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2025-06-03

『もっと暗い日々』2-5-1

明治の日本が欧米から「一大淫乱国」と見られていると訴えた森有礼の「妻妾論」(1874-75)と、馬場辰猪の「本邦女子の有様」(1875)の訴えと提案、そして辰猪が参加した英国の「社会科学の促進のための全国協会」(1873)でナイチンゲールをはじめとする女性たちの討論に辰猪が感銘を受けた可能性などを紹介します。

馬場辰猪の女性観

 馬場辰猪が英国留学中にThe English in Japan(『日本における英国人』, 1875明治8)とThe Treaty between Japan and England(『日英条約論』, 1876)で、13歳の少女がイギリス人に強姦された事件を不平等条約の最悪の例として挙げ、激しく批判したこと(前節参照)はいくつかの点で驚きです。日本が欧米に差別・蔑視され続けることに憤りを感じた日本人としてのプライドが大きいでしょうが、男性が女性・こどもに対する性犯罪にこれほどまでの強い憤りを感じ、表明すること自体が当時も今も珍しいのではないでしょうか。

 特に現在(2025年前半)、中居・フジテレビ問題が大きく取り上げられ、大阪地検トップによる強姦事件と、それをもみ消そうとする検察庁全体の隠蔽体質に代表される男性中心主義の日本社会の問題にようやく光が当てられ始めた時に、25歳の馬場辰猪が150年前に主張したことは今でも斬新で、再評価されるべきだと思います。

 馬場辰猪の女性観については、1875(明治8)3月25日に「本邦女子の有様」という題名で演説をし、それが『共存雑誌』第五号(1875)に掲載されています(注1)。時期的には、第一回留学から1874(明治7)年12月に帰国し、翌年4月初旬に第二回留学に出発するまでの短い期間に行われたようです。大意を以下にあげます。

  • 日本の女性は悪しき習俗のために誠に悲しむべき状態に置かれている
  • 幼少の時から「三従の道」という「圧制」を受けている;つまり、結婚前は父母に従い、嫁しては夫に、老いては子に従うべき者とされている。
  • 「生涯圧制」を受け続け、卑屈になっている。どんなに頑陋(がんろう)愚昧(ぐまい)な男でも、父母の命ならば夫とせざるをえず、この夫の命に背くことができない。夫に罵詈雑言、打擲(ちょうちゃく)されても、抗わないことが婦道であり、貞節とされた。
  • 日夜夫だけでなく、舅姑の圧制と専制の下に苦役する状態は忍びないものがある。
  • この「悪しき習俗」のために女子は卑屈になり、その「卑屈の心情を翻し不羈 [ふき:何ものにも縛られず] 自立の気象を挽回せしめ」ることが「今日の急務となす」
  • その手段として、
    ①幼い女子にも理解できる文書を著すこと;
    ②宗旨を問わず、宗教を通して悪しき習俗を除去すること;
    ③芝居音曲によって、「情思を忠良に感動せしむる」こと

 ③に関しては、馬場辰猪の趣味が芝居と三味線だったこと、ロンドンでもよく芝居見物をしていたことから、理解できます。興味深いのが、日本の芝居音曲は「概ね媱乱(ようらん)を演じ殺伐を講ず」るものが多いが、「全くこれを演ずる者の罪にして決して芝居音曲等の罪に非(あら)ず」と述べている点です。当時の芝居音曲が淫乱で残酷なのは、そのように解釈して演じているからだというのです。

 文書を著す提案に関しても貴重な指摘をしています。洋書を翻訳する人が多いが、幼い者たちには理解できないから、「先進国の正論」を取捨選択して、日本の風俗人情に勘校(かんこう:照らし合わせ校正する)し」「平易簡約を旨としたる文章を著わし」、幼い子たちの心に入りやすいものにするのが急務だというのです。これらが「共存同衆」の任だと訴えています。

 馬場辰猪はこの3ヵ月後に、同じ内容と思われる講演をロンドンの「日本学生会」で行いました。第二回イギリス留学のためにロンドンに到着した10日後、1875年6月19日に”The Condition of the Japanese Women”((注2), p.182)という講演をしたと日記に記しています。この講演を日本語で行ったのか、英語かはわかりませんが、日本とイギリスで2回話すというのは相当の関心の深さを示していると思います。

共存同衆

 「共存同衆」というのは、辰猪の留学仲間だった小野梓(1852-1886:法律学者、東京専門学校=後の早稲田大学を設立)が帰国後まもなく、1874(明治7)年に、明六社の創立と前後して創設しました。馬場辰猪も後に参加して、初期のメンバーにはイギリス留学組が多かったそうです。その「趣旨は『人間共存の道を講究、奨励する』にあり、法律、教育、理材、衛生の四門にわかれて、毎月第二、第四の土曜を講話の日とし、会員の討論日とし」ました((注3), pp.58-59)。1875年1月に機関紙『共存雑誌』を創刊し、1877年に全盛期を迎えて、会館(共存衆館)を建設し、79年には図書館(共存文庫)まで開設しましたが、自由民権運動の高まりの中で啓蒙団体の限界を示して、81年以降は社交クラブとなったと解説されています((注4), p.315)。

日本学生会

 共存同衆の母体は馬場辰猪がロンドンで創立した「日本学生会」でした。「馬場辰猪自伝」によると、当時ロンドンには100人ほどの日本人留学生がいたから、街へ出るたびに日本人に行き合ったが、お互いに知らん顔で挨拶もしない;その理由は封建時代の強い感情がまだ残っていて、それぞれの藩から来た侍として、他藩の者は敵として扱うべきだと思っていたのだ;辰猪は他の留学生より若く、滞在年数も少なかったけれど、「狭量な無智な学生等を合同させて、一つの会を起こそうと試み」、「社会促進会の会合に出席して、(中略)多くの英国の名士の演説」を聞いて、「言論の自由は国民の生活の諸方面に非常な利沢をもたらすものなることを思い、その会の如きものを日本学生間にも設けることが得策であると考えた」((注2), pp.73-74)。

 自伝で「社会促進会」と述べているのは、「もっと暗い日々2-3」で紹介した「社会科学の促進のための全国協会」のことです。「日本学生会」を組織した理由の一つが「社会科学の促進のための全国協会」のように自由に討論が行える訓練をすべきだという思いだったことがわかります。辰猪が自伝で参加したと書いている「社会科学の促進のための全国協会」の全国大会は1873年10月1-8 日に北イングランドのNorwich(ノーウィッチ、またはノリッチ)で開催された大会です。そこに3週間滞在し、会長のホートン卿(Lord Houghton, Richard M. Milnes: 1809-1885)に紹介されたので、最初の著書『日本語文典』を「同卿に公献した」(p.75)と述べています。この滞在で「多くの人々と知り合ひになった」とも述べていますが、この大会のプログラムに感銘を受けたことも、日本女性の置かれた状況を訴える言動につながったのではないでしょうか。教育部門では女子教育について報告・講演したのが女性ばかりで、トピックには女性の医学教育も含まれています。

キャプション:Repression of Crime(犯罪の抑止):グラスゴー大会((注5), 1874.10.10, p.344)

フローレンス・ナイチンゲール

1873年のノーウィッチ大会の様子を伝える挿絵は見つかりませんでしたが、上の挿絵は1年後のグラスゴー大会における女性の講演者・討論者を描いたものです。ノーウィッチ大会ではナイチンゲール(Florence Nightingale :1820-1910)が「インドで死なずに生き延びる人々」(注6)という題名で講演していますから、辰猪が聞いた可能性もあります。

 馬場辰猪の女性観との直接の関連はありませんが、この大会の会長だったホートン卿が若かりし頃、ナイチンゲールに9年間プロポーズし続け((注7), p.21)、1849年ナイチンゲールが29歳の時に、ホートン卿のプロポーズを断った理由として挙げられていたことが、辰猪が「本邦女子の有様」で主張していたことにつながります。辰猪が見た日本女性は結婚前は親の圧制に、結婚後は夫と舅姑の圧制に苦しめられ、卑屈になっているから、「自立の気象を挽回」する必要があるという見解でした。1849年のナイチンゲールも、結婚するということは、単に「親の家の束縛が婚姻の束縛に変わるだけ」(注8)だと思い、結婚することを恐れたそうです。

キャプション:Miss Nightingale, in the Hospital, at Scutari.(ILN: 1855年2月24日, p.176)
スクタリ[トルコ西部]の病院におけるナイチンゲール嬢(注9)

 ナイチンゲールは34歳の時に、当時の戦時大臣シドニー・ハーバート卿(Sidney Herbert: 1810-1861)の要請で、38人の看護婦の一団を引き連れて、1854年11月からスクタリ(Scutari:現在トルコのイスタンブールの一地区ユスキュダル)にあるクリミア戦争の野戦病院で看護と病院管理にあたりました。上掲の挿絵にあるように、ランプを持って傷病兵たちを見回る姿から「ランプの貴婦人」(lady with a lamp)とも呼ばれていました。上掲の挿絵の解説「Miss Nightingale」の一部を抄訳します。『タイムズ』紙からの引用です。

 最も危険な病気があるところには、あの比類のない女性がいる。彼女の慈悲深い存在は死の床にある者たちに慰めを与える。これらの病院では彼女は誇張なしに「救いの天使」だ。彼女のほっそりした姿が各回廊を静かに滑るように巡ると、かわいそうな患者たちの顔が彼女の姿を見て感謝の気持ちで和らぐ。夜になって医療・看護者たち全員がいなくなり、沈黙と暗闇が衰弱し切った病人たちの上に降りると、小さなランプを手にした彼女が一人で巡回する姿が見られる。(中略)真の女性の心と貴婦人の作法を備えた彼女は、同性の誰よりも洗練され、完成されているばかりでなく、驚くほどの冷静な判断力、迅速な果断力を持っている。((注9), p.175)

 当時は看護の仕事に女性は就けず、その理由は、現代流に言えば、セクハラとアルコール中毒の危険性に晒されるからということで、ハーバート卿は看護婦たちに「規律への絶対服従」を強いる能力を持っているのはナイチンゲールだけだと考えて、病人の看護のためと、女性による看護という考えを浸透させるためにクリミア戦争に送ったそうです((注10), p.28)

 上記の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の挿絵から9ヶ月後の1855年11月末に、ハーバート卿はロンドンで公開集会を開催して、「ナイチンゲール基金」への寄付を募りました。その時にスクタリの傷病兵からの手紙を読み上げ、その内容に感銘を受けたアメリカの詩人ロングフェロー(Henry Wordsworth Longfellow: 1807-1882)がナイチンゲールについて‘Santa Filomena’ (1857)(聖フィロメナ)と題した詩を発表しました。その一節が集会で紹介された兵士からの手紙の内容と、ILNの挿絵が描く情景と重なります。

見よ! このつらい時間に
ランプを手にした婦人が
おぼろげな闇を通って 
部屋から部屋へと過ぎゆくのがみえる
すると、至福の夢をみているかのように、ゆっくりと
患者は黙って向きを変え
彼女の影が落ちるとき
その影に口づけをする((注11), p.76)
Lo! In that house of misery
A lady with a lamp I see
Pass through the glimmering gloom,
And flit from room to room

And slow, as in a dream of bliss,
The speechless sufferer turns to kiss
Her shadow, as if falls
Upon the darkening walls.

森有礼の「妻妾論」

 馬場辰猪の講演「本邦女子の有様」は時期的に森有礼(ありのり:1847-1889)の「妻妾論」の最終章発表の直後という点で、「妻妾論」に刺激されたともとれます。「妻妾論」は『明六雑誌』に1874(明治7)年7月から1875(明治8)年2月まで掲載され、馬場の講演は1875(明治8)3月25日でした。森有礼が28歳、辰猪が25歳でした。

 女性がいかに虐げられているかという点では共通していますが、「妻妾論」では結婚において虐げられる女性という視点が中心で、解決策として法律改正が提案されています。辰猪の論では、女性の一生という視点から、親による圧制、夫による圧制に耐え続けなければならず、そのために「卑屈」に生きなければならないから、「自立の気象を挽回」する必要があると主張し、書物や文芸によって「自立」の精神を養う必要があると提言しています。「挽回」という語を使って、女子にも自立の気象はもともとあるはずだから、教育と啓蒙活動でそれを挽回させようというのです。

 森有礼の特色は、その結論部を外国人の日本人観で締めくくっている点です。外国からどう思われているか気にする、外圧依存の傾向が見られるとも言えます。「外国人の我国を目して地球上の一大淫乱国」と批判するのも、虚偽や誹謗ではないと述べています((注12), p.247)。伊藤博文をはじめとする明治の著名な政治家・企業家たちの奔放な性行動が有名で、1890(明治23)年時点でも、『ハーパーズ・ウィークリー』の記者が以下のように述べているのが「一大淫乱国」と称される一例でしょう。この記事の一部は「もっと暗い日々2-2」で紹介しました。

It has been well said that the Japanese are far too picturesque for politics, that they should stick to tea houses and geisha girls, and leave “rings” and caucuses to the ubiquitous Anglo-Saxon. But these things must be faced, and that in a near future. Japan has elected for constitutional government, and her first Parliament is to meet this next September in the handsome building now rapidly approaching completion at Tokio. At a political banquet given some time ago one of the oldest foreign residents said to a distinguished Japanese official, “The first I saw your Excellency you were wearing two swords, and had given orders to throw all the outer barbarians into Yokohama Bay.” The little man bowed, and replied , “Quite true, but that was before we had studied the Constitution of the United Sates.” (注13)

 日本人は絵のように美しく、政治には向いていないから、茶屋に張り付いて芸者と遊ぶことに専念し、政争や政党集会などは、いたる所にいるアングロ・サクソンに任せるべきだと、言われてきたがその通りだ。しかし、これも近いうちに彼らは直面しなければならない。日本は立憲政府を選び、現在、東京で完成に向けて急ピッチで工事が進められている立派な議事堂で最初の議会がこの[1890明治23年]9月に開かれることになっている。しばらく前にあった政治的宴会で、日本在住の外国人住民で在住歴が最も古い人物が日本の偉い役人に言った。「私が閣下に最初にお目にかかった時、閣下は二本差しで、全ての外夷を横浜港に投げ出せとお命じになりました」。その小男はお辞儀をして答えた。「全くその通りですが、それは我々が合衆国の憲法を学ぶ前のことでした」

 この記者自身が「日本在住の外国人住民で在住歴が最も古い人物」なのかは署名がないため確かではありませんが、少なくとも、ここに記されている日本人蔑視観が当時の日本在住欧米人の共通認識だったと推測できます。この記事には”picturesque”(絵のように美しい)という語が繰り返され、反語として使われていることが窺えます。万博に来ている日本女性の着物姿は「絵のように美しい(picturesque)」が、近づくと美しくなく、洋服姿の日本女性は「完全に醜い」と述べています。

 一見いいが、実はひどいというレトリックは、日本人の清潔さにも適用され、政治と商売では汚い日本人と強調したい時に以下のように使われています。

日本では全てが清潔に見える。清潔さが日本人の標準的美徳だ。日本人の敬虔さを何で判断するかという時に、清潔さについては議論の余地がない。家でこれほどきれい好きな日本人は、政治と商売の世界では、清潔と潔白が導きの星だろうか?サンフランシスコの著名なビジネスマンで、仕事と遊びで中国と日本で数ヶ月過ごした人が、公正な取引という点では中国人と日本人は比較にならないと私に語った。「Chinaman[中国人の蔑称]は駆け引きには難しいが、契約が結ばれ、判が押されたら、中国人が公平に扱ってくれると確信できる。しかし、’Jap’[訳者強調 ]はお辞儀と笑顔で全て約束しておいて、翌日には面と向かって自分の言った意味をこちらが誤解していると言う」と言った。

 150年前の『ハーパーズ・ウィークリー』の記事を読むと、欧米人の見る現在の日本を述べているとさえ思わされます。ペリー来航に始まる欧米の日本開国要求を日本ではいまだに「開国」という語で表現していますが、欧米の一般人の認識が「侵略」だったことが明記されています。

最初、日本は外国の侵略(foreign invasion)を毅然としてはねつけたが、すぐに、外国の思想を把握し、同化した。この国自体—小さく、美しく、清潔で、コンパクト—が進歩を好んだのだ。(中略)またたく間に日本は19世紀文明の洗練さを身につけ、日本の道路・鉄道・町が示すように、奇跡的なことをした。

 博覧会場に到着してすぐに食べたランチが安く、メニューが「ビーフ、チキン、魚」から選べて、日本製ビールにコーヒー、デザートはチョコレートだと、まるで、現在の円安日本に群がる外国人観光客の感想のようです。自分たちが会場で唯一の外国人なのに、日本人はじろじろ見るようなことはなく、彼らをじっと見ている自分が恥ずかしくなった;特に赤ちゃんを絹のスカーフで背中にギリシャ・ファッションの十字に結えつけている若い母親の姿をじっと見ていたら、まるで自分が「侵入している野蛮人」のように感じた等々と述べた後に、日本人政治家は「茶屋に張り付いて芸者と遊ぶことに専念しろ」という結論につながっています。

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1 「本邦女子ノ有様」『馬場辰猪全集 第一巻』、pp.3-6; 国立国会図書館デジタルコレクションからもアクセス可、明治仏教思想資料集成編集委員会(編)『明治仏教思想資料集成別巻【4】(共存雑誌)』、同朋舎出版1986, pp.25-27.
https://dl.ndl.go.jp/pid/12285777
2 『馬場辰猪全集 第三巻』岩波書店、1988
3 永原慶二(監修)『岩波 日本史辞典』岩波書店、1999.
4 田中惣五郎『自由民権家とその系譜』国土社、1949. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1707277
5 The Graphic: An Illustrated Weekly Newspaper, Vol.10, 1874. Hathi Trust Digital Library
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=nyp.33433105621522
6 C.W. Ryalls (ed.), Transactions of the National Association for the Promotion of Social Science. Norwich Meeting, 1873, London, Longmans, Green, and Co., 1874. Hathi Trust Digital Library
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015009230965
7 ヒュー・スモール、田中京子(訳)『ナイチンゲール 神話と真実』みすず書房、2003
8 Richard Bates, “The suitor and the sister”, University of Nottingham Blog, October 25, 2018
https://blogs.nottingham.ac.uk/florencenightingale/2018/10/25/the-suitor-and-the-sister/
9 The Illustrated London News, Vol.26, Jan-June 1855. Hathi Trust Digital Library
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=njp.32101059281244
10, 11 (注7)
12 大久保利譲『森有礼全集1巻』宣文堂書店、1972. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/12407743/1/155
13 Harper’s Weekly, vol.34, June 28, 1890, p.503. Hathi Trust Digital Library
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015011446161