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ミットフォード

ミットフォード訳「鳩翁道話」

『昔の日本の物語』巻II(1871 (注1))所収「日本の説教」(pp.125-189)の2節目の題は「説教I(鳩翁道話 第1巻)」となっています。鳩翁道話についてのミットフォードの解説は本サイト「ミットフォード訳の日蓮宗法話」で紹介した日蓮宗法話の最後にありますので、以下に訳します。
 日本では多くの説教本が出版されており、それらすべてに利点や風変わりな面白さがある。しかし、私が目にしたものの中で、『鳩翁道話』ほど私の好みにかなうものはない。以下の三つの説教がその第1巻の内容である。これらの説教は心学派の僧によって書かれた。この派は仏教と儒教と神道の優れた教えを総合せよと公言している。人間の心は生まれつき善だという立場を守り、我々が生まれた時に埋め込まれている良心の命令に従うだけでよいと教える。そうすれば、正しい道に進めるのだという。テキストは中国の古典から採られていて、我々イギリスの説教師が聖書から説教を採るのと同じようなものだ。その中のジョークや物語は我々の潔癖な言語には翻訳不可能な場合があるが、会衆の人々を指して応用されたりして、講話を活気づかせている。徳の話で聴衆を退屈させないための、日本の説教師の原則なのである。
の解説で”Shingaku sect”(心学派)とあるのは、石田梅岩(1685-1744)を祖とする石門心学を指すのでしょう。梅岩が1729年から講義を始め、門弟たちとの問答『都鄙問答』(1739)が出版されました。その後、梅岩の教えを継承し広めた手島墸庵とあん(1718-1786)、その弟子・中沢道二どうに(1725-1803)、そして柴田鳩翁(1783-1839)と続きます。中沢道二が心学の最盛期を作り、「道話聞書」(1794)によって「道話」という語が広まりました(注2)。石門心学の中で最も名高いのが「鳩翁道話三巻」(1834)、「続鳩翁道話三巻」(1835)、「続々鳩翁道話三巻」(1838)だとされています(注3)。1936年の解説「鳩翁道話の構造及び性格」によると、いずれも広く読まれ、「明治以後の活版本も、十餘種に達し、又その一部は、早くも英文に翻譯せられて外國にも紹介せられてゐる」というので、ミットフォードの訳を指すのかもしれません。 ミットフォードが手島墸庵や中沢道二の道話を読んだ上で、「鳩翁道話」が一番いいと評価したのか、彼の日本語教師の評価かはわかりませんが、この時代の英国公使館の通訳や書記官の日本語教科書としても使われたこと、実際に鳩翁道話が行われていたこと、ミットフォードが高く評価して、英訳という労をとり、出版して1870年代の英語圏に広まっていたことは、とても興味深いです。しかも、これらの道話が日本語の標準語制定に寄与していたらしいという論も、現在の私たちにつながっている点で二重に興味深いものがあります。標準語を「明治四十年代初めに出来上がった話し言葉で、文字化すればいわゆる言文一致となるもの」と定義して、その源流はどこにあるかを探った森岡健二は、鳩翁道話などの心学道話の聞書に注目しました(注2)。「時代・地域・身分・職業・年齢・性を超えた所にあり、できる限り、個人的性格を排除した中立的(ニュートラル)な言語表現」が標準語・共通語であるとして、その口語サンプルを心学道話の聞書に求めたそうです。「鳩翁道話」は「ござります」を主にし、他の道話は「じゃ体」という違いを除いては、どれも、話者が京阪地方出身者にもかかわらず、「方言的特色が希薄で、位相性もなく、しかも文語的あるいは文章的要素を加味している点、道話の口語は、中立性の高い口語」だと評価しています。つまり、口語標準語の形成に寄与したという結論です。

『鳩翁道話』の原本

 これは国立国会図書館デジタルコレクション所収の明治37年版冨山房刊『鳩翁道話 前編』です。題名の次にある「男 武修聞」は、柴田鳩翁の養子である武修の聞書によるという意味です。森岡健二は「他の道話の書に比べると、全体も統一し、文体も洗練されているのであるが、このことはかえって武修による校訂と推敲の手が加わっていることを示すのではないかという見方もある」と述べています。 ミットフォードの翻訳を日本語訳する作業で経験したのは、「鳩翁道話」原本を読むのは難しく、180年あるいは150年も前の「昔」という感じが強いのに、ミットフォードの英訳では「今」を強く感じ、とてもわかりやすいのです。それは、日本語原本の文章・表記法が古いのに、1870年代の英語は現代英語と変わりないからでしょう。同じ感じ方は『仮名手本忠臣蔵』原文とディキンソンの英訳を読み比べた時にも経験しました。ミットフォードが聞いた説教は幕末の日本語ですし、彼が読んだ「鳩翁道話」のテキストは1835(天保6)年に出版されたのですが、ミットフォードの英訳で読むと、現代人が話している/書いているような印象です。そこで、この感じ方を表すために、現代語訳にします。また、英語国民対象に書かれている点を留意して、”farmer”には「百姓」という語ではなく、「農夫」という語にするなど、江戸時代の日本を連想しながら読むと違和感を覚えるかもしれませんが、1870年代のイギリス人読者の視点で読むと想像すると、原本との違いが見えてくるかもしれません。

ミットフォード訳「説教I(鳩翁道話 第1巻)」

 孟子(原註)がこう言っています。「仁は人の心である。義は人の道である。この道を踏み外し、道に迷うのはなんと悲しむべきことか。この心を投げ捨て、心をどこに探せるのかを知らないというのはなんと悲しむべきことか!」 これは孟子の告子(注釈者)の第1章の文章です。 私たちが仁と呼ぶものは、多くの教師の注釈の題材でした。しかし、これらの注釈は理解が難しく、女子どもの耳に非常に入りにくかったのです。そこで私はたとえや物語を使って、この仁を取り上げようと思います。 昔々、京都に今大路という高名な医者が住んでおりました。この人のもう片方の名前は忘れましたが、とても有名な男でした。昔、鞍馬口という所の男がコレラに効く薬を調合して、その薬の宣伝をしたいと思い、今大路に宣伝文句を書いてもらいました。今大路は宣伝文句でその薬がコレラに効くと言う代わりに、コレラという言葉を簡単にするために、間違った字を使いました。男は自分が雇った今大路のところに来て、非難して、どうしてそんなことをしたのか問い詰めると、今大路は笑いながら言いました。 「鞍馬口は都への入り口にあたり、通行する人は貧しい農夫や山の木こりだけです。もし長々と『コレラ』と書いたら、彼らはわかりませんから、簡単に書いたのです。そうすれば、誰にも通じます。真理というものは人々が理解しなければ、その価値は無くなります。薬の効能が損なわれない限り、コレラという言葉をどんな字で書くかなど意味がありますか?」 なんと素晴らしいことじゃないですか? 同じように、聖人の教えが女子どもに理解されなければ、単なるちんぷんかんぷんの話です。さて、私の説教は学問のある人のために書かれているのではありません。毎日の仕事に追われて勉強の時間がない農夫や商人に向けて、私は聖人の教えを知ってもらいたいと思っています。私の先生の考え方を実行するために、たとえ話や面白い話を持ち出して、言わんとする意味をできるだけ簡単にしているのです。このように、神道や仏教やその他の宗派の教えを混ぜることによって、物事の真義に近いものに到達できるのです。私が時々軽口話を紹介しても、決して笑ってはいけません。軽さが目的ではなく、私はただ物事を単純かつ易しい方法で説明したいのです。 さて、この仁というものは実は完璧なのです。そしてこの完璧こそ孟子が人の心と言ったものなのです。この完璧な心で、人は親に仕えて孝行を達成し、主人に仕えて忠誠を達成し、同じ精神で妻や兄弟や友人に接すれば、人生の中の五つの関係の原則は困難なく調和するのです。完璧を実践するについて、親は親の義務があり、子は子の特別な義務があり、夫は夫の特別な義務、妻は妻の特別な義務があります。これらの特別な義務が間違いなく実行された時に、真の仁に到達するのです。そして、それが人の真の心なのです。 この扇を例にとりましょう。これを見る人は誰でも扇だとわかります。これが扇だと知っているから、これで鼻をかむなどとは考えないでしょう。扇の特別な使い方は儀式に行く時のためです。または涼しい風を起こすために開くものです。それ以外の使い方はありません。同じように、この書見台は棚の代わりに使うことはできません。枕の代わりにするなんてできません。ご覧のように、書見台は書見台だけの特別な機能がありますから、そのように使わなければなりません。つまり、皆さんの親御さんを親としてみて、孝行心を持って接することが、子どもの特別な義務なのです。それが真の仁なのです。それが人の心なのです。私がこのようにお話しすると、皆さんは、他の人のことで、自分のことではないと思うかもしれませんが、あなた方すべての人の心は生まれつき真の仁だというのは本当です。私は店員が棚から品物を下ろすように、皆さんの心の良い点、悪い点を指摘しているだけなのです。でも、私の言うことを皆さんが自分で始めなければ、自分のことじゃなくて、他人のことだと考え続けたら、私の努力は全部無駄になります。 よく聞きなさい! 親に無礼な答え方をして、親を泣かせる者よ、主人に苦労と悲しみを起こす者よ、夫を激怒させる者よ、妻を悲しませる者よ、弟を憎む者よ、兄を軽蔑して接する者よ、悲しみを世界中に撒き散らす者よ、扇で鼻をかみ、書見台を枕にする以外、何をしているのか? そんな人はここにはいないと思いますが、こういう人はたくさんいるのです。例えば、インドの裏通りなどに。どうか私が言ったことを心に留めてください。 よく考えてみてください。もし人が生まれつき悪い性格だとしたら、何と恐ろしいことでしょう! 幸い、皆さんも私も完璧な心を持って生まれましたから、この心をたとえ千金、いや万金でも手放そうなどと思いません。ありがたいことではありませんか? この完璧な心を私の教えでは「人の本心」と呼びます。仁も人の本心だというのは本当です。しかし、この二つにはわずかながら違いがあります。ただ、その違いについて説明すると長くなるので、人の本心が完璧なものだとみなすだけで十分です。そうすれば、間違うことはありません。原註:孟子は中国の哲学者Meng Tseの日本語式発音。ヨーロッパ人はMenciusと呼ぶ。
 原文と比較して、ミットフォードの翻訳が違う点は「霍乱」(日射病)という病名を「コレラ」に変えているのと、扇で「尻をぬぐふ人もいない」という表現を省略している点です。前者について、ミットフォードの英訳は”misspelt the word cholera so as to make it simpler”となっています。英語圏の人にはcholeraという綴りが間違えやすいので、「簡単にするために(意図的に)間違った綴りにした」というのは、よくわかりますし、ミットフォードの訳が巧みだと感心します。ちなみに、1817(文化14)年に長崎に持ち込まれたコレラが1822(文政5)年には大阪で広まり、300〜400人の死者を出したこと、1858(安政5)年に再び長崎に上陸したコレラが江戸まで広がり、江戸では50日間で4万人の死者を出したことを(注4)、ミットフォードは聞いて知っていた可能性は高いと思います。 扇の喩え話は、解説の中でミットフォードが言っていたことに該当する例だと思います。「ジョークや物語は我々の潔癖な言語には翻訳不可能」(Jokes, stories which are sometimes untranslatable into our more fastidious tongue”)という”more fastidious tongue”が、日本語より厳密な英語とも読めますし、潔癖とも読めます。後者の意味で、「尻をぬぐふ」を省略したということかなと思いました。 この後の話でミットフォードが変えたり、省略した点を見ると、文化の違いを考慮していることがわかります。たとえば、鳩翁が中澤道二から聞いた話を紹介しているくだりで、ある豪家に逗留したおり、その家の14,5歳の娘が様々な花嫁修業をしていると聞いて、道二があんまを習わせよ、結婚後に舅姑が病気になった時に役立つからと勧めたという話で、「肩こしをなでさすり」という箇所は「シャンプー」に変えています。別のたとえ話では、夜寝る時に用心して雨戸や戸締りをどんなにしても、雨戸や戸は「大きなおならをしても、ひびき破れる位」の薄さではないかという箇所も、”may be blown down with a breath”(一息で吹き倒される)としています。 続きを読む

ミットフォード訳の日蓮宗法話

ミットフォードは『昔の日本の話』(1871)に「日本の説教」と題した長い章を設けて、彼が実際に聞いた日蓮宗法話の様子を克明に描いています。挿絵も付いているので、1860年代後半の日本の庶民の様子が伝わってきます。

ミットフォードによる日蓮宗長応寺での法話の描写

トウが来日早々にアメリカ人宣教師S.R.ブラウン師が選んだ日本語教材として「鳩翁道話」を読んだとのことなので、ミットフォードも読んだ可能性があると思いました。実際に彼は「四十七士」を収めた『昔の日本の物語』巻Iに続く巻II(1871 (注1))で「鳩翁道話」の第1巻を翻訳して紹介しています。「日本の説教」(Japanese Sermons)と題した64ページにわたる章で、最初の10ページはミットフォードが実際に聞いた日蓮宗の長応寺の法話です。法話に集まってくる人々の様子と法話の内容をユーモラスに克明に描いています。日時は記していないのですが、かなり日本語がわかるようになった頃と想定すれば、来日2年目の1866年後半から1869年末までの間となります。この文章はスティーヴンソンも読んだわけですし、ラングも読んだと推測できるので、抄訳します。「法話」の部分は”sermon”と訳され、英語圏の読者はキリスト教の説教をイメージするので、翻訳では「説教」にします。その他の部分も読者が英語圏の人々ですから、「紳士淑女の皆さん」というように、英語圏の読者が受け取る英語的表現を維持するようにしたいと思います。
「説教は毎月8日、18日、28日に行われます」という内容の掲示板が、私が毎日通る長応寺に貼られていて、毎日私を誘惑していた。私がこの説教を聞くことに、説教師も信徒たちも反対がないと確かめてから、私は説教に参加することにした。友人2人と、私の画家と、説教を筆記する書記も一緒だった。 私たちは小さな寺に隣接している建物に招き入れられた。石灯籠と小さな木の趣のある庭に面した部屋だった。その部屋の中で説教師用に準備された場所には、高いテーブルが置かれ、白と緋色の絹布がかけられており、その布は花と唐草模様の豊かな刺繍がほどこされていた。その上には鐘と経典の巻物が入った盆と古代中国の陶磁器の香炉が置いてある。テーブルの前には吊り太鼓があり、テーブルの後ろには、どの仏教寺院にも飾られている高い、背骨が折れそうな肘掛け椅子があった。 信徒たち用のスペースの片隅には低い文机があり、そこに座っているというか、しゃがんでいるのは寺の書記で、大きな角メガネをかけて、入ってくる者たちをメガネ越しに睨みつける姿は醜い小鬼のようだった。人々は名前とお布施を記帳した。お布施はわずかだったに違いない。この信徒集団はかなり貧しく見えたから。この集団は主に老女と、グロテスクな顔をして、ぴかぴかのハゲ頭の尼、そして、けちな商人が2,3人で、6人ほどの太った子どもたちは行儀作法と敬虔さの完璧な小さな模範だった。そこにいた1人の婦人は他の者たちよりちょっと裕福そうだった。いい着物を着て、女性の召使を従えて、ある種ちょっともったいぶった衣擦れの音をさせて入ってきた。彼女は少し色っぽさを振りまいていたが、その素足は非常に美しい。席につくと、お洒落な小さなキセルとタバコ入れを取り出し、タバコを吸い始めた。火入れ(fire box)と痰壷が自由に渡されることを申し述べなければならない。このようにして、説教が始まるまでの30分ほどを皆、気持ちよく過ごすのだ。
 ここで「日本の説教」という章の最初に挿入されている挿絵を紹介します。 この挿絵の前面に足を投げ出して座っているのがミットフォードと2人の友人のようです。その右隣で説教師の言葉を書いている様子の日本人が、ミットフォードが連れて行った書記でしょう。友人というのは、サトウかもしれません。長時間、日本語の説教を聞くだけの日本語力があるイギリス公使館関係者のうち、ミットフォードと在任期間が重なる人物といえば、サトウ以外では1864年から1889年まで日本にいたウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston: 1841-1911)です。『日本語口語文典』(1869)を初めとして日本語・日本文化・日本歴史について本を著しています。ちなみに、1866年時点で、ミットフォードは29歳、サトウは23歳、アストンは25歳です。挿絵を描いたのは『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の極東特派員兼画家だったチャールズ・ワーグマン(Charles Wirgman: 1832-1891)かもしれません。彼の挿絵の一部はネットで見ることができます(注2)

説教師の登場

 この後、ミットフォードは説教の始まりを描写し、説教の内容の翻訳とともに、聴衆がどんな反応をしたかも記しています。
 この間、寺の本堂ではミサが行われていた。単調な詠唱のブーンという鼻にかかった音が遠くからかすかに聞こえた。これが終わるとすぐに、寺の書記が吊り太鼓の側に座り、太鼓に合わせてお祈り「南無妙法蓮華経」(Na Mu Miyo Ho Ren Go Kiyo)を詠唱し始めた。その声に合わせて、会衆も熱心に詠唱を始めた。何度も何度も繰り返されるこれらの言葉は、この寺、長応寺が奉っている仏教宗派の日蓮の典型的なお祈りである。サンスクリット語の発音に似ているが、日本語では何の意味もなく、この言葉を使う信徒たちもその価値を知らない。 まもなく、説教師が豪華な赤と白の法衣姿で現れた。その後に侍者が聖典・法華(これをもとに日蓮宗が創設された)を、緋色と金の錦織に覆われた盆に載せて従ってきた。上人(his reverence)は床の間(tokonoma)にかかっている聖画にお辞儀をした。床の間というのは、和室の中で他の床部分より2,3インチ[5,6センチ]高くなっている所で、敬いの場とされている。上人はテーブルの前に座ると法衣を整え、顔の筋肉を引き締めて完全な集中の表情を見せた。テーブルの上の鐘を3回鳴らし、小さな香を燃やして、聖典を恭しく頭上に掲げてから、その一節を読み始めた。会衆は一斉に合唱した。彼らは信心深くはあったが、理解力はなかった。なぜなら、その言葉は古代中国語で書かれていたので、ラテン語の祈祷文がノルマン人の背高帽子をかぶった農婦に意味不明なのと同じく、一般の日本人信者には意味不明だったからだ。この人々の群れが銅銭を紙に包んでお布施としてテーブルの前に投げている間、僧侶は一人だけで文章を朗読していたが、寺の書記は不敬にも、お布施に触ったとか何とかと、会衆の1人と喧嘩を始めた。儀式の前段が終わり、小さな坊主頭の少年がお茶を持って入ってきた。上人のお茶としてその後3回も補充され、上人は顔の筋肉を緩めて、満面の笑みを浮かべ、咳払いをすると、お茶を飲み、我々の方を晴れやかに見下ろした。 彼の話法は最も身近なやさしくわかりやすいもので、聖典の一節について即興(原典は斜体による強調 extempore)で行う論説だった。彼が強調したり、一息ついたりする時は必ず「南無妙!」という会衆の叫びが割って入った。これは前述のお祈りの最初の3語で、説教師の意味に賛成という表現を彼らなりに考案したものでもある。 「今日ここに多くの紳士淑女が、心底の信仰心から鬼子母神(原註:仏教徒の女神)の御会式を祝ってお集まりくださったことは、言いようもない喜びです」と日輪上人は穏やかな笑みを浮かべて聴衆を見渡した。 「南無妙!南無妙!」と会衆から謙遜の(self-depreciatory)叫びが起こった。 「みなさんの信心が鬼子母神の気に入らないということはないと確信しています。鬼子母神はいつも、火宅に住んでいる人類の苦しみを嘆き、いつも助ける方法を見つけようと本当に努力なさっているのです」。 「南無妙!南無妙!」ありがたく、恭しく。
 この後7ページにわたって説教と、「南無妙!南無妙!」という会衆の叫びが続きます。まるで目の前で人々が「南無妙!南無妙!」と感謝や悲しみを込めて、説教の合間に叫んでいるのが聞こえてくるほど、臨場感が溢れたリズム感のある文章です。そして以下のように結ばれています。
 以上が私の書記が筆記した説教の頭の部分である。最後に説教師は微笑みながら周囲を見回して、まるで、彼がそれまで説き聞かせた厳粛な真実は、壮大な冗談以外の何物でもないと言っているかのようだった。会衆全員が「南無妙!南無妙!」と大きく、長く叫び続けた。それから、寺の書記が再び釣り太鼓の側に座って、この礼拝は始まった時と同じように終わった。お祈りのコーラスの間に僧侶が退室し、その前を侍者が聖典を捧げて退いた。 時たまだが、上記の場合のように、月の特別な日の礼拝の一部として、説教が行われることがある。連続したコースの中で説教がたびたび行われ、2週間かかるが、その間、毎日2つの説教が行われる。説教師が行脚僧のこともよくあり、彼らは町や村を回って、寺の本堂で説教したり、住職の客間で説教をすることもある。
 この次に「鳩翁道話」の解説と翻訳に移りますので、次項で紹介しますが、説教師が町や村を回るという説明は、福井県における柴田鳩翁(1783-1839)と代講の道話スケジュール(注3)を見ても、1826(文政9)年から1867(慶応3)年にかけてだけでも、頻繁に行なわれていることがわかります。ミットフォードたちが実際の「鳩翁道話」を聞いたかは「日本の説教」からはわかりませんが、代講による説教は彼らが日本在住の時代ですから、可能性はあるかもしれません。 続きを読む

サトウ、ミットフォードらの日本語力

R.L.スティーヴンソンの忠臣蔵論(1883)で高く評価しているA.B.ミットフォードの『昔の日本の物語』(1871)は「四十七士」で始まっています。ミットフォードは泉岳寺を訪れた時に見せてもらった四十七士の遺品を書き写して英訳しています。訪日3年以内に日本語の文書を書き写し、英訳したというので、ミットフォードを含めた当時のイギリス公使館の通訳官や外交官の日本語学習とその日本語力について調べてみました。

サトウ、ミットフォードらの日本語力

ットフォード(A.B. Mitford: 1837〜1916)の『昔の日本の物語』(1871 (注1))には著者の名前の後に「在日本イギリス公使館二等書記官」(Second Secretary to the British Legation in Japan)と肩書きが付けられています。ミットフォードは1858年に外務省に入り、ペトログラード、北京での任務を経て、1866年10月から1869年末(1870年1月1日に日本を出帆)まで江戸に勤務し、1873年に外務省を辞職しているので(注2)、この本の出版時(明治4年)にはまだ外交官だったということです。ちなみに、彼の日本滞在を1870年までとしている論文が多いようですが、ここでは彼の死の1年前、78歳の時に出版された『回想』(Memories, 1915)の記録を典拠とします。46年以上たって、高齢になってからの回想とは言え、序に書かれているように、アーネスト・サトウ(Ernest Satow: 1843〜1929)から詳細な記録を借りて確認したそうで、この事実はサトウの『一外交官の見た明治維新 上下』(A Diplomat in Japan, 1921 (注3))の序でもサトウがミットフォードに貸したと述べていますから、信頼に足る記録です。 サトウの『一外交官の見た明治維新』や日記を読むと、この時代の英国外交官・通訳の日本語力が卓越したものだと、よくわかります。サトウが英国公使館の通訳生として来日したのが1862年9月で、その時の彼の日本語力はゼロだったのに、2年後の1864年9月4日の日記の一部を以下のような日本語で書いています。 この時、4カ国(イギリス・フランス・オランダ・アメリカ)連合艦隊が下関海峡の開放を実現すべく横浜から下関に向かっていて、サトウは通訳として日本語教師と共に乗っていました。日本語文の最初の部分は、「九月四ツ日 朝九時 下関ヲ志して出帆。佐(左)ハ仏国軍艦三艘、亜国(アメリカ)商船一艘、右ハ蘭ノ四艘、中ハ我国軍艦八艘、石炭商船一艘、出帆ノ頃ヨリ、飛脚軍艦コケット、姫嶋ニ倒(到)来、行力ヲ増シテ、段々追駈ケ、当艦迄来タリケリ」と始まっています。漢字はもちろん旧字体です。『薩英戦争 遠い崖—アーネスト・サトウの日記抄2』(注4)にこの部分の日記の写真が掲載されているので、彼の筆跡もわかります。 また、来日4年半後の1867(慶応3)年3月末から4月1日にかけて、大坂城内で行われた将軍慶喜の外国公使謁見をめぐって、イギリスとフランスの理解の違いが通訳の能力に影響されている側面を萩原延壽が指摘しています(注5)。当時、日本語を解する部下を持っていなかったフランス公使ロッシュが入手できる情報が限られていたのに対し、イギリス公使パークスはサトウという有能な通訳の理解を介して、当時の日本の政治を動かしていたのは、天皇(朝廷)、将軍(幕府)、大名(雄藩)という三つの要素が存在していたと理解したのに対し、ロッシュの念頭には将軍慶喜しか存在していなかったといいます。その端的な現れが、4カ国の代表のうち、パークスだけが慶喜に対し、”His Majesty”(陛下)の使用を拒んで、”His Highness”(殿下)という呼称を用い、通訳を務めたサトウは「殿下」という言葉を避けて、「上様」と訳して、「気まずい場面が生ずるのを防いだ」そうです。 ところが、将軍は一国を代表して外国との条約に署名できる身分ではないから、”His Majesty”とは呼べないと言ったのはサトウ自身だったというのです。慶喜の謁見の前年1866年3〜5月にかけて、サトウがJapan Timesに匿名で論説を3編投稿したとされています。その内容について、サトウ自身は『一外交官の見た明治維新』で以下のように述べています。
大君[将軍]と締結した条約が不満足なものであることを述べたてた。その条約は、外国人との貿易を大君の直轄地の住民だけに局限して、この国の大部分の人々を外国人との交渉から断ち切るものであった。そこで私は、条約の改正と日本政府の組織の改造とを求めたのである。私の提案なるものは、大君を本来の地位に引き下げて、これを大領主の一人となし、天皇を元首とする諸大名の連合体が大君に代わって支配的勢力となるべきである、というのであった。それ以来私は、現存の条約の改良と修正について、いろいろの提言をするようになった。阿波侯(訳注 蜂須賀斉裕)の家臣である沼田寅三郎という、いくらか英語を知っている私の教師に手伝ってもらって、これらを日本語に翻訳し、パンフレットの形で沼田の藩主の精読に供したところ、それが写本されて方々へ広まった。(中略)しまいには、その日本文が英人サトウの「英国策論」、すなわちイギリスの政策という表題で印刷され、大坂や京都のすべての書店で発売されるようになった。これは、勤王、佐幕の両党から、イギリス公使館の意見を代表するものと思われた。そんなことは、もちろん私の関知するところではなかった。(上、pp.197-198)
 日本の内政に関して中立であるべきだというイギリス外務省の方針に反する論説を書いたことを、『一外交官の見た明治維新』を書き始めた42歳の頃には、「はなはだ規則を無視したもので、実によろしくない行為であることは言うまでもないが、そんなことには私はほとんど無頓着だった」と書いています。1866年にサトウは23歳でした。 サトウの研究者であるイアン・ラックストンは、サトウが論説の中で、将軍が国家元首でもないのに外国との条約に調印したことは詐欺的だと述べていると紹介しています。そして、「幕府の条約調印が外圧によって強制されたことをサトウは都合よく忘れている」、「1858年の日本では西欧のような条約締結という伝統がなかったことも無視している」、「ここには西欧の価値観を東洋のコンテクストに押し付けようという意図がある」と批判しています(注6)。 上記の引用からもわかるように、サトウたちは日本語教師を雇っていました。サトウは『一外交官の見た明治維新』の中で、度々ミットフォードの日本語力にも言及しています。
ミットフォードは、彼が以前に北京でシナ語を勉強した時のように、絶えず日本語の勉強に没頭して、著しい進歩を見た。私は、彼の役に立てようと思って、一連の文章と対話を編纂しはじめたが、これは数年後に会話篇という標題で出版された。(1867年の記述、上p.247)ミットフォードは、この国へ来てからまだ十二か月以上たってはいなかったが、だれの助けも借りずに日本語で会話をやってのけることができた。それは、同君が語学力を有していた著しい証拠である。(下、p.84)
 サトウとミットフォードは日本各地を一緒に公用で旅していますが、そんな旅にも、それぞれの日本語教師を同道させていました。慶喜の謁見はミットフォードも随行しましたが、1868年3月26日に行われた天皇引見にはハリー・パークス公使の他にはミットフォードだけが随行しています。その理由をサトウは次のように述べています。「謁見の席に陪席を許される公使館員は、ミットフォード一人だけであるが、これは同君がイギリス本国で宮廷に伺候した経験があるからだ。山階宮がミットフォードを天皇に紹介し、天皇は彼に『苦労』という言葉をかけられる。これは意訳すると、”Good to see you”となる」(下、p.182)。翌年1869年1月5日の天皇謁見にはサトウも同席しています。

サトウの日本語学習方法

 サトウが日本語学習について詳しく記しているので、当時のイギリス公使館の人々がどうやって日本語を習得していったかがわかります。サトウは日本に到着した翌日には『会話体日本語』を仕上げたばかりのアメリカ人宣教師S.R.ブラウン師と、日本語辞書を作成中のJ.C.ヘボン博士に紹介され、公使館を説得してブラウン師から週2回の教授、日本人の教師を雇うことを認められました。もう一人日本人教師が必要でしたが、こちらは自分たちのポケットマネーで支払わなければならなかったと書いています(上、p.66)。 ブラウン師は「鳩翁道話」という訓話集を一緒に読んでくれたので、文語の構成がわかりかけたといいます。この「鳩翁道話」はミットフォードが英訳していますので、後に紹介します。サトウの日本人教師の一人は紀州和歌山出身の医師・高岡要で、書簡文を教え、高岡が草書で短い手紙を書き、それを楷書に書き直して、その意味をサトウに説明し、サトウはその英訳文を作り、数日後に英訳文を日本語に訳し直す訓練をしたそうです(上、p.68)。書道の教師にもついたそうですが、商人用流派の「御家流」の教師を選んでしまい、維新後に「多くの大名を弟子に持ち、東京の能書家六人の中の一人に数えられていた」高斎単山に師事したが、「書道は少しも上達せず、普通の日本人ほどにも書けなかった」(上、p.69)と述べています。 そして書簡文の訓練が実践で初めて役に立ったのが、1863(文久3)年6月に、幕府の閣老から短い書面がイギリス公使館に来た時に、忠実な訳文ができたことだと誇らしく述べています。サトウが横浜に着いたのが1862年9月7日でしたから、来日9か月目に外交文書を忠実に英訳出来たということになります。

サトウの日記・手紙の日本語

 20年後の1884年にサトウが日本人妻の武田兼と、2人の息子に会った時の様子を日記にローマ字日本語で書いています。「ヒルゴ(午後)、コドモヲミニイッタラ、フタリトモソウケンデ、オトナシクテ、メズラシイ。エイタロウ(栄太郎)ハ、イッサクネンヨリ、カクベツセイガノビナイ。チエガツイタ。ヒサキチ(久吉)、イロシロク、ワガオトウト、セオドーア(Theodore)ニヨクニタリ」(注7)。 さらに、この約30年後の1913(大正2)年に、イギリスで引退生活を送っていたサトウが武田兼に宛てた日本語の手紙が以下です。この手紙の背景として、サトウと兼の間に生まれた息子2人のうち、長男の栄太郎がアメリカに渡っていて、1908(明治11)年にアメリカ女性と結婚し、アメリカ永住が濃厚になった頃、次男の久吉(1883-1972)が植物学研究のためにイギリスに留学したという事実があります。1910(明治43)年から6年間、ロンドンのインペリアル・カレッジ・オブ・サイエンス(Imperial College of Science)、バーミンガム大学、キュー・ガーデンなどで研究を続けていました。そんな背景で、母親の兼は長男に続き、次男も海外に行ったまま帰らないのではないかと不安になったらしく、サトウに不安を訴える手紙を書き、それに対する返事が以下のサトウの手紙(1913(大正2)年5月31日付)です。尚、「即(すなはち)」以外の漢字のルビは1980年刊の単行本所収の手紙にはついていないので、サトウの手紙にもルビはなかったと思われます。21世紀の読者用に振られたルビでしょう。原文が縦書きであることを念頭にお読みください。
て久吉の儀に付、仔細御申越候趣致承知しょうちいたし候。御心配に
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