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“”Institute of Pacific Relations—Report of the Committee on the Judiciary Eighty-Second Congress, Second Session, Pursuant to S. Res. 366 (81st Congress), A Resolution Relating to”
ユージン・ドゥーマンの経歴
タンフォード大学フーバー研究所文書館の「ユージン・ドゥーマン文書」のサイトはユージン・ドゥーマンの外交官キャリアを以下のように記しています[ref]“Eugene H. (Hoffman) Dooman papers”, Hoover Institution Archives, Stanford Universityhttp://pdf.oac.cdlib.org/pdf/hoover/reg_312.pdf[/ref]。参考のためにカッコ内に年齢を加えます。- 1912年(22歳):日本での通訳生として採用される。 1915年(25歳):副領事、神戸。 1921年(31歳):書記官、東京。 1924年(34歳):外交官。 1926年(36歳):書記官、二等書記官、東京 1931年(41歳):一等書記官、ロンドン。 1936年(46歳):総領事、ロンドン。 1937-1941年(47-51歳):大使館参事官、東京。 1942年(52歳):国務省に帰省、ワシントンD.C.。アメリカ大使、代理大使、モスクワ。 1943年(53歳):連合国救済復興機関(UNRRA)を組織するために、合衆国に帰国。 1944年(54歳):元大使ジョセフ・グルー(Joseph Grew: 1880-1965)の特別補佐官。国務・陸軍・海軍調整委員会の極東小委員会の委員長。 1945年(55歳):ポツダム会議の極東問題アドバイザー。 1944-45年:戦略諜報局に対する日本関係アドバイザー、ワシントンD.C.。
太平洋問題調査会に関する公聴会
上記の経歴からわかるのは、ドゥーマンが1931年の満州事変から日中戦争、真珠湾攻撃、太平洋戦争、終戦と日本占領まで、日本の動向をアメリカ政府に報告し、日本政府との折衝を担ってきた歴史の証人だということです。アメリカの外交文書には1934年からドゥーマンの名前が登場しますが、アクセスできる範囲内の一次資料で興味を持ったのは、1945年11月から46年5月まで続いた「真珠湾攻撃に関する米議会アメリカ議会合同調査委員会」(以後「真珠湾攻撃に関する調査委員会」(Joint Committee on the Investigation of the Pearl Harbor Attack)と、1951年の「太平洋問題調査会に関する連邦議会上院司法委員会国内治安小委員会公聴会(以後「太平洋問題調査会に関する公聴会」(Hearings before the Subcommittee to Investigate the Administration of the Internal Security Act and Other Internal Security Laws of the Committee on the Judiciary United States Senate, Eighty-Second Congress, First Session on the Institute of Pacific Relations)です。 時系列的には後になりますが、「太平洋問題調査会に関する公聴会」でドゥーマンが証言していますので、その証言を翻訳紹介します。「太平洋問題調査会に関する公聴会」が始まった原因は、赤狩りとかマッカーシズムと呼ばれる共和党上院議員ジョセフ・マッカーシー(Joseph McCarthy: 1908-1957)が始めた反共運動です。攻撃対象にされた中国研究者オーウェン・ラティモア(Owen Lattimore: 1900-1989)が関わっていた「太平洋問題調査会」の関係者を調査するために上院で調査委員会が設立されました。その公聴会が1951年7月25日から1952年6月20日まで続き、66人が証人喚問され、ドゥーマンもその1人でした。実はこの委員会は2つ目の調査委員会で、最初の委員会の結論がマッカーシーの糾弾を「詐欺、でっち上げ」と判断したため、マッカーシーと同じ反共主義者の上院議員マッカラン(Pat McCarran: 1876-1954)を議長として調査委員会が再度編成され、ラティモアが再び攻撃されました。最終報告書によると、この委員会の目的は以下のように記されています。- 「太平洋問題調査会」が共産主義者の世界陰謀のスパイに支配されていたのか、影響を受けていたのか、あるいは潜入されていたか、いたとしたら、どの程度か。 これらのスパイとその手先が調査会を通してアメリカ合衆国政府に働きかけ、アメリカの極東政策に影響を与えたのか、そうなら、どの程度か、今でも影響力を持っているか。 これらのスパイとその手先が極東政策に関して、アメリカ世論を誘導したか。([ref]”Institute of Pacific Relations—Report of the Committee on the Judiciary Eighty-Second Congress, Second Session, Pursuant to S. Res. 366 (81st Congress), A Resolution Relating to