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日本

ミットフォード訳の日蓮宗法話

ミットフォードは『昔の日本の話』(1871)に「日本の説教」と題した長い章を設けて、彼が実際に聞いた日蓮宗法話の様子を克明に描いています。挿絵も付いているので、1860年代後半の日本の庶民の様子が伝わってきます。

ミットフォードによる日蓮宗長応寺での法話の描写

トウが来日早々にアメリカ人宣教師S.R.ブラウン師が選んだ日本語教材として「鳩翁道話」を読んだとのことなので、ミットフォードも読んだ可能性があると思いました。実際に彼は「四十七士」を収めた『昔の日本の物語』巻Iに続く巻II(1871 (注1))で「鳩翁道話」の第1巻を翻訳して紹介しています。「日本の説教」(Japanese Sermons)と題した64ページにわたる章で、最初の10ページはミットフォードが実際に聞いた日蓮宗の長応寺の法話です。法話に集まってくる人々の様子と法話の内容をユーモラスに克明に描いています。日時は記していないのですが、かなり日本語がわかるようになった頃と想定すれば、来日2年目の1866年後半から1869年末までの間となります。この文章はスティーヴンソンも読んだわけですし、ラングも読んだと推測できるので、抄訳します。「法話」の部分は”sermon”と訳され、英語圏の読者はキリスト教の説教をイメージするので、翻訳では「説教」にします。その他の部分も読者が英語圏の人々ですから、「紳士淑女の皆さん」というように、英語圏の読者が受け取る英語的表現を維持するようにしたいと思います。
「説教は毎月8日、18日、28日に行われます」という内容の掲示板が、私が毎日通る長応寺に貼られていて、毎日私を誘惑していた。私がこの説教を聞くことに、説教師も信徒たちも反対がないと確かめてから、私は説教に参加することにした。友人2人と、私の画家と、説教を筆記する書記も一緒だった。 私たちは小さな寺に隣接している建物に招き入れられた。石灯籠と小さな木の趣のある庭に面した部屋だった。その部屋の中で説教師用に準備された場所には、高いテーブルが置かれ、白と緋色の絹布がかけられており、その布は花と唐草模様の豊かな刺繍がほどこされていた。その上には鐘と経典の巻物が入った盆と古代中国の陶磁器の香炉が置いてある。テーブルの前には吊り太鼓があり、テーブルの後ろには、どの仏教寺院にも飾られている高い、背骨が折れそうな肘掛け椅子があった。 信徒たち用のスペースの片隅には低い文机があり、そこに座っているというか、しゃがんでいるのは寺の書記で、大きな角メガネをかけて、入ってくる者たちをメガネ越しに睨みつける姿は醜い小鬼のようだった。人々は名前とお布施を記帳した。お布施はわずかだったに違いない。この信徒集団はかなり貧しく見えたから。この集団は主に老女と、グロテスクな顔をして、ぴかぴかのハゲ頭の尼、そして、けちな商人が2,3人で、6人ほどの太った子どもたちは行儀作法と敬虔さの完璧な小さな模範だった。そこにいた1人の婦人は他の者たちよりちょっと裕福そうだった。いい着物を着て、女性の召使を従えて、ある種ちょっともったいぶった衣擦れの音をさせて入ってきた。彼女は少し色っぽさを振りまいていたが、その素足は非常に美しい。席につくと、お洒落な小さなキセルとタバコ入れを取り出し、タバコを吸い始めた。火入れ(fire box)と痰壷が自由に渡されることを申し述べなければならない。このようにして、説教が始まるまでの30分ほどを皆、気持ちよく過ごすのだ。
 ここで「日本の説教」という章の最初に挿入されている挿絵を紹介します。 この挿絵の前面に足を投げ出して座っているのがミットフォードと2人の友人のようです。その右隣で説教師の言葉を書いている様子の日本人が、ミットフォードが連れて行った書記でしょう。友人というのは、サトウかもしれません。長時間、日本語の説教を聞くだけの日本語力があるイギリス公使館関係者のうち、ミットフォードと在任期間が重なる人物といえば、サトウ以外では1864年から1889年まで日本にいたウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston: 1841-1911)です。『日本語口語文典』(1869)を初めとして日本語・日本文化・日本歴史について本を著しています。ちなみに、1866年時点で、ミットフォードは29歳、サトウは23歳、アストンは25歳です。挿絵を描いたのは『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の極東特派員兼画家だったチャールズ・ワーグマン(Charles Wirgman: 1832-1891)かもしれません。彼の挿絵の一部はネットで見ることができます(注2)

説教師の登場

 この後、ミットフォードは説教の始まりを描写し、説教の内容の翻訳とともに、聴衆がどんな反応をしたかも記しています。
 この間、寺の本堂ではミサが行われていた。単調な詠唱のブーンという鼻にかかった音が遠くからかすかに聞こえた。これが終わるとすぐに、寺の書記が吊り太鼓の側に座り、太鼓に合わせてお祈り「南無妙法蓮華経」(Na Mu Miyo Ho Ren Go Kiyo)を詠唱し始めた。その声に合わせて、会衆も熱心に詠唱を始めた。何度も何度も繰り返されるこれらの言葉は、この寺、長応寺が奉っている仏教宗派の日蓮の典型的なお祈りである。サンスクリット語の発音に似ているが、日本語では何の意味もなく、この言葉を使う信徒たちもその価値を知らない。 まもなく、説教師が豪華な赤と白の法衣姿で現れた。その後に侍者が聖典・法華(これをもとに日蓮宗が創設された)を、緋色と金の錦織に覆われた盆に載せて従ってきた。上人(his reverence)は床の間(tokonoma)にかかっている聖画にお辞儀をした。床の間というのは、和室の中で他の床部分より2,3インチ[5,6センチ]高くなっている所で、敬いの場とされている。上人はテーブルの前に座ると法衣を整え、顔の筋肉を引き締めて完全な集中の表情を見せた。テーブルの上の鐘を3回鳴らし、小さな香を燃やして、聖典を恭しく頭上に掲げてから、その一節を読み始めた。会衆は一斉に合唱した。彼らは信心深くはあったが、理解力はなかった。なぜなら、その言葉は古代中国語で書かれていたので、ラテン語の祈祷文がノルマン人の背高帽子をかぶった農婦に意味不明なのと同じく、一般の日本人信者には意味不明だったからだ。この人々の群れが銅銭を紙に包んでお布施としてテーブルの前に投げている間、僧侶は一人だけで文章を朗読していたが、寺の書記は不敬にも、お布施に触ったとか何とかと、会衆の1人と喧嘩を始めた。儀式の前段が終わり、小さな坊主頭の少年がお茶を持って入ってきた。上人のお茶としてその後3回も補充され、上人は顔の筋肉を緩めて、満面の笑みを浮かべ、咳払いをすると、お茶を飲み、我々の方を晴れやかに見下ろした。 彼の話法は最も身近なやさしくわかりやすいもので、聖典の一節について即興(原典は斜体による強調 extempore)で行う論説だった。彼が強調したり、一息ついたりする時は必ず「南無妙!」という会衆の叫びが割って入った。これは前述のお祈りの最初の3語で、説教師の意味に賛成という表現を彼らなりに考案したものでもある。 「今日ここに多くの紳士淑女が、心底の信仰心から鬼子母神(原註:仏教徒の女神)の御会式を祝ってお集まりくださったことは、言いようもない喜びです」と日輪上人は穏やかな笑みを浮かべて聴衆を見渡した。 「南無妙!南無妙!」と会衆から謙遜の(self-depreciatory)叫びが起こった。 「みなさんの信心が鬼子母神の気に入らないということはないと確信しています。鬼子母神はいつも、火宅に住んでいる人類の苦しみを嘆き、いつも助ける方法を見つけようと本当に努力なさっているのです」。 「南無妙!南無妙!」ありがたく、恭しく。
 この後7ページにわたって説教と、「南無妙!南無妙!」という会衆の叫びが続きます。まるで目の前で人々が「南無妙!南無妙!」と感謝や悲しみを込めて、説教の合間に叫んでいるのが聞こえてくるほど、臨場感が溢れたリズム感のある文章です。そして以下のように結ばれています。
 以上が私の書記が筆記した説教の頭の部分である。最後に説教師は微笑みながら周囲を見回して、まるで、彼がそれまで説き聞かせた厳粛な真実は、壮大な冗談以外の何物でもないと言っているかのようだった。会衆全員が「南無妙!南無妙!」と大きく、長く叫び続けた。それから、寺の書記が再び釣り太鼓の側に座って、この礼拝は始まった時と同じように終わった。お祈りのコーラスの間に僧侶が退室し、その前を侍者が聖典を捧げて退いた。 時たまだが、上記の場合のように、月の特別な日の礼拝の一部として、説教が行われることがある。連続したコースの中で説教がたびたび行われ、2週間かかるが、その間、毎日2つの説教が行われる。説教師が行脚僧のこともよくあり、彼らは町や村を回って、寺の本堂で説教したり、住職の客間で説教をすることもある。
 この次に「鳩翁道話」の解説と翻訳に移りますので、次項で紹介しますが、説教師が町や村を回るという説明は、福井県における柴田鳩翁(1783-1839)と代講の道話スケジュール(注3)を見ても、1826(文政9)年から1867(慶応3)年にかけてだけでも、頻繁に行なわれていることがわかります。ミットフォードたちが実際の「鳩翁道話」を聞いたかは「日本の説教」からはわかりませんが、代講による説教は彼らが日本在住の時代ですから、可能性はあるかもしれません。 続きを読む

ラングとThe Magazine of Art

ングの新聞雑誌掲載の文章は追跡不可能なほど多いのですが、1882年頃からのもので、The Magazine of Art掲載のものは追跡できました。インターネット・アーカイブがトロント大学所蔵のものを掲載してくれています。 The Magazine of Artという雑誌は1878年創刊で1904年まで続きましたが、1881〜1886年に詩人のウィリアム・アーネスト・ヘンリー(William Ernest Henley: 1849〜1903)が編集長として担当した時期に変貌を遂げ、中産階級の美的センスに多大な影響を与えたと評されています(注1)。それは美術分野だけでなく、詩、散文、批評、考古学、民俗学なども含め、定期的な執筆者にはヘンリーの友人であったロバート・ルイス・スティーブンソンもいます。ラングも頻繁に寄稿しています。 ヘンリーについて、彼の詩「インビクタス」(Invictus, 1875)がネルソン・マンデラの伝記映画の題名(2009, (注2))になり、マンデラが獄中で心の拠り所にした詩とされています。ヘンリーの略歴については、「ヴィクトリアン・ウェブ」掲載の論文(Dr. Andrzej Kiniejko, (注3))から抄訳します。ヘンリーは12歳で骨結核と診断されて、十代で片足をなくし、病院での長い闘病生活中に文芸誌に詩を投稿して認められます。1875年、26歳の時に入院中の彼をR.L.スティーブンソンが訪れたことから二人の友情が始まり、スティーブンソンの『宝島』(1883)の片足のジョン・シルバーはヘンリーをモデルにしたということです。ヘンリーはまた、編集者としての才能にも恵まれ、The Magazine of Artを含め、4種類の雑誌の編集をしました。 以下に1882〜1886年発行のThe Magazine of Artに掲載されているラングおよびその他、私が注目した記事を紹介します。尚、1881年刊はデジタル化されていないようです。この雑誌は月刊誌だったようですが、前年11月号から翌年10月号までを1冊にまとめたものがデジタル化されているため、それぞれの記事が何月号掲載だったか、はっきりわかりません。

ウィリアム・アーネスト・ヘンリー編集のThe Magazine of Art

1882年:The Magazine of Art, vol.5(注4)
Andrew Lang, 「未開人の芸術I—装飾美術」(“The Art of Savages.—I. Decorative Art”, pp.246—251)
Andrew Lang, 「未開人の芸術II—描写」(“The Art of Savages.—II. Representation”, pp.303〜307)
Andrew Lang, 「テームズ川とその詩情」(“The Thames and Its Poetry”, pp.377〜383)
1883年: The Magazine of Art, vol.6[ref]The Magazine of Art,
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