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アロー号事件

英米に伝えられた攘夷の日本(6-5-1)

アロー号事件とイギリスによるカントン攻撃のニュースは日本にいつ、どう伝えられたかみます。

幕府に伝えられたアロー号事件とカントン攻撃の情報

府にアロー号事件とカントン攻撃の情報が伝えられたのは、ちょうどイギリス議会でアロー号事件の真相解明とカントン攻撃の是非が議論され始めた時期(1857年2月24日〜3月3日:6-2-1〜6-3-3参照)ですから、幕府の情報把握の早さがわかります。『幕末外國関係文書』に記録されている1857年2月26日(安政4年2月3日)付のオランダ商館長の書簡から始まります。その後、長崎奉行所が口頭で聞き取った記録が続きます。オランダ商館長は、欧米列強と交渉をしている日本にとって英仏のカントン攻撃は重要な考慮すべき事件だ、対岸の火事と思うなと忠告しました。その忠告を受けて、1857年3月から6月の間に幕府の中で17通もの文書がやりとりされていますから、幕府がいかに重要視していたかが窺えます。 切迫感の理由の一つはタウンゼント・ハリス(Townsend Harris: 1804-1878)がこの半年前の1856年8月21日に下田に来航し、幕府と通商条約の交渉を開始して、様々な要求をしていたからです。同時期に英仏露が接近し、出入りが頻発していますから、幕府がどんなに大変だったか、老中首座の阿部正弘(1819-1857年8月6日)がその最中に病死してしまったのも、過労からだと理解されています。心労・過労は通詞も同じで、外交用語「領事」「総領事」などの概念さえなかった時代に、武力をチラつかせて開国を迫る欧米列強との交渉の通訳/翻訳をしなければならない通詞たちの苦労が偲ばれます。2-3で紹介したオランダ語の大通詞・西吉兵衛がイギリス艦隊のスターリング提督との会見を通訳する予定の朝、1854年10月8日(安政元年8月17日)に43歳で急逝してしまったのも、過労死だったと推測されています。

アメリカ領事の常駐をめぐるペリーと幕府の応接掛との応酬とその結果

 ハリスが領事として常駐する目的で来航したのに対し、日本側にとっては予想外という齟齬がありました。ペリーと交渉した時の大学頭だった林復斎(ふくさい:1801-1859)を代表とする応接掛の交渉記録『墨夷応接録』(ぼくいおうせつろく)の現代語訳が最近出版されたので、領事を常駐させるペリーの要求について確認します。領事を日本に常駐させる要求は「承服しがたい」と繰り返す林復斎に対して、ペリーは「結論を先送りにして、もし何か問題が発生したら、一人常駐させるというのが適切かと考える。また十八ヶ月後に、わが国の使節がやって来るはずなので、そのときにこの件について談判に及ぶのが良いだろう」((注1), p.57)と答えます。ところが、日米の条約文が違っているのです。日本側の条約文では「第十一条 両国政府によって、止むを得ない事情によりその必要性が認められた場合、本条約調印から十八ヶ月より後に、アメリカ合衆国は役人を下田に駐在させることができる」(p.189)となっています。アメリカ側の条約では、”Article XI There shall be appointed by the Government of the United States, Consuls or Agents to reside in Shimoda at any time after the expiration of Eighteen months from the date of the Signing of this Treaty, provided that either of the two governments deem such arrangement necessary” (注2)となっています。日本語条約文では、両国が必要だと合意した時とされているのに、英語版では「日米いずれかの政府」となっており、「いずれか」は「アメリカが必要と認めれば」と理解できます。 この違いを検証した石井孝は、そもそもペリーが18ヶ月後に「使節」を送り、その時に談判すればいいと言った段階で、「使節」は「領事」だとペリー側が考えており、領事が来航してから領事を置くかどうか談判しても「仕方ないではないか。通訳の間におけるなんらかの誤解であると思う」((注3), p.98)と書いています。 翌日応接掛の代理としてペリーのもとに派遣された徒目付平山謙二郎は手記の中でペリーの意図を正しく伝えている上、オランダ語訳から日本語に訳された和文は英文の通りだったそうです。しかし、漢文訳が和文と同じになっており、英文を漢文に訳す時に誤りが生じたと推測されること、オランダ語から和訳された条約と漢文との照合を怠ったのだろうという推測です(pp.106-107)。ペリーが誘導した論理に応接掛が引っかかったのか、「領事」という概念がまだ定着していない時期に「使節」=「領事」というペリーのごまかしは見抜けなかったのかもしれません。ハリスがアメリカ政府から日本領事に正式に任命されたのは1855年8月4日(注4)でした。

オランダ商館長の情報と幕府への忠告

オランダ商館長がカントン攻撃について幕府にどう伝えたのか、その忠告も含めて概観します。ハリスを下田に運んだ船は、カントン攻撃を報道していた『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の特派員が乗船していたサン・ジャシンタ号でした(6-4-2参照)。サン・ジャシンタ号のアームストロング提督は6ヶ月後に戻ってくると約束したのに、8ヶ月後の1857年5月5日も現れない、「アメリカの軍艦が長い間やってこないのはどうしたわけか。イギリス人はどこにいるか。フランス人はどこに?」「一隻の軍艦のいないことは、また、日本人に對する私の威力を弱めがちである。日本人は今まで、恐怖なしには何らの譲歩をもしていない。我々の交渉の將来のいかなる改善も、ただ我々に力の示威があってこそ行われるであろう」(注5)と、ハリスは日記に書いています。待ち焦がれたアメリカ軍艦がハリスの前に現れるのは来日約1年後の1857年9月8日でした。ですから、アロー号事件とカントン攻撃について知ったのは、幕府の方が半年以上も早かったわけです。

オランダ商館長の情報

 最初の情報提供者は長崎のオランダ商館の最後の長官だったヤン・H.ドンケル・クルチウス(Jan Hendrik Donker Curtius: 1813-1879)でした。その書簡と口頭説明をオランダ通詞が和訳したものが『幕末外國関係文書』に残っています。「二〇二 二月五日 和蘭甲比丹キュルチュス口演書 長崎奉行支配吟味役永持亨次郎へ口演 英人廣東焼拂の件」(注6)と題された文書です。「キュルチュス」とか「ドングル、キュルレユス」となっているのは「クルチウス」に、イギリス海軍提督「セイムール」を「シーモア」に直しますが、当時の理解がわかるもの、例えば、カントン長官の葉の役職を「奉行」としている点などは、そのままにして現代語で要約します。文書の日付「安政4年2月5日」は西暦1857年2月28日です。西暦を主に、必要な場合は和暦をカッコ内に記します。 クルチウスから情報と忠告を聞いた長崎奉行支配吟味役の永持亨次郎(ながもち・こうじろう:1826-1864)の長崎奉行宛の報告書です。聞き手、話し手を区別して記したインタビューの書き起こしの体裁になっています。通詞の名前は記されていません。なお、永持亨次郎は長崎海軍伝習所の一期生で、勝海舟と同じく幹部伝習生でしたが、官吏としての有能さを見込まれて、長崎奉行に引き抜かれていたそうです(注7)
    10年前の唐国と英国間の戦争の結果、唐は英国のためにアモイ、カントン、ニンポー、上海、福州の5港を開き、各港に商館を築き、領事を置き、両国官吏の接触法、貿易の方法、商船の租税規定を取り決めた。唐の産物のうち、茶と絹布を専一に交易し、ヨーロッパ同盟国も同様の取り決めをし、5港が次第に繁盛し、唐国にとっても交易が国益であることがわかった。港には勿論境界を定め、城内で外国人が借家、借地など自由にでき、唐人も自然に各国の言語に通じるようになり、当今は自他国民に差別が無くなっていた。 しかし、唐国の風儀は外国のものを軽蔑し、公の交渉も官吏は面会を拒み、多くは書簡の往復で間に合わせ、ひたすら尊大に構えているため、外国人[欧米人]は常日頃不快に感じていた。今度のカントンの件も、英人が現地の奉行に直談判したかったが、拒んだため大事になったのである。 5港のうち、香港は英国が割譲し、その土地人民全てをイギリスが支配し、イギリス人は平常唐船を借り受け、唐人の乗組員で英国国旗を用いて、諸港に往来している。イギリス人の政治は公平だから、唐人も他港より香港に移住した。 また、カントンは条約開始から2年以内に開港という取り決めだったが、10年たっても唐国は約束を守らないため、在唐のイギリス人は武力で違約の罪を正そうと望んだ。しかし、イギリス政府は唐国内で内乱が続いて国民が困窮しているので、その気はなかった。 この度のカントンの変は小さなことから始まった。香港在住のイギリス人が唐船を借り、配下の唐人12人を乗り組ませ、英国の国旗を立ててカントンへ入港したところ、唐人の乗組員が一揆の残党という理由で、カントンの奉行所が捕え、英国国旗も奪取したことをイギリス商人がカントン在住の領事に訴え、領事が奉行所に掛け合い、咎めた。乗組員と国旗を返還し、謝罪したら無事に済むと言ったところ、奉行からは返答なしだったので、海軍提督シーモア(昨年秋、長崎港に渡来したイギリス提督[原文のまま])は部隊を率いてカントンの1砦を奪取した。
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