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忠臣蔵

サトウ、ミットフォードらの日本語力

R.L.スティーヴンソンの忠臣蔵論(1883)で高く評価しているA.B.ミットフォードの『昔の日本の物語』(1871)は「四十七士」で始まっています。ミットフォードは泉岳寺を訪れた時に見せてもらった四十七士の遺品を書き写して英訳しています。訪日3年以内に日本語の文書を書き写し、英訳したというので、ミットフォードを含めた当時のイギリス公使館の通訳官や外交官の日本語学習とその日本語力について調べてみました。

サトウ、ミットフォードらの日本語力

ットフォード(A.B. Mitford: 1837〜1916)の『昔の日本の物語』(1871 (注1))には著者の名前の後に「在日本イギリス公使館二等書記官」(Second Secretary to the British Legation in Japan)と肩書きが付けられています。ミットフォードは1858年に外務省に入り、ペトログラード、北京での任務を経て、1866年10月から1869年末(1870年1月1日に日本を出帆)まで江戸に勤務し、1873年に外務省を辞職しているので(注2)、この本の出版時(明治4年)にはまだ外交官だったということです。ちなみに、彼の日本滞在を1870年までとしている論文が多いようですが、ここでは彼の死の1年前、78歳の時に出版された『回想』(Memories, 1915)の記録を典拠とします。46年以上たって、高齢になってからの回想とは言え、序に書かれているように、アーネスト・サトウ(Ernest Satow: 1843〜1929)から詳細な記録を借りて確認したそうで、この事実はサトウの『一外交官の見た明治維新 上下』(A Diplomat in Japan, 1921 (注3))の序でもサトウがミットフォードに貸したと述べていますから、信頼に足る記録です。 サトウの『一外交官の見た明治維新』や日記を読むと、この時代の英国外交官・通訳の日本語力が卓越したものだと、よくわかります。サトウが英国公使館の通訳生として来日したのが1862年9月で、その時の彼の日本語力はゼロだったのに、2年後の1864年9月4日の日記の一部を以下のような日本語で書いています。 この時、4カ国(イギリス・フランス・オランダ・アメリカ)連合艦隊が下関海峡の開放を実現すべく横浜から下関に向かっていて、サトウは通訳として日本語教師と共に乗っていました。日本語文の最初の部分は、「九月四ツ日 朝九時 下関ヲ志して出帆。佐(左)ハ仏国軍艦三艘、亜国(アメリカ)商船一艘、右ハ蘭ノ四艘、中ハ我国軍艦八艘、石炭商船一艘、出帆ノ頃ヨリ、飛脚軍艦コケット、姫嶋ニ倒(到)来、行力ヲ増シテ、段々追駈ケ、当艦迄来タリケリ」と始まっています。漢字はもちろん旧字体です。『薩英戦争 遠い崖—アーネスト・サトウの日記抄2』(注4)にこの部分の日記の写真が掲載されているので、彼の筆跡もわかります。 また、来日4年半後の1867(慶応3)年3月末から4月1日にかけて、大坂城内で行われた将軍慶喜の外国公使謁見をめぐって、イギリスとフランスの理解の違いが通訳の能力に影響されている側面を萩原延壽が指摘しています(注5)。当時、日本語を解する部下を持っていなかったフランス公使ロッシュが入手できる情報が限られていたのに対し、イギリス公使パークスはサトウという有能な通訳の理解を介して、当時の日本の政治を動かしていたのは、天皇(朝廷)、将軍(幕府)、大名(雄藩)という三つの要素が存在していたと理解したのに対し、ロッシュの念頭には将軍慶喜しか存在していなかったといいます。その端的な現れが、4カ国の代表のうち、パークスだけが慶喜に対し、”His Majesty”(陛下)の使用を拒んで、”His Highness”(殿下)という呼称を用い、通訳を務めたサトウは「殿下」という言葉を避けて、「上様」と訳して、「気まずい場面が生ずるのを防いだ」そうです。 ところが、将軍は一国を代表して外国との条約に署名できる身分ではないから、”His Majesty”とは呼べないと言ったのはサトウ自身だったというのです。慶喜の謁見の前年1866年3〜5月にかけて、サトウがJapan Timesに匿名で論説を3編投稿したとされています。その内容について、サトウ自身は『一外交官の見た明治維新』で以下のように述べています。
大君[将軍]と締結した条約が不満足なものであることを述べたてた。その条約は、外国人との貿易を大君の直轄地の住民だけに局限して、この国の大部分の人々を外国人との交渉から断ち切るものであった。そこで私は、条約の改正と日本政府の組織の改造とを求めたのである。私の提案なるものは、大君を本来の地位に引き下げて、これを大領主の一人となし、天皇を元首とする諸大名の連合体が大君に代わって支配的勢力となるべきである、というのであった。それ以来私は、現存の条約の改良と修正について、いろいろの提言をするようになった。阿波侯(訳注 蜂須賀斉裕)の家臣である沼田寅三郎という、いくらか英語を知っている私の教師に手伝ってもらって、これらを日本語に翻訳し、パンフレットの形で沼田の藩主の精読に供したところ、それが写本されて方々へ広まった。(中略)しまいには、その日本文が英人サトウの「英国策論」、すなわちイギリスの政策という表題で印刷され、大坂や京都のすべての書店で発売されるようになった。これは、勤王、佐幕の両党から、イギリス公使館の意見を代表するものと思われた。そんなことは、もちろん私の関知するところではなかった。(上、pp.197-198)
 日本の内政に関して中立であるべきだというイギリス外務省の方針に反する論説を書いたことを、『一外交官の見た明治維新』を書き始めた42歳の頃には、「はなはだ規則を無視したもので、実によろしくない行為であることは言うまでもないが、そんなことには私はほとんど無頓着だった」と書いています。1866年にサトウは23歳でした。 サトウの研究者であるイアン・ラックストンは、サトウが論説の中で、将軍が国家元首でもないのに外国との条約に調印したことは詐欺的だと述べていると紹介しています。そして、「幕府の条約調印が外圧によって強制されたことをサトウは都合よく忘れている」、「1858年の日本では西欧のような条約締結という伝統がなかったことも無視している」、「ここには西欧の価値観を東洋のコンテクストに押し付けようという意図がある」と批判しています(注6)。 上記の引用からもわかるように、サトウたちは日本語教師を雇っていました。サトウは『一外交官の見た明治維新』の中で、度々ミットフォードの日本語力にも言及しています。
ミットフォードは、彼が以前に北京でシナ語を勉強した時のように、絶えず日本語の勉強に没頭して、著しい進歩を見た。私は、彼の役に立てようと思って、一連の文章と対話を編纂しはじめたが、これは数年後に会話篇という標題で出版された。(1867年の記述、上p.247)ミットフォードは、この国へ来てからまだ十二か月以上たってはいなかったが、だれの助けも借りずに日本語で会話をやってのけることができた。それは、同君が語学力を有していた著しい証拠である。(下、p.84)
 サトウとミットフォードは日本各地を一緒に公用で旅していますが、そんな旅にも、それぞれの日本語教師を同道させていました。慶喜の謁見はミットフォードも随行しましたが、1868年3月26日に行われた天皇引見にはハリー・パークス公使の他にはミットフォードだけが随行しています。その理由をサトウは次のように述べています。「謁見の席に陪席を許される公使館員は、ミットフォード一人だけであるが、これは同君がイギリス本国で宮廷に伺候した経験があるからだ。山階宮がミットフォードを天皇に紹介し、天皇は彼に『苦労』という言葉をかけられる。これは意訳すると、”Good to see you”となる」(下、p.182)。翌年1869年1月5日の天皇謁見にはサトウも同席しています。

サトウの日本語学習方法

 サトウが日本語学習について詳しく記しているので、当時のイギリス公使館の人々がどうやって日本語を習得していったかがわかります。サトウは日本に到着した翌日には『会話体日本語』を仕上げたばかりのアメリカ人宣教師S.R.ブラウン師と、日本語辞書を作成中のJ.C.ヘボン博士に紹介され、公使館を説得してブラウン師から週2回の教授、日本人の教師を雇うことを認められました。もう一人日本人教師が必要でしたが、こちらは自分たちのポケットマネーで支払わなければならなかったと書いています(上、p.66)。 ブラウン師は「鳩翁道話」という訓話集を一緒に読んでくれたので、文語の構成がわかりかけたといいます。この「鳩翁道話」はミットフォードが英訳していますので、後に紹介します。サトウの日本人教師の一人は紀州和歌山出身の医師・高岡要で、書簡文を教え、高岡が草書で短い手紙を書き、それを楷書に書き直して、その意味をサトウに説明し、サトウはその英訳文を作り、数日後に英訳文を日本語に訳し直す訓練をしたそうです(上、p.68)。書道の教師にもついたそうですが、商人用流派の「御家流」の教師を選んでしまい、維新後に「多くの大名を弟子に持ち、東京の能書家六人の中の一人に数えられていた」高斎単山に師事したが、「書道は少しも上達せず、普通の日本人ほどにも書けなかった」(上、p.69)と述べています。 そして書簡文の訓練が実践で初めて役に立ったのが、1863(文久3)年6月に、幕府の閣老から短い書面がイギリス公使館に来た時に、忠実な訳文ができたことだと誇らしく述べています。サトウが横浜に着いたのが1862年9月7日でしたから、来日9か月目に外交文書を忠実に英訳出来たということになります。

サトウの日記・手紙の日本語

 20年後の1884年にサトウが日本人妻の武田兼と、2人の息子に会った時の様子を日記にローマ字日本語で書いています。「ヒルゴ(午後)、コドモヲミニイッタラ、フタリトモソウケンデ、オトナシクテ、メズラシイ。エイタロウ(栄太郎)ハ、イッサクネンヨリ、カクベツセイガノビナイ。チエガツイタ。ヒサキチ(久吉)、イロシロク、ワガオトウト、セオドーア(Theodore)ニヨクニタリ」(注7)。 さらに、この約30年後の1913(大正2)年に、イギリスで引退生活を送っていたサトウが武田兼に宛てた日本語の手紙が以下です。この手紙の背景として、サトウと兼の間に生まれた息子2人のうち、長男の栄太郎がアメリカに渡っていて、1908(明治11)年にアメリカ女性と結婚し、アメリカ永住が濃厚になった頃、次男の久吉(1883-1972)が植物学研究のためにイギリスに留学したという事実があります。1910(明治43)年から6年間、ロンドンのインペリアル・カレッジ・オブ・サイエンス(Imperial College of Science)、バーミンガム大学、キュー・ガーデンなどで研究を続けていました。そんな背景で、母親の兼は長男に続き、次男も海外に行ったまま帰らないのではないかと不安になったらしく、サトウに不安を訴える手紙を書き、それに対する返事が以下のサトウの手紙(1913(大正2)年5月31日付)です。尚、「即(すなはち)」以外の漢字のルビは1980年刊の単行本所収の手紙にはついていないので、サトウの手紙にもルビはなかったと思われます。21世紀の読者用に振られたルビでしょう。原文が縦書きであることを念頭にお読みください。
て久吉の儀に付、仔細御申越候趣致承知しょうちいたし候。御心配に
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アンドリュー・ラングとアーネスト・サトウの出会い

R.L.スティーヴンソンのコラム「挿絵の寄り道」が1883年刊のThe Magazine of Art(vol.6)に掲載されていますが、内容は忠臣蔵の紹介です。F.V.ディキンズ訳の『仮名手本忠臣蔵』(1880)と、斎藤脩一郎・グリー共訳「伊呂波文庫」抄訳『忠義の浪人』(1880)のフランス語訳を紹介し、A.B.ミットフォードの「四十七士」(1871)に言及しています。スティーヴンソンの記事が1883年に出版されていることが、ラングと日本との関連でとても興味深い出来事とつながっていることを発見しましたので、この出来事から紹介します。

出会い:ラング、アーネスト・サトウ、ハーバート・スペンサー、森有礼、伊藤博文

末から明治にかけて、厳密には1862(文久2)年から1882(明治15)年まで、日本で活躍したイギリス人通訳・外交官のアーネスト・サトウ(Ernest Satow: 1843〜1929)が1883(明治16)年に休暇で帰国中に、ハーバート・スペンサーに招待されたサヴィル・クラブで、伊藤博文・森有礼と共に、アンドリュー・ラングにも会ったと日記に記しています。サトウの日記を翻訳し、経緯について解説している萩原延壽の『遠い崖—アーネスト・サトウ日記抄14』(2001 (注1))から引用します。
 帰国後[1883年2月27日]約一ヶ月がすぎたころ、サトウは森[有礼]を訪ねた。「森によると、ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer)が非常にわたしに会いたがっているそうである。そこで先方の都合がよいときに、いつでもアシニーアム・クラブ(Athenaeum Club)に出かけると約束した。」 スペンサーは、日本の自由民権運動にも大きな影響を与えた、社会進化論と自由放任主義を説くイギリスの著名な社会学者であり、アシニーアムは、メンバーに文人や学者を多く擁する有名なクラブで、スペンサーも森もそのメンバーであった。 ハーバート・スペンサーがサトウから日本の神道について話をききたがっていることは、すでに外務省の知人から耳に入っていたが(三月十九日の項)、森有礼の斡旋で、会合は四日後に実現した。「四月九日、アシニーアム・クラブに出かけ、森からハーバート・スペンサーに紹介された。スペンサーは五十五歳(じつは六十二歳)ぐらいの、やせ形の男で、頭ははげ上がっているが、あごの下までつづくほおひげをたくわえている。神道の儀式に関連したいくつかの事項について、私から話を聞き出そうとしたが、残念ながら、わたしは答えることができなかった。かれはわれわれをサヴィル・クラブ(Savile Club)の夕食に招待してくれた。」 サトウがイギリスの著名な季刊誌『ウエストミンスター評論』(1878年7月号)に発表した論文「古代日本人の宗教的儀式」(The Mythology and Religious Worship of the Ancient Japanese)などを通して、サトウの神道研究のことは、スペンサーの耳にもつたわっていたのであろう。 まもなくサトウはサヴィル・クラブでの夕食会の席で、スペンサーと森ばかりでなく、当時滞英中の伊藤博文とも会うことになった。「四月二十八日 サヴィル・クラブで、ハーバート・スペンサーと夕食をともにし、そこで伊藤、森、アンドリュー・ラング、化学の教授だというドイツ人某と会った。」
 この会合について、ラングの側からの言及は今のところ見つかっていませんが、スペンサーがサトウを招待した理由が、サトウの日本の宗教に関する論文(注2)にあったので、ラングもサトウの話を聞きたかったということでしょう。こんな歴史的会合にラングが同席していたというのを知って興奮しました。森有礼は1879(明治12)年11月から1884(明治17)年4月までイギリス駐在特命全権公使としてロンドンに滞在していました。1881年から参事院議長だった伊藤博文は1882(明治15)年3月から1883(明治16)年8月まで、立憲制度調査のために渡欧していました。この会合の年、サトウは40歳、森有礼は36歳、伊藤博文は41歳、ラングは39歳でした。 ハーバート・スペンサー(1820—1903)については、熊楠がラングについて述べた文章で、スペンサーやダーウィンなどと共に「素人学問にて千万の玄人に超絶せるものなり」と紹介しています(本サイト「アンドリュー・ラング紹介(1)」参照)。スペンサーはこの頃、社会学者、哲学者として絶頂期にありました。最初の本『社会静学』(Social Statics, 1851)は1881(明治14)年に『社会平権論』という題名で日本語に訳されました。その後、『心理学原理』(The Principles of Psychology, 1855)、『第一原理』(First Principles, 1862)、『生物学原理』(Principles of Biology, vol.1, 1864, vol.2, 1867)、『社会学研究』(The Study of Sociology, 1874)、『社会学原理』(The Principles of Sociology)の最初の部分が1876年に出版されています。『第一原理』は1883年に日本語訳が出ています。スペンサーは「適者生存」(survival of the fittest)という言葉を作ったことでも有名です。19世紀後半のアメリカでもスペンサーは大人気で、アンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie: 1835—1919)などの「抑制がなく、悔やむこともない資本主義」を鼓舞したと批判されていますが、現在では、スペンサーの再評価が始まっているそうです(注3)。 スペンサーと明治日本との関係は、福沢諭吉がスペンサーの『社会学研究』を出版されてすぐに愛読し、反論も含めて多数の書き込みをしていること(注4)や、自由民権運動に大きな影響を与えたとされること、また、森有礼が1884(明治17)年に英文の憲法草案を書き、スペンサーに贈呈して、スペンサーが意見を述べたことなど(注5)、かなり深いものがあるようです。

ロンドンのクラブ

 サトウの日記に記されていた、アシニーアム・クラブとサヴィル・クラブについても、当時のイギリス文化を知る上で見ておく必要があります。萩原延壽の解説では、「アシニーアムは、メンバーに文人や学者を多く擁する有名なクラブで、スペンサーも森もそのメンバーだった」とあります。サヴィル・クラブと共に、「ジェントルマンのクラブ」と称される、これらのクラブとはどんなものだったのでしょうか。「19世紀後半のロンドン・クラブ」[ref]Antonia Taddei 続きを読む