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イラストレイテッド・ロンドン・ニュース

英米に伝えられた攘夷の日本(4-6)

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““Iraq war”

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』掲載の日本に対する悪意に満ちた記事(4-5)がなぜ書かれたのかを探っていくと、イギリスがロシアに宣戦布告する1854年3月28日まで戦争回避を訴える首相が好戦的なメディアに負けた様子が見えてきます。

ロシアへの宣戦布告まで

 前節で紹介した「日本、そしてロシアの戦争」(1854年4月8日号)という記事の10日ほど前の3月28日にロシアに対する宣戦布告がイギリスの官報で公表されました[ref]”DECLARATION”, THE LONDON GAZETTE, MARCH 28, 1854.https://www.thegazette.co.uk/London/issue/21536/page/1008[/ref]。その2ヶ月前のイギリス議会では、当時の首相だったアバディーン伯爵が戦争を避ける演説をを行い、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース付録』(1854年2月4日号 [ref]The Illustrated London News, vol.24, 1854, Jan.-June.https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015049891974[/ref])が記録しているので、抄訳します。この記事も段落が長いので、適宜段落を変えています。
「貴族院」でのアバディーン伯爵の発言 アバディーン伯爵が非常に強い調子で、それまで言ってきた戦争の恐ろしさと反戦の思いを述べた。最近の交渉で彼が「ロシアの道具と手段」になっていたというおぞましい非難に対して、ロシア政府に対応する上で自分ほど積極的な役割を果たした公人はいないと主張した。いかなる国とも戦争しない、特にロシアとは交戦しないと、今まで主張してきたことを繰り返した。我が国の国民は後で後悔するような戦争を軽率に性急にすることがしばしばあった(Hear, hear、そうだ)。いかなる状況下であろうとも、最初に可能な限りの手段を行使して止める努力せずに、戦争は決してしないというのが自分の義務であり、女王陛下の政府の義務だと考える。現在の場合のように、感情が自然で称賛すべき場合であってもだと彼は言った。現在の国民感情は、[ロシアの]侵略であり、不当だと見えることに対する憤慨だと認めなければならないが、それでも、慎重さと理性の範囲内でその感情に溺れることを抑えるのが政府の義務である。自己防衛のための戦争と理解されるのでなければ、いかなる戦争も正当化できないということは、道徳家の声明や教えだけでなく、すべての政治家の意見であり宣言だということを議会に気づいてほしいと言った。彼自身の戦争に対する意見は、戦争ほど恐ろしいものはないのに、それを正当だと考えることが人間性の完全な欠如と腐敗だという最大の証拠だと信じるものである。しかし、残念ながらそれが現実で、すべての惨事の中で戦争が最大級の惨事であり、あらゆる愚行と邪悪の中で戦争が一番の愚行と邪悪だということを全員が認めなければならない。(中略)
「貴族院」でのアバディーン伯爵の発言(続き) しかし、現在行われているトルコとロシアの戦争では我が国に危険はないかもしれないが、ヨーロッパで確立されてきた均衡関係を適切に維持するために、全体の安全保障に必要な様々な国の相対的地位と力を維持することを求める時には、ある意味では自衛としての武装と考えられるかもしれない状況が疑いなくあるかもしれないと認める用意はある。彼がロシアの野望の道具だったと非難されたことについて、オーストリアについても同じ非難が彼に向けられた。それは彼が40年前にオーストリア大使に任命されていたからだが、彼は日本に対して同様、何の関心もない。 もっと強い道を望む人々に対する回答として、自慢ゲームでは何も得るものはないし、もし去年の春にロシアを脅していたら、[ロシアが]コンスタンチノープルに即座に進軍するよう挑発しただけだっただろう。それに対し、トルコ側は抵抗する準備などできていなかったという主張をくりかえした。彼はまた、フランスとの同盟に冷淡だと非難されてきた。その長い人生の間ずっと一貫してこのような関係が必要だと主張してきた彼、「友好協定」(entente cordiale)という語の作者でありながら!
 本当にまどろっこしい言い方をしていますが、好戦的な世論とメディアを気にしながら、戦争を避けようという首相の思いが表れているように感じます。突然、「日本」が出てくるのも不思議ですが、「日本、そしてロシアの戦争」のような論調を指しているとも思えます。日本に武力で開国を迫ることに関心がないという含みかもしれません。 現在のイギリス政府の歴代首相のホームページによると、アバディーン政権は平和維持と和解を求めたのですが、閣内に強硬派もいて、メディアが政治家間の対立を煽り、1855年2月に総辞職に追い込まれて、アバディーンは国を戦争に陥らせた責任を感じて、二度と役職につくことはしなかったそうです[ref]Jonathan Parry, “Lord Aberdeen”, History of government, The National Archives, Prime Minister’s Office, 29 June 2016.https://history.blog.gov.uk/2016/06/29/lord-aberdeen/[/ref]。

扇動するメディア

 当時のメディアと国民感情が好戦的だったという点で、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の論調を見ていくと、なるほどと思わされる記事が多いことに驚きます。アバディーン伯爵の議会演説後の記事(1854年3月4日号)は「戦争の準備万端」と題する巻頭記事で、議会の好戦派議員を支持する内容です。まだ宣戦布告さえ出ていないのに、メディアは早く戦争始めろと煽っているようです。煽るメディアと踊らされる国民という構図が見えてくるので、重要点を訳します。
「戦争の準備万端」 英国議会の様々な議員は、現在ロシアとの間が平和なのか戦争中なのか迷っているようだ。素晴らしい艦隊に人員配置し、連隊の乗船、陸海軍の概算増加の投票は、戦争状態にあることを強く示唆することは明らかだ。それなのに、正式な宣戦布告が発せられない限り、我々が戦争状態だとどうして言えるのかという疑問が出された。(中略) 現実的に我が国は戦争状態である。理論的には、ロシア皇帝はトルコ以外の世界とは平和状態にあるという思いにふける時間はまだ2,3日ある。(中略) 平和時に生まれ育った国や世代は、戦争が自分たちに課す負担や、先祖が被った悲惨さ以外に戦争のことを知らないから、自分たちの時代と自分たち自身に再び起こると恐れの思いで戦争を見るしかない。見えない巨人というぼんやりした恐れは実際の怪物の出現よりもはるかに耐えがたいものだ。不確かさが半分以上このいたずらを引き起こす。(中略) 心配が戦争を避けることはもはやない。男らしく戦争に突入し、雄々しく最後まで戦うべきだ。(中略)国民の側には弱気の意気地なさなど微塵もない。イギリスでもフランスでも、熱狂が最高潮にある。(中略)年老いたヨーロッパは怒りに燃えた道義心という強い刺激を受けて、若さと強さを感じている。(中略)我々はあの偉大な犯罪者に現在の義務を教えてやるだけでなく、過去のことで罰し、未来のために彼を押さえつけるべきだと感じている。 イギリスはその役割を陽気な気持ちで始めるのだ。(中略)利己的な目的で戦争を始めるのではない。イギリスの理由は一般法と道徳と規律である。力や領土の増加を求めているのではない。イギリスだけの利益を求めて戦うのではない。これはイギリスが行う原理原則の戦争である。正義の敵以外イギリスに反対することはできない。(中略)ロシアのような半分野蛮な国は自分の立場をわきまえなければならない。さもなくば、文明国と競争する方法を学ばなければならない。
 戦争の正当化を主張する論調が苦しく聞こえます。宣戦布告前から戦争を始めてよいのだと言わんばかりの論調は、さらに宣戦布告の10日前の3月18日号で最高潮に達します。トルコ軍の戦闘の絵・バルチック艦隊のウェリントン公号の絵・バルチック艦隊を見送る群集・フランス軍の連隊の出発風景・バルト海の地図・「バルチック艦隊」の歌詞と楽譜等々、付録まで付いて、戦争を煽る記事と挿絵が満載です。 2-4でイギリス艦隊の長崎寄港時(1854年10月)に長崎奉行所の役人たちがウェリントン公号の絵を確かめたがったことを紹介しました。日本の役人がこのバルチック艦隊のウェリントン公号について聞いていたからだとは時系列的に考えにくいですが、1854年3月18日号掲載の絵を見たら度肝を抜かれただろうと推測できます。

蒸気を使った最初の戦争

 3月18日号の「バルチック艦隊の出発」と題した記事で、蒸気船の艦隊が戦争に使われたことはかつてなかった、「近代戦に蒸気が使われたことで快速性が新しい最強の要素になった」((注2), p.242)と書かれています。そして以下のように締めくくられます。
我々の敵にとって科学が大きな役割を果たしたとしたら、我々にはもっと大きな役割を果たしている。世界が蒸気の威力の恩恵を受けているのは、イギリスの天才とエネルギーのおかげである。その偉大な発展はこの国に端を発しているか、この国で現在の効率性にまで持ってこられたのである。従って、十分な根拠のある自信を持って、我々の大義の正当性において、また、我々の兵器の強さと完璧さにおいて、英国人全ての心がバルチック艦隊の成功を願い、魂を鼓舞する叫びをあげよう、ヴィクトリー!ヴィクトリア!(VICTORY! VICTORIA! 勝利を!ヴィクトリア!)。

21世紀の米英仏のシリア攻撃との比較

 164年後の2018年4月7日に起こったシリア・ダマスカス近郊の東グータ地区ドゥーマ(Dourma)における化学兵器攻撃と、それに対する米英仏の動きが構図的に似ていながら、メディアと議会の対応が異なるので、概観してみたいと思います。 この化学兵器攻撃をシリアのアサド政権と、その後ろ盾であるロシアによるものだとしたアメリカのトランプ大統領は「ロシアよ、準備しろ。なぜならミサイルが行くことになるからだ」と4月11日にツイッターに書き込みました[ref]「米大統領 ロシアに『ミサイルが行く 準備しろ』とけん制」NHK NEWS WEB, 2018年4月11日 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180411/k10011399441000.html(元記事は削除されているのでアーカイブで閲覧)[/ref]。その翌日、国防長官のジム・マティスはシリアに対する軍事行動の正当性を世界に示すには、化学兵器使用がアサド政権によるものだという確かな証拠を掴まなければならないと、ホワイトハウスの秘密会議で強調したと伝えられました[ref]Helene Cooper, et al., “Mattis Tries to Put Brakes on Possible Syria Strike, to ‘Keep This From Escalating’”, The New York Times, April 12, 2018https://www.nytimes.com/2018/04/12/us/politics/trump-syria-attack.html?hp&action=click&pgtype=Homepage&clickSource=story-heading&module=photo-spot-region®ion=top-news&WT.nav=top-news[/ref]。イラク戦争時に指揮官として戦ったマティスは「イラク侵略は戦略的ミスだった」と述べたそうです[ref]“Iraq war 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-5)

クリミア戦争でイギリスがロシアに宣戦布告した直後に、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に「日本、そしてロシアの戦争」という巻頭記事が掲載されます。節で長崎奉行所の役人がイギリスは「平和を好む国々の船を略奪することで生きていて、全ての国に貢ぎ物を強要する」と言ったと、バラクータ号のトロンソンが記していることを紹介しました。彼の記録によると、1854年9月7日〜10月20日の間の発言です。この5ヶ月前の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(1854年4月8日)の付録版(Supplement (注1))第一面に「日本、そしてロシアの戦争」(JAPAN AND THE RUSSIAN WAR)と題した長文の記事と、「戦争の準備」というキャプションの挿絵が掲載されています。この記事がなぜ『日本とイラストレイテッド・ロンドン・ニュース—報道された出来事の完全記録1853-1899』(2006)に収録されていないのか疑問です。以下の拙訳は、長段落の本文を短い段落に修正しています。
「日本、そしてロシアの戦争」 ロシア帝国に対する世界は、物理的観点からも強敵である。しかし、さらに恐ろしいのは、人類の普遍的な良識が否定しがたい真実を宣言していることである。それは、名誉と正義のあらゆる原則が等しく反対しているということである。同時に、我々の勝率がどんなに高くても、敵をみくびるなというのは賢い公理である。なぜなら人間のする事は奇妙な偶然に満ち溢れているからだ。このリスクをあえて犯している国は地球上のあらゆる所で、その巨大な軍事力を全力を尽くして使う必要性に気づいているからだ。そして、大戦争は今や、チェス・ゲームのような小さな領域に限られるのではない。その影響は広がり、世界中に響いている。そこで、現在我々が見ているように、平和の感情をゆるめたり、ゆさぶったりすることで、地球上の強大な古代の地域、全ヨーロッパとアジアの国益が広範囲に影響されている。北アフリカはこの状況のプレッシャーに動かされ、新世界のアメリカはこの出来事の展開を用心深く見続けなければならない。 この複雑な状況の最中に、2,3週間前に読者に示した、中国に関するある情報と同じ情報源から、日本帝国を付加するというテーマに関する2,3のコメントについてお伝えする。日本の海を周航するうちに、我々はロシア戦艦を複数見つけ、アメリカの艦隊もこの守りの固い海岸に向かって2回目の訪問の途にある。日本も中国の後に続かなければならない。ロシアは半世紀もそのとっかかりを得ようとしたが無駄だった。イエズス会とポルトガル人は嫌悪され、追放された。オランダ人は唯一長崎港と素晴らしく窮屈な通商しか許されなかった。中国人はもう少し認められたが、ごろつきと盗人とみなされた。
 この記事の掲載の仕方は1850年8月10日号(4-1参照)と同じです。下の挿絵は記事とは関係ないのですが、「戦争の準備」と題して、クリミア戦争でイギリスがロシアに宣戦布告する直前の1854年3月にウインガ海峡(現在スウェーデンのヨーテボリ (注2), p.121)に到着した戦艦の中で銃や刀の点検をして、戦闘の準備をしている兵士たちを掲載することで、読者に何を印象付けたいのか想像できます。
「日本、そしてロシアの戦争」(続き) しかし、ubi mel ibi apes [where there is honey, there are bees.]蜜のあるところには蜜蜂が群がっている。そして、儲かる商売用の品物が豊富なところでは、最終的には忍耐がこの神聖なる国に入り込む効果をもたらす。これがこの危機の条件のようだ。東洋の海におけるその他の変化によって、今やこの危機が固く閉ざした日本帝国に近づいている。 日本の変更不能の制度の中で革命に向かって相互に協力しているのは、今まで述べてきたように、カムチャッカ国境からやってくるロシアの再挑戦、アメリカの新たな侵入、中国の大変革[痙攣の意味もあるconvulsion]の伝染、そして、とりわけイギリス商業の企業魂がこの「開けゴマ」の呪文に取り残されてはならじと、あらゆる段階で懸命に手を貸し、この競争で最大の利益を得るだけの多くの強みがあるのだ。 これらの国々の流入に抵抗する日本の力は、主にこの帝国の島々の地理的性質と、島々をいつも覆っている暗い霧にあった。この自然現象によって守られる安全性のレベルに満足しないこの国の政府は大昔から政治的予防措置を採ってきた。この措置によって、キリスト教徒の血の激流に溺れ死んだ宗教的反乱以来、この国は危険から守られてきた。周知のように、この政策に従って、日本の港に到着するすべての船は逮捕され、乗組員は投獄された。戦艦は岸に近づくことも許されなかった。限られた貿易用にただ一つの港が一年に特定の季節だけ認められた。この国の内地に入り込むことは、帰れないという痛みをともなわない限り認められなかった。異人に対しても、土着民に対しても、いかなる宗教的儀式も信仰も認められなかった。例外は準仏教(semi-Buddhist belief)と、ラマ教のような精神的指導者の下にいる放蕩的聖職者たちによって行われる儀式である。ラマ教のような精神的指導者は在任中の皇帝の上に位置し、ほとんど神として崇拝されているが、現世的権力は全くない。この権力は、我が国の昔の封建領主のやり方と非常に似たやり方で、実際の支配者と共有している。慣習に囚われてはいるが、領主(Princes)の中には、現存の形式と古代の制度については意見が一致しているわけではないと言われている。 この国の人々は極度に小さく(diminutive)、弱々しい(feeble)人種なのに、頑丈な毛深いクリル人を奴隷にして、牛馬の如く使う。日本人はあらゆる弱い畜生(weak creature)同様に、嫉妬深く(jealous)、用心深く(cautious)、臆病で、ずる賢く、卑劣である。この国の要塞と強い場所(住居として)は、ほとんどが木造で、それは頻発する地震で石造りの建物が不向きだからだ。日本の防衛の性格を隠し、偽装するために、塀を布の垂れ幕で覆い隠すという彼らの行為に日本人の性格が表れている。火縄銃と数丁のマスケット銃、弓矢、槍、投槍、サーベルで武装し、それに2,3の大砲、品質の劣った火薬など、兵士数は多い(15万人だが、戦時にはその二倍以上が可能とみなされている)が、こんなものでできた軍隊が恐るに足るとは到底言えない。たとえ素晴らしい鎧を身につけた長官たちに指揮された軍隊だとしても。 しかし、我々の情報提供者は我々がまだ気づいていない要素が勢いよく存在し続けていることに強い期待を寄せている。土着民の中に、キリスト教徒と呼ぶ以外、他にもっと正確な呼び名がないが、かなりの数が存在し、中国のトライアドやその他の秘密結社のような集団が野蛮な信仰を密かに維持していて、機が熟せば、迫害者に対して立ち上がる。この事実の証拠は、圧制者たちが持っているこの集団に関する情報で、わずかでもキリスト教に似ていると認められれば、容赦しないことで明らかである。 自分たちの[土着の]宗教に注意を払わないと疑われただけで、不運な者は死罪という、極悪非道な犯罪でも稀な罰を与えられることに、極端な政治的警戒心が読み取れる。オランダ商人たちが十字架を踏みつけさせられたという昔の話が、現在に至るまで続いていることは、長崎の(多分帝国全体でも)多くの住人が毎年寺まで行進させられ、キリスト教信仰の聖なる象徴物を踏みつけるよう命じられることに表れている。 侵略の際には、侵略者に味方する大きな陽動作戦が起こることは疑いない。同じ問題を示す理由がたくさんある時代において、これから起きうることに注意せよと、このコミュニティに教える賢者の警告である。それはすぐに起こり、中国や日本だけでなく、インド群島(Indian Archipelago)の隣接する地域すべてにおいてである。氷はいたる所で氷解し始めている。その澄んだ水を最初に利用する者が最も豊かな利益を収穫するだろう。
 この記事の内容を端的な表現に直すと、以下のようになります。 ロシアの強敵は軍事力の強大な英仏である。これは名誉と正義の戦争であり、世界がロシアに反対している。勝算は英仏にあるが、戦争では何が起こるかわからないから、気を許してはいけない。 これはクリミアだけの戦争ではない。全ヨーロッパとアジアの国益が影響される戦争だ。ここに日本が加えられる。ロシアは日本との通商を狙っている。アメリカは日本を開国させるために二度目の訪問に向かっている。アヘン戦争で敗れた中国はイギリスに香港を割譲[1842年]した。日本も中国の後に続かなければならない。 ポルトガル人は日本から追放され、通商を許されたオランダには自由な通商は許されていない。中国は日本との通商はもう少し認められているが、日本人から非難されている。それでも、日本には蜜[金・銀・銅など]があるから、世界中からミツバチが群がってくる。日本の鎖国制度を破るための革命を起こそうと協力しているのは、カムチャッカ経由で日本に近づくロシア、侵入を試みているアメリカ、中国国内の革命軍(1-5参照)と香港割譲などの大変革が日本にも伝染することだ。イギリスは乗り遅れてはならない。イギリスの強みは東インド会社に象徴される起業魂だから、日本開国のために列強に手を貸して、最大限の利益を得るべきだ。 日本は今までは島国という地理的条件と、霧に覆われて船が近づくのを妨げる自然条件に守られてきたが、それでも日本政府は入り込んでくる欧米を阻止するためにキリスト教禁制の政治手法を使って国を守ってきた。宗教の点で仏教と神道だけが例外として認められたが、正当の仏教ではないし、神官たちは腐敗している。天皇には政治的権力はない。 日本人は臆病でずる賢く、卑劣で、千島列島のアイヌを奴隷にして酷使している。日本には海外からの侵入を防御できる仕組みがないことを隠すために、垂れ幕で見せないよう偽装するところに、日本人の性格が表れている。日本の軍隊は取るに足らない。日本政府を転覆し、侵略するのに最強の要素がある。キリスト教とはとても呼べないが、彼らがキリシタンと呼ぶ人々の秘密結社的な犯罪集団((注3))が存在し、機が熟せば政府に立ち向かうという情報がある。欧米が侵略する場合は、味方してくれることは疑いない。このような革命はすぐに起こり、それは中国や日本だけでなく、東南アジア全体([ref]記事の中で「インド群島」というのは、1837年刊の『インド群島への航海と冒険——1832-1834——ジャワ島、ボルネオ、マレー半島、シャム等々とシンガポールの現状』という題名の本に現れているように、東南アジアを指し、イギリスが植民地や貿易の対象とする地域を指していることがわかります。George Windsor Earl, The Eastern Seas; or, Voyages and adventures in the Indian 続きを読む

The Illustrated London News, vol.19, 1851 July-Dec.

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The Illustrated London News, vol.2, 1843, Jan.-June.

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The Illustrated London News, vol.17, 1850 July-December.

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英米に伝えられた攘夷の日本(4-3)

1850年代後半に出版されたイギリス艦隊の日本訪問記録を読むと、イギリスがクリミア戦争における兵站の地として日本を利用し、理不尽な要求をしていたことが見えてきます。1854年から1855年にかけて長崎・箱館に寄港したイギリス艦隊に乗船していた人たちの手記から見えてくるのは、ロシアの極東進出を阻止しようとするイギリス・フランス連合艦隊がタタール海峡付近に度々複数の艦隊を派遣し、6か月のロシア追跡の航海の間に箱館・長崎で合流していたことです。日本の港が食料補給地点として、また、お互いの情報交換の場として利用されていました。食肉や卵などが一般的でない日本で、予告なしに寄港して、1,000人分、時には3,000人分ぐらいの肉・卵・魚・野菜などを即刻調達しろと要求する欧米艦隊に、日本側がどんなに苦労したか想像に難くありません。なお、当時の記述に従って、箱館と表記します。 『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の記事「英国艦隊の日本到着」(1855年1月13日号、2-2参照)で紹介されているジェームズ・スターリング卿率いる艦隊4隻のうちの1隻、バラクータ号に乗船していたトロンソン(John M. Tronson)という軍医助手(注1)が手記を出版しています。『イギリス海軍艦艇バラクータ号の日本・カムチャッカ・シベリア・タタールと中国沿岸への航海についての個人記録』(1859刊、以後『イギリス艦艇バラクータ号』、(注2))で述べられている内容が興味深いので、紹介します。まず、イギリス側がどんな食料を要求したのかを見ていきます。

イギリス艦隊の食料調達

○1854年9月7日〜10月20日:ジェームズ・スターリング提督率いる艦隊の長崎訪問

 『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の記事「英国戦隊の日本到着」((注3), p.46)の最後に長崎で調達した食料の種類、量、支払い額が掲載されています。 これは「士官用」と断り、その金額は174ポンド相当と書いてあります。総勢1,000人の乗組員用にどのくらいの量が調達されたかは記されていませんが、金額は600ポンドと記載されていますので、量的にも士官用に調達された3.4倍に相当すると思われます。新聞掲載の長崎で調達した食料は次の通りです。
豚2頭・豚肉・アヒル138羽・鶏522羽・サツマイモ・小麦・魚・お茶・日本産砂糖・赤唐辛子・卵・生果物・醤油104瓶
 この下に注として「調達できなかったもの:羊・羊肉・ガチョウ・ベーコン・コーヒー・胡椒・オランダ産ジン」と記載されています。そして調達されたものは、卵まで全て一級の品質だと書いてあります。 ところが、『イギリス海軍艦艇バラクータ号』の記述では、量と質について正反対のコメントがあります。
 提供されたものは量も少なく、質も良くなかった。豚は小さく、太っていて、柔らかく、中国で飼育されているのと似ていた。鶏は小さく、半ば飢餓状態で、我々が別の機会に見た良質の鳥とは全く違っていた。野菜は日本の農業が酷いと我々に思わせる目的にかなったものだった。土着民は野菜の形をしていれば何でもイギリス人水兵にはふさわしいのだと考えたに違いない。なぜならハコベ(chickweed)を大量に送ってよこしたからだ。(中略)多くの者が、この大量の微妙なものをよこしたのは、我々に二度と日本に来たくないと思わせるためだと考えた。((注2), p.12)
 七草の一つ、ハコベを雑草だと捉え、日本人がイギリス人を追い払うために送ってきたと思ったというのは、食文化の違いによる誤解ですが、同じような誤解による不満が肉の提供が少ないことにも向けられます。長崎出港前に渡された補給食料の金額について、トロンソンは「法外な値段」(p.19)だと苦情を述べています。特にアヒルと鶏は小さいのに「法外な値段」、野菜は「安いが量が少ない」というのです。 それなのに、艦隊の1,000人の健康は「この訪問で著しく改善した。バラクータ号の乗組員が長崎に到着した時、28人の病人がいたが、出港する時はわずか5人だった」(p.21)と述べています。4隻の病人数を単純計算すれば、艦隊全体で112人いた病人が長崎滞在中に20人に減ったことになります。

殺生しないはずの日本人はなぜ魚を殺すのか?

 この当時、複数のイギリス艦隊が日本近海でロシア軍を追っていました。その一つ、エリオット提督(Charles Elliot: 1818-1895)率いる艦隊、フリゲート艦シビル号(H.M.S. Sibylle)、蒸気コルベット艦ホーネット号(steam corbette Hornet)、帆船ビターン号(brig Bittern)のうち、シビル号に参観者(visitor)として乗船したバーナード・ウィッティンガム(Bernard Whittingham)というイギリス陸軍工兵隊の隊長の手記から紹介します。1856年刊『東シベリアのロシア植民に対抗する最近の遠征と、日本およびタタール沿岸とオホーツク海の調査報告』(以後『東シベリア遠征』、[ref]Bernard Whittingham, Royal Engineers, Notes on the Late Expedition Against the Russian Settlements in Eastern Siberia; 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-2)

1850年10月にイギリス戦艦が琉球に行き、宣教師の処遇改善を要求します。琉球側に要求をのませるには、武力の示威が有効だと考えていることも伝えられています。下は1850年10月に琉球王国に来航したイギリス海軍レイナード号の報道です。『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』1851年3月8日号に掲載されました。「1816年にバジル・ホール艦長の訪問以来、この興味深い島についてほとんど知られていなかったが、女王陛下の蒸気スループ船レイナード号の最近の訪問が、我が国の人々にこの島に関する知識のストックを増やす機会を与えてくれた」と始まる長い記事と4葉の挿絵です(注1)

琉球のスケッチ

 この琉球訪問の目的は、琉球に滞在中の医療宣教師のDr. J.B. ベッテルハイムに関する琉球政府の対応について、イギリス政府からのメッセージを琉球政府に渡すことで、彼の琉球でのミッションを琉球政府に知らせるために、香港司教が乗船しており、いい結果をもたらすよう、断固とした、しかし、懐柔的な調子をとることになっている。 レイナード号は那覇ロードに[1850年]10月3日に到着し、1週間滞在した。その間、当局と3回会談を行った。10月5日の最初の会見で、Dr.ベッテルハイムの様々な苦情が当局に伝えられた。最も深刻なのは、彼がミッショナリー活動をしている時に当局のスパイか調査官に暴行を加えられたというものだった。当局の説明が要求された。 次の会見には琉球の総督か主席が同席し、Dr.ベッテルハイムの扱いは今後非常に違ったものになるという確証を得た。最後の会見では、武力誇示が政治的に有利だと考えて、クラクロフト艦長(Captain Cracroft)と司教は50人の護衛を伴い、レイナード号の全士官が制服を着て従った。9日に司教と官吏たちが船上のエンターテイメントに参加し、プレゼント交換が行われた。琉球に蒸気船が来たのはこれが初めてで、[琉球人は]エンジンとプロペラの音に驚き、翌日の離港に大きな安堵を覚えたのは間違いない。 士官たちが銃を持って自由に歩き回ることを阻止する様子はなかったが、ヤマシギには早すぎ、スポーツマンたちが手に入れたのはうずら2,3羽とムナグロ・チドリだけだった。那覇の自然は非常に美しい。(中略:風景描写)琉球の人々はフレンドリーで親切で、彼らのサービスに対して支払いをしようとしても、すべて断った。サツマイモと米が主食のようで、外見は極貧とはほど遠く見えるが、明らかに貧困の最低ラインだ。この土地の所有者である政府は、生産の半分で官僚と知識階級を養い、彼らは人口の大半を占めて、安逸を貪っている。(中略:琉球の人々の衣服についての記述)

琉球のスケッチ(続き)

 琉球は300年か400年前に中国の明朝の皇帝によって王国に格上げされたと言われている。中国と日本の間で戦争が行われ、中国が日本の[琉球に対する]関心から琉球を引き離そうとするためだったと言われている。 琉球は隷属の印に、毎年中国の福州市の港に船を送っている。これは福建の大きな首都の貿易港で、我が国にも開かれている。この都市に琉球の学者たちは勉学に訪れる。中国語がこの国の丁寧語(polite language)だが、琉球人の日常の話し言葉や顔つき、習慣、気質は明らかに日本人である。日本の影響は、地方政府の役職すべての任命を日本の内閣が指示することに現れている。 今回の訪問によって、Dr.ベッテルハイムの状況改善という効果があることが期待されている。ベッテルハイムは布教の熱意にあふれすぎているが、彼の意見や行動には奇妙な点もある。したがって、この遠隔の地に於ける彼の布教活動はキリスト教伝道に対してはほとんど効果も益もない。しかし、この地のフレンドリーな性格の人々と彼が接触することを当局が妨げているので、当然である。しかしながら、彼は時間を無駄に過ごしたわけではない。一人も改宗させられなかったが、ルカ福音書と使徒行伝を琉球語に翻訳した。 掲載のイラストのうち、Dr.ベッテルハイムの家は、元は寺だったが、今は管理状態が悪い。その下の椅子はこの島の唯一の移動手段である。この島には馬はほとんどおらず、いても、それは役人しか使えない。首都・首里の風景は二重の城壁に囲まれている王の城である。ヨーロッパ人は入ることを禁じられているが、レイナード号の士官候補生の一人が城壁のてっぺんに登って、中を見た。群集が集まってきて、彼をそれ以上行かせないよう止めたので、それ以上この都市を検分することはできなかった。

琉球王国の成立

 「琉球のスケッチ」の中で気になるのは、「300年か400年前に」「中国と日本の間で戦争が行われ」、その理由が、中国が日本の関心を琉球から離し、そのために琉球を王国にしたという部分です。この記述の根拠が英語で1850年前にあったのかを知ろうと、1816年のバジル・ホール艦長の記録『コリアと琉球島への航海』(Voyage to Corea, and the Island of Loo Choo, 1820,(注2))や、ケンペル、シーボルトをチェックしましたが、該当する記述はありません。来間泰男著『琉球王国の成立』(上下2014、(注3))を読んでみました。これは多くの先行研究を紹介しながら、それぞれの問題点と著者の疑問点をまとめてあり、大変参考になりました。定説と著者の見解などを拾ったものが以下です。 1372年に明朝が琉球に使節を送って、朝貢関係を呼びかけ、当時中山・山北・山南と三つの勢力に分かれていた沖縄本島の中山王察度(さっと)が1377年に、山南王承察度(しょうさっと)が1380年に、山北王岶尼柴(はにし)が1383年に朝貢使を明に送ったとされています。これは服属を目的とした関係ではなく、貿易の交渉や遭難者の送還などの交渉を円滑に行うための制度とされていました。明が琉球と朝貢関係を結ぼうという目的は、光武帝が新王朝の成立を周辺国に知らしめると共に、沿岸を荒らしていた倭寇の禁圧でしたが、期待した日本が南北朝の動乱期だったため、関係を築けない状況下で、琉球が登場しました。 多くの歴史家は琉球王国の成立を、正史によって記述が異なりますが、1422年か1429年の三山統一の時期としているそうです。著者は明が琉球に三王国あると認めた時であり、明によって王国にさせられたので、内側から支配者が王国を作ったのではないと主張します。そもそも、中国側が琉球という名称も王という称号も与え、「初期の琉球王国の政治は中国人が主要な役割を果たしていた」(下p.42)ことは、明から与えられた交易船の航海術も、通訳も、外交文書も中国人が主導したことからも明らかだとのことです。 日本は1404年に中国と朝貢関係を結びました。一方、琉球と日本との間の交流は、現存の資料で最古のものが1404年頃に「をきなう船」が足利幕府への使船として記録されており、1414年の将軍義持が「りうきう国のよのぬしへ」(琉球国代主)進物品の受け取り状を出していることでも証明されています(下p.319)。興味深いのは、将軍から琉球宛の文書がかな書き、琉球国からの外交文書が和様漢文で、琉球国王が東南アジアや朝鮮の国王とやりとりした文書は、中国の同レベルの官庁間で用いられる公文書を基本としているという点です。

ペリーの前任者が日本へ向かう

 1851年にはもう一つ日本関連の記事が『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載されています。1851年7月12日号の「国内外ニュースの概略」と題するコラム(注4)です。
 アメリカ合衆国フリゲート艦サスケハナ号のオーリック提督が最近、サンフランシスコから日本に向けて出発した。もしできたら、この帝国との通商を開始せよという指令を受けている。彼は数人の日本の漂流民も連れている。カリフォルニアとそれ以前の[獲得]州はサンドイッチ島[ハワイ]を切望の眼差しで見ている。なぜなら、この島はアメリカ捕鯨にとって主要兵站地であり、中継貿易地だからだ。しかも、アジアへの中間地だ。
 オーリック提督(John H. Aulick: 1791頃-1873)は1850年に東インド艦隊を指揮するよう命令を受け、国務長官に日本との通商交渉を提案します。国務長官はフィルモア大統領に伝え、大統領はオーリックに日本政府との友好通商条約の交渉役を任命します。そして、1851年6月にサスケハナ号で出発しますが、途中でサスケハナ号の船長と喧嘩をし、寄港したブラジルで船長を降ろし、その後の些細な誤解が発展して、オーリック提督は任務途中で解任されてしまいます(注5)

アメリカが日本に開国を求めた理由

 なぜ19世紀中葉にアメリカが日本の開国を求めたのか、アメリカ国務省のサイト(注6)で次のように説明しています。
 中国の港が通常取引用に開港したことと、カリフォルニアの併合によってアメリカの港が太平洋側にできたことにより、北アメリカとアジアとの間の海運が安定的に続くことが確かなものになった。その頃、太平洋におけるアメリカの貿易商は帆船から蒸気船に変えて航海しため、石炭補給地を必要とした。アメリカから中国へ行く長い航海の途中で食料や石炭を補給できる港が必要だった。日本は地理的に[アメリカにとって]有利な条件を満たしている上、日本には石炭の膨大な鉱床があるという噂があったので、日本と貿易・外交的接触を確立する要請が増していた。その上、アメリカの捕鯨産業は18世紀中頃には北太平洋に進出していたので、難破時に援助を得るための安全な港、安定した補給地を求めていた。ペリー使節団が行くまでに、多くのアメリカの船乗りが難破して日本にたどり着き、歓迎しない日本人の手で酷い扱いを受けた話が全米の商人コミュニティの間に広まっていた。 経済的考慮と、北アメリカ大陸全土に拡張するアメリカを動かしていた「明白な天命」(Manifest Destiny)の信仰という同じ組み合わせが、多くのアメリカの商人と宣教師を駆り立てて、太平洋を渡りたいと思わせたのである。この頃、多くのアメリカ人が中国人と日本人を文明化・近代化させる特別な責任があると信じていた。日本の場合、宣教師たちはカトリックが拒否されたところでは、プロテスタントは受け入れられると感じていた。その他のアメリカ人は、たとえ日本人が西洋の理想を受容しなくても、世界との交流と通商を強制することは不可欠であり、最終的には両国にとってプラスになると主張した。
 「明白な天命」という考え方は、南北戦争(1861-65)前にオレゴン・テキサス・ニューメキシコ・カリフォルニアの獲得を正当化するために使われ、南北戦争後にもこの概念が使われ続け、スペインとの戦争、ハワイ併合などにアメリカの外交政策の武器として再確認されたそうです[ref]David S. Heidler, Jeanne T. Heidler, “Manifest Destiny: United States 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(4-1)

ペリー来航3年前の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に、アメリカが中国と日本に戦争を仕掛けるかもしれないという長文記事が掲載されています。 『日本とイラストレイテッド・ロンドン・ニュース—報道された出来事の完全記録1853-1899』(2006)には、日本関連の記事は1853年から始まったと書いてありましたが、その3年も前から日本関連の記事が掲載されていることを知りました。米国大学図書館協同デジタルアーカイブ、ハーティトラスト・デジタル・ライブラリーに掲載されている『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の1853年前のものを調べたところ、1850年からJapanという名前がイギリス市民に広まっていたことがわかりました。の世界初の挿絵入り新聞の影響力がいかに大きかったは、その発行部数でも明らかです。創刊号が1842年5月で、その時の発行部数は26,000部でしたが、1855年には20万部に、1863年には31万部に達しました((注1), p.ix)。当時の最も人気のあった日刊新聞『タイムズ』は7万部だったそうですから、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載された記事が、少なくとも数の上でいかに影響力があったかがわかります。1854年時点で、長崎奉行所がこの新聞を持っていたことは2-4で紹介した通りです。 以下に『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』掲載の最も早い時期(1850年8月10日号、(注2), pp.109-110)の記事を抄訳します。

カリフォルニアとアジアの隣人たち

 最初の部分はカリフォルニアのゴールド・ラッシュについて、筆者の苦々しい思いが書かれていますが、それが中国と日本に対する欲望というトピックにつながっていきます。
カリフォルニアの獲得とその後の宝の発見は野望と喧嘩好きな性質によってもたらされた。また、悪事と不正によってもたらされた。合衆国は弱い隣人に喧嘩をふっかけ、長い間ほしかった領土のうち、価値ある部分をその隣人が引き渡してからようやく、和平を結んできた。(中略)中国と日本には、長い間野次馬はいなかったが、今やブラザー・ジョナサン(Brother Jonathan=アメリカ)が隣人だ。メキシコに喧嘩をふっかけ、征服したあのブラザー・ジョナサンだ。欲深く、悪辣で、生意気なブラザー・ジョナサンだ。ブラザー・ジョナサンは金掘りに飽きたら、遅かれ早かれ、今度は新しい場所で、彼特有のエネルギーと好奇心を発揮させるために、この二つの閉鎖的自治体(close corporations)の様子を見に行くだろう。目的は「異人たち」(原文強調:”strangers”)がどんな人々か見ることと、もしできればビジネスをするために知り合いになることだ。そうでなければ、喧嘩の理由を見つけるためだ。
 この記事は社説のようにトップに掲載されていて、その下の挿絵とは関係ないのですが、アメリカが日本に戦争を仕掛けるという警告の内容なので、まるで、こうなるぞという含みが込められているようです。現在はドイツのシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州とされているデンマークに隣接している地方をめぐって、当時のプロイセンとデンマークが戦った第一次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争の様子です。

カリフォルニアとアジアの隣人たち(続き)

 今やカリフォルニアの人口を占めているアングロ・サクソンの特徴を考えると、そして、排他的で傲慢だが、弱くて無気力な中国人と日本人を考えたら、喧嘩の方がずっと現実的で、ありえる結論だろう。複数の国家の大家族の中で、このような時には、この2国が長いこと維持してきた孤立という位置を守ることができるのは距離だけだ。この2国の場合、忙しく動き回るヨーロッパと、ヨーロッパの分派であるアメリカから身を守るセーフガード、唯一ではないがベストなセーフガードが突然取り払われてしまった。時代の壁が壊されたのである。そして、カリフォルニアは生命力と野望と大胆不敵さに溢れかえっており、汚い手を使うか、フェアな方法かで、「花のような人々」("flowery people")の品定めをして、この人々の国を世界の好奇心と文明の前に晒すのを、次の世代まで待つようなことはしないだろう。アメリカはすでにこの思いをめぐらせ始めた。そして、カリフォルニアから人がいなくならない限り、この方角から二つの偉大な帝国を開国させることは時間の問題だ。 アメリカもヨーロッパもこの行動を正当化することも、推奨することもしない。中国や日本との戦争はメキシコとの戦争と同じくらい犯罪的だ。しかし、遅かれ早かれ、この二つの帝国が譲歩して、周囲の生命力と行動力の世界と友人にならない限り、傲慢な無知と弱々しい愚かさに付き物の普遍的な運命を共有することになるだろう。北アメリカ大陸でアングロ・サクソンが、現在メキシコを所有しているスペイン人子孫の劣った人種を、まさに必要性から次第に追い出しつつあるように、より強い文明が打倒するだろう。 アメリカの偉大なエッセイスト、エマーソンが最近出版した『代表的人間像』(注3)の中で、この問題を説明しているかのようだ。「物は一見あることをいっているようでも、実はそれと反対のことをいっているのだ。外見は不道徳でも、結果は道徳的なのだ。物は下降し、失望に正当な理由を与え、悪人を世に出し、正しい人間を打ちたおすように見える。しかもまことの目的は、殉教者だけではなく、悪漢たちの手によっても押しすすめられるのである。あらゆる政治闘争で悪漢が勝ち、社会は、その政府が変わるやいなや、一組の罪人たちの手からやっと救われたと思うのもつかのま、またもや別の組の罪人たちに引きわたされるように思え、そして、なるほど文明の進歩は重罪の連続ではあるけれども、——しかし全体をつらぬく目的は、何としてでも達せられるものだ。こうして歴史の流れのいたるところで、天は卑しく粗末な手段のほうを好んでいるように思われるのである。年をつうじ世紀をつうじ、悪の力をつうじて、さては玩具や原子をつうじて、ひとすじの偉大な慈悲の河が、さからいがたい勢いで流れつづけているのだ」(注4)。このカリフォルニアの場合も、同じことになるだろう。 中国と日本の排他性と警戒心を最後に打ち破るのは非道徳的な手段かもしれない。しかし、その結果は、強者が弱者を征服すべき、あるいは光が闇を追い払うべきという絶対の必要性と同じに思える。この2国の排他性と警戒心はそれ自体が非道徳的であったから、物事が進む中で、彼らは不可避な罰を受けなければならない。それは、自然の偉大な道徳律に反する国すべてに天が命じたものである。1国家がうぬぼれのうちに閉じこもり、普遍的人間性の歩みや視線に対して領土を解放することを拒否する道徳的権利はない。どの国家の市民でも、一般の幸福のために制定された法律の運用から自分を孤立させることができないのと同じである。誰もが他人に何らかの義務を負っている。そして、どの国も文明の大家族内では、あらゆる他の国に対して行わなければならない兄弟としての義務がある。極東の文明はこの教訓をこれから学ばなければならない。カリフォルニアは、それを彼らに教える道具になるよう運命付けられているようだ。出来事の内部に次の出来事が組み込まれ、人間が各自の行動の道徳性をどう考えようとも、「偉大な慈悲の傾向」が世界の進歩と一般の利益のために、それを覆す。
 引用されているエマーソンの『代表的人間像』はこの記事掲載の年、1850年に出版されたエマーソンの7つの講演集で、引用箇所は「モンテーニュ:または懐疑論者」の章からです。一部中略していますが、ほぼ原文に忠実な引用です。ただ、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の最終文で引用されている「偉大な慈悲の傾向」は酒本訳では「偉大な慈悲の河」となっているのですが、原文は”a great and beneficent tendency”なので、「傾向」としました。 「閉鎖的自治体(close corporations)」という語は、1835年以前のイギリスの地方自治法からきていて、民主的に選ばれた政府ではなく、自己永続的な寡頭政治が支配する世界で、イギリスでは1835年の地方自治体法によって廃止されましたが、アメリカでは19世紀を通して、自己永続的組織を指す意味で使われたそうです(注5)。 「花のような人々」という表現は主に中国について「花の王国」などと、当時使われていたようですが、日本にも使われていたことが、アメリカ議会図書館のサイトに掲載されている写真のキャプション、「花のような王国の中心で:日本の奈良」(注6)からもわかります。

非道徳的手段の結果は道徳的?

 この記事で一番驚かされるのは、アメリカが中国と日本に戦争をしかけるぞと、まるでイギリスは中国に戦争をしかけてはいないかのような論調です。『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』1843年3月11日号には「中国の貢ぎ物」と題して、戦争の賠償金として中国の純銀貨、20トンが届き、英国造幣局に運び込まれる様子が大きく掲載されています(注7)。 アヘン戦争の様子は、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』1842年11月12日号に「広東川でネメシス[報復の女神]号が中国の戦争帆船を撃沈」[ref]Peter C. Perdue, “The First Opium War: The Anglo-Chinese War 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(2-4)

1854年10月14日に長崎で「日英約定」が調印された後、宴が催され、その様子を『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』は克明に伝えています。驚くべきことは、日本の役人達が『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』を持っていて、耳で聞いていたイリギスのニュースをこの新聞の銅版画で確かめたいと、イギリスの士官たちに尋ねたことです。

日英約定署名式の後((注1), pp.14-15)

約の署名式の後[1854年10月14日]、「ヨーロッパ式の素晴らしい夕食が用意された」と、食器についても詳しく述べられています。そして、食事は船上の士官たちにも運ばれたこと、夕食後に船に戻る頃には暗くなっていたけれど、「幕府の紋章のついた、美しい提灯を持つ男たちが通りに並んで」提督一行の足元を照らしたこと、水上を覆い尽くす多くの小舟が「これらの趣味の良い、優雅な提灯をそれぞれ数本かざして、その光景全体が斬新で鮮やかな効果をもたらした」と述べた後に、以下の文章が続きます。
 礼儀正しく丁寧だが、押し付けがましくない、控え目なもてなし方、惜しみない、敏感な気の配り方、称賛すべき秩序と規律、この奇妙な人々の良識は、彼らの客人たちを驚かせ、喜ばせた。この人々は自然で自発的な親切心を持っている。現在の状況は以前と比べるとなんという進歩だろう。2,3週間前にはイギリスの船は追い払われ、港に近づくことも許されなかった。投錨すると、監視船に取り囲まれ、厳重に見張られた。上陸も、補給物資を買うこともできず、彼らの言い逃れ、遅れ、言い訳が続き、疑いと不安に満ちていた。この不快な状況を忍耐強く耐えた結果、だんだんと改善していったのである。我々の側で払った細心の注意は、士官も海兵隊員もボートも、決められた境界線を越さないこと、現地人とコミュニケーションを持つことも、取引もしないことだった。これを守るようにという厳重命令が出て、皆気持ちよく陽気に従った。 日本とかわされた条約には貿易は一切触れられていないが、この重要な点について将来の交渉に道を開くことだろう。この条約は暴力や威嚇なしに達成された。この条約は費用もかからず、不都合ももたらさなかったどころか、その反対に、4隻の船は1年のうちで悪天候の季節に長崎のすばらしい港に投錨することができ、安全と健康を手に入れることができた。新鮮な食料と水を与えられ、乗組員の健康は良くなり、6週間の滞在の間に1人の死者も出なかった。(中略) 日本の役人たちは[我々が]彼らの法律に従い、彼らの権利を尊重したことを喜んだ。彼らは驚くほど敏感で、理解が速い人種だ。わずかの侮辱も本能的と言えるくらいに感じ取り、彼らの感じ方は過度に繊細である。ラフで荒っぽい扱いを受けると怯む。彼らが自由に、本当の善意で認め受け入れたことは、よく守り、完璧に行動する。威嚇によって彼らから強要したことは何であれ、公正を約束するかもしれないが、満足いく結果や長続きする結果をもたらさないだろう。そして、ジョームズ・スターリング卿が長崎で静かに行ったことは、江戸でアメリカ人がしたことより、価値においても耐久性においても、はるかに勝ることはほぼ確実である。アメリカ人の特別ミッションは世界に向かって大音声のトランペットで宣伝され、費用もかかっているにもかかわらずである。 この条約が重要に見えるもう一つの点がある。日本人は傑出した島国という地位を有しているが、海の高速道路を走る蒸気船[を持つ国々]にとって、艦隊が休憩し、修理するいい港がある日本で、彼らの鎖国が不可能になる出来事が必ず起こると思い知らされたことだ。世界規模の関心が強大な圧力で襲っている中で、彼らは他国と同じように行動することを求められ、文明的慣習のランクの中に強制的に入れられなければならない。 日本人にはロシアとヨーロッパの戦争について伝えられた。その戦争の原因と戦争が不可避であったこと、同盟国が早急に終戦を図っていることなどが示された。イギリスが今まで日本に介入しなかったのに、なぜ今任務を遂行しなければいけないか、敵が日本の寛容さを利用したり、攻撃的な戦艦や信用できない民間武装船などが日本の隔離された港に隠れることのないよう監視しなければいけないことを理解した。
この後、日本側から提督や士官たちに贈られた品の説明と、ジェームズ・スターリング卿が奉行に2本のリボルバー(連発拳銃)を贈ったこと、そのお返しに奉行から陶器の品々などが贈られたことなどが述べられています。「これらの贈り物は飛び抜けて美しいものだった」と記述されます。 [1854年]10月20日、イギリス艦隊が長崎に到着してからちょうど6週間目に、艦隊は長崎港を出発し、6日後に香港に到着します。この記事は全部でA4サイズにびっしり書かれて、丸8ページもある長い記事です。長崎港の測量図、港と長崎市、日本の大型船、小舟が港を埋め尽くす絵、出島のオランダ商館、イギリス艦隊の一行が上陸する事、長崎奉行の屋敷、日本の様々なランクの侍の衣装の挿絵も掲載されています。最後の2段落に日本で調達したものの支払い金額が合計600ポンドで、オランダ人を通して海軍が支払った事、その内訳が、「豚2頭、豚肉、アヒル138羽」等々、細かく記されています。そして、以下の記述が続きます。

1850年代前半に日本で『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』が共有されていた!

 日本の市場価格を知りたい読者には、この明細は興味深いだろう。品はどれも第1級の品質で、卵の一つに至るまで素晴らしい。日本人は『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』のことを知っていた。彼らは挿絵を見せてくれと言った。イギリスが世界最大のスクリュープロペラの軍艦を建造したと聞いたから、その絵を見せてほしいと言った。イギリスの士官たちが持ってきた『イラステレイテッド・ロンドン・ニュース』のファイルに、「ウエリントン公号」(the Duke of Wellington)の見事な銅版画を見つけると、彼らは非常に喜んだ。日本の役人たちが奉行の屋敷の廊下にしゃがんで、銅版画の数々を食い入るように眺める姿を見ると、この素晴らしい新聞がいかに広く評価されているかの嬉しい証拠である。イギリスの士官たちは銅版画の説明を熱心にし、日本人はそのほとんどの銅版画の意味を実際によく理解していた。このようにして、地球の半周を超えて1国家の国益が生み出されたのである。製作者:L.トライプ艦長(Capt. Linnaeus Tripe , English, 1822-1902) (注2)提供:ポール・ゲティ美術館(L.A.)Courtesy of The J. Paul Getty Museum, Los Angeles  この時、実際に日本人側が見た『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』掲載の「ウエリントン公号」の絵は、ウィキペディアの”HMS Duke of Wellington (1852)”(注3)に掲載されています。この時代の日本人がこの新聞を知っていたというのは驚きですが、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の1855年4月28日号に、そのエピソードが語られているので、抄訳します。この記事は「最近の日本遠征(特派員より)」と題され、1月13日の記事が読者に非常に関心を持たれたので、日本滞在中の見聞録を紹介すると、A4サイズ丸3ページの長い記事です。この記事の最後に『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』を持ってきた日本人について、以下のように述べています。
 ある時、数人の役人が私のところに『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の大きな束を持ってきて、何度も熱心に「ウエリントン」という名前を言った。そして彼の肖像画を見たいと身振りで伝えた。しばらく探すと、この高齢の公爵の顔が見つかった。No, No—と彼らは言った。彼らが見たかったのは我々の大きな船だったのだ。我々が世界一大きな蒸気船の軍艦を造ったことを彼らは知っていたのである。その見事な船の美しい銅版画を掲載している『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』を見つけ、彼らに見せると、彼らは大喜びした。「無知の目は耳よりずっと知識がある」(”The eyes of the ignorant are more learned than their ears”)ということで、この人々は我々の言語は知らなくとも、銅版画は我々の巨大な力と進歩を示したのである((注1), p.20)。
 最後のことわざのような文はシェークスピアの『コリオレイナスの悲劇』(The Tragedy of Coriolanus)の台詞のようです。1922年刊の『コリオレイナスの悲劇』(注4)の解説によると、この作品はシェークスピアの後期、1608年から1609年作とされ、その根拠としてあげられているのが、作品中に描かれている食糧難が実際にイギリスで起こっていたこと、1607-1608年にテームズ川が凍り、氷の上で火が燃やせたこと、また、イギリスの政情(国王ジェームズと議会の紛争)などです。 1852年に進水式が行われた「イギリス海軍ウエリントン号」について、1854年に長崎の役人達が知っていたこと、その銅版画が掲載されている『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の束を持っていたというのは驚きです。 続きを読む

英米に伝えられた攘夷の日本(2-3)

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』には日英約定署名(1854年10月14日)までのの交渉の様子が書かれていますが、これはイギリス側の準備不足やコミュニケーションの問題が逆にいい結果を生み出したと指摘されています。

通訳と外交用語の問題

 「東アジアにおけるクリミア戦争」の一環として、カムチャッカ半島ペトロパブロフスクの戦いでロシアに惨敗したイギリスは、スターリング卿の日本ミッションを急遽計画し、準備期間もありませんでした。きちんと訓練を受けた外交通訳やベテラン宣教師が得られなかったために、漂流民の音吉を通訳にしたわけですが、彼はひらがなしか読めず、外交文書の翻訳や複雑な外交交渉の通訳はできなかったそうです。その他にも日英間のコミュニケーションの齟齬がありましたが、それが逆にいい結果を生んだと、スターリング卿は「交渉は私が最初に考えていたものよりも、ずっと幅広い重要なものになった」と述べています((注1).p.142)。 日英双方とも、出島のオランダ商館長に英語文書をオランダ語に翻訳させ、それをオランダ大通詞・西吉兵衛に翻訳させたそうです。しかし、ロシアのプチャーチンとゴンチャロフが1853年に日本と交渉した時に、西が理解しなかったり、意図的に内容を変更したりしたとして、ロシア側には不評の通詞だったようです(p.144 )。『帝国主義のコンテクストにおけるクリミア戦争:1854-1856』の著者ラスは「どんなに真面目で優秀な日本人通訳でも、1850年代に彼らが直面したのは、「領事」というような外交用語が日本語には存在しないという大問題だった」(p.144)と指摘しています。ラスが依拠した文献は『帝国主義との交渉—不平等条約と日本の外交文化—』2004, (注2))です。著者のマイケル・オースリンもラスも21世紀の若手の研究者として、欧米中心主義ではない目線で、幕末日本の交渉史を論じています。 ラスは当時、西洋の概念がいかに日本語にできないかの例を、イギリス国立公文書館のスターリング卿の文書と日本語訳とを比較して論じています。スターリングの最初の日本宛要求書は英語では率直で簡単なものだと、以下の外交文書をあげています。
現在の争いにおける交戦国の戦艦の入港を許可するかに関して、日本政府の見解と意図を彼[スターリング]に知らせることは不可欠であります。戦闘状態によって彼に課された義務を遂行するにあたり、日本の皇帝と臣民を不快にするようないかなる行動もできる限り避けるつもりであります。“it is absolutely necessary that he (Stirling) shall be informed of the views and intentions of the Japanese Government with respect to the admission into the ports of the ships of war of the belligerent parties in the present contest.” The British query, however, was accompanied by an assurance that “in the execution of the duties imposed on him by a state of war,” Stirling “anxiously
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