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2019年2月

英米に伝えられた攘夷の日本(6-2-1)

1857年2月24日のイギリス議会上院(貴族院)で、在中国のイギリス当局者のアロー号事件対応とイギリス軍によるカントン攻撃について、非難する動議が出されます。

カントン攻撃についてのイギリス議会での論争:上院(貴族院)

 イギリス議会では上院(貴族院)で1857年2月24日と26日、下院(庶民院)で2月26日、27日、3月2日、3月3日に大論争が展開されます。 2月24日の上院で中国問題の解決策の動議を提出したダービー伯爵[Edward Stanley, Earl of Derby: 1799-1869]の論点(注1)を紹介します。彼の演説は2,3時間続いたようで、反論の議員1人が話したところで真夜中になったからと、議長が1日考える時間をとって、2日後に再開すると宣言します。ダービー伯爵は自分の信条を述べてから、アロー号事件とそれに続くイギリスの戦闘行為の真相と解釈を述べます。

ダービー伯爵の論点

    立場の表明:私は動議に関して利害関係はないし、報酬も受けていない。純粋に政策・正義・人間性を支持する者として発言する。権力に対する弱者、傲慢な自称文明国の要求に対する困惑した野蛮を支持する。大英帝国の強圧的な力に対する中国のか弱い無防備を支持する。 中国との貿易関係:中国からのお茶、絹などの輸入は急速に増え、この貿易は非常に奇妙な難しい状況で行われてきており、英中貿易は英国にとって利益の大きいものとなってきた。それが突然、英国政府からの令状も宣戦布告もなしに、中国と戦争状態になり、貿易もストップしている。 攻撃について:商船を拿捕、友好的な国の砦を破壊し占拠した。我が国の優勢な戦力で中国の戦隊全体を拿捕し、英国提督の命によって市民の住宅を爆撃し、英国の戦艦で無防備な市を砲撃した。これを議会は国民に対し正当化できるのか、議員全員が正当化できるのか、説明を要求もせずに沈黙して済まされるのか。もし満足いく説明がなされないなら、このような行為が英国役人としてふさわしくないと議会が強く非難すべきだ。 アロー号事件の経緯:パークスからの中国長官とジョン・ボーリング卿宛の通信(カントン、1856年10月8日)では、イギリス国旗を揚げていたイギリス船アロー号に今朝突然中国軍艦に乗った中国役人が押し入り、14人の乗組員のうち12人を縛って連行したと記されている。この暴力行為に加え、彼らは国旗を引き摺り下ろすという侮辱を行ったと主張した。 条約違反というパークスらの主張について:1843年の追加条約によると、中国人不法者がイギリス船に逃げ込み、中国当局が犯罪を確認した場合、イギリス当局に連絡し、犯罪者の捜索をし、証拠または自白によって逮捕することができる。 アロー号はイギリス船か?:アロー号は中国で中国人が製造し、中国沿岸で交易していた。海賊に襲われ、のちに中国当局に奪還され、カントンの中国人に売却された。香港に移動して、香港在住の中国人に売却の交渉が進んでいたところに事件が起こった。 ダービー卿の質問「どんな手品でこの中国船がイギリス船に変身したのか?」:1855年3月に香港議会が条例を制定し、中国本土との貿易用船舶の登録に関する違法行為を改めるため、イギリス人所有の船舶は当植民地内の港で自由に貿易ができること、何人も当植民地で船舶登録を望む場合、植民地省長官に文書で申請し、中国貿易のみか遠距離航海かを明記することとされている。ダービー卿の見解:この条例はイギリスの法律に矛盾しているだけでなく、イギリス船の資格に関してイギリス法全体を無効にした。 植民地におけるイギリス国籍資格:香港の法務長官の見解は、香港植民地には6万人の中国人がいるが一人として法的にイギリス国籍者とは呼べないとして、次のように言った。「ここの中国人をイギリスに帰化させるのは勧められない。しかし、香港の上流階級の多くは、長期借地のテナントになったのだから自分たちは本物のイギリス人だとみなしている。永久植民地になれば、彼らの子孫は法律によっても事実上もイギリス国籍ということになると考えている。イギリス法務官として、イギリス領長期借地の中国人テナントには登録証を与えるべきだと提言する」。 ダービー卿が指摘する香港条例とイギリス法の齟齬:イギリス商船はイギリス人が所有者であること、イギリス人とは出生または帰化によってイギリス国籍を得、忠誠宣誓をした者である。これらの者だけがイギリス商船を所有でき、イギリス国旗を掲げることができる。香港の条例を確認する勅令は出されていないから、この条例は紙くずにすぎない。 香港の条例が密輸を奨励する:数ヶ月前に条例で許可証を交付された船2隻が塩の密輸で拿捕され、中国当局が船を没収した。ジョン・ボーリング卿は葉知事に荷を没収するのはいいが、船は逃すよう指示し、ここで初めて条例を伝え、この条例によると、イギリス船が密輸をした場合、中国当局は密輸品の没収はしてよいが、船は逃すことになっている。今回中国当局が船の解体までしたことは行き過ぎで、条約違反だと伝えた。ダービー卿の見解:この条例が違法に制定されたので、条例そのものが条約違反である。しかも船はイギリス船ではなく中国船だった。 イギリス国旗:イギリス海軍総司令官と領事と中国当局からの苦情によると、商船がイギリス国旗を掲げるという悪用が横行している。香港植民地の繁栄は土着民に関する限り、商船による沿岸貿易に頼っているため、植民地政府はこの条例を通すことを奨励する。アロー号がイギリス国旗を掲げる資格があるかについて、香港総督ボーリング卿がパークス領事に宛てた1856年10月11日付書簡で、「アロー号の許可証は9月27日に失効しているから、この船はイギリス国旗を揚げる権利はないし、イギリスの保護を受ける資格もない」と言ったと書いている。従って、9月27日以降、アロー号はイギリス船だと主張することはできない。 中国当局がイギリス国旗を引き摺り下ろしたのはイギリスに対する侮辱か?:名目上の船長は当時アロー号の隣の船におり、国旗が降ろされたのを見たと証言し、他の船の船長も同じ証言をした。乗船した中国役人は何度も、そもそも国旗はなかったし、自分たちが国旗を降ろしもしていない、アロー号は中国の船で乗船していた2人の海賊を逮捕する役目を果たしただけで、条約違反ではないと厳粛な様子で言った。中国長官はイギリス国旗は掲げられていなかったと何度も言った上で、「貴国の規則では、錨をおろすと旗を降ろし、出港するまで旗をあげない。アロー号に我々が乗船した時、旗は上がっていなかったという確かな証拠があるから、[上がっていない]旗を下ろすことがどうしたらできるのか?」 条約違反を理由にカントン攻撃したことの是非:アロー号がイギリス船でなければ、条約違反ではない。アロー号で唯一のイギリス人は23歳の名目上船長とされた人物で、彼は船主が誰かも、船についても、何も知らない青年だった。この船に2人の悪名高い海賊が乗っていたので、イギリス当局がいない時に逮捕された。それだけでイギリス政府が中国皇帝に宣戦布告したら、イギリス人立法者として、常識と信義を重んじる人間として、このような行為を認めるか? 香港総督ボーリング卿の二枚舌:アロー号はイギリス国旗を揚げる権利はないと言いながら、葉知事には「アロー号は私が認可した登録証によってイギリス国旗を揚げていた。貴殿の部下がイギリス領事に知らせずに乗組員を逮捕したのは条約違反である。貴殿の部下が旗を引きずり下ろすまでイギリス国旗は揚がっていたという疑いのない証拠がある」(葉知事宛11月14日付書簡)と書いている。ダービー卿の問いかけ:これが、イギリス人官僚の特徴であるべきオープンで正直な交渉だろうか?これは、最も疑い深く、しかし同時に最も商業的な国民からイギリス人官僚が尊敬と信頼を得るために計算された進め方だろうか?このようなことを元に、この国は我が国の代表者によって破滅的で高くつく戦争に引き摺り込まれのだろうか? 南京条約の経緯について:香港総督ボーリング卿、パークス領事、英国海軍最高司令官・シーモア卿がカントン開港が条約で約束されているとして攻撃したことの是非を、ダービー卿は条約作成の経緯と履行状況から解説します。第一次アヘン戦争で締結された南京条約(1842)にカントンを含めた5港の開港が書かれていたが、「中国皇帝が署名したとき、イギリス人がカントンの城廓都市内に住むことを許したと考えていたとは疑わしい」「1846年の追加条約は酷い脅迫のもとでなされ、双方の和平が確実なものとなった際にカントンに外国人を入れるのが安全だとされた。しかし、条約の権利をイギリス政府が主張することを諦めたわけではないと書かれている。その後1847年にカントン・広西総督の耆英[きえい、Keying:1787-1858]との協定で、イギリス人がカントンの市内に入れるのは1849年と定められた」。 強制的に締結された条約の権利の主張について:1848年にイギリスの全権大使だったジョージ・ボーナム卿(当時は氏、George Bonham: 1803-1863)は当時外務大臣だったパーマーストン卿に指示を仰いだ。中国当局が明らかに嫌がっており、懸念しているのに、イギリス人を入れさせるべきかと。ボーナム卿は1849年7月20日付の書簡で、こう書いている。「もしイギリス政府がカントン市を他の4港と同じく[イギリス人に]開放することに固執するなら、私が実行できるような手段を私が自由に使えることが必要です。ご存知のように私は植民地省によって香港からイギリス軍部隊を移動させることは止められています。しかし、軍隊による示威行為以外には市内に入ろうとするのは無意味です。中国当局が我々の入市に終始反対していたのは、騒動と暴動の恐れと、カントン市の暴徒を抑えることができないからです。(中略)このような状況下で、100万人都市に強引に入ろうとすれば、その結果は明らかです。起こるであろう[イギリス人に対する]侮辱行為や暴力に備えて、軍隊を待機させます」。これに対し、パーマーストン卿は「カントンに武力行使することは勧められないというのが私の明確な意見である。あるいは、北京に使節を送って、カントンにイギリス人を入れろと主張するというような異例の措置を取ることも勧められない。確かに主張する権利はあるが、それを武力で進めたら安全も利益もないことになる。(後略)」(12月30日付書簡)と返答します。これに対するボーナム氏の以下の見解を、ダービー卿は「諸君、これが中国で最大の経験を重ね、中国人の性格を完全に把握しており、非常に長い間女王陛下の官僚として仕えてきた人の言葉です」と注意喚起しています。

ジョージ・ボーナム香港知事の見解

    イギリス人がカントンに無差別に入市することが認められても、イギリスの商業に何の物質的利益はないと考えます。イギリス政府が中国政府と敵意を持って話し合うという危険なリスクに見合うものは何もありません。この変化[カントンにイギリス人を入れる]に関するカントン市民の現在の感情を考慮すると、この特権を利用しようと入ってくるイギリス人に対して、市民全体が侮辱行為や暴力行為を犯さずに1ヶ月ももつとは思えません。 当地の商業社会の代表者たちの見解を聞いた結果、イギリスが権利を主張することから起こる政治的不都合に彼らは非常に敏感で、イギリスが武力に訴えて要求を通すより、この問題を棚上げにしたままの方が彼らにとっても商業全般にとっても被害が少ない。

外務大臣パーマーストン卿(当時)の結論

    ボーナム氏宛て1849年6月25日付書簡:「イギリス政府が条約で合意したイギリス人のカントンへの入市の権利を完全に永久に放棄するのが問題を簡単にするのは確かだ。一方、武力で中国政府に認めさせ、将来の英中関係の足場を確かなものにする。あらゆることを考慮した結果、イギリス政府はいずれの道も取りたくない。(中略)陸海軍の武力による条約権の執行には我が方の貴重な人命の損失の可能性があり、中国側には多大な人命と財産の喪失を負わせることになる。(中略)イギリス政府は将来条約違反が起こるまで待つことを選択する。」

ダービー卿の解釈

    ボーナム氏は中国事情に通じていて、時のイギリス政府と外務大臣はこの件を強制しないのが得策だと判断し、1849年にボーナム氏はカントンにイギリス人が入ることを禁じる宣言を出した。中国側がイギリス人のカントン入市に反対していた理由は、両国民の衝突から生じる結果、中国人の敵意からイギリス人を守ることができないという恐れ、両国間の良好な関係の生き残っているものまでが危険に晒されることだ。 イギリス人は中国を専制国家で、中国皇帝を完全な専制君主だと見ているが、彼らにも原則や金言がある。葉知事がシーモア総督に書き送った金言がある。「中国で守られているルールは、天(自然)が示す道が追及すべき正しい道である。その主眼は人民である。(中略)人民は国家の基礎とみなされている。君主が人民を愛せば、人民が君主に従う希望がある。(中略)皇帝自身の言葉でも、人民を守ることに国家の安全がある。(中略)中国政府は人民の望みに逆らって、遠来の人々の望みを聞く権力はない。外国の国家は自分たちの商人がリスクなしに自由に商売できるようにするためには、人民の気性や気持ちを研究する義務がある」。 イギリス側と中国側がやりとりした書簡を読むと、イギリス側の言葉遣いとトーンは恥ずかしい。威嚇的で無礼で、苛立った傲慢な調子だ。一方、中国側の言葉遣いは一貫して寛容、丁寧、そして紳士的である。例えば、アロー号の拿捕が起こった日、10月8日にパークス領事は[中国側からの]説明を待たずに、賠償を強要するためにエリオット海軍司令官に協力を要請し、11日にはボーリング総督が領事に対して、最大級の高圧的方法で賠償と謝罪を要求せよ、もし[中国側が]応じなかったら、中国の船を拿捕せよと命じた。これは中国側とのやりとりもしない時で、中国側に説明の機会を与えずに攻撃することを最初から狙っていたように見える。 イギリス当局の緊急な要求に従って、逮捕された12人全員がイギリス領事に返されたが、領事は自ら要求した逮捕者の引き取りを拒否した。理由は中国の役人が付き添っていなかったからだが、中国側は要請通りに外国人関係の担当者を送り、その地位役割なども述べさせたのに、「おかしなことに、彼は認められませんでした」と中国長官は述べている。一方、パークス領事はシーモア海軍司令官に次のように説明している。「逮捕者の引き渡しについて、そのうち10人を返してきたが、12人全員でなかったので、私は受け取りを拒否した。すると知事は12人返してきたが、私が8日の手紙で要求した方法ではなかったので受け取らなかった。(中略)[知事からは]何の謝罪も来なかった」。ダービー卿のコメント:諸君、もちろん、中国長官は手紙で要求された通りの行為をしたのだから、謝罪はしなかったのです。中国長官はこう書いています。「パークス領事は[自分が]要求したことを承諾しないと決めていました」。パークス領事とジョン・ボーリング卿が、カントンに自由に入市するというボーリング卿の偏執狂的要求を付け加えるために、このような不満を最大限活用する決意だったという中国長官の意見に私は大いに同意します。 パークス領事の計画:10月20日、アロー号事件の12日後に開催された香港会議でパークスはカントン攻撃計画を披露した。「カントンにおけるイギリスの権益を守る役割の者として提案する」と前置きし、「[珠江]川には中国の戦艦がいなかったので、中国長官がイギリスの要求に24時間以内に応じない場合、黄埔(ワンポア)とカントンの間の砦を占拠するべきだ。中国長官がそれでもなお反抗的なら、カントンの砦を占拠し、長官の住居も爆撃することを強く提案する」と言った。 実際の攻撃内容:作戦はパークスの提案通りに進められた。バリア砦(Barrier Forts)は[イギリス側の]死傷者なしに占拠され、カントン市の砦は抵抗なしに占領された。ダービー卿の見解:ボーリング卿は商業的ではあるが、同時に疑い深い中国人に外国人との自由な交流を認めさせるために、彼らの家を叩き壊し、彼らの都市を爆撃し、父親・子ども・家を失わせるという、あらゆる方法の中で最も奇妙な方法を使ったのです。この全作戦の結果は、完全な平和時に、宣戦布告もなく、我々は[中国の]船を拿捕し、砦を破壊し、知事の邸宅を砲撃し、無害の商業都市を砲撃したことです。 葉知事の抗議:「貴国は1世紀以上もカントン市民と交易をしてきました。この間、カントン人と貴国民とは敵対関係ではなく、友好関係にありました。最近のアロー号事件は些細なことです。これは根深い憎悪の事件ではないし、忘れられない巨悪というものではありません。それなのに、あなた方は突然武器を取り、数知れぬ市民の住居を焼き払い、多くの市民を殺すまで数日間も砲弾を発射し続けました。苦しみながら家から逃げなければならなかった老人・子ども・女性が何人いたか計り知れません。貴国民がこの情景を見ていなかったとしても、[叫び声を]聞いた筈です。これほどの惨事を被らなければならない、どんな罪をカントンの人々が犯したというのですか?あなた[ボーリング卿]がカントン市内で公式な入市式を主張していると知りました。友好的な関係ならば、これ[行えること]は疑いないが、あなたの唯一の儀式が我々に向かって発砲し、その結果、市民を殺すことですから、たとえあなたが市内に入れたとしても、あなたが焼き殺した市民の息子・兄弟・親族たちは貴国民に復讐するために命を捨てる用意があるでしょう。これらの人々を止めることは当局にはできません。当局はあなたの入市を認めることはできますが、貴国民が[カントンに]入るにあたって、完全な安全性を保証することはできません。もし貴国民の入市が認められたら、彼らの安全を守るために大部隊を常駐させることができますか?護衛部隊は長期間ここに残ることはできません。もし死亡や負傷があなたの入市の条件なら、たとえあなたが入市を獲得できたとしても、カントン市に入るには何という恩恵がもたらされることでしょう。 もう1点は、カントン市に砲弾が数日間投げ込まれ、建物が焼かれ、人々が殺されたのに、[中国]部隊による反撃はありませんでした。これは本当に友好的で譲歩的ですから、あなたにも十分ご満足していただけるでしょう。些細な事件に対して戦争という最後の手段を使ったのですから、今度は市民の生命のために、攻撃を一時停止し、この作戦で達成したことを考慮して、終結していただきたい。現在続行中の困難に、なぜさらなる困難を加え、両国の友好的な関係を妨げる原因を作るのか?」 ダービー卿の訴え:諸君、中国人は被った損害に対する賠償を求めているのではない。この損害が友好関係を邪魔するものだとしてはいない。彼らが言っているのはただ「作戦を止めてくれさえしたら、我々は昔のように商業関係を再開する用意がある。あなた方が我々平和的市民の血を流し、無防備なカントン市を爆撃したことで復讐を求めてはいない」ということだ。諸君、アメリカ人が似たような状況でどんな対応をしたか見てみよう。アメリカが砦に近づきすぎた時、砦から発砲された。アメリカはどうしたか?町を爆撃する代わりに、砦を黙らせただけで、以前通りの交易を平和裡に続けたのです。ところが我々は賠償問題を手に、残酷な行為を次から次に進め、どんな状況下でも決して正当化できない野蛮の数々を犯したのです。その結果、カントン市民の中に、数世紀かかっても根絶できない反英感情を生み出したのです。この感情を示すのは、中国長官が皇帝の指示を仰ごうとした時、ボーリングは海軍提督に「もし長官が北京に指示を求めようとするなら、貴殿はいかなる手段を取っても聞き入れてはならない」と書いたのです。諸君、この手段はイギリス政府からの指示なしにイギリス全権大使が採用し、この役人が自分の権限で戦争を起こし、指示なしどころか、指示に反して、本国の当局に相談なく、[彼が]戦争を仕掛けた国の皇帝と一切のコミュニケーションなしに起こしたのです。 イギリス議会の正義感を信頼しています。イギリス人の寛大な気質を信頼しています。何よりもキリスト教界に期待しています。私が述べてきた行為、異教の人々に外国が行った行為が、聖なる宗教の恵みを広め、関心を高めるために計算されたのかお尋ねしたい。キリスト教によって教えられ、たたき込まれた親切、我慢強さ、寛容という根本原理を聞いてきた中国の無知な原住民が、キリスト教国の代表者が無慈悲で非寛容で野蛮で血に飢えた人間だとわかった時の思いはどんなものだっただろう。中国人はこう言うかもしれない。「あなた方が行ったことはあなた方の教えに直接違反するから、あなた方の宗教は何の価値もない。彼らは戦争追求、あるいは商業追求の人々で、物欲に目がくらんでいて、自分たちの宗教の原則を無視している」。しかし一方で、これらの役人たちの出身国にはその国の最高の高貴な人々で構成される威厳ある議会が存在していると中国人は気づいているかもしれない。このような時にキリスト教を守り、汚名を晴らすために立ち上がる男たちがいるかもしれないと思うかもしれない。キリスト教会の長が人間愛と文明という大義のために立ち上がってくれることを望む。もし教会が曖昧な表明をしたら、私は深く嘆きます。今夜、諸君の投票によって、次のことを宣言していただきたい。この国の最もひどい特権を持つ下級当局者たちによってなされた権利の侵害を認めないこと、軽微でささいな諍いを基にした宣戦布告を容認しないこと、あるいは沈黙によって認めるようなことをしないこと、友好国の砦の破壊を容認しないこと、無防備な商業都市を爆撃することを容認しないこと、法的道義的正当性なしに非好戦的で無辜の民の血を流すことを認めるような声をあげないこと。 ダービー卿の動議
      カントンの中国当局とイギリス人との間の友好的関係の妨害について本議会は遺憾の思いで知った。 この問題をめぐる紛争の発生は、1849年以来停止状態になっているイギリス人のカントン入市を中国当局に武力で要求することで、これは時期的に非常に不利であるというのが本議会の見解である。 実際の戦争行為が、イギリス政府が事前に指示を出し、それを受け取ってから行われるべきであったというのが本会議の見解である。言及された当事者のいずれもが、このような戦争行為の正当性を十分に証明していない。
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英米に伝えられた攘夷の日本(6-1)

アロー号事件(1856年10月)とイギリスによるカントン砲撃のニュースがイギリス・メディアにどう報じられたか、第一報を紹介します。

アロー号事件の報道

 「THE FOLDING SCREEN: A JAPANESE TALE(屏風:日本の物語、5-2参照)」が掲載された『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』1857年1月3日号には、アロー号事件とカントン(廣州)砲撃の報道が掲載されています。同じ号のコラム「外国と植民地のニュース」では、「ペルシャとの戦争」と題して、ペルシャでイギリスが占領のための戦争をし、ロシアがペルシャに加担していることも伝えられています。 イギリスがアロー号事件を理由としてカントン攻撃を1856年10月に開始しました。イギリス議会で不当な攻撃と糾弾されますが、その首謀者の1人は、後に日本公使になるハリー・パークス[Harry Parkes: 1828-1885]で、香港提督のボーリング卿[John Bowring: 1792-1872]と共に中国に一方的な戦争を仕掛けます。そのニュースがイギリス本国に4ヶ月後に伝わり、イギリスの上院・下院で大論争になります。パーマーストン首相(3rd Viscount Palmerston: 1784-1865)はパークスらの行動を支持しますが、下院では非難決議が多数で通り、解散総選挙が行われます。結果はパーマーストンの圧勝で、カントン攻撃を非難した議員たちは落選します。 アロー号事件について、当時の新聞がどう報じたのか、議会ではどんな議論がされたのか、その議論がどう報じられたのかなどを検証したいと思います。まず、アロー号事件の第一報を『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』と『ロンドン・タイムズ』などがどう報じたかを見てから、議会での論争を紹介します。

カントンの砲撃((注1), p.664)

 最新のオーバーランド・メールは、中国当局の無礼な行為に関連してイギリス艦隊がカントンを砲撃したという驚くべきニュースを運んできた。最近、イギリス商人の不満を是正することをカントンの知事が拒否したために、イギリス当局者と知事との間でやりとりが行われてきたが、非常な困惑をもたらした。[1856年]10月8日に中国当局はイギリスの船を拿捕し、乗組員を逮捕するという独断的な暴力行為を完遂した。確かな筋の情報によると、中国当局は乗組員のうち、4人を斬首した。イギリス側の役人、パークス領事は現地で、まず当該船に乗りこみ、次に中国の役人を問いただした。船上で領事は中国役人に脅され、中国側はこれらの出来事の説明を拒否した。これらの経緯を領事はすぐさま香港のジョン・ボーリング卿と、現地にいたマイケル・シーモア卿[イギリス海軍東インド・中国基地最高司令官 Michael Seymour: 1802-1887] に伝えた。この報復が穏やかな方法で開始された。中国役人のジャンクをシビル号のエリオット艦長[Charles Elliot: 1818-1895]が拿捕し、香港に連行した。 一方、パークス領事はカントンの知事、葉[葉名琛ようめいちん:1807-59]に強い抗議文を送ったが、返答はなかった。努力が無駄だと悟ったパークス領事はさらなる調停の試みを放棄した。そしてすぐに海軍が現場に登場した。 10月18日にマイケル・シーモア卿は香港から艦隊を送り(詳細は中略)、シーモア提督自身もカントンに進軍して作戦の指揮をとった。イギリス人と他の貿易商たちは事態について公式な警告を知らされており、1週間前からほとんどなかった商取引は停止された。カントンの前の川はロンドン・ブリッジのテームズ川より広いが、水深は2尋以上はない。(支流についての説明は中略)カントンは5つの砦に守られており、そのうち2つは陸側、他の2つは珠江川(Pearl River)側にある。これらの砦が10月24日に我が軍の男たちによって攻撃され、占拠された。シーモア提督はそれ以上攻撃せずに砦の戦闘を終わらせたが、中国の知事はイギリス指揮官に対し、満足の意を表明することも、面会を許可することもしなかった。 そこでシーモア提督はカントン市自体を攻撃することにした。市を取り囲む塀は一部は砂岩、一部はレンガ作りだ。30フィートほどの高さで、25フィートの厚さであり、大砲が据えられいる。10月27日に塀に向かって砲撃が始まった。29日には城壁が破られ、部隊が市内に入った。知事の宮殿が占領されたが、その地理的位置は大した価値がないとされて、夕方には部隊が撤退した。死者はわずか3人、負傷者は12人だった。(市の中心部への攻撃は中略)11月3日と4日に、市内の軍駐屯地が砲撃された。6日にバラクータ号が[中国軍]のジャンク23隻を破壊した。中国の知事にはさらなる熟考の時間が与えられたが、カントンの状況についての最新の知らせが香港に届いた時点で、調停の気配は見られなかった。カントンの帝国守備隊は非常に弱体化していた。知事は兵卒の給料を月6ドルから9ドルに上げた。(中略) 事件全体を統括するシーモア卿閣下はカントンのイギリス人全員から賞賛と尊敬を浴びた。彼が示した忍耐と人間性と、怯むことなく決断して行動したことは、最高の自信をかきたてた。この間ずっと、[英国人]コミュニティは知るべきことはその都度十分な情報が与えられた。商館は強固に守られた。(中略)以下の外国コミュニティ向け回覧が伝えているように、和平はすぐには期待できないし、交易の再開も望めないし、当面は最終的結果を予想することは無駄である。

回覧:カントンの英国コミュニテイに告ぐ

在カントン 英国領事館、1856年11月15日 英国女王陛下の領事は英国海軍最高司令官、シーモア卿閣下の指示を受け、イギリス・コミュニティに以下の告示をする。 過去2,3週間にカントンで女王陛下の海軍によって閣下の指揮のもとに何がなされたか、その原因と進捗状態を要約することは不必要だと閣下は考える。海軍の損失は幸いなことにわずかであり、作戦はボーグ砦(Bogue Forts)の占領を含め、極めて成功している。 閣下が残念に思うのは、[中国の]帝国長官が条約の義務に反したために閣下がこのような極端な方法を取らざるを得なかったこと、[カントン]市と市民が女王陛下の戦艦に翻弄されているという明快な証拠をもってしても、将来の誤解を招かないために閣下が要求する譲歩を帝国長官が受け入れようとしないことだ。 この譲歩案はカントン中国人の上層階級の感じ方を代表する人物によって不当ではないと考えられていると閣下は理解している。さらに、中国人にとってこの譲歩には何も障害となるものはないと見られている。しかし、長官自身の実行不能性が障害である。長官はイギリス人を反逆者や不法者の仲間だとして、その敵意をイギリス国民の首に区別なく報奨金をかけるという残忍な手段にさえ訴えた。 閣下は要求を認めさせる決意だが、[英国]コミュニテイは閣下が今後取るいかなる道も、広報によって傷つけられる可能性に注意しなければならない。従って、和平の回復の可能性はすぐにはないという見解だけに留めるというのが閣下の声明である。 外国の地位の安全は今まで通り保たれるであろう。作戦の性質や目的がどんなものになろうと、閣下のみに留められる。 署名 ハリー・パークス 在カントン 女王陛下の領事

『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の第一報

 このニュースがアメリカにどう伝えられたかを調べたいと思い、『ニューヨーク・タイムズ』の前身、『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の報道を追ってみました。イギリスより2週間ほど遅く、第一報は1857年1月19日に報道されています。この頃の『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の海外報道は、まず郵便船の入港の情報から始まり、船名、入港日、積荷、著名な乗客についての記述の後に、海外ニュースが報じられています。
1857年1月19日第一面見出し(注2)「ワシントン市号の到着/ ヨーロッパとアジアの重要ニュース/ 英国によるカントン砲撃/ 安南政府が中国侵略の大規模準備/ フランスが中国で軍事行動」
    全く予想もしなかった情報が中国から届いた。10月24日にイギリス艦隊がシーモア提督の指揮の元に、カントン市への砲撃を開始した。砲撃は2日間続き、市の壁は突破され、ボーグ砦が占領された。商業は完全に麻痺した。 この戦闘の原因はイギリス人船員複数が捕らえられたことである。
第二面見出し「英国と中国との戦争/ カントンの砲撃/ 広大な破壊規模」
この欄では『ロンドン・デイリー・ニュース』と『ロンドン・タイムズ』からの記事が掲載されています。『ニューヨーク・デイリー・ニュース』によって選択された抜粋であっても、2紙の特色が現れているように感じます。最初に『ロンドン・デイリー・ニュース』の記事を掲載していますが、「最近のカントンでの出来事がかなり完全な姿で見ることができる」と断って、現地の英国当局とカントン知事との交渉は困難で、「英国商人のどうしようもない怒りの結果となっている」と書いた上で、事件の詳細を記しています。『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』とほぼ同じです。 記事の最後に「この時のシナ海における我が艦隊は大きい」と、全戦艦名、規模、指揮官名をあげています。香港には5隻、ワンポアに5隻、カントンに1隻など、合計8隻の英国艦隊がカントン攻撃に集結できると挑発的な内容だと感じます。次に『ロンドン・タイムズ』(1856年12月30日)の記事を掲載していますので、異なる内容部分を抄訳します。
『ロンドン・タイムズ』(1856年12月30日)現代の電信は、それが誰の感情に衝撃を与えるか、誰の同情心を傷つけるか、誰の神経を揺さぶるか御構いなしに、無遠慮で無作法な簡潔さでメッセージを口走る。残された私たちはそれをどう飲み込み、信じていいのか。
最後の文は、”leaving us to swallow it as well as we may”で、swallow(飲み込む)に、「鵜呑みにする、耐える」の意味もあるので、意訳しました。次の文は、「日曜日の夜、平和な眠りについたロンドン市民は月曜に起きてみると」と始まり、以下が続きます。
我々が砦を占領し破壊し、カントン市の壁を突破して急襲し、カントン市を砲爆したという突然の確信に目覚めた。これら全ての虐殺と荒廃をこのように突然、ズバリと伝える記事を読んで、誰もが最初に感じるのは、これほどの激しい軍事力に訴えなければならないほどのことが起こったのかという残念な思いである。
この後、電信の内容が伝えられますが、その前に、ニュースを伝える人は信頼できるかという内容が9行も続いて、「この報告には急いだ形跡がないと言えることは喜ばしい。英国提督は適切な自制心をもって行動したようである」と始まっています。アロー号の乗組員12名を中国当局が逮捕したとは書かれていても、上記2紙のような、斬首したという文言はありません。しかし、英国領事が暴力で脅されたと書いています。「葉総督は以前に増して軽蔑的に見えた」というような、主観的、印象操作的な表現がある一方、他紙が触れていない中国側の被害について、『ロンドン・タイムズ』の記事は以下のように触れています。
この古都は11月3日に再び砲撃された。150万以上の住民を擁するこの町は住居が密集しており、砲撃の影響は恐ろしいものだったに違いなく、失われた人命は膨大な数に違いない。しかし、我々が聞くのは火事による資産の喪失のことだけである。
 そして、海軍の艦隊が砦を砲撃する様子が伝えられ、「たった2,3日で先の中国戦争[第一次アヘン戦争]全体で行われたのと同じぐらいの戦闘と破壊だったと理解できた」と続きます。最後の段落を抄訳します。
 このような定期的な衝突が起こることを防ぐ方法を我々が考え出す力があればと心から願う。このような衝突が政府の愚かさと傲慢さで起こる一方、その影響は哀れな人々に悲しむべき過酷さを及ぼす。カントンは、我が陸軍と海軍の連隊本部がある所の近くに位置し、中国帝国のどこよりも、ヨーロッパ文明と中国文明との接触に適応していない。気候は熱帯で不健康、人民は乱暴で残酷、市は船では近づけない、帝国の最南端に位置している。我々の中国との関係は徹底的に完全に再調整が必要である。我が植民地をこの国の主食が生産されている地方、気候が比較的温暖な地方の近くに移動させること、そして我々の陣地は大きな川の河口の近くでなければならないから、このような地方への移動について検討する価値があるのではないか。我々が舟山(Chusan)を諦めて香港を選んだことは悲しむべき手落ちだったと、ずっと考えられてきた。中国がこの問題を再考するよう要請しているから、この間違いを正すに遅すぎることはないだろう。
これらの新聞記事の内容が事実かどうか、2ヶ月後のイギリス議会上院(貴族院)で2日間、下院(庶民院)で4日間、激しい議論の応酬がありました。次節で紹介します。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(5-2-6)

『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』(1857.1.3)に柳亭種彦の『浮世形六枚屏風』を紹介した記者は、日本の将軍が自国の物語をイギリスの新聞を通して初めて読むかもしれないという文章で締めくくっています。

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』掲載の浮世形六枚屏風のストーリー

R.T.(原文)

 恋草の種植え初めて堂の島、花なき里を花にする、橋の名さえも梅桜松はみどりの曽根崎に、続く呼屋に引く三味線も、気は二上りか三下り、心せかるゝ三ツ紋佐吉、お花が許へもおとづれず、母よりもろうた百両の金懐中へねぢ込んで、歌川屋の裏波岸(うらがし)を行きつ戻りつ見上ぐれば、奥の二階にしょんぼりと、物案じ気な小松が姿、幸いあたりに人は無し、ここまで来たを知らせの手拍子、恋しゆかしい男の顔、夜目にもそれと見て取って早う早うの手招ぎに、気は飛び立てどつばさは無し、せんかたなじみの家なれば、見付けられたら謝る分と、恋には闇の黒板塀こじ放す音聞き付けて、俄になき出す犬の声、かみ付くばかり吠えかゝれば、雨落の石手当たり次第、掴んで投ぐる其の内に、懐中より百両包ころりと落つるに気も付かず、石と諸共うち付くれば、遥かにそれて川岸に繋ぎ留めたる屋根舟の提灯ばったり打消すにぞ、「えゝ投打し居るはどいつめぢゃ」と寝ぼれ声にてわめかれて、見付けられじと尚うろうろ、二階の上より見るひやいさ小松が松に打ちかくるしごきの帯の蔦紅葉、ようようそれを力草高塀のり越え吐息をつき、「始めからかうすれば、何の骨は折れぬのに、かう云ふ事では盗人にもめったにはなられぬ」と二階へ這入れば小松は取付き、「口合所ぢゃ御座んすまい、わたしは半分死んで居る、くはしい事はお花さんに聞かしゃんした通りの場合(しぎ)、今更お前に引別れ国へ戻って嫁入が、どうまァならうと思はんす、いっそ殺して下さんせ」と、わっと泣出す口へ手をあて、「あゝ静かに云うたがよい、ひょんなおれにつながって、国に御座る親達に、嘆きをかけるは真の悪縁、ゆるしてたも」と云いければ、「あれやうやう忘れて居た国の事を云ひ出して、又泣かせて下さんす、うたるゝ杖もゆかしいもの、ましてや拳もあてられず、可愛がられた父さん母さん、是ればっかりは忘られぬ、迎へに来たは乳母の子にて、顔かっかうは覚えねど、国のゆかりの人なれば、遭ひたいは山々なれど、屋敷勤めをすると云ふ其のわたしが此の様に、あぶらけ無しの大島田、蓮葉ななりで遭はれもせず、心の中の悲しさを推量して」とふし沈む。男は背をなでさすり、「見受けさへしたならば、又仕様もあらうかと、母の情けで百両の金は貰うて持ちながら、掛も払はず裏口から忍び込んで来たわいの、まァ此の金をお花に渡し、おれぢゃと云はずに身の代の、手付に入れて置いたがよい」とさがせどさがせど有らばこそ、「やゝ、今犬に打った礫、重い石ぢゃと思うたが、落した金で有ったも知れぬ、えゝこれ手拭にでもくるんで置いたらかう云ふ事は有るまい」と呆れて下をさしのぞく。

I.L.N.(『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』掲載の要約)

 Sakitsiは金を懐に入れ、夜の話し合いに急いだ。Komatsuは二階の窓際にいて、二人の会話が始まったが、犬の吠え声が邪魔をした。Sakitsiは懐から金の包みを落とし、暗闇の中でそれを石として暴漢に投げつけると、それはボートに落ち、中で寝ていた人を起こしてしまった。Sakitsiは知られるのを恐れ、窓から下がっていた恋人の帯に触れて、その助けで彼女に会えた。

R.T.

小松は尚もすがり寄り、「悪い事の重なるも、死なねばならぬ因縁づく、たとひ見受をさしやんしても、生きて居れば本国へ帰らねばならぬ体、帰れば嫁入をせねばならず、それよりお前の手にかゝるが、此の身の願ひで御座んする、流石にわたしも武士の娘守刀は持って居る、是れで殺して殺して」と男に渡し死神に、誘わるゝこそあわれなれ。「今更そなたに別れては、おれも浮世の望みは無い、石や瓦と百両を取違へる不運では、死んでしまふもましかいの」「そんならお前も諸共に、悦しう御座んすかたじけ無い、今夜の客は座敷ばかり、此の頃つとめた侍衆、昼から上げて置きながら、未だ御座んせぬこそ幸ひ、人目に掛らぬ其の内に」と覚悟きわむる表より、「小松さん小松さんお客さんが御座んした」と云うに驚き袋戸へ、佐吉をあたふたおし隠し、我が身をもたれて素知らぬ顔、口に鼻歌心に称名、最期を急ぐと白紙の、障子引明け入り来る客に、小松は色を悟られじと、「何がお気に入らぬやら、初回の時も座敷からずいと帰ってしまはんす、裏の今日は待ちぼうけ、何処に遊んで御座んした、きっと吟味もしたけれど、馴染の無いだけ免(ゆる)して置く」と言葉に色をもたれ寄る、袂に戸棚をうち覆う、

I.L.N.

Komatsuの絶望は極点に達した。彼女の恋人は金の話で安心させたが、彼が金を探すと、失くしたことに気づき、その原因も推測がついた。今や恋人の苦しみを十分共有し、一緒に死のう、あの世で結ばれようと言った。この不吉な瞬間に、見知らぬ人が入ってきたので、Sakitsiは日本人がドレッサーとして使っている長い箱の中に隠れた。Komatsuの長い袖がこの隠れ場所を隠し、彼女の恋人はこのようにして、意図せず次の場面の目撃者になったのである。

R.T.

客は何とも挨拶なく、扇ばちばち打ちならし、顔をながめて居る所へ、お花は小松になにかの様子、人目も無くば話さんと、うっかり来かゝりびっくりし、「小松さんおまへはあの人見知らずか」「あい今日で二見のお客なれど、心安いお人なれば、まァまァ此方へ這入らんせ」「えゝ、それどころでは無いわいの、そなたの迎へに上った人柳助とは此のおかた」「そんならお前がおゝ恥かし」と云いながら立つも立たれぬ後にも気遣い、「いやいやいや、そなたより此の花が、どうも顔が向けられぬ」と泣き出すを押静め、「あいや、御心遣ひ決して御無用、御本国鎌倉とは引離れたる此の難波、いやしい業をなされても、誰知るものも御座らねば、苗字の疵にはなり申さぬ、唯今では桃井家へ奉公致す雪室柳助、以前は貴方の乳母の倅、乳兄弟なり、御家来なり、拙者がわざわざ参ったは、御内證のお恥に成る事もあらば承り、取りはからへとの御指図、此の間花世さまの言葉のはしばし、何とやら合点参らず存ずるから、方々と聞き合はすれば、小松と云ふ名代の芸子は、花咲屋の姪との噂聞き届けて、念の為客と成って四五日先表向の御一座、幼顔はうたがひ無しと、蔵屋敷にて金とゝのへ、唯今親方徳若屋へ対談致して、身の代つぐのひ、證文を受取ったれば、今宵からは自由の御身、きさごはじきや双六の御合手致した此の柳助、御迎へとあるからは恥も恥辱も打捨てて、御息災な御顔ばせ早速お見せ遊ばす筈、それを他人かなんどの様に、お隠し有りしはお両人ながら、ちとお恨みに存じます」とほろりと泣いて語りけり。小松は更なりそばで聞く、お花も面目投首(なげくび)し、「みさをに勤めをさせたのも、元はと云へばわたしが科、もう何事も堪忍して、是れぎり云うて下さんすな。今度国に出世に付き下るは其の身の仕合なれど、あの子もお客の其の内に、逃れぬ中の人がある。どうぞそなたの才覚で国へはよしなに云ひやって、其の男と夫婦にして、お両人を此の難波へ引取る様には成るまいか」と頼めば小松も涙に咽び、「云ふまででは無けれども、海にも山にも譬へられぬ、御恩を受けた此の身なれば、明暮あひたさゆかしさの、体はこゝへ残っても、魂は母さんの懐中へいって居る、是れ程思へど生中(なまなか)に、武士の娘と云ふ事は、うす知りに人も知る、逃れぬ義理にからめられ、難波の土とならねばならぬ、そなたを頼んで置く程に、みさをは気合が悪いとも、死んだとも云うてやり、矢張こゝへ置いてたも、国へはいやぢゃ」と手を合わせ、拝み口説けば柳助は、涙を含む目に角立て、「氏より育ちが恥かしい、派手蓮葉なる身に染り、上の空なる世の習ひ、親の事も故郷の事も、忘るゝ程のお心にはいつお成りなされました。お両人が私をお側へ呼んで仰しゃるには、『浪人で居る中に、髪を下して楽々と法体しようと思うたれど、みさをが戻った其の時に、変り果てたを見るならば、さぞあれが悲しからうと、其の儘居たが今度の幸ひ、早う連れて帰ってたも、柳助様頼みます』と、御家来筋に手をついて、殿様付けるも貴方が可愛さ、待ちこがれて御座る所へ、すごすご一人帰られませうか。お国にはれっきとしたおいひなづけも御座る事、偽り云うたが現はれると、親旦那は御切腹なさる様にならうも知れぬ。花世様も同じ様に鎌倉へ下るのを勧めはなさらいで、こちらで夫婦にしてやり度い、其の者も存じて居る、堂島の米屋とやら十千万両の分限でも、町人へ娘をやり、其の婿の世話にならうと、召返された御主をふり捨て、此の難波へ御座る様なお両方だと思召すか、私が此の様に腹立つるのも、みさを様のお身の上が大切故、あゝかう云ふ事とは御存じ無く、今日か明日かと日を数へ、指を折って待って御座る、母御様の此のお文、御覧なされてとっくりと、御思案なされて下さりませ」ト差出すを

I.L.N.

この人物(Kiusuke)はKomatsuが自分は死んだと報告してくれと懇願し、KomatsuがSakitsiと結婚することも拒絶して、去って行った。彼[Kiusuke]は彼女を自由の身にするための金を調達し、自分の使命を全うすると主張した。 Wofanaが助けに入り、家に戻るのが望ましいけれど、仲人が乙女の所に来て、結婚の申し入れがあったので、ここに残って婚約を完遂するのが希望だと抗議したが無駄だった。Kiusukeを動かすことはできなかった。Komatsuの母が娘を連れて帰るように彼をよこしたのである。彼女自身はMiosanのしたように、隠居し、髪を切り、尼になることを望んでいる。日本のシステムでは人生の後半は宗教的行事に専念するのだ。彼女の父も婚姻契約を全うするという名誉を重んじている。もし失敗したら、自らの人生に終止符を打つという日本の習慣を採用するだろう。 Kiusukeは自分の主張のまとめとして、Komatsuに母からの手紙を渡した。
訳者注:『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』で柳助を最初はRiusukeとしていましたが、その後はKiusukeとなっています。種本と考えられるスネッセン訳では、Riusukeとなっていますから、誤植のようです。

R.T.

小松が手に取り上書見れば、「みさを殿まゐる、母より。此の方ぶじと遊ばせしお筆に年の寄った事、十四の年に大和へ来て、八年拝まぬ親の顔、見たう無うて何とせう、どう云ふ事で今宵にも死病受けた時、母様のなつかしさに、臨終をしそこなひ、如何なる恥をさらさうかと、案じ過しがせらるゝに、親の事忘れたと餘り叱ってたもんな」と文を抱きしめ抱きしめて、消え入る様になげきしが、どうなりこうなり云いくろめ、両人を帰した上での事と、思案定めて涙を拭い、「ほんにさうぢゃ、親に男はかへられぬ、もうさっぱりと思ひ切り、明日は国へ帰らう程に、今宵は今まで心安い人さんに、ゆるゆると暇乞ひもしたければ、其方は戻ってたも」と云えば律儀の柳助は、まことと思い打喜び、「おゝおでかしなされた、しからば明日目立たぬ様駕籠をつらせて御迎へ、イヤさし付けがましい事ながら、なに彼のしはらい置土産、金子の御用も御座るなら、必ず共に御遠慮無う、花世様にはまだいろいろおはなし申す事もあれば、さァお宿まで御同道」と打連立ちてぼつぼつと、何か云いさす襖さす、さすや障子の紙一重、見えざることこそ是非なけれ。袋戸明けて吐息を付き、「小松」「佐吉さん」「これ」と云いさま手を取って、最前忍びし松が枝を、伝うて下りる河岸づたい、両人は其処をはせ去りけり。 上るり 「此の世のなごり夜もなごり、死に行く身をたとふれば、仇しが原の道の霜、一足 づゝに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ。あれかぞふれば暁天(あかつき)の、七ツの時 が六ツ鳴りて、残る一ツが今生の鐘の響の聞きをさめ」 梅田橋の鶴澤が月並ざらいのじょうるりも、我が身に似たる二人連、堤の陰を立出でて、佐吉は向うを打見やり、「是れ小松なまなか遠くへ走るより、近くへ隠れて追手の者を、やり過さうと思うたれば、案の定歌川屋の提灯が行き違ひ、花咲屋へも走って来て、戸平もお花も我々を尋ねに出でた様子なれば、其の留守の家へ行き心静かに最期をとげん」と、小松を忍ばせ我一人、花咲屋をさし覗き、「およし、およし夜が更けたに未だ寝ずか」と云われて何の頑是無く、「今宵はとなりのお師匠さんのじゃうるりを聞いて居たれば、小松さんが駈落をさしゃんしたとて迎へが来て、父さんも母さんも、後追うて御座んしたれば、行きたうても留守が無い、さらひをしまうて明日でも逃げさんすればよい物」と云うに佐吉が打ちうなづき、「おれがここに居る程に、聞き度くば聞いておぢゃ」「あいあいそんなら留守して下さんせ」と隣へあたふた走り行く。影見送って小松が手を取り、奥の一間にそっと入り、声もらさじと有り合ふ屏風引廻せば、壁ごしにもれて聞ゆるとなりのじょうるり、 「くも心無き水のおと、北斗はさえて影うつる、星の妹背の天の川、梅田の橋をかさゝぎ の、橋とちぎりていつまでも、我と其方は女夫(めをと)ぼし」 「あれあの文句はお初徳兵衛、屏風にしたる操(あやつり)の、此の看板も同じ人、所も矢張梅田橋、心中して死ぬ者を、阿房とおれはわらうて居たが、 じょうるり「あやなや昨日今日までも、よそに云ひしが明日よりは、我も噂のかずに入り」死ぬ気に成ったも不思議の縁」ト聞いて小松は泣きだし、「不思議所かほんの悪縁、ひょんなわたしにつながって、何の越度(おちど)も無いおまへを、冥土の闇の道連に、すると思へば勿体無い」 じょうるり「げに思へどもなげけども、身も世も思ふまゝならず」「成程外の心中は、人を殺すか金銀につまって死ぬが世の習ひ、それに引替へ見受はすむ、おれも百両持って居たれど、犬奴がお陰で棒にふり、それから死ぬ心になったも、恋路に迷ふ煩悩の犬張子をこゝの家ではそなたの恩を忘れぬ為と、お燈明まで上げて置けど、おれは犬奴がうらめしい、よくおのれほえをった、せめて拳で犬張子、われをぶつのもはらいせ」ト何の科無き犬張子を、打倒せば其の内より、まろび出でたる百両包、「ヤゝこれはおれが落した金どうしてこゝへ這入って居たか、是れで其方のいひなづけが頓死でもして終ふと、心中するにはいよいよ及ばぬ、まァそなたの母御の文どう云ふ事が書いて有るか読んで見やれ」とせりたてられ、

I.L.N.

美しく純真な少女はは悲しみにくれた。「私の選んだ道と行いが私の評判を真っ黒にしてしまいました。私は道を踏み外してしまった。でも、まだ[心の]糧のようなものは残っている」と、恋人のSakitsiに最期の別れを言うことに同意した。 しかし、結局、これは恋人のいる前で自らの命を絶つ機会を得るための巧妙な策に過ぎなかった。
訳者注:『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』はこの後、記者の感想が述べられており、まるで『浮世形六枚屏風』のストーリーはみさをの自死で終わっているかのように書かれています。スネッセン訳では原文通りにハーピーエンドまで訳されています。 『浮世形六枚屏風』のこの後の展開は、母の手紙に、国元の許嫁とは「水間宇源太殿の子息島之助」で、罪が許され、消息を探していると書かれていたので、佐吉は小松に「そなたは網干の家中にて、数村亭大夫殿の娘」かと尋ねます。小松がなぜ知っているのかと驚いているところへ、それまで屏風の陰で聞いていた戸平が現れ、死のうとしたのは許嫁への義理からだろうが、そんなことはどうにでもなると止めに入ります。佐吉は、侍同士の小さい時の口約束を変更することはならぬと、まさか昔の浄瑠璃のように首を切ることはないと自分は「高をくくっていた」が、、小松の本心を試すために死ぬふりをしたのだと言う。そして、島之助というのは自分だ、帰参が叶ったことを知らなければ、「町人にて朽ち果てん」と思っていたのだ、小松のお陰だと言います。また、戸平は屋根舟に百両包みが落ちて来たので犬張子に隠したことを告げ、それが佐吉の金だと屏風の陰で聞いたと言います。柳助も一連の話を聞き、「無事を喜ぶ帰参をよろこ」び、ストーリーは「祝儀の上るり」で終わります。帰参後、佐吉は水間島之助に戻り、小松と結婚し、戸平とお花は米屋の跡を継いで、「男女あまたの子をまうけ、目出度き事のみ重なりけり。めでたし[「く」の字の繰り返し符号が6回続きます]」で終わります スネッセン訳では、Oh! Happy, happy day for Sakitsi and Komatsu!で終わっています。

『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の最終コメント

場面全体は土着の特性に溢れているが、感情の中に人生・真実・精神を込めながら語られている。唯一残念なのは、この物語を進める上で必要な劇的効果を我々の力では与えることができないことだ。しかし、読者がこの物語を時間のある時に熟読しても、興味が減ることはないだろう。そして、この中に紹介されているわずかの歌の詩的美点に公平な評価を下すだろう。また、歌があまりに少なく、短いのを残念に思うだろう。2篇の主要な歌は、ヨーロッパの最も[選択が]気難しい全集に選ばれることは確かだろう。その調子と長所はイギリスよりも東洋のスタイルにより近い。おかしなことに、この物語はいい結果で終わっている。日本の皇帝[将軍]がこの新聞を購読しているというのは栄誉なことだ。彼が『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』で自国の物語を初めて読むかもしれないというのはありえないことではない。 『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の記者はスネッセン訳を最後まで読んだようなのに、新聞読者対象にはみさをの自殺を示唆する終わり方をしているのは、奇妙な国と印象付けたいからでしょうか。

柳亭種彦について

 柳亭種彦(1783-1842)の略歴については、甲州武士で浅草堀田原に住んでいた人で、他の作家に比べ「其の家柄が最も高かった」と言われています。その人柄について『柳亭種彦集』(1926)「解題」で以下のように述べられています。
穏やかな柔和な、気品のあるお旗本であったから、他の作者のやうな放蕩癖や高慢癖はなかった。若し彼の癖はと云へば、好古癖であった。曲亭馬琴の考證には、極めて嫌味が多く、物識り振が鼻の先にぶら下ってゐたが、京傳と種彦の好古癖は嫌味がないばかりでなく、風俗史上に有益なる資料であった。((注1), pp.5-6)
 種彦の『偐紫田舎源氏』(1829-42)の人気が上がると、天保の改革によって絶版を命じられ、「元来小心の几帳面家であった」(p.17)種彦は心痛し、完結させずに亡くなったとされています。永井荷風が種彦の悩む姿を「散柳窓夕栄(ちるやなぎまどのゆうばえ)」(初出『三田文学』1913、初出時の題名は「戯作者の死」、(注2))で描いて、種彦が奉行所よりお調べがあるので出頭せよとお達しを受け取った後、卒中で突然死したとしています。

1821年—1857年—2019年

 『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の記者の最後のコメントは本サイト4-11-2で紹介した1854年2月11月号の記事「『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』が日本に」を指していますが、160年後の自分にも向けられているように感じます。幕末のイギリス・メディアの日本関連記事を探すうちに、『浮世形六枚屏風』を紹介されて読み、160年の隔たりを感じないテーマと視点だと感じました。この物語は専門家から「それほど推賞すべき作ではない」「実にたわいもない物語」((注1), p.32)と酷評されていますが、物語は冒頭から、現代の問題を描いていると思わせるエピソードに溢れていると思いました。14歳の島之助(後の佐吉)が大人の口論を仲裁しようと、論理的な方法で鳥を傷つけずに決着をつけ、その論理を主張したら、パワハラによって追放されてしまったという最初のエピソードや、佐吉が働き過ぎて「気鬱の病」「ぶらぶら病」になるのも現代の過労によるうつ病の増加を想起させます(注3)。 『浮世形六枚屏風』のもう一つの魅力は、『曽根崎心中』(1703)の道行きの有名な地の文「此の世のなごり夜もなごり」を挿入しながら、120年後の佐吉に、心中して死ぬ者をアホウと言わせ、ハッピーエンドにするところです。義理人情に縛られず、個人の自由を主張するところに、21世紀に通じるものを見ます。 『浮世形六枚屏風』が提起している問題と安倍政権下の日本の問題と共通点があると思った事例を紹介します。まず、若者による正論の表明に対するパワハラを想起させられたのが2019年1月21日の事件です。東洋大学の学生が同大の竹中平蔵氏の授業に反対する立て看板を大学前に設置し、ビラをまき始めたら、大学側に止められ、退学処分に該当すると言われたそうです。「授業反対」の理由は、竹中氏が唱えた規制緩和で非正規労働者が増え、大多数の人が不幸になっていることです(注4)。同時期に、非正規雇用に苦しんだ若者(享年32歳)が歌集を出し、出版前に急逝したけれど、その歌集『滑走路』(2017)は「異例のヒットを記録」しているという報道です(注5)。「過労死促進法」と水道民営化への竹中氏の関与については、本サイトでも紹介しました(4-10追記1、追記2参照)。水道民営化については、民営化に前向きだった浜松市が市民の反対で水道運営権売却を延期するといういいニュースが入ってきました(注6)。 環境保護という正論を訴える市民に対する安倍政権のパワハラも大きな問題です。辺野古に米軍基地を建設し、自然破壊を強行する安倍政権は、反対を訴える市民の顔写真と個人情報リストを警備会社に作成依頼し、市民が情報公開を請求したら削除したという報道(注7)です。しかも、基地予定地の地盤はマヨネーズ状だと専門家が警鐘を鳴らしているのに建設を強行していますし(注8)、自然破壊の一部とされているサンゴは「移植した」とNHKテレビで公言した安倍首相の発言が虚偽だったこと、地盤改良工事に2兆円以上かかることを隠していることなど(注9)、次々と深刻な問題が浮上しています。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(5-2-5)

『浮世形六枚屏風』(1821)の後半を『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』(1857)がどう要約しているか見ます。

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』掲載の浮世形六枚屏風のストーリー

R.T.(原文)

 座敷もすんで床の内、小松は背中おし向けて、物も云わねばつぎほ無く、佐吉は煙草くゆらせながら、「昔の事を野暮らしく云ひ出して、ふさがせると心に思ふが知らねども、大和巡りをした時に、南円堂でそなたの爪おと毎日々々聞きとれて、折もあらばと思ふ内、何処へかとんと行方は知れず、身を売ったとの人の噂、目と鼻の間程な此の島之内に居るとは知らず、たいてい捜した事では無い、然し今目ぐり遇うたはつきぬえにしと、おれ一人が合点するのも阿房なれど、これから折節来よう程に、いやであらうと付き合うて遊ばせてたもやいの」とざらりと小判で十両ばかり、紙にひねって差出し、「皆の者によい様に、花に取らせて余りがあらば、浴衣でも買うて来や」と云えど小松は見向きもせず、煙管おさえてひたいにあて、うつぶく顔をさしのぞき、「宵からの雷で、気色が悪くば薬もある、なぜ物を云やらぬぞ」と取る手をすげなくふり払い、「気合も悪うは御座んせぬが、ほんの遊び、高が芸子は売物買物、まことが有ると思うて居るは、阿房と悟った人さんには、どう云うてよい物やら、此の小松は知りやんせぬ」とすっかり云えば尚すり寄り、「おれがさっき船宿で云った事を二階で聞き其の様にひぞりやるのか、はて相方を定めぬも、其方の行方を尋ぬるから、こっちは矢張みさをといふ娘と思うて居るわいの」「そんならば五文三文袖乞に、相応な手の内は下さんせず、金さへ出せば自由になると、見下げられたが腹が立つ、嫌ぢや有らうが付き合うての、折節は来ようのとは御深切なお心ざし、折節ぐらゐの事なれば、御座んせぬがはるかにまし、そんなお前の水臭い、心と知らず今日も今日、愛染様へお百度して、これちゃっと見て下さんせ」と、ひらりとしたる書付を出せば、佐吉が手に取り上げ、「亥の年の男のありか知れ候やうに、願ひまゐらせ候、三十六番末吉どうしておれが年までも」「心で夫と定めた人、知らいで何と致しませう」「そんならわが身も真実に」「イエイエ口先ばかりで喜ばせ、末の通らぬ事ならば、いっその事に顔をも見せて下さんすな、愛染様も聞こえませぬ、何の是れが末の吉、あゝいふ主の心では、あきらるゝのは知れてある」とみくじの書付引裂けば、又も鳴り出す雷の、ぐわらぐわらぐわらとひゞく音、あれよと云うて我知らず、佐吉にひたと身を寄せて、又も見合わす顔と顔、「もし真実なら何とする」「わたしが体は主のまま」「命を呉れと云うても引かぬな」「あい」と小声に答うるぞ、深きえにしの始めなる。 前の世よりも結び置く、縁にあらん此の後は、互に離れぬなかとなり、名に負いたる三ツ紋の、月にも通い、雪にも通い、花をふらしつ其の年は、夢見る内にくれはてて、又立帰るみどりの春、小松と云えど余の客は、せきてゆるさぬ初子の日、手と手引合うあいあい駕籠、今日は生魂(いく玉げ)今日は天満、其処よ此処よと浮かれあるき、

I.L.N.(『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』掲載の要約)

 Komatsuは部屋の寝床に座って、一言も言わずに背をそむけていた。Sakitsiは遠くに立って、パイプをくゆらしているのも忘れて言った。「二言三言で昔のことを思い出せと私がお前に期待しているか知らないが、私がYamatoのNanyin寺周辺を毎日ぶらついていた頃、お前のリュートの音色に耳を傾けていた。楽しんでいる最中にお前は突然消えてしまった。どこに行ったのか誰もわからなかった。お前が身売りをしたという噂が広まったが、お前を探し回るのを止めなかったし、お前がここUtsumosimaに、しかも私のすぐ近所にいることも知らなかった。今日、お前を見つけ、お前の私への思いが今でも続いているのか全くわからない。もしそうなら、お願いだから言っておくれ」 彼は10両差し出した。「これをFanayoさんに渡して、残りがあれば、軽いドレスを買っておくれ」 そう言うと、Komatsuは彼のパイプを見ずに下ろさせ、顔をそむけながら、屈辱的に頭を下げた。Sakitsiはさらに「真夜中の雷と雲で暗くなっているのは、いい合図だ。答えてくれないか?」と言った。 彼女は答えた。「友情で自分の幸福が傷つくような場合は友情を続けないと決心しています。浮気なリュート吹きの女たちは売買の商品です。でも、私についての噂が本当だと信じられ、バカがそれを納得したという、その噂はKomatsuには知られていません」。彼女がはっきりとした、しかし、哀しげな声でそう言うと、彼は遮って言った。「あのヴェランダでお前が『船乗り居酒屋』(Sailors’ Tavern)にいると聞いたんだ。こんな野蛮なことを私が言えるか? 本当に、どんな付き合いも止めて、お前の隠れている所を探す間、お前がずっと乙女のMisawoだと信じていた」「そうなら、なぜ2,3コーヒー・ビットだけでも贈ってくれないの? 普通の献金額でしょ?あなたがお金を使い果たした途端に、彼らは去ってしまう。もし、あなたが私と話したとき、もし、あなたが私を侮辱せず、あのような言葉で私を軽蔑しなかったとしたら、あなたの目的はこれなんです。これがあなたの本心なんです。あなたが私に示そうとした条件がこれなら、何の思いもなかったほうがはるかに良かった。あなたがこんな下劣な心の人だとは思ってもいなかったので、今日も、今までも100回もOizen寺に行っていたのです。これを御覧なさい」 その紙切れには「彼女を愛している人がいるか」という彼女の祈願へのお告げが書いてあった。お告げには彼の名前が書かれ、二人の婚約で終わると優雅に結ばれていた。そして、次の回想が続く。 夫婦の絆が運命で決められている時、その絆は二度とゆるむことはなく、存在の一部になる。Sakitsiの名前を表す3本の糸は行ったり来たりし、二人の思いを強くする。今年は二人が喜びの幻想に包まれる。青々した春の訪れはKomatsuである。しかし、天罰が彼を取り巻き、彼は免れられない。日毎に鳥の声に誘われて、二人は手に手をとって出かけた。

R.T.

 [佐吉が]湯水と遣う金銀に、あかのぬけたる当世男と、世間の取沙汰家の噂、母妙讃は聞き兼ねて、つらく当たるも佐吉が為と、奥の一間に押込めて、我が身のそばを放さねば、恋し恋しと百ばかり、書いた小松がぬらし文、竹斎が手段にて目に付けがしの花活に押込んで差置けば、何心無く佐吉は手に取り、それを見るより心にうれしく、あたり見回しようようと、半分ばかりよむ所へ、立ち出づる母妙讃、「灸すゑようと思うたれど、おれにはどうも読み兼ねる、日がよいか見てたも」と差出す暦の中段も、開くをもしや見られたかと、あやぶむ、をさむ、懐中へ文は隠せど気はどきどき、「今日は天一天上ぬけお部屋へ御座ってちっとの間、こゝを間日になされぬと、こっちの工面が十方くれ、身になる金なら四五百両、手にとるきゃつめが女房になる、それでたひらに、此の家が納まらうのに、それ聞いて下さらねば、血いみでもひょんな心になりませう」と何を云うやらたわいなし。母はあきれて、「これ佐吉始めの内はこっちから、いかに勧めた遊びぢやとて、あの様に出あるいて悪い噂をせられては、第一家のしめしがきかぬ。まァ一年程も辛抱して、何処ぞ人の気の付かぬ遠い所で、月の内に二度や三度の遊びをば、おれは少しも止めはせぬ。さ、さ、其の様に浮々せずと、帳合でもしたがよい。小さい子に甘い物を食はせ過して、虫持ちにするのを見ては笑ひながら、何ぼ病気の保養ぢやとて、遊ばせ過してお山と云ふ、むしもちにして苦労する、あゝ親馬鹿とはよう云うた」と、吐息ついたる

I.L.N.

 しかし、愛する人との出歩きも、その費用も彼[佐吉]の財政を逼迫させ、彼の養母であり信仰心の強いMiosanは彼の恥ずかしい行為のニュースに耐えられず、彼を家に閉じ込め、目を離さなかった。Sakitsiは友人のTsikusaiが花瓶の中に隠してくれたKomatsuの「優しい手紙」を読んで慰められるばかりの身になっていた。ある日、養母のMiosanが彼の混乱を察知して、暦を口実にやってきて説教を読んで聞かせていた。

R.T.

(吐息ついたる)其の処へ、小庭に取りし路地口の戸を押開けて、一人の女、「ちと御免なされませ。わたくしは天王寺巫子町の黒格子辻と申すあづさ巫子、笹叩が遊ばしたいとお人の参った、米問屋佐吉様とはうち方で御座りますか」と云いければ、不審そうに母妙讃、「あいの、佐吉とはこちなれど、巫子殿を呼びにやった」と云いかくるを佐吉が引取り、「成程御合点が参らぬ筈、貴方様へはお隠し申し、私が人をやりやした。あいつが例の癖が起って、あまへ居ると仰りませうが、又此の頃は気分も悪く、食も進まぬぶらぶら病、遊んであるけば病気もなほり、内に居ると気色の悪いは祟りもので有らうかと、笹叩きをして見るつもり。巫子殿はサアサアこちへ。貴方は側にお居でなされ、あいをうつとか申しまして、佛様への御挨拶遊ばして下さりませ」と聞いて母は頭をふり、「イヤもうわたしや生まれ付いて涙もろく旦那様の墓参りしてさへも、供に連れた女子が見る前も気の毒な、ましてや巫子にのり移りどうのかうのと仰るを、どうして聞いて居られうぞ、あゝそれは悪い物好き、呼びにやらぬ前なれば、止め様もあらうけれど、巫子殿の御座ったを、断り云うては帰されまい、わがみ一人よう聞いて、入る事許り話してたも、わしは声の聞えぬところで、お念佛を申して居よう」とそこそこ立って奥ふかき佛間へこそは入りにけれ。後見送って佐吉はすり寄り、「お花よう来てたもったの」「はい、おれが内へ来るならば口寄せになって来い、さうせねば遭はれぬと竹斎様へのお言伝、

I.L.N.

ちょうどこの時、呪い師に扮装したWofanaが現れ、Sakitsiの心と[悪]癖を治すために「笹の葉を燃やす」という。Sakitsiが母親に対して仮病を使っていたのである。母親は退室した。

R.T.

[お花の言葉]急にお話し申さねばならぬ様になった災難、それ故かうした姿になり、にっこらしう云ふ内に、びっしょり汗になりました」「おゝさうであらうとも、あの様におれがそばに番してお出でなされては、一寸した話も出来ぬ、ところでこちのおふくろは、雷巫子に胡瓜の香々、此の三色が大お嫌ひ、それからの思ひ付きで巫子ぢゃと云うたら案の條、お部屋へ逃げて御看経、ここでは泣いても笑っても、もう聞える事では無い、まァ聞かうで、何の事ぢゃか訳が知れぬ」と問われてお花は目に涙、「今までは貴方にさへ、お隠し申した程なれば、ましてや他人の聞く前では、小松さん小松さんとよそよそしくは云ふものの、実はわたしが姉の子にて、云はずと知れし現在、伯母、姪、姉婿は鎌倉にて某殿(なにがしどの)のお鷹あづかり、御秘蔵の其の鷹をそらした越度(おちど)で御暇、それよりはずっと前にわたしが花世と云った時、内でつかうた侍と、いたづらしてはるばると、大和国までにげ上り、夫婦と成ったが戸平どの、内證では姉さんと、折ふし文の取りかはし、其の内に御浪々なされた事を聞いての悲しさ、姉さんも途方にくれ、ほんの親はなきよりと、はかないわたしを便(たよ)りにして其方で行儀しつけた上、御奉公をさせてくれと、あの小松がみさをとて、十四の春に大和まで、人を付けて上されたれど、戸平殿が駕籠かいて、やうやう親子が憂き命、繋ぐ程なる身貧な住居、かてて加へて姑御が目かいの見えぬ長の病気、彼の子も見るに絶え兼ねて、わたしが娘の小由(こよし)をつれ、南円堂にて浅ましい袖乞して呉れました」ト泣き出せば佐吉は驚き、「そんならみさをと一所に袖乞に出でた、ちひさな娘は此の頃義太夫三味線の稽古をする、あのおよしか、さう云へば其の時もたしか小よしと云うたと思うた、ちっとの間に大きう成って、おれはとんと見忘れた、それはよいが其のひょんな事と云ふのが早う聞きたい」

I.L.N.

そして、WofanaはKomatsuの物語をKomatsuの恋人に語った。また、昔自分がTofeiとYamatoに駆け落ちした話もした。上手な語り方だった。Komatsuの父親が上司から預かっていたハヤブサの世話を怠ったために地位を失ったのだった。

R.T.

[お花]「さァ昔からの始終(いくたて)を云はねば様子が知れませぬ、それからみさをが袖乞も、はかばかしう貰ひも無しと思うたやら、わたしら夫婦に相談もせず、留守の内此の島之内の徳若屋と云ふ置屋へ、百両に身を売った書置と其の金が、小よしが雛の犬張子の中から出て内は騒動、なんぼ母の病気ぢゃとて、女房の姪なり主人なり、其のお方に勤めをさせては男が立たぬと、戸平殿が半気狂になられたを、わたしがやうやう云ひなだめ、まァ夫婦が連立って徳若屋へ来て見れば、彼方で却って面目ながり、伯母様ゆるして下さりませ、国の父さん母さんが、御浪人で無いならば、貢がねばならぬ筈、其の悲しさにわけも云はず、わたしが身を沈めました、伯母は親の片破(かたわれ)なり、お前ばかりの事ぢゃ無い、国に御座る母様にも孝行かと思ひますと、声を上げて泣いた顔、今に忘れは致しませぬ。其の真実にかんじ入り、戸平殿も得心し、金に明して療治したれば、姑御の目もなほり、残った金で今の住居梅田橋へ引越して、山から川の船宿商売、どうなりかうなり暮すのも、元はと云へばあの子の御陰、常々御覧なされた通り、犬張子を大事にするも、小松が恩を忘れぬ為、姑御は昔かたぎおれは故郷を放れぬと、大和に御座るが気にかゝれど、無理に難波へ呼び申し、今まではお屋敷の御奉公と云うて置いた、あの子の勤めを知らせては、却ってお気がもめようと、隔たりて居る程なれば、国へは尚更秘しかくし、所に今度小松が父さん、わたしの為の姉婿が殿様へ召返され、昔の武士に立帰り、云号(いいなづけ)とやらが有れば、みさをは此方で縁付ける、奉公先の暇を取って、鎌倉へ連れ帰れと、五ツの年まであの子の側に付いて居た、乳母の子、雪室柳助と云ふ男、今はわたしも見違へる立派な武士が迎へに上り安治川に宿取って、みさを様のお勤めなさるお屋敷へ案内して、遭はせてくれと日毎の催促、恥を捨てて今の身を、云ふのは手間暇入らねども、さうして彼方で金調へ見受されては、戸平殿がいよいよ国へ顔向けならず、小松はわたしに取りすがり、国へ帰って久しぶりな、父さんや母さんのお顔を見たうは有るけれど、佐吉さんと縁切って、外へ嫁入をする事なら、わしや死にますと泣いて居る、此方で見受したいには、金才覚のあては無し、たとひ金がとゝのふとても、武士同士の云号(いいなづけ)は反古にはならぬと矢張騒動、大和に居った時分には、わたしは貴方を知らねども、お世話に成ったとあの子が話し、今でも変らず目をかけて下さりますれば、憚りながら婿の様に存じまして、身代の店下し、今宵は幸ひおなじみの歌川屋へ、うらの客で小松は出て居りますれば、まァあれに遭うての上、相談なされて下さりませ」トおろおろ声にて語りける。

I.L.N.

現在、Komatsuの父は元の繁栄に戻されたので、娘をKamakuraに連れ帰るようにKomatsuの異母兄、Jukimaro Riusukeをよこした。彼女はそこでの婚姻契約があるのだ。この使節の目的はSaizoから彼女の自由を買い戻し、彼女が嫌がっても、家に連れて帰ることだった。

R.T.

 佐吉は聞いて気もそゞろ、「さう云ふ事では捨てはおかれぬ、えゝまゝよ、母者人に又明日叱らるゝ分の事、そんなら行かうがまァ待てよ、歌川屋に四五十両さがりが有れば上げ居るまい、イヤいイヤそれもどうかならう、まァまァそなたは先へ帰りや」「もう日も暮れますれば、ちっともお早く」「おゝ合点ぢゃ」とお花を戻し、箪笥のきがへ引出し、帯引きしむる一間より、母妙讃は立ち出でて、「巫子殿は何と云はれた話して聞かしや」ト問はれてぎっくり、「はい、それは」「是れ何も其の様にうろたへる事は無い、おれや聞かいでも知って居る、大方そなたの煩ひは、小松と云ふたゝり者、色と酒との二股竹、間のまくらの睦言に、昔は其の身も弓取の、大切の体を忘れ果て、今町人の身の上には、唐の鏡で大切な金銀をまき散らし、両人が浮名は小柴垣、ゆひたてられては庭宝のしめしがきかぬと、此の母が扇の陰や日向となり、意見をしても兎に角に、丸い漬桶に角な蓋、あひ兼ぬるとて聞きはせず、ちっとの内の部屋住みも、茨で目をつく思ひして、意気地とやらを立て烏帽子、揺れば落つる木の葉の露、わが身に掛る災難が、ひょっと出来た其の時は、車は海へ舟は山、逆事(さかさまごと)でも見ようかと、それがどうも気に掛る、百万年も生口(いきぐち)のまめで身代大切にしや」と云いつつそっと袂より投げ出したる百両包み、佐吉は夢見し如くにて、おし頂けば顔そむけ、「巫子へ初穂の百一升、今夜は免(ゆる)してやる程に、明日の朝は店の者の目のさめぬ内帰らうぞ、もう是れぎりぢゃ、後ねだりしても母は知りませぬ」と接穂も雨露の恵みにて、同じ色香に咲く花の小梅を仇に散らさじと、親木の恩ぞ深かりける。

I.L.N.

 Wofanaが去るとすぐに、年老いた信心家がSakitsiの元に戻って来て、偽の呪い師等々についての彼の二枚舌を再び厳しく説教した。しかし、百両を与えて、彼の愛人を屈辱的な奴隷状態から救うよう言った。
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