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2019年1月

英米に伝えられた攘夷の日本(5-2-4)

柳亭種彦『浮世形六枚屏風』の主人公みさをと佐吉が偶然再会する場面の原文(1821)と『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載された要約(1857)です。

R.T. (原文)

これより又五年ほど立ちての物がたりと見給ふべし

 梅の難波は梅田橋、梅に実のいる皐月雨、晴れて水無月一日は勝鬘(しょうまん)参りの戻り船、岸に繋いで立ち出づるは、情の恋の二ッ櫛小松と云うて名取の芸子、夕風さっと吹き返すちらし模様を花と見て、蝶もあと追う堤づたい、「まうし其処へ行かしやんすは、花咲屋のお花さんではござんせぬか」と呼びかけられてふり返り、「さう云はしやんすは小松さん、おまへ何処へござんした」「あいちっとした願掛けに、勝鬘の愛染様へお詣り申した戻り道、今お前のうち方へ行く所でござんす」と云うにお花が打笑い、「ひくてあまたといふ心で、小松と名を付けたらうと人さんに云はるゝお前、愛染様へ参るとは、あまり欲でござんすぞえ、それはさうと今わたしも、曽根崎へお客を送って返る所、まちっとの行き違へで逢はれぬ所でござんした、お前も又お舟なら、なぜこちの戸平殿にさう云うては下さんせぬ」「サア皆さんは駕籠なれど、あまり今日のむし暑さ、廻り道でも舟で行かうと、ほんの俄の思ひ付き、頼みにおこす間も無し」と話しながらに花咲の家へ這入れば愛らしく、二階で娘が稽古のじょうるり、「たえてひさしき親のかほうちまもりまもり」と語れば小松が吐息をつき、「あゝ云ふ事が有ったなら、悦しい事であらうぞ」と思わず知らず一人言、お花とふっと顔見合わせ、「あのじゃうるりはお前の娘御およしさんでござんすか」「アイ、鶴澤の御師匠さんがとなりに有るを幸ひと、稽古させては見るものの、未だほんのねゝさんで、何だか埒はござんせぬ」と云いつゝ向うを打見やり「あれあの舟は戸平殿、お客も大勢有るさうな、おまへこちへ」と打連れて二階へ上る程も無く、又岸につく屋根舟よりざゝめき連れて来る三人、此の頃名代の三ッ紋佐吉、匙より舌のよくまはる座敷の配剤加減よき、幇間医者の藪原竹斎常の如くにせんじの羽織、鸚鵡はだしの物真似師深善両人左右に従へ、

I.L.N. (『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』)

 物語の第二部はこの出来事の5年後に、Wofanaと呼ばれるようになったFanayoと美しいKomatsuが家に帰る途中の会話で始まる。家では小さいKoyosiが音楽の稽古をしていて、小唄を歌っていた。二人は一緒に二階に上がると同時に、3人の男たちを乗せた舟が岸に現れた。男たちはお互いに喋っていた。一人は名前を変えたMitzumon Sakitsi、同伴者はおしゃべりホールのティー・スプーンに住んでいる快活で愛想のいい呪い師の医者、Jabuwara Tsikusai、その後に続くのは、サルのように裸足で、普段着のようにシルクのマントを着たTokaxenである。

R.T.

「サア是れからは貴様の所で一杯飲んで帰らうか」「ハイあつ苦しい狭い所も、お気が替っておなぐさみ」と、両人が悪口云わぬ内、先へくゞりの裏口を、開けて亭主の戸平が案内、「おっと卑下を宣ふな、此の花咲屋は船宿中で普請の物数寄第一番、しのぶも釣さず黒石に、さつきつゝじの山も無く、板塀かくしの建仁寺、垣根ばかりで植物の、無い所がきぜつきぜつ」といつも変わらず竹斎が、喧しき声

I.L.N.

「おい、途中お前の所で一杯やっていけるかい?」「ええ、狭い所ですが、何なりと」 他の二人が反対しなかったので、亭主のTofeiはヴェランダに続く前庭の戸を開けて、客たちを招き入れた。 おお、これを粗末で低俗と言うなかれ。この「花咲き家」は船着場にある娯楽場である。質素な所で、オレンジの庭もなく、黒木のヴェランダと、木の杭が載せられた頑丈な基礎壁以外見るべきものがないので、家の前にちょっとしたアトラクションが施されている。

R.T.

[竹斎が、喧しき声]聞き付けて、お花も二階を下り来り、「めづらしい佐吉様、すっきりお足の引かぬのは南の方に面白い」「いやいや此方も知って居る通り、何処へ行っても相方を定めぬが己(おれ)が持ちまへ、然し余り遊び過ぎて、何ぼ気のよい母者人も、すこし呆れもされた様子、あの佐吉と云ふ奴はうたゝ寝にも算盤を枕にして帳合の寝言を云った程で有った、若い者には珍しい商売好きの遊び嫌ひ、よい事には二ツ無く、医者も手をおくぶらぶら病、命にはかへられぬと、おれがすゝめて遊ばせたが癖になって、近年は家のことには構ひ居らぬ、あゝ云ふ事では身代を、くづし始めの紋所二ツ紋とやら名を取るを、常々家へ来て居ながら、竹斎や深善が、意見をせぬがうらめしいと、おっしゃったと手代のはなし、それ故丁度百日ばかり戸口へも出なんだ」と云う内

I.L.N.

 Tsikusaiは周囲を身回さずに、大声で話しながら入って来た。Wofanaが二階から叫んだ。「南部地区でSakitsi様を見られるとは珍しい。ここには一度も足をお運びになったことがありませんね」「ああ、そうだね。でもいい仲間がいれば閉じこもることはしない。家の近くでは十分楽しんでいる。このSakitsiはテーブルを枕に、楽しい話をしてくれて知ったのだが、若い時代の楽しみとも、優しい母親とも別れたそうだ。儲け商売の仕事を嫌っているが、その仕事から離れられない運命で、医者が手を差し伸べ、霜月の始めに私に店に行けと助言した。近年は店の商売に関わっていない。ため息ばかりつき、体調を壊している。TsikusaiとTokazenが毎日のように家に来ているのに、彼がクモの糸という意味の新しい名前、Mitzumonを使わせてくれないので、彼[佐吉]は二人に怒っている。彼はといえば、二人のうんざりする道化に苦しめられたことはない」。 このわけのわからないスピーチはワインの症状を示していた。
訳者コメント:「わけのわからないスピーチ」と『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の記者が感想を挿入するほど、佐吉の話は理解不能だったようです。この背景には、日本語特有の主語の省略や、「〜が言った」という発話の主体を示す文言が少ないことに加え、句読点や引用符がほとんどない当時の日本文の特色が大きく影響しているのでしょう。ここで引用しているR.T.の種本は1929年刊の『浮世形六枚屏風』ですから、西洋式に句読点と引用符が施されていますが、プフィッツマイヤーの種本は1821年刊ですから、判読が難しいでしょう。プフィッツマイヤーの苦労が偲ばれます。 そんな中で、『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の訳が一番原作に近いので、スネッセン訳(1851)、I.L.N訳(1857)、マラン訳(1871, (注1))を比較してみます。マランについては後に紹介しますが、スネッセン訳から20年後の翻訳ということになります。
    原作:竹斎の声を聞きつけて、お花が二階から下りて来て、佐吉に話しかける。スネッセン訳:お花は二階の自分の部屋に戻り、小松に話す。I.L.N.訳:お花は二階から叫ぶ。マラン訳:お花は二階に行き、小松と話す声が聞こえる。訳者コメント:「お花も二階を下り来り」の理解だけでも、I.L.Nが一番近いことがわかります。とすると、I.L.N.の記者はスネッセン訳の要約というより、意訳、前後のストーリーの論理に合うような理解の仕方をしたのかもしれません。 お花の「めづらしい佐吉様」という呼びかけに、佐吉が「いやいや此方(こなた)も知って居る通り」と答える。スネッセン:お花が小松に「佐吉が来るのは珍しい」と言う。小松が「私はこの佐吉という人を知っている」と答える。I.L.N.:”Worthy Mr. Sakitsi”と始めて、佐吉に話しかけ、答えは誰が言ったとは書いていない(わからないながらも、佐吉と読めるようにしている)が、読者は佐吉の答えと理解して読み進める。マラン:”that precious Mr. Sakitsi, he is a rare thing”とお花が言うので、「あの大事な佐吉様がめずらしい」と小松に話しかけ、小松が「いえいえ、私は彼をよく知っています」と話し始める。 佐吉が遊びすぎて、母に呆れられ、母のセリフでは、うたた寝でも算盤を枕にし、仕事の取引を寝言で言うぐらい仕事熱心、遊び嫌いだったため、医者も匙を投げるほどのうつ病になり、命に変えられぬと母が遊びを勧めた結果、近頃は家のことを構わず、財産を崩し始める。竹斎や深善がいつも家に来ているのに注意してくれないのが恨めしいと言ったと手代から聞いた。だから100日ぐらい遊びに出なかったのだ。スネッセン:小松の話「小松が仲間を避けて来たが、佐吉は小松と一緒がいいといつも現れ、テーブルを枕に、母と別れ、子供の遊びも絶たれていたか話してくれた。若い時は遊びを嫌い、自分の幸運を楽しんだことはない。医者の手にかかると、熱のうわごとで自分[小松]が去るようなことは二度としてくれるなと言う。去年は家の仕事は全くせず、ふさぎこんで人生に悩んでいた。いつも一緒にいる竹斎と深善が彼[佐吉]がMitzumon、つまり3本の糸という名前を使うのに同意しないことで、彼は怒っているとか。この点で、彼らとのつまらない付き合いを嫌がっているらしいけど、当面は諦めているそう」。マラン:小松の話「彼は私に付き合うよう説得できなかったけれど、私と楽しく多くの時間を過ごしたの。あの佐吉という人、サイドボード(食器棚)を枕がわりに、私のそばで無駄口をたたき、馬鹿げた事ばかり言い、それから、貧しい善良な母親の元を去った経緯を話したわ。若いときは繁盛する商売が嫌いで、働かなかったこと、医者が彼を捕まえ、彼は私[小松]が彼との同棲に同意しなければ、病気が治らないと説得しました。ここ数年、彼は家業を疎かにし、その結果、色々と悪化したので、彼は竹斎と深善に怒っていました。この2人はいつも彼の家にいたのに、彼の服にまつわる三ツ紋という名前にするようにと助言しなかった。それで、彼は2人の長々しいおふざけに注意を払わないのです。
 スネッセン訳、I.L.N.要約、マラン訳と見てみると、I.L.N.の記者がなんとか論理的に理解しようと苦心している様子が窺えますが、それでも「わけがわからない」と悲鳴をあげているような感じです。スネッセンの翻訳が掲載された『ホウィットのジャーナル』(1851)も、マラン訳掲載誌『フェニックス』(1871)も購読者数は少なかったでしょうが、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の購読者数は(4-1)で紹介したように、1863年時点で31万部だったということですから、一家で読む人数を加えれば、その倍以上でしょう。こんなに影響力のある新聞に、「わけのわからない」日本のストーリーを掲載する意図は何だろう思いながら、この号(1857年1月3日)の他の記事を見ると、第二次アヘン戦争の始まりとなったアロー号事件についての記事が掲載され、2ヶ月後に本国の英国議会で、中国に対する侵略戦争だ、人道的に許されないと大議論になり、アロー号事件の首謀者の一人とされたハリー・パークス領事の責任が追求されたこと、そのパークスが後に日本に公使としてやってきたことなどを知ると、複雑な思いを禁じ得ません。『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』では、すでに1850年には、「弱くて無気力な中国人と日本人を考えたら、喧嘩の方がずっと現実的で、ありえる結論だろう」(4-1参照)と、「喧嘩」=侵略戦争をするのが早いという趣旨を記事で表明しているのですから。 とにかく、最後まで『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』が紹介する『浮世形六枚屏風』の要約と記者の最後の感想を拙訳します。

R.T.

二人の末社ども、「そりゃこそをかしな日よりに成った、南無三くはばらくはばら」と、耳を塞げばお花はうちえみ、「此の雲行きでは、ほんたうに今夜はなるかも知れぬのに、縁起の悪い」と云いながら、さす杯を竹斎が手に取上げて、あたりを見回し、「床の間に三社の託がかゝって有るのは聞こえたが、其のまへの犬張子に七色菓子が上げて有る、なで牛が古いからなで犬とは新しい」と云われて戸平は目配せし、「それは内の山の神が、七ツ目だからと言ひまして、なァお花」「アイそれで大事に今まで致します」と云い紛らせば指折りかぞえ、「お神さんのほんの年は見現はした、此の小道具におよし坊といふ子が有れば、成程さうでも有らうかえ、三十には余程とくだ」と笑えばお花は竹斎を、たゝく真似して立って行く。

I.L.N.

この後、Tsikusaiは間の悪い質問をした。犬の人形にかかっている七色の絹糸についてだったが、Tofeiは説明を避けた。

R.T.

深善がまかりいで、「益も無い口を聞いて、お神さんを取逃した。イヤ逃すと云へば此の屏風は、男と女が連立って駈落をする所、向うに橋がいかい事書いてあるのは何処であらう」と引出せば亭主の戸平、「もし暑くるしい、畳んでお置きなされまし、夫れは矢張ここの景色梅田橋に桜橋、その次が曽根崎橋、いつぞやお初徳兵衛のじゃうるりの出来た時、人形芝居の看板をとなりの三絲に貰ひましたを、屏風にして置きました」と話せば竹斎又さし出で、「其のじゃうるりで思ひ出したは、近年ここで名代の芸子、二ツ櫛の小松とは道行に出さうな名、貴方は三ツ紋二ツ櫛とならべて云ふと、角とやら割外題とやらの様で、狂言名題に打って付け、何と是れから一およぎ」と乗地に成るを佐吉が打消し、「成程おれも名は聞いたが未だ遇ひはせぬ小松とやら、道行の屏風から思ひ付いては悪い対句、末の世までも此の様に、浮名を残すお初天神、情死(しんぢう)をして死ぬ阿房(あはう)にたとへられては迷惑な、遂ぞ今まで相方を定めぬおれはほんの遊び、はてたかが芸子は売物買物、金さへ出せば自由になる、夫れを誠のある様に思うて居るは大たはけ」と人事云わば目白置け、二階を下りる二ツ櫛小松とふっと顔見合わせ、お花が送る後影見とれて佐吉が手に持ちし、酒がこぼれて我が膝も、ぬれのはしとはなるとも知らず、「今の芸子はありゃ誰ぢゃ」「あれが今竹斎様の噂を云った、二ツ櫛の小松さんで御座ります」と聞いて佐吉は呆然と、杯なげ捨て帯しめ直し、「さァ今からあれを上げて遊んで見よう」と心も空もかわりて降り来る夕立雨、「すゞしくなってしっぽりと、おしけりなさるに最屈強、ものどもぬかるな、ヤレ来いえゝ」とそゝり立ったる両人を打連れ、戸平を供に小松をしたひ、島の内にぞ至りける。

I.L.N.

Tokazenが屏風の人物について、神特有の粗雑さを示しているが、Wofano、またはFanayoがTofeiと一緒に家を出奔した逃避行を思わせると言うと、[Tofeiは]話を止めて、会話は最近来た女性ミュージシャン、Futatsugusi Komatsuに向かった。Mitzumonという名前へのもう一つの下品な暗示である。Sakitsiは失望している恋人を呼び出した。「実のところ、この屏風で小松のことをお前が思い出したというが、最近よく耳にする小松に会ったことがない。最近の記憶に残るつまらない名前を表現する歌には重荷しか生み出さない。もしWofatsenが心に天の神々を秘めているとしたら、そして、もし致命的な愚かさが彼らをこの問題に引き摺り込んだとしたら、悲しいことだ。私の確たる決意はそのような関係に引き込まれないというものだ。ああ! こんな浮気なリュート弾きの女たちは売買対象の商品に過ぎない! 私たちの金が尽きたら、彼らは去っていく。これが真実だとよく知っている。これが重要なことだ」。 ちょうどこの時、Wofanaがそっと振り向いた。Sakitsiは持っていたカップを倒し、中の液体が自分の膝にかかったことを気づかなかった。「リュート弾きの女がいるぞ、こいつは誰だ?」「竹斎様がご存知のFutatsugasi Komatsuです」。Sakitsiはそう聞いて驚愕し、カップを投げ出すと、無意識に帯を緩めたり、締めたりした。「また嬉しいことになった」。彼はTofeiの招きで家に入り、そこで、たった今侮辱したばかりの無垢で高貴な女性に会った。

マランの翻訳について

“MISAWO, THE JAPANESE GIRL. Translated 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(5-2-3)

柳亭種彦『浮世形六枚屏風』の主人公みさをが伯母一家を救うために身売りをする場面の原文(1821)と『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載された要約(1857)です。

R.T.(原文)

[才蔵の口上を]まことと思い母朽葉、枕屏風を押しのけて「左様ならお前さまは、ご奉公のお目見えに今からお出まし遊ばしますか」「あい姉さんや戸平殿は、かねがね承知の事なれど、お前の病気の其の中へ、心無しと思ふ故、今日まで延べて置きました」「はて訳も無い事おっしゃります。戸平といふせがれはあり、嫁と云ふは勿体なけれど、花世殿はあれ程に、孝行にして下さりますれば、何も不自由はござりませぬ。申すではなけれども、取分け貴方は大切のお体、かう云ふ所にうかうかと置き申すのは心遣ひ、一日なりとも早い方が、此の婆は却って安堵、やれやれ貴方、ご苦労さまに存じます。して判官様のお屋敷はどの辺でござりまする」と問われて、才蔵が真面目になり、「上屋敷は扇が谷、南無三それは鎌倉だ、伯州でも遠すぎる。おゝそれそれ此の程奥方花世御前病気によって、ご保養がてら八幡辺にご逗留、あの山崎の渡し場を左へ取り、判官様のお屋敷はもうここかへと、お尋ねあらば早速あい知れ申すべし」と取繕へば尚すり寄り、「わたしもあの辺へ参った事もあったれど、見も聞きもせぬ其のお屋敷、いつ頃御普請なされました」と聞かれてはっと思いながら、「イヤ昔も昔、大むかし、彌勒十年辰の年、諸神の立ったる御屋敷」「お広いことでござりませう」「広いとも広いとも、お座敷なんぞを見てあれば、綾のヘリが五百畳錦のヘリが五百畳、高麗縁が五百畳千五百畳のたァたみを、さらりやさっと敷かァれたり」と、己が名から案じ付き、我を忘れて舞ひ出す才蔵。

I.L.N.(『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』)

年老いたKutsiwaは彼が言ったこと全部が本当だと思い、寝間の屏風を開いて、「何と!召使いとなるために直ぐ行きなさるのか」と言った。「そうです。姉さんとTofeiさんは嫌々ながらも同意してくれました。ご病気が今頃は治るだろうと想像して、今まで引き延ばしていたのです」「そんなこと構いません。息子Tofeiも嫁も私もとても残念です。主婦のFanayoが私の病気の世話をとてもよくしてくれるので、病気は問題ありません。あなたには今まであまり言ってこなかったが、あなたは本当に立派だと感じていました。この出来事で私が今心に感じていることを一刻も早く申し上げたく思いますが、長くなるから別の時にしましょう。私は貴方が仰ってるお方をよく知っていますが、この判官様のお屋敷はどの辺でしょうか?」 この質問にSaizoの顔色が変わり、ばつが悪そうな表情をした。「お屋敷は扇の谷にある。鎌部屋の平野[plain of sickle-rooms:鎌倉のことか?]があり、数百本の灌木を通らなければならない。本当に広大な景色だぞ。貴方はご病気だから、平癒の寺の近くの8本の旗の山で泊まるのがいいかもしれない。その山の向こうの渡し場で左に折れ、そこでお屋敷はどこか尋ねれば、すぐにわかる」「貴方の説明は最近の場所のようです。あの辺はよく行きましたが、そんな所は聞いたことも見たこともありません。そのお屋敷はいつ建てられたのでしょうか」 才蔵は非常に困ったが、「ああ、ずっと昔じゃ。Miraku10年だ。藩の人々が建てたお屋敷じゃ」と答えた。「とても広いお屋敷なのでしょうね」「これ以上ないほど広い。大広間は驚くほどだ。500枚の縞柄の縁付きカーペット、500枚の縁付きコリア・カーペット、500枚の刺繍のシルク・カーペット、全部で1500枚で誰もが驚く」。彼は名前を思い出そうとしたが、度忘れした。

R.T.

みさをは見るにあぶあぶと、「風が当たれば御身の毒、まァまァこちへ」と朽葉が手を取り、寝間に誘いあたふたと、枕屏風を引廻し、「どれ着物をきかようか」と口には云えど無い袖の、ふりも作らずみだれ髪、ついそこそこにかき上ぐる。才蔵は胴巻より百両の金取出せば、みさをは心得証文と引き換えに、件の金手に取りながらあたりを見回し、かねて認め置きたりけん、書置諸共かたわらなる、雛に並ぶ犬張子の中に隠して、「そんならば大切に養生遊ばせや」と云う声聞いて母朽葉、又もや寝間をさぐり出て、「もうお出で遊ばしますか、定めし今日は総模様、立派にお着替えなされた所を、たった一目見たけれど、云ふに甲斐ない此の盲目、どれ探ってなりと見ませう」とすり寄ればみさをは驚き、切ない時の神ならで、仏の前にかかった打敷昔模様の綸子の地黒をこれ幸いと仏壇よりそっと外して膝に押し当て、探らすればにこにこ顔、「おゝ是でこそ数村様のお娘御、随分お首尾なされまして、暑さ寒さは云ふに及ばず、あがり物に気をつけて、おわづらいの出ぬ様に、大切にお勤めなされませ」と売られて行くとはしらがの母、

I.L.N.

 これを見たMisawoは出し抜けに「ここは風がひどいので、風邪を引いてしまいます。こちらへ」と言って、Kutsiwaの手を取り、寝間に誘い、屏風を立てた。「何を着たらいいだろう?」と言うと、髪の毛を掻きあげたが、今言ったような着替えはしなかった。Saizoは銅の巻物から100両を取り出した。Misawoは交換に証文を渡し、金貨を手にして、周囲を注意深く見回した。そして以前書いておいて上記の人形の後ろに隠していた別れの手紙と金を犬の箱に隠した。 Kutsiwaは質問するために前に進み出た。また、娘がこの機会のためにどんな衣装を着ているか確かめようとした。しかしMisawoは部屋の仏壇にかけられていた古いシルクのカーテンを急いで取ると、普段着の上にかけた。盲目の老婆はそれを触って騙された。

R.T.

[母朽葉が]喜ぶ折から納戸より立ち出る小よしは頑是無く、「おやおやおかしな前垂れして」と云いかくるをみさをは打ち消し、「あゝ是れ姉がうつゝいベゝを着て、羨ましう思やらうが、おし付けそなたも大きうなると、わたしが方へ引取って、なァ申し朽葉さま」「おゝそれそれ小職(こじょく)とやら、小僧とやら、お使ひなされて下さりませ」とつい何となく云う言葉も、疵持つすねにあたりをきょろきょろ、合点行かねばうっかりと、小よしは二人の顔打守り、物も得云わず居たりけり。才蔵は打ちしわぶき「遅なはっては屋敷の手前、拙者何とも迷惑致す、いざ御越し」としかつべらしくすゝめられて涙を隠し、暇乞いさえそこそこに、みさをは外へ立ち出でて、小手招ぎして小よしを呼び出し、「母様か父さんか、今にも戻らしゃんした時、わたしを尋ねなさんしたら、毎晩教へて置いた通り、花咲爺の此の赤本ここの所をいつもの様に、絵解きして聞かせると、わたしが行った所が知れる、必ずわすれてたもんなや」と名残おし気に見返り見返り小声になって、「親方さんお待遠でござりませう」「イヤもう待遠より、云ひ付けぬ切口上によわり果てた、さァ急いでやらかさう」とみさをを駕籠に打乗せて、足を早めて帰りけり。

I.L.N.

Koyosiが入ってきて、その新しいエプロンについて言い始めたのをMisawoが止め、[Misawoは]訳のわからないことを言った。彼女は次にその子に、親族が戻って来たら、自分の留守の説明を子どもが読んでいた小さな絵本からするように指示した。この本には今の状況に似た話が含まれている。そして、[Misawoは]Saizoに急かされて行った。

R.T.

斯くとも知らず主人の戸平、忙しげに立帰り、そこら見回し上り口、忘れた煙管手に取り上げ、「南無三道で落としたかと、戻ってみればやっぱりここに、どうでもほんのあはう草、煙草のお陰で暇つひやした。それはさうと母者人、もうお目がさめましたか」「おゝさめた段かいの。今塩谷様のお屋敷から迎へが来て、みさを様は御奉公のお目見得に上がると云ふて、身ごしらへにも人手は無し、お一人で小袖を召し替へ、鋲打の乗物で行かれたに、彼のこなた道で逢ひはしやらぬか」と、云うに戸平は不審晴れず、「さう云ふ事が有るならば、何ぞお役に立たねばとて、一通りは私に、御相談も有る筈の事、どう云ふわけでせわし無く」と問えば朽葉は打笑い、「こなた衆夫婦はかねがねに、承知の事と貴方のお言葉、よもや嘘はおっしゃるまい、それを忘れてけたゝましい」「イエイエイエ此の戸平は真以って(しんもって)存じませぬ。フウ今道で見た四ツ手駕籠、おれに逢ふと垂を下し、どうやら急にかくれる様子、何にしても合点が行かぬ、後ぼっかけて」と駆出す、向うへ廻って娘の小よし、「これ父さん、今姉さんの行かしゃんした所はわたしが知って居る」「ヤ、そんなら吾が身が聞いて置いたか、さァどうぢゃ早う云ふやれ」と気をあせれど、頑是無い子のいたいけに、そばなる赤本押開き、「むかしむかし有ったとさ」と云うに戸平は気を焦ち、「是れ小よし其処どころぢゃ無い、みさを様のお行方は、さア何処ぢゃ、ちゃっと云うて聞かしや」「アイ此の赤本の絵解きをするとおれが行先が知れると、姉さんが云うてぢゃから、まァ下に居て聞かしゃんせ。そこで、正直爺と云ふものが有って、犬の子の命を助けてかはいがって育てたら、其の犬がだんだん大きく成って、ある時爺にいふには、明日私を連れて出て、転んだ所を掘って見ろと、教へると思ったら夢がさめたから、夜が明けると此の犬を連れて出て、転んだ所を掘ったれば、小判や小粒といふお金がたんと出て、それで一期栄えた」とまわらぬ舌で長々しく云うに、戸平は唯うろうろ、「えゝ何の事たか埒も無い、どうでも貴方に追付いて、様子を聞くのが近道」と、駆出す足に思わずも、蹴かえす雛の犬張子、「ヤ、ヤ、是りやこれ小判、フウ犬が転んで金が出ると、今の絵解きは犬張子が、ころべば金が出るとの謎々、中に込めたる此の一通、なにお両方へ申し置き、みさをと有るは合点行かず」と封おし切れば母朽葉、「何じゃみさを様のお文が有る。どう云ふ事ぢゃ読んで聞かしや」と、耳そば立つればくりひろげ、驚きながら笑いに紛らし、「お気遣ひなされますな、くれぐれもお国許の親御の事が案じられる、お前さまのご病気がお心ようなったなら、鎌倉へ私に下って安否を聞いてくれ、お気にさへ入ったならもう家へは戻るまい、直に屋敷へ落付く程に、宿下りまで逢われぬと、夫婦の者へ残し文。「イヤ申し母者人、風がひやひや当っては、ご気分にさはりませう、ま一寝入りなされませ」と寝屋に連行き障子を立て切り、

I.L.N.

 そのすぐ後にTofeiが戻り、Misawoが出て行ったことを呆然として聞いた。絵本の話は、親切な人に助けられた犬が、その人を宝が埋まっている所に連れて行ったというもので、問題を解き明かす役には立たなかった。絶望したTofeiがうっかりと犬の箱(日本ではこのような家具は空想的な形である)につまずくと、Misawoからの手紙と100両の金が出てきた。しかし、彼はMisawoが消えた理由をKutsiwaに隠し、部屋が寒すぎるからと彼女を部屋から出した。

R.T.

[戸平は]思はず知らぬ一人ごと、「もしみさをさま、お情過ぎてうらめしい、なんぼ貴君が編笠で顔をお隠しなされても、毎日通る南円堂、袖乞をなさること、知らいで何といたしませう、あゝ、身貧な此の暮し、貢いで下さるおこゝろざし、それを無足に致すまいと、今日までわざとしらぬ顔、陰で拝んでおりました、それさへ有るに勿体無い、おまへ様の身の代で、何と浮世が渡られませう」とどっかとすわってはらはら涙。いつの間にかは戻りけん、門に様子を聞き居る女房、「えゝ、そんならみさをはアノ曲輪へ」「おゝ様子はあらまし此の書置、母者人に聞えぬ様読んでみやれ」と投げ出せば取る手おそしとおし開き、 一筆申しのこし参らせ候、たゞ今まではごふうふに深くつゝみ、まい日まい日小よしをつれ、観音さまへ参るといつはり袖乞にいで、国もとよりの貢と申し、少しは御ちからになり候へども、それも思ふ様にはかどりかね、此の様にうかうか致し居り候ては、いよいよ貧苦の御身になり候はんかと、それが悲しく島之内之置屋へ、百両にこの身をうりまゐらせ候、此の金にておもふやうに朽葉様の御養生なされ、何になりとも少しも早く、御商売に御とりつき、若しも余計の金子あり候はば、鎌倉へ御下しくださるべく候、是れもにはかの御浪人の事に候へば、さぞ御不自由がちと察し参らせて、なにもなにも取急ぎあらあらかしこ。と読み下せば戸平は聞くに絶え兼ねて、件の金をひっつかみ、駆け出すもすそを花世は引き止め、「きつさう変へてこりゃ何処へ行かしやんす」「はて知れた事、此の金返してみさを様を」「イエイエ一旦証文すんだ上では、元金はさておいて一倍しても返さぬおきて、わしには現在姪の事、勤めさするは本意で無けれど、斯うなるからは仕方が無い、これ此の文にあれが書いて置いた通り、此の金を資本とし身を粉に砕いて身上仕上げ、国元の姉さん御夫婦御貢ぎ申して、其の内に見受けするより外は無い」とさまざまに云いなだめ、母は更なり鎌倉へも武家奉公といい下し、夫婦いよいよ心を用い、金にあかして養生なしけるにぞ、程無く母の眼病平癒なし、是れになおなお力を得て、すこししるべの有りければ、摂州難波へ引移りけるとぞ。 かくてみさをは島之内の芸子となり、其の名を小松と改めしが、きりょうよき其の上に、利発なる生まれなりければ、全盛ならぶ方も無く、常に二ッの櫛を押並べてさしけるにぞ、難波の人彼を仇名して、二ッ櫛の小松とぞ呼びなしける。 又米商人佐吉はみさをが行方知れずなりければ、せんかた無く是れも難波へ立返り、病気保養の其の為とて、折にふれ其処此処と浮かれあるき、月雪花の三ッ紋を付けるにぞ、誰云うと無くかれをも仇名して、三ッ紋の佐吉と呼び、同じ難波に住みながら、さすが繁華の土地なれば、未だみさをにはめぐり逢わざりけりとなん。

I.L.N.

 Fanayoが戻ってくると、その悲しい別れの手紙が読み上げられ、真実が告げられた。証文に署名がされ、金が支払われたので、取引を元に戻す望みはなかった。その金は一家の必要経費に使われ、Kutsiwaの盲目を治療し、夫婦がSi-SiouのNaniwaに引退するのに使われた。 Misawoはリュート奏者になり、日本の慣習に従って、Komatsuと名前を変えた。しかし、この名前の下品な接頭辞はFutatsugushiというあだ名である。SakitsiもまたMisawo、現在のKomatsuの行方が一切わからなくなり、絶望してNaniwaに戻り、そこでMitzumonという名前を称した。しかし、一度も愛人と接触することはなかった。それどころか、忙しく外出していた。
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英米に伝えられた攘夷の日本(5-2-2)

『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』1857年1月3日号に掲載された柳亭種彦の『浮世形六枚屏風』(1821)の英訳と原作を比較します。

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』掲載の浮世形六枚屏風のストーリー

年号の最後とはいっても、大判の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(1857年1月3日)に2ページにわたって、日本の絵草紙を紹介した意図は何だったのか、どこを抜粋したのか、どんなコメントが付けられているのかを探ってみます。スネッセンの英訳を連載した『大衆とホイットのジャーナル』はこの4巻目をもって廃刊になったそうですから、購読者数が少なかったと推測できます。それでも「本作品が日本の人々の特徴、作法、考え方などを正確に伝えている」ことが紹介の理由なのかもしれません。 では6年後にこの英訳を要約したと考えられる『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(注1)の記者はどんな思いで紹介したのでしょうか。以下に最初のコメントを抄訳します。
 今日読者諸氏に提供する本物の日本の物語の珍しさは、我々が知る限り他の物語が未だかつてヨーロッパとイギリスに届いていないという事実からも証明できる。旅行者を通して、日本帝国の一般的な民俗習慣については世界に知られるようになったが、その情報を役立てるのは主に博識な学者たちに限られていた。おそらく、この閉ざされた奇妙な国に関する情報を大衆に広める唯一の手段は、この新聞のコラムで度々提示されているイラストレーションだけだろう。 この物語の趣旨自体が中国の物語と驚くほどの対極にあるように見える。この二つの国はその近さと位置から、ほとんど同じだと推測されるかもしれないが、この2人種の民俗と感性は似た点が全くない。読者が中国の物語の紡ぎ方や行動について思い起こせば、その違いはどの段階でも驚くほど明らかだろう。
 この後、筋の紹介に入ります。ちなみに、イタリア語訳が1872年に、フランス語訳が1875年に出ているそうですから(注2)、スネッセンの英訳も『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の記者による要約も、ずっと早いわけです。英訳に関しては、1871年に新訳が「日本の女性、みさを」という題名で雑誌『フェニックス』に掲載されていますので、最後に紹介します。まずは、スネッセンの1851年訳を『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』がどう要約しているのか、ストーリーのどの部分を採用しているのか、どんな誤解があるのか見るために、原作の各エピソードの後に、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の拙訳を付します。原文(注3)の要約にはR.T.(柳亭種彦)、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の拙訳にはI.L.N.と付して区別し、英訳の固有名詞と地名はローマ字のままにします。原文の旧漢字と旧仮名遣いは現代日本語に、会話文の旧仮名遣いは原文通りにしました。

R.T.

むかしむかし、関東の管領濱名入道の一族に、網干多門太郎員好(あぼしたもんたろうかずよし)という者ありけり。上総国半国を領し、文を好み武に長じ、名ある家来も多かりければ、勢いはおさおさ管領に劣らず、相州鎌倉小袋坂のほとりに、善美をつくしたる館をかまえ、又大潮金沢なんど所々に遊猟の亭をもうけ、いと目出度く富みさかえたり。 頃しも秋の末つかた、今を盛りの紅葉見がてら、射鳥狩せばやとて、かねてしつらえおきし大磯の下館へ赴き、日めもす遊び暮らして、はや黄昏の頃、鴫たつ沢にぞ至りける。実に「心無き身にもあはれは知られけり鴫立つ澤の秋の夕暮」と西行法師がよめりしも宜なり。はるか人家に引離れ、唯かたわらに古りたる辻堂の立てるのみ、いと物さびしき所なり。折しも遥か向こうの方に、鴫の一羽あさり居るを近習の侍、「あれあれ御覧候え、鴫立つ沢の名において、鴫の下り居るもひとしお興あり、先ず暫し此の堂にみ腰をかけられ、鴫の飛び立つを見給はば、時も秋の夕暮れなり、西行の歌のさまに少しも違ひ候まじ」と言いければ、多門太郎打笑い、「鴫立つ澤と詠みたるは、飛び立つ事にはあらず、唯何と無く下り居て、鳥の立てる様を云ふなり。斯の歌の体を描くに、鴫の飛ぶ所を描くは、返す返すもあやまりなり。あれ今あさりもやらず飛びもやらず、物寂しげに立てるこそ、鴫立つ澤とは云ふべけれ」と物語り給えども、歌道に疎き侍はよくも心得ざるにや、上の空に聞き流し、「彼の鳥の居る所までは凡そ三十間もあらん」と何気なく言い出ずるを、一人の侍聞きとがめ、「イヤ鴫と云ふのは鶉に等しき小鳥なり、斯くあざらかに見ゆるは二十間にはよも過ぎじ」と答うるに、以前の侍頭をふり、「人々のどよめく声に、恐れもやらず立てるこそ、遥かに隔たる證なれ」「イヤイヤ試みにこぶしを付け小的を射るべき心にて試し見るに、左まで遠くには覚えじ」と両人が言い募り、此の争いさらに果つべう様も見えず。時に員好が近習の侍、水間宇源太が倅同苗島之助、其の年漸く十四歳、お側去らずの小姓にて、今日もお供にありけるが、両人が前に進み出で、「先ず暫く此の争ひをやめ給へ、それがしが細矢を以て遠近を計り見るべし」と袴のそば高く取り上げ、弓に矢からりと打ちつがえ、よっぴいてひょうと放せば、矢はあやうくも鳥の背をすって蘆間に止まり、鳥は驚き飛びさりけり。多門太郎大いに怒り、「汝若輩の身を以て古老の武士を差置き、人も頼まぬでかし立て、あまつさえ鳥を射損じ、面目無くは思はずや」とさんざんにしかり給えば、島之助も其の怒り面に現れ、弓をかたえにはったと投退け、「あの矢取りて来るべし」と下部に向かい言い付けけるにぞ、何かは知らず沢に下り立ちようようにして拾い取り、件の矢を差出せば、島之助手に取り上げ、更に恐るゝ気色もなく、主人の前に進み出で、「鳥の下り居る其の所を、遠し近しと云ひ、二人が争ひ果てし無ければ、それがしが其の間を計り争論を静めんと存じ、始めより遠近を計らんとは申しつれど、鳥に射当てんとは申さず、是れ御覧候へ、それ故に征矢(そや)を用ゐず。陣頭の蟇目(ひきめ)の中へ鴫の羽を止めたれば、矢のとゞきしには疑ひも無し、東夷の荒くれしく歌の事は知らずと云へども、所も所折もをり、彼の鳥を射留めん心かつ以って候はず、如何に方々小腕と云ひ、未熟のそれがし目当はづれず、鳥の羽を蟇目に留め候こそ其の間近き證なれ」と言葉よどまず云ひ放つ。 多門太郎はますます怒り、「おのれに道理あるにもせよ、主人に言葉を返すのみか、今投げ捨てし其の弓は我に投打なせしも同然、其のまゝに差置きなば寵愛あまって道知らぬ曲者を召使ふと、世の人口にかゝりやせん。さある時には家の瑕瑾(かきん)、切腹さすべき奴なれど、前髪あれば小児も同然、今日よりしては勘当なるぞ。其處退れよ」と、眼色変え、はったとにらみ給いければ、島之助も今更に何と返さん言葉もなく、大小差置きすごすごと、其の場をそのまゝ立ち去りけり。 此の日島之助が父宇源太は御供に加わらず、島之助は面目無くや思いけん、立帰って父に対面する事も無く、何地へか立去りけん、絶えて行方は知れざりけりとなん。

I.LN.

 物語は高官 Abosi Tamontaraがシギ狩に出かけるところから始まる。夕暮れ時に近くの沼でシギを見ると、家臣の間でその種類について議論が始まる。また、その沼が飛び立つシギの沼という、よく知られている名前にふさわしいか、あるいは、「葬式の木の沼」がふさわしいかと議論していた。主人も議論に参加したが、その間、重臣の不運な息子が羽一本だけ取ってシギだと証明しようと、矢を射る。弓矢は日本では非常に洗練された技術だが、彼の技量は不幸をもたらした。Tamontaraはこの沼に与えられた名称の不明瞭さに決着つけようと、偉そうな微笑を浮かべていたが、目下の者が彼の面前で矢を射る行為に怒り、少年が説明したにもかかわらず、追放し、父親もお役御免とする。
訳者注:スネッセン訳で西行の和歌の解釈部分に注をつけて、「原文の表現があいまいで、二つの読み方ができる。Sigo tatsu sawa(鴫が飛び上がる沼)かSiki tatsu sawa(死の木trees of Death)が立っている沼」([ref]”THE SIX FOLDING SCREENS OF LIFE. AN ORIGINAL JAPANESE NOVEL”, People’s & Howitt’s Journal of Literature, Art, and Popular Progress, London, Willoughby & Co., 続きを読む