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ビクトリア女王

英米に伝えられた攘夷の日本(4-4)

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“”How Queen”

1854年9月に長崎に来航したイギリス艦隊の軍医助手に対して、長崎奉行の役人が、イギリスはなぜ平和を好む国を略奪し、戦争するのかと質問をぶつけました。

幕府役人のイギリス人への疑問:なぜ戦争するのか?

節で箱館の役人とウィッティンガムが意見の相違をぶつけ合ったことを正直に書いているのを紹介しましたが、長崎の役人も軍医助手のトロンソンに対して鋭い質問をぶつけたことをトロンソンが正直に紹介しています。1854年9月7日〜10月20日の間に、奉行所役人の何人かが毎日のようにバラクータ号にやってきて、デッキの上の「銃・銃弾・ロープ・カトラス[船乗り用短剣]・数字・我々の制服の各部位の名称」などを英語で何というか聞き、熱心に英語を習得しようとしていたと述べています([ref]J.M. Tronson, Personal Narrative of a Voyage to Japan, Kamtschatka, Siberia, Tartary, and Various Parts of Coast of China; in H.M.S. Barrcouta, London, Smith, Elder, & Co., 1859.https://archive.org/details/personalnarrativ00tron[/ref], p.19)。この頃の長崎奉行所の役人たちの様子と、トロンソンの感想も興味深いので抄訳します。
彼らはどこに行ってもいいと許可されていた。扇子であおぎながら、覚えたばかりの英語を繰り返して、歩き回っていた。我々からの贈り物やお土産は断ったが、ワインを1,2杯飲むことには異論がなかった。飲むとすぐに顔が赤くなり、気が大きくなった。乗組員の一人がオランダ出身なので、通訳として私たちの話を訳してくれたが、彼らはとてもおしゃべりになった。 一人のはっきり物を言う役人が言った。イギリスは西欧ではとても小さな国だが、強い海洋国で、平和を好む国々の船を略奪することで生きていて、全ての国に貢ぎ物を強要すると言った。この無知な友人を啓蒙するのに非常に苦労した。大英帝国が辿ってきた道を地図を使って説明した。ヴィクトリア女王の支配を認めた様々な国を列挙し、イギリスの使命は全ての国々に対して平和と友好を宣言し、権利を守り弱者を擁護し、世界中に文明を広めて、抑圧された人々を解放することだと説明した。この役人は、あなた方が言うことはすべてとてもいいことだが、それなら、なぜロシアと戦争するのか、イギリスとフランスが一緒になって1国と戦うのかと聞いた。我々もロシアとの戦争は望まなかったが、トルコは弱いし、我々の同盟国だから、トルコを守る必要があるのだと返答した。彼はアフリカの奴隷問題に関してイギリスがしたことを聞いたと言い、女王の心は「善意に満ちて広い」(good and large)に違いないと言った。次に彼はフランスについて聞いてきた。私はフランスの巨大な軍事力と国民性、進歩、法律、そしてエネルギッシュな支配者について語った。フランスとイギリスを隔てる海があんなに狭いのに、なぜ言語が異なるのか、彼には納得できなかった。日本人が探究心を持っていることがとても嬉しかった。それで、彼に毎日会いたいと言ったが、彼は二度とやって来なかった。次に彼に会えたのは、箱館港だった。(pp.20-21)

幕府役人の世界情勢把握

 トロンソンと応酬した長崎奉行所役人が「アフリカの奴隷問題に関してイギリスがしたことを聞いた」と言ったのは、具体的に何を指すのでしょうか。この時の長崎奉行所の役人達が共有していた『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』が何年のものかもわかりませんが、1854年以前のものを調べてみました。役人がヴィクトリア女王が慈悲深いに違いないとコメントしたことから、ヴィクトリア女王と奴隷というキーワードで調べると、とても興味深いことがわかりました。 1850年11月23日号([ref]The Illustrated London News, vol.17, 1850, Jul-Dec.https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015031404612[/ref], p.412)に以下の記事が掲載されています。

ダオメ王国の王女が女王に披露された

 英国軍艦ボネッタ号のフォーブス大佐が最近、ダオメ王から提供された若いアフリカの王女を我が国に連れてきた。女王陛下は状況を聞いて、寛大にもこの子どもを庇護するというご意思を示された。そして、フォーブス大佐と王女の披露を先週の土曜日に指定され、その日、大佐はこの興味深い預かり物を伴って、ウィンザー城の披露に出席した。まだ8歳ぐらいの王女は、プリンス・コンソート[王配、ヴィクトリア女王の配偶者]、皇太子、第一王女、その他のローヤル・ファミリーと王室の数人の前に披露された。フォーブス大佐がこの黒人王女を所有することになった経緯は奇妙なものだった。勇敢な大佐(ウィンザー近くのウィンクフィールドのフォーブス大佐の息子)はダオメ王国の奴隷港を終結させる目的で、ダオメ王と条約を交渉中だった。この興味深い子どもは高位の出だと考えられているが、ダオメ王が近隣の支配者と戦闘中に王によって捕虜にされた。低いランクの捕虜を殺すのがダオメ王の習慣だったが、この子どもはポルトガルやブラジルの奴隷売買人に渡すために監禁されていた。2年間も厳重に監禁された頃に、王がフォーブス大佐に特別な好意と尊敬の印として彼女を提供したのだ。この小さな王女がウィンザー城で女王陛下に正式にお披露目された後、フォーブス大佐と共にウィンクフィールドに戻った。女王陛下の支援で彼女の教育がされるため、その準備が整うまでウィンクフィールドに滞在する。彼女が我が国に到着して以来、英語の習得に目覚しい進歩が見られる上、音楽の才能に恵まれており、知性も並外れていることがわかった。彼女の髪の毛は短く、黒く、縮れていて、アフリカ出身であることをはっきりと示している。一方、顔は美しく気持ちの良い顔立ちで、マナーと行動は非常に穏やかである。
 ヴィクトリア女王(1819-1901)は年取ってからの写真しか見たことがありませんでしたが、このころの『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』には頻繁に挿絵が掲載されていて、若い姿がわかります。この時、31歳でした。以下の挿絵は1年後の1851年6月7日号([ref]The Illustrated London News, vol.18, 1851, Jan.-June.https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015027902827[/ref], p.522)に掲載されたヴィクトリア女王と夫のアルバート殿下、皇太子と王女の姿です。ロンドン万博(the Great International Exhibition)のクリスタル・バレス開会式(5月1日)のボランティアをした母親の子どもたちから皇太子と王女が花束を受けるのを許可したと説明されています。

ヴィクトリア女王の庇護を受けたアフリカの少女

 この少女について、アフリカ系アメリカ人とその他の国のアフリカ系の人々の歴史のリファレンス・サイト、ブラック・パースト(BlackPast.org)に掲載されている内容[ref]”Bonetta, Sarah Forbes (1843-1880)"http://www.blackpast.org/aah/bonetta-sarah-forbes-1843-1880[/ref]を紹介します。この少女、サラ・フォーブス・ボネッタ(Sarah Forbes Bonetta: 1843-1880)は現在のナイジェリア南西部のヨルバ民族(Yoruba people)のエグバド族(Egbado clan)のプリンセスでした。西アフリカのダオメ王国のゲゾ王は奴隷貿易で悪名高く、1847年、サラが4歳の時に奴隷狩りをし、サラの家族はみな殺され、彼女だけが捕虜とされました。フォーブス大佐がゲゾに奴隷狩りと奴隷貿易をやめるよう説得しに行った時、サラの存在を知り、少女をゲゾ王からヴィクトリア女王への贈り物にしてはどうかと持ちかけ、救い出します。翌年まで、サラはフォーブスと共に西アフリカに残り、洗礼を受け、サラ・フォーブスという名前を付けてもらいます。フォーブスは「この少女は完璧な天才だ。今では英語が上手になり、音楽の才能もあり、同じ年頃の白人の子どもより勉学の適性があり、心も強く、優しい」と書いています。 フォーブスが1851年に亡くなると、ヴィクトリア女王はサラの教育費を支援し、サラはウインザー城に度々女王を訪ねるようになります。イギリスに到着して1年ほどすると、咳が止まらなくなり、イギリスの気候のせいだと考えられたので、ヴィクトリア女王はサラの健康のためにシエラレオネのキリスト教系女学校に入れます。彼女は音楽でもアカデミック教科でも抜きん出ていましたが、シエラレオネでは不幸だったので、女王は1855年にイギリスに連れもどします。 1862年にヴィクトリア女王の長女が結婚した時、サラは結婚式にゲストとして招かれます。同じ年にサラも女王の許可を得て、シエラレオネのビジネスマンと結婚します。ブライトンの立派な教会で結婚式を挙げました。サラは10台の馬車の随行団に伴われて教会に来たそうです。シエラレオネでサラは教師になります。最初の子どもが女の子だったので、ヴィクトリア女王の許可を得て、ヴィクトリアと名付け、1867年に二人でヴィクトリア女王を訪ねました。その後、サラは結核と診断されて1880年に37歳の若さで亡くなります。ヴィクトリア女王はサラの娘の支援を続けたそうです。 王室コレクションのサイトに「サラ・フォーブス・ボネッタと家族」[ref]”SARAH FORBES BONETTA AND FAMILY”, Royal Collection Trusthttps://www.royalcollection.org.uk/collection/themes/trails/black-and-asian-history-and-victorian-britain/sarah-forbes-bonetta-and-family[/ref]というページがあり、サラの写真と共に娘のヴィクトリアとその子供達の写真も掲載されています。上記の内容を縮めた解説が付けられていますが、サラがフォーブス大佐へのプレゼントか、女王へのプレゼントとしてフォーブスが要求したのかは「はっきりしていない」と書かれています。ボネッタという苗字は、大佐が自分の乗っていた船の名前を付けたとのことです。大人になってからのサラの写真がガーディアン紙の「隠された歴史—イギリスで写真撮影された最初の黒人たち」[ref]”Hidden histories: the first black people photographed in Britain”, The Guardian, 15 Sep. 2014.https://www.theguardian.com/artanddesign/gallery/2014/sep/15/hidden-histories-the-first-black-people-photographed-in-britain-in-pictures[/ref]という記事に掲載されています。ヴィクトリア女王とサラの関係については長い間忘れられていましたが、テレビ・ドラマ・シリーズVictoria(NHKでは「女王ヴィクトリア:愛に生きる」)でこのエピソードが2017年クリスマス・スペシャルで放映されたそうです[ref]”How Queen 続きを読む