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リチャード・ヒルドレス

英米に伝えられた攘夷の日本(1-1)

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“”Richard Hildreth”, Dictionary of Unitarian”

R.L.スティーヴンソンの忠臣蔵論(1883)と吉田松陰論(1880)を理解するにあたって、幕末の日本について英米の一般読者に何がどう伝えられていたのかを知る必要があると思いました。『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載されている記事と関連書を概観します。

ペリー提督の日本遠征

 2006年に『日本とイラストレイテッド・ロンドン・ニュース—報道された出来事の完全記録1853-1899—』(Japan and the Illustrated London News: Complete Record of Reported Events 1853-1899,[ref] Terry Bennett (編), Japan and the Illustrated London News: Complete Record of Reported Events 1853-1899, Global Oriental, 2006.[/ref])という本が出版されました。この頃の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』はかなり「インターネット・アーカイブ」に掲載されていますが、抜けている年も多く、この本と併せて見ていくと、ヴィクトリア時代のイギリス人読者に何がどう伝えられているか見えてきます。なお、金井圓編訳『描かれた幕末明治:イラストレイテッド・ロンドン・ニュース日本通信1853〜1902』(雄松堂書店、1973)で翻訳が出ていますが、絶版です。ずれの本も1853年から始まっています。つまり、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に日本のニュースが登場するのはペリーの浦賀来航(1853年7月8日)の2か月前からです。なお、各記事に付したページ数は注1の本のページ数です。

●1853年5月7日:アメリカの日本遠征(pp.1〜3)

 ペリー提督の日本遠征は、合計15隻、260砲、海兵・水兵・将校合わせて4000人の戦隊だ。この遠征の強さは数で図るべきではない。イギリスの水兵ならみんな知っていることだが、アメリカの軍艦は他のどの国よりも、大きさとトン数(容積)よりも重い金属を有している。アメリカが認めていることは、このような破壊力を持つ砲数と容積の艦隊はかつて世界にないということだ。 この遠征は日本政府と国民に敵意を持って、武力を使おうと考えて出帆したわけではないと言われている。しかし、紛争の原因はいくらでもある。日本近海で難破したアメリカの船員を、日本は残忍にも捕らえて、収容所に閉じ込めた。この非道な行為について、ペリー提督は日本政府に説明を求めるだろう。アメリカが言うには、日本はなぜこの行為をしたのかの説明も、謝罪もしないから、日本に対して拒否できないような方法で、この件に注意を促す必要があるという。したがって、この遠征は「日本政府を力づくで文明化する」(強調は原文のまま)ために行くものである。日本が残虐に扱った船員の国の政府との交渉に、もし日本が同意しなかったら、人間らしさとは何かの教訓を与えてやらなければならない。そして「文明帝国のランクに入れさせてやる」(強調は原文のまま)のだ。 この遠征の副次的な目的は、日本沿岸に石炭の兵站部(貯蔵庫)を建設することである。科学的目的も忘れてはならない。もしペリー提督が日本に差し出すオリーブの枝を受け入れるなら、日本遠征は豊かな果実を実らせることは間違いない。 海軍長官の年次報告によると、日本の開国がすべてのキリスト教国の商業的冒険に必要だと認識されるようになったこと、それはカリフォルニアと中国の間を航海するアメリカの捕鯨船の船主など全員が認めることである。この重要な任務が東インド戦隊の指揮官に与えられたのである。

●1853年10月22日:アメリカの日本遠征(p.5)

(特派員より) 香港, 1853年8月10日 戦隊は[7月]8日に江戸湾に着き、江戸から約30マイルほど離れた浦賀という町に投錨した。2,3日交渉した後、ペリー提督は300〜400人の兵士を上陸させ、皇帝(emperor,[ref]将軍/大君と天皇の違いは以下の1856年刊のペリー『日本遠征記』で説明されていますし、ヒルドレスも1855年刊の本の中で「将軍」という言葉を使って違いを説明していますが、この時代のEmperorに関しては「皇帝」を使用します。[/ref])の内閣によってアメリカ応接の役目を任命されたその地域の長(Prince of a province)にアメリカ合衆国の大統領からの親書とペリー提督自身の信任状を渡した。アメリカ軍は海岸に並ぶ4000〜5000人の日本の軍隊に迎えられた。両軍共、警告が出された瞬間に交戦する用意があった。日本側もアメリカ側も裏切り行為に対する懸念を持っていたので、防御体制にあったのである。しかし、すべてが平和裡に経過し、アメリカ戦隊は春に戻ってきて、回答をもらえることになった。非公式の通告では、皇帝は大統領の親書に対して、期待できる回答をするだろうということだった。この会見の翌日、日本の役人が数人、旗艦に上船して、多くの贈り物の交換があった。 贈り物交換の儀式の後、艦隊は湾の奥まで航行し、周囲を調査した。2,3マイル下に帆船が停泊しているのが見えただけで、江戸の町は見えなかった。人々は航行するアメリカの船団を気にしているようには見えなかったが、蒸気船が[日本について]発見しすぎるのではないかと、明らかに恐れているようだった。そして[蒸気]船が風と潮に逆らって、動き回ることが理解できないようだった。江戸湾は世界で最も美しく、広い湾で、周囲の景色の美しさは比類ないものである。詳細な観察の機会はなかったものの、日本人の振る舞いや習慣や衣服など、すべてが2世紀前に描写されたのと全く同じで変わりがなかった。我々が会った部隊の男たちは弓矢と槍で武装していた。火打石マスケット銃30丁と古めかしい火打石が200〜300あった。上陸した日に偶然女性を2,3人見かけたが、上流階級の女性ではなかった。美人は見つからなかったが、皆繊細で慎み深く見えた。
 ペリーの日本遠征記はアメリカ議会への報告書の形で1856年に出版され、その中には以下のようなイラスト([ref]Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan, Performed in the Years 1852, 1853, and 1854., Under the Command of Commodore M.C. Perry, United States Navy by Order of the Government of the United States. Compiled by Francis L. Hawks, New York, D. Appleton and Co., 1856.https://archive.org/details/narrativeofexped00perr[/ref], pp.294-295)がふんだんに挿入されています。

1846年のアメリカ漂流民に対する幕府の対応

 1853年5月7日付の記事では、ペリーの日本遠征は武力行使が目的ではないと「言われている」と、建前を語りながら、好戦的な本音が出ていて、軍事力は文明度のバロメーターだという価値観が前面に表されています。その背景にあるのが、「日本近海で難破したアメリカの船員を、日本は残忍にも捕らえて、収容所に閉じ込めた」「非道な行為」に対する報復というニュアンスです。これが当時の英米の一般読者にも共有された事件だったことが、1855年にボストンで出版された『日本—過去と現在—』[ref]Richard Hildreth, Japan as It was and is, Boston, Phillips, Sampson and Co., 1855https://archive.org/details/japanasitwasand01hildgoog)[/ref]からもわかります。 著者のリチャード・ヒルドレス(Richard Hildreth: 1807-1865)は歴史家・哲学者・ジャーナリスト、そして奴隷反対活動家とされています[ref]”Richard Hildreth”, Dictionary of Unitarian 続きを読む