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攘夷

英米に伝えられた攘夷の日本(3-1)

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“:Madhavi”

1840年代にはフランスのカトリック教会が日本進出を狙う様子が「伝道協会」刊の報告書から読み取れます。イギリスの軍事力で日本にも開国を迫れという調子の文章がカトリック神父の報告書に書かれています。

西欧列強が中国の次に狙う日本

トリックの伝道を世界中で展開する「伝道協会」(Society for the Propagation of the Faith)の1840年代からの年報を読むと、西欧帝国主義の実態が見えてくるようです。この年報は「新旧世界の布教に従事する宣教師と司教の書簡集および伝道協会と布教に関するすべての文書」という副題がつき、世界中に派遣された宣教師が各地の様子を伝える内容です。この協会はローマ・カトリック教会が世界中で伝道するための資金援助組織で、1822年にフランスのリヨンで組織され、1922年に本部がフランスからローマに移されて、ローマ教皇がすべてのローマ・カトリック伝道のための募金・分配機関にしたそうです[ref]”Society for the Propagation of the Faith: Roman Catholicism”, Encyclopedia Britannicahttps://www.britannica.com/topic/Society-for-the-Propagation-of-the-Faith[/ref]。 イエール大学図書館のデジタル・アーカイブに1842年〜1853年の年報が掲載されています。その中に日本に関する記述がないか調べたところ、興味深い内容に溢れています。たとえば、『1846年の伝道年報』[ref]Annals of the Propagation of the Faith, a Periodical Collection of Letters from the Bishops and Missionaries Employed in the Missions of the Old and New World; and Of All the Documents Relating to Those Missions, and the Institution for the Propagation of the Faith, Vol.VII for the Year 1846., London, 1846.以下のYale University Libraryのオンラインのうち、v.7-8 (1846-47)をクリックすると、デジタル版が読めます。http://guides.library.yale.edu/c.php?g=296315&p=1976858[/ref]に、中国での布教について書かれているのですが、第一次アヘン戦争(1839-1842)後のことが以下のように書かれています。
中国の古い帝国はぐらついている。今までキリスト教への対応を固守していた障壁を、中国は初めて下げて、キリスト教禁止令の不当な厳しさを緩めた。拷問や死をも恐れない勇敢な使徒たちは、朝鮮半島の、人を寄せ付けない海岸に再び上陸した。朝鮮半島を囲む海は使徒たちの英雄的な企てから日本を守りはしないだろう。日本で再び聖なる旗を上げることになっている者たちは、すでに日本の海岸に近づいている。(p.141)
 次に、報告書「中国の布教」に掲載されている1844年10月13日付のクラヴリン神父[Father Clavelin]の手紙(pp.174-188)にも、日本について言及されています。彼が上海に上陸してからの見聞記です。
[広州湾の舟山島]定海で最も強く印象付けられたのは、古代の寺院は今やイギリス兵の兵舎に変わっていたことです。(中略)寺院に設置されている像をイギリス兵が面白がって破壊しました。一人は鼻をへし折り、もう一人はツノを、そして3人目の兵士は歯を攻撃しました。こうして哀れなブッダは像全てを失いました。(中略)寺院を出ると、私たちは丘に登りました。丘は[町を囲う]塀の内側に位置しており、頂上から[上海の]街全体と港、その周辺が見渡せました。イギリスは第二次戦争[1841年10月の舟山島占拠]開始時にこの高さをよじ登ることで、この町の所有者になったのです。最初の休戦はすぐに破られてしまいましたが、休戦の結果、イギリス軍は定海から引き上げました。中国軍は次の[イギリスの]侵略から自分たちを守るために、ヨーロッパ人が以前やってきた場所に堅硬な城壁を急いで築き、その上に大砲50基を据えました。イギリス軍はすぐに戻ってきて、自分たちが以前上陸したところが強固な要塞と化しているのを見て、ポジションを変えただけでした。一つの連隊が反対方向から町を攻撃し、短期間の抵抗はありましたが、町に入りました。それは中国人にとって驚きで、彼らは「この野蛮人たちは魔法使いだ。我々はここを強固な要塞にしたのに、彼らは大砲に向かってくるのではなく、何の防護もない別の方向から町を奪還した」と言っていました。これで中国人が高い軍事知識を持っていることがお分かりでしょう。彼らは爆弾の使い方も知りませんでした。イギリス軍が最初に爆弾を彼らに向けて発射した時、それが砲弾のように真っ直ぐ飛んでくるのではなく、上から落ちてくると知ると、弾を避ければ十分だと思って、その後、一見無害に見える発射体を検分しようと、彼らは破裂弾に走って行きました。それが爆発した時の彼らの驚きがどんなものだったか想像してみてください。(pp.177-180)

アヘン戦争でイギリス軍として戦ったインド兵

 近代兵器の威力を知らない中国兵を侮蔑する神父の言葉に戦慄を覚えますが、第一次アヘン戦争の犠牲者は、1847年にイギリス政府に提出された報告によると、イギリス軍の死者69人、負傷者451人、中国軍は推測で死傷者18,000〜20,000人とされています([ref]Peter C. Perdue, “Hostilities” in “The First Opium War: The Anglo-Chinese War of 1839-1842”, MIT Visualizing Cultureshttps://ocw.mit.edu/ans7870/21f/21f.027/opium_wars_01/ow1_essay03.html[/ref], p.1)。 クラヴリン神父は、この舟山島の戦で、イギリス軍は1,200人の兵士を投入し、そのうち200人がインド人で「異教徒かモハメッド教徒」だと述べ、以下のように続けます。「この戦いの間、これらの黒人兵があまりの不品行を働いたために、中国人、特に商業に従事していない階級の中国人の心にイギリスの名前に対する深い憎しみを生みました」(p.181)。弱体化していた中国政府はこの感情を取り締まるために、イギリスの交易所に放火した者や、イギリス船員を虐殺した者を公開処刑するなどしたと述べています。 第一次アヘン戦争でインド兵がイギリス軍として戦っていたというのは、正式なイギリス領インド帝国成立が1857年ですし、どういうことだろうと調べてみると、以下のことがわかりました。「舟山島定海をイギリス軍が占領した時、イギリス軍にはベンガル志願兵隊、マドラス工作・鉱夫隊、マドラス砲兵隊、マドラス原住民歩兵隊の第18, 26, 49, 41連隊が含まれていた」([ref]:Madhavi 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(1-1)

R.L.スティーヴンソンの忠臣蔵論(1883)と吉田松陰論(1880)を理解するにあたって、幕末の日本について英米の一般読者に何がどう伝えられていたのかを知る必要があると思いました。『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載されている記事と関連書を概観します。

ペリー提督の日本遠征

 2006年に『日本とイラストレイテッド・ロンドン・ニュース—報道された出来事の完全記録1853-1899—』(Japan and the Illustrated London News: Complete Record of Reported Events 1853-1899,(注1))という本が出版されました。この頃の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』はかなり「インターネット・アーカイブ」に掲載されていますが、抜けている年も多く、この本と併せて見ていくと、ヴィクトリア時代のイギリス人読者に何がどう伝えられているか見えてきます。なお、金井圓編訳『描かれた幕末明治:イラストレイテッド・ロンドン・ニュース日本通信1853〜1902』(雄松堂書店、1973)で翻訳が出ていますが、絶版です。ずれの本も1853年から始まっています。つまり、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に日本のニュースが登場するのはペリーの浦賀来航(1853年7月8日)の2か月前からです。なお、各記事に付したページ数は注1の本のページ数です。

●1853年5月7日:アメリカの日本遠征(pp.1〜3)

 ペリー提督の日本遠征は、合計15隻、260砲、海兵・水兵・将校合わせて4000人の戦隊だ。この遠征の強さは数で図るべきではない。イギリスの水兵ならみんな知っていることだが、アメリカの軍艦は他のどの国よりも、大きさとトン数(容積)よりも重い金属を有している。アメリカが認めていることは、このような破壊力を持つ砲数と容積の艦隊はかつて世界にないということだ。 この遠征は日本政府と国民に敵意を持って、武力を使おうと考えて出帆したわけではないと言われている。しかし、紛争の原因はいくらでもある。日本近海で難破したアメリカの船員を、日本は残忍にも捕らえて、収容所に閉じ込めた。この非道な行為について、ペリー提督は日本政府に説明を求めるだろう。アメリカが言うには、日本はなぜこの行為をしたのかの説明も、謝罪もしないから、日本に対して拒否できないような方法で、この件に注意を促す必要があるという。したがって、この遠征は「日本政府を力づくで文明化する」(強調は原文のまま)ために行くものである。日本が残虐に扱った船員の国の政府との交渉に、もし日本が同意しなかったら、人間らしさとは何かの教訓を与えてやらなければならない。そして「文明帝国のランクに入れさせてやる」(強調は原文のまま)のだ。 この遠征の副次的な目的は、日本沿岸に石炭の兵站部(貯蔵庫)を建設することである。科学的目的も忘れてはならない。もしペリー提督が日本に差し出すオリーブの枝を受け入れるなら、日本遠征は豊かな果実を実らせることは間違いない。 海軍長官の年次報告によると、日本の開国がすべてのキリスト教国の商業的冒険に必要だと認識されるようになったこと、それはカリフォルニアと中国の間を航海するアメリカの捕鯨船の船主など全員が認めることである。この重要な任務が東インド戦隊の指揮官に与えられたのである。

●1853年10月22日:アメリカの日本遠征(p.5)

(特派員より) 香港, 1853年8月10日 戦隊は[7月]8日に江戸湾に着き、江戸から約30マイルほど離れた浦賀という町に投錨した。2,3日交渉した後、ペリー提督は300〜400人の兵士を上陸させ、皇帝(emperor,(注2))の内閣によってアメリカ応接の役目を任命されたその地域の長(Prince of a province)にアメリカ合衆国の大統領からの親書とペリー提督自身の信任状を渡した。アメリカ軍は海岸に並ぶ4000〜5000人の日本の軍隊に迎えられた。両軍共、警告が出された瞬間に交戦する用意があった。日本側もアメリカ側も裏切り行為に対する懸念を持っていたので、防御体制にあったのである。しかし、すべてが平和裡に経過し、アメリカ戦隊は春に戻ってきて、回答をもらえることになった。非公式の通告では、皇帝は大統領の親書に対して、期待できる回答をするだろうということだった。この会見の翌日、日本の役人が数人、旗艦に上船して、多くの贈り物の交換があった。 贈り物交換の儀式の後、艦隊は湾の奥まで航行し、周囲を調査した。2,3マイル下に帆船が停泊しているのが見えただけで、江戸の町は見えなかった。人々は航行するアメリカの船団を気にしているようには見えなかったが、蒸気船が[日本について]発見しすぎるのではないかと、明らかに恐れているようだった。そして[蒸気]船が風と潮に逆らって、動き回ることが理解できないようだった。江戸湾は世界で最も美しく、広い湾で、周囲の景色の美しさは比類ないものである。詳細な観察の機会はなかったものの、日本人の振る舞いや習慣や衣服など、すべてが2世紀前に描写されたのと全く同じで変わりがなかった。我々が会った部隊の男たちは弓矢と槍で武装していた。火打石マスケット銃30丁と古めかしい火打石が200〜300あった。上陸した日に偶然女性を2,3人見かけたが、上流階級の女性ではなかった。美人は見つからなかったが、皆繊細で慎み深く見えた。
 ペリーの日本遠征記はアメリカ議会への報告書の形で1856年に出版され、その中には以下のようなイラスト((注3), pp.294-295)がふんだんに挿入されています。

1846年のアメリカ漂流民に対する幕府の対応

 1853年5月7日付の記事では、ペリーの日本遠征は武力行使が目的ではないと「言われている」と、建前を語りながら、好戦的な本音が出ていて、軍事力は文明度のバロメーターだという価値観が前面に表されています。その背景にあるのが、「日本近海で難破したアメリカの船員を、日本は残忍にも捕らえて、収容所に閉じ込めた」「非道な行為」に対する報復というニュアンスです。これが当時の英米の一般読者にも共有された事件だったことが、1855年にボストンで出版された『日本—過去と現在—』(注4)からもわかります。 著者のリチャード・ヒルドレス(Richard Hildreth: 1807-1865)は歴史家・哲学者・ジャーナリスト、そして奴隷反対活動家とされています[ref]”Richard Hildreth”, Dictionary of Unitarian 続きを読む