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スターリング

英米に伝えられた攘夷の日本(2-3)

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』には日英約定署名(1854年10月14日)までのの交渉の様子が書かれていますが、これはイギリス側の準備不足やコミュニケーションの問題が逆にいい結果を生み出したと指摘されています。

通訳と外交用語の問題

 「東アジアにおけるクリミア戦争」の一環として、カムチャッカ半島ペトロパブロフスクの戦いでロシアに惨敗したイギリスは、スターリング卿の日本ミッションを急遽計画し、準備期間もありませんでした。きちんと訓練を受けた外交通訳やベテラン宣教師が得られなかったために、漂流民の音吉を通訳にしたわけですが、彼はひらがなしか読めず、外交文書の翻訳や複雑な外交交渉の通訳はできなかったそうです。その他にも日英間のコミュニケーションの齟齬がありましたが、それが逆にいい結果を生んだと、スターリング卿は「交渉は私が最初に考えていたものよりも、ずっと幅広い重要なものになった」と述べています((注1).p.142)。 日英双方とも、出島のオランダ商館長に英語文書をオランダ語に翻訳させ、それをオランダ大通詞・西吉兵衛に翻訳させたそうです。しかし、ロシアのプチャーチンとゴンチャロフが1853年に日本と交渉した時に、西が理解しなかったり、意図的に内容を変更したりしたとして、ロシア側には不評の通詞だったようです(p.144 )。『帝国主義のコンテクストにおけるクリミア戦争:1854-1856』の著者ラスは「どんなに真面目で優秀な日本人通訳でも、1850年代に彼らが直面したのは、「領事」というような外交用語が日本語には存在しないという大問題だった」(p.144)と指摘しています。ラスが依拠した文献は『帝国主義との交渉—不平等条約と日本の外交文化—』2004, (注2))です。著者のマイケル・オースリンもラスも21世紀の若手の研究者として、欧米中心主義ではない目線で、幕末日本の交渉史を論じています。 ラスは当時、西洋の概念がいかに日本語にできないかの例を、イギリス国立公文書館のスターリング卿の文書と日本語訳とを比較して論じています。スターリングの最初の日本宛要求書は英語では率直で簡単なものだと、以下の外交文書をあげています。
現在の争いにおける交戦国の戦艦の入港を許可するかに関して、日本政府の見解と意図を彼[スターリング]に知らせることは不可欠であります。戦闘状態によって彼に課された義務を遂行するにあたり、日本の皇帝と臣民を不快にするようないかなる行動もできる限り避けるつもりであります。“it is absolutely necessary that he (Stirling) shall be informed of the views and intentions of the Japanese Government with respect to the admission into the ports of the ships of war of the belligerent parties in the present contest.” The British query, however, was accompanied by an assurance that “in the execution of the duties imposed on him by a state of war,” Stirling “anxiously
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英米に伝えられた攘夷の日本(2-2)

下田で3回目の日露交渉が始まる3カ月半前にイギリス艦隊が長崎に来航します。『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』でどう伝えられているでしょうか。クリミア戦争との関連からも見ていきます。

東アジアにおけるクリミア戦争

 1854年9月7日イギリス艦隊の長崎来航の目的がクリミア戦争と関連していたことを、『帝国主義のコンテクストにおけるクリミア戦争:1854-1856』(2015、(注1))をもとに解説します。ギリス海軍の東インド・中国基地の司令官だった海軍少将ジェームズ・スターリング卿は1854年6月時点で、ロシアの脅威は北は中国、東は日本にあると予想していました(p.118)。ロシアが北部中国支配計画を発展させれば、日本と緊密な関係を構築する重要性が明らかになると恐れ、ロシア戦艦を探し、クリミア戦争中はロシアに日本の港と資源を使わせないようにするために長崎に来航したのです(p.142)。イギリス外務省と外務大臣クラレンドン卿は1854年6月に、日本から経済的譲歩を得るよりも、中国における商業的利益とイギリス船舶に対するロシアの脅威と海賊除去が優先すると、明確な指示を出していました(p.142)。したがって、スターリング卿が同行者として選んだのは、外交や通商の代表者ではなく、海軍の交渉専門家で、スターリング卿曰く、彼らは日本を通商ではなく、政治的に最重要な国と見ており、日本の長い伝統[鎖国を意味する?]に逆らって通商を強制すべきではないという考えの持ち主だったそうです(p.143)。 スターリング卿が4隻の戦艦を率いて長崎に到着する1週間前の1854年8月31日にカムチャッカ半島ペトロパブロフスクでロシア軍と英仏連合軍の戦闘が始まりました。英仏軍は地勢を知らず、準備も不足していた上、連携も悪く、惨敗します。負けた連合軍の戦隊がカムチャッカを去った同じ日に、別のイギリス戦隊が長崎に来航したのです。このニュースは1855年1月には下田に「ロシア軍が英仏の蛮人たちに圧勝した」と伝えられたそうです(p.141)。 この頃、ロシアのプチャーチンが日魯通好条約締結のために下田にいました。川路聖謨の日記にはプチャーチンとの厳しい国境問題交渉の最中に、クリミア戦争と日本の関係について以下のように記されています。「皇国へは、天幸いを下し玉うか。此節再び西洋各国みだれて、魯戎と英・仏の二夷、大戦争となりたり。もし此戦、魯戎敗られたらば、遅かるべし。勝たらんには、早かるべし」(安政元年11月29日/1855年1月17日、(注2), p.170)。この2週間後には、ペトロパブロフスクの戦を知ったと書かれています。「アメリカ人はなしにては、英・仏の二夷、魯戎のカムサスカを攻め候て、大に戦い、二夷共に敗軍、英の大将敗死いたし候由」(安政元年12月14日/1855年1月31日、p.185)。

英国戦隊の日本到着

 「英国戦隊の日本到着」という、日本側にとっては恐ろしい題名の記事がアメリカのペリー提督の記事の後、1855年1月13日号に掲載されました。この記事のオリジナルと日本語全訳は「音吉顕彰会」ホームページ掲載のpdf版(注3)で読めますが、私が関心ある部分だけ拙訳します。記事の内容は4ヶ月前に長崎に到着した時の様子です。

英国戦隊の日本到着((注4), p.8)

 [1854年]9月7日イギリス海軍の船、ウィンチェスター号、エンカウンター[遭遇戦]号、バラクータ[クロタチカマス科の細長い魚]号、スティックス[ギリシャ神話の三途の川]号が日本・長崎の外港に投錨した。港のはるか外で、数艘の小舟がそれぞれ12人の漕ぎ手を乗せて、戦隊のそばに近づいてきた。船首の木の屋根の上で2,3人が竹に結びつけた白い旗を振り、戦隊を追い返そうと必死になっているようだった。この激しいジェスチャーは無視されたが、1,2の注意書は船に載せられた。港に入ることは何人にも禁止されており、処罰や危険の対象であると日本語・ロシア語・オランダ語・英語で書かれてあった。 昼頃、奉行の副官である港長(Captain of the Port, the Governor’s Aide-de-Camp)と税関検査官(Inspector of the Customs)が旗艦に上船してきた。17人が随行してきて、それぞれ2本の刀を差していた。その刀の細工は最高級で、カミソリの刃のように鋭く、輝いていた。男たちは刀の絵を描かれるのも、見られるのも、触られるのも嫌がった。 [日本の]士官たちは船長のキャビンに通され、通訳を介して会話が始まった。通訳はオトウ(Otō)という日本人で、提督が上海から連れてきた男である。彼は20年以上前に難破した貿易船に乗っていた。イギリスに行ったことや、故ギュツラフ博士などの宣教師たちに一時雇われたことを含めて、人生の様々な変遷を経て、現在は上海のデント商会のビール氏の倉庫管理人をして、高額を得ている。日本側が彼を上陸させたいと言ったが、彼は上海に妻と子どもがいるので、イギリスの保護下にいる方を選ぶといった。日本人の1人が「妻が悲しみ、子どもが泣く」と言ったが、オトウはその返答として[イギリスの]旗を指差しただけだった。

漂流民・音吉について

 上記の記事はまだ続くのですが、「オトウ」と描かれている日本人について、彼の出身地の愛知県美浜町公式ウェブサイトに「にっぽん音吉漂流の記」(2014年4月1日、(注5))が掲載されています。要約すると、1832年11月に米や陶器を乗せて鳥羽から江戸へ向かう廻船に乗っていた音吉は、当時14,5歳の見習い船員でした。船は14カ月も漂流して、14人の乗組員のうち、音吉を入れて3人だけが生き残り、アメリカからイギリス、マカオへと送られ、マカオでドイツ人宣教師のカール・ギュツラフ(Karl Gutzlaff: 1803〜1851)の世話を受けます。そして、ギュツラフは3人から日本語を学び、彼らの助けを得て聖書のヨハネ伝を翻訳します。この翻訳は明治学院大学デジタルアーカイブスから読むことができます(注6)。シンガポールで1837年頃に出版されたそうです。一方、熊本から漂流した4人の船乗りがマカオに送られてきて、合計7人の日本送還を図ったアメリカ人商人やギュツラフたちは、モリソン号という船で浦賀に行きますが、砲撃され、帰国を諦めます。これがモリソン号事件です。 この後の経緯はシンガポール国立図書館のサイト記事「シンガポールの最初の日本人市民:山本音吉」(注7)から要約します。母国から拒否された音吉は名前をジョン・マシュー・オットサン(John Mathew Ottoson)と改名し、キリスト教徒になります。中国語もできたので、アヘン戦争(1839〜1842)の頃にイギリス政府の通訳として雇われます。同時に日本の漂流民の送還の援助をし、東アジアを幅広く旅して、シンガポールに行きます。 彼はイギリス海軍マリナー号の通訳として、1849年に浦賀に行き、林阿多(Lin Ah Tao)という中国名で上陸しました。この軍艦は地形測量が目的でした。その後、1854年にジェームズ・スターリング提督が日英和親条約を構築する手伝いをしました。この条約によって、長崎がイギリスとフランスに開かれました。音吉はこれらの重要な行いの褒美として、イギリス市民権と報奨金を与えられ、1862年にシンガポールに永住することにしました。彼の最初の妻はマカオの宣教師プレスで会ったスコットランド人の女性で、2番目の妻は上海のデント商会で共に働いている時に知り合ったドイツ系とマレー系のシンガポール・ユーラシアン[欧亜混血の人々を指す]だったそうです。

英国戦隊の日本到着(続き, p.8)

 音吉についての記述の後、記事は日本側とのやり取りを詳細に記しています。
 提督が日本の皇帝宛の書簡を渡し、乗組員の運動のために上陸させてほしいと要求した。日本側からは提督の書簡を江戸の皇帝に送ること、返事は40日かかること、2,3日前に港に着いていたオランダ軍艦はイギリス側とのコミュニケーションを禁じられていることなどが伝えられた。その結果、4隻のイギリス軍艦は3週間も身動きできない状態で停泊させられ、こんな侮辱的な制限に我慢して、いや、礼儀正しく従わされたことはない。 提督が食料を購入したいと申し入れると、日本の法律では外国との貿易は一切禁じられているので、必要な水や食料を供給すると、9月9日に3艘の船で運ばれてきたのは、豚3匹、鳥42羽、梨とサツマイモ8袋、大根、玉ねぎ、卵1カゴだった(重さも記述しています)。 甲板を磨くための砂も所望したところ、最初に運ばれたのは3艘分の石英の砂利だったので役に立たず拒否すると、1,2日のうちに、3艘の船いっぱいの茶色ぽい、クリーンで鋭利な砂が運ばれてきた。 魚釣り用の地引網を島の砂浜に張ることの許可を提督が求めると、許可できないがと言って、[1854年9月]22日に良質の生魚を6,7カゴ分供給してくれた。タイ、ボラ、カレイで、彼らは少量であることを謝罪した。ウインチェスター号の乗組員の1日分でしかなかった。26日に3カゴ分のイワシが供給されたので、エンカウンター号に送った。2番目の小舟にいっぱいの生野菜、鳥2,3羽、4,5ポンド[2,268グラム]程度の良質のお茶が入った壺が提督への贈り物として差し出された。日本人は4隻の船の乗組員が何人か確かめたがり、総勢約1000人と知ると、自分たちが供給したのは十分ではないとわかった。しかし、[イギリスの]船は日本側から無償の食料を受け取ることはできない、ただ「初めまして。ロシア船について情報がありますか? さようなら」と言いに来ただけだと伝えられた。これは日本の無愛想な対応に対してイギリス海軍の最高司令官の最初の訪問の要約としては妥当だと思う。

イギリス海軍の脅し行為?

 この後も不満タラタラの記述が続きますが、そのあとは、4隻のイギリス軍艦が長崎湾で「戦隊点検」を始めるという描写です。海軍の「点検」(inspection)というのは、アメリカ海軍のホームページによると、軍艦があらゆる点で準備ができているかを試すもので、アメリカの場合は1882年に議会で制定されたそうです(注8)

英国戦隊の日本到着(続き, p.9)

 [1854年9月]26日、提督は戦隊のすべての船の点検を行った。武装はしなかったが、全員配備についた。10時に250人の水兵と21人の士官を乗せた22艘のボートが旗艦の周囲を囲んだ。密集隊形で一列を作ったあと、全部の船が帆を広げた。そして、号令によって、魔法のように、すべてのマストと帆を下げた。甲板上の天幕全てが広げられた。ボートはゆっくりと戦隊の周りを漕いだ。そして、岸に沿って、横列隊になった。最後に旗艦に向かって競争した。この美しい港を見下ろす山の上から眺めたら、素晴らし光景だったに違いない。日本の巡視船全てが監視していた。彼らはこの光景が何を意味するのかわからなかった。
この翌日、9月27日にウィンチェスター号の船長と砲術長がボートで島々を探検し、外海の島に良質の石炭を見つけたことが記されています。ボートで運び出せる位置に炭鉱があるので、日本側に船に載せてもらいたいと依頼します。最初、彼らは何のことかとわからないふりをしていたけれど、提督が石炭を見たと知ると、炭鉱はある大名に所属していて、長崎奉行は介入できないと言ったと書かれ、次にスターリング提督が動きます。 続きを読む