”The Mabo Case and the Native Title Act”, Year Book Australia 1995http://www.abs.gov.au/Ausstats/abs@.nsf/Previousproducts/1301.0Feature%20Article21995[/ref]。この時、私は西オーストラリア州のマードック大学で教鞭をとっていましたが、法科の学生たちが小躍りして喜び、興奮しきって授業にならなかったことが強烈な印象として残っています。残念なことに、この時、5人の原告のうち、マーボ氏を含め3人が既に亡くなっていました。 オーストラリア建国記念日の1月26日は、イギリスの囚人たち759人を乗せた最初の船がシドニー湾に到着した日(1788年)で、アボリジニの人々にとっては侵略された日であり、祝うことはできないと、長い間抗議が続いていました。2016年現在、オーストラリアの建国記念日を別の日にすべきだという意見が出ているそうです[ref]カール・スミス「オーストラリア建国記念日を変える」ABC, Carl Smith “Moving Australia Day”, 9 Feb., 2016:http://www.abc.net.au/btn/story/s4399703.htm[/ref]。 ラングが「オーストラリア人」と呼んだアボリジニの人々は、1901年にオーストラリアがイギリス植民地から独立国家になってから1967年まで、「オーストラリア人」の資格も与えられず、国勢調査の対象からも外されていました。1967年に国民投票が行われたのですが、それは1901年制定のオーストラリア憲法の条文に含まれているアボリジニに対する差別の是非を問うものでした。この憲法では、議会の立法権について、「アボリジニを除く、すべての人種」の平和と秩序を守るためと記され、さらに、人口調査に「原住民族アボリジニは含まれるべきではない」と書かれています[ref]「1967年国民投票」”The 1967 referendum”, National Archives of Australiahttp://www.naa.gov.au/collection/fact-sheets/fs150.aspx[/ref]。アボリジニを除外するという文言を憲法から除外するという案に対して、国民投票で90.77%が賛同し、史上最高の賛成率だったと、国立アーカイブスの解説で述べられています。ところが、現在のオーストラリア議会ホームページ掲載の憲法「大要」[ref]オーストラリア議会HPから憲法本体にアクセスできます。http://www.aph.gov.au/About_Parliament/Senate/Powers_practice_n_procedures/Constitution[/ref]には以下のように書かれています。
オーストラリア憲法は1900年にイギリス議会法の一部として可決され、1901年1月1日に発効した。1901年以前のオーストラリアはイギリスの6自治植民地で、植民地に対する絶対的権力はイギリス議会にあるため、イリギリス法となるのは必要だった。しかし、現実には、この憲法の文書はオーストラリア人によって草案され、オーストラリア人によって認められたのである。(p.iv)
 国家対国家という視点からは、オーストラリア人による、オーストラリア人のための憲法だと誇れるのでしょうが、「オーストラリア人」という名称とその実態をめぐっては見てきたように悲惨な歴史があったのです。

ラングの選んだダンピアの未開人観

 1887年、ラングが40歳の時に出された『神話・儀式・宗教』(Myth, Ritual and Religion,[ref]Myth, Ritual and Religion, Vol. II, Longmans, Green and Co., 1913. 初版は1887年ですが、インターネット・アーカイブ掲載のものは1913年版です。初版から10年近く絶版だったものが1899年に再販され、1901年、1906年、1913年と4刷目です。序の中で、ラングは10年の間に新たな知見が得られたので多少書き換えたと断っています。 続きを読む